物心ついたころ僕は西院の父の実家にいた。そこには祖父母、叔父叔母そして実の妹がいた。が、父と母はいなかった。しばらくすると妹もいなくなった。「みっちゃんが外に遊びに行っている間にお母さんがやって来てな、千砂子を連れてってしもうた」叔父さんがそう言った。
何が起こったのかわからなかった。それからいつまでたっても妹は帰ってこなかった、そして父も母も。
西院小学校二年が修了し三年生になる直前のことだった。
「今度みっちゃんはな、東京の親戚の家に行くことになった。向こうに行ったら河野の伯母さんがいるし、みんな優しくしてくれる。元気で頑張るんやで」どこか諭されるように叔母さんから言われた。河野とは父の姉の嫁ぎ先だった。
生まれてこの方京都以外に住んだことがない。慣れ親しんだ家そして祖母と叔父叔母それから仲の良かった友達、みんなと別れなければならない。自分ではどうすることもできない。大人の都合に従うしかなかった。
何と表現すればいいだろう、一言で言い表せないあらゆる負の感情が渦巻いていたように思う。
京都駅から祖母と一緒に蒸気機関車に乗った。平坦でない人生の始まり…………。
転向先は東京中野にある搭の山小学校といった。
京都弁しか知らない僕にとって初めに発する言葉はものすごい抵抗があった。好奇の目で見られた。しばらくは大人しくしていた。
「かまへん」→「いいよ」、「あかん」→「ダメ」、「ばば」→「うんこ」などなど初めはからかわれたりもしたがやがて徐々に友達もできていった。
近所の仲間との遊びは、ポコペン、缶蹴り、馬乗り、ワッカ、三角ベースの野球、結構京都とは違う遊びが多かった。
その年の冬、神田川の橋の上。5~6人でヒマワリという一種おしくらまんじゅうのような遊びをしていた。ところがその遊びの最中、僕が押そうと思った相手がかわしてよけた。すると僕は勢い余って鉄の欄干に向かっていった。額がもろにぶつかった。目から火が出た。痛いのと大流血に自身が驚き、伯母さんの家まで飛んで帰った。