連日、熱中症が取りざたされない日がないほど、大変な世の中になってきた。死者が毎日何人も出る惨状に心を痛め、いつわが身か判らない日々を憂う。
この日、健康診断の日だった。前日の夜九時迄に食事を終え水分は寝る前迄ならオーケー。しかし、それ以降つまり朝九時十五分の予約時間迄水分摂取禁止。
六時半に起き七時四十分に家を出る。かんかん照りがすでに始まっている。駅まで黙々と歩く。超満員の急行、そしてこれまた超満員の山手線を乗り継ぎ、新宿西口に到着。八時半に改札を出る。新宿住友ビルに向かう。先を急ぐOLやビジネスマンがせっせっと僕を追い抜いて行く。できるだけ水分消費をしないよう小生はゆっくり歩く。住友ビル六階、楠樹記念クリニックに到着。
院内は8年前と変わらず相変わらずキレイ。働く女性も一際キレイに見える。名前を呼ばれるまで、外を眺めていていた。ビルが取り壊され平地になっていた。以前何ビルだったのだろう。その時、ふと頭に去来するものがあった。
この辺りはむかし淀橋といって、ここは淀橋浄水場だった。ここから少し北に行くと神田川があり向こう側は中野区。僕は、この神田川の傍に住み中野区の塔ノ山小学校に通っていた。
小学校の社会科見学があって、この淀橋浄水場までぞろぞろと歩いて来たことを思い出す。
その日も今日と同じように暑い一日だった。その頃は、熱中症という呼び方がなく即、日射病といった。今は熱中症が更に高じると熱射病というらしい。
走馬灯のように浮かんできたのは、以下の三つ。
① 小学校10歳頃、淀橋浄水場見学。
② その後19歳頃、破壊された淀橋浄水場の跡地でバンドのレコードジャケット用にと自称カメラマンの大和田秀樹が撮ってくれた。あいつよくこの廃墟のような場所を知ってたなーと感心した。実はここがこんな風になってたとは僕も知らなかった。
③ その後、京王プラザホテルが建ち軒並みに高層ビルが建設されていった。今や日本を代表する高層ビル群に変貌。
④ 懐かしい。結局、僕の中でこの地は大きく分けて三つの変化を遂げていたことになる。
○淀橋浄水場 ○廃墟 ○高層ビル群
キツかった。
健康だった人が検査のためにふらふらしてやって来て、あの世に逝ったなんてシャレにならない。ふとそんな思いが浮かんで一抹の不安がよぎった。