硝子戸の外へ。

優しい世界になるようにと、のんびり書き綴っています。

「巨神兵東京に現る」 僕らのささやかな抵抗。

2020-03-02 21:14:51 | 日記
僕はなぜ生まれてきたんだろう。生きる意味って何だろう。

問うてみた所で明確な答えはない。だから、僕は、こう考えてみた。

もし、最初から、この世界が無意味なものだと思ってしまったら、僕らは存在している事の意味をも失うだろう。
それならば、生きていることを喜び、誰かを大切に思ったり、救いを求めている人に手を差し伸べたりして、他者から感謝されれば、誰かに必要とされていると実感できるし、神様の存在に関係なく、生きる事の意味、生まれてきた理由もおぼろげに見えてくるんじゃないかと思ったりもする。

でも、それは、頭の中だけの論理だから、どうにも釈然としない。

だから、僕は、それを知る為の最初の一歩として、家を離れ、両親からの援助を断って、バイトと学業の両立を試みたのであるが、いざ始めてみると、思った以上に大変で、一人暮らしのアパートに帰るのは、深夜一時を回ることが多く、一度、蒲団になだれ込んでしまうと、次に目が開くのは、朝の情報番組の可愛いアナウンサーさんが微笑みながら「行ってらっしゃい」と言っている時だった。

そんな状況でも、なんとか頑張れたていたのは、バイト先の店長さんやバイト仲間がよい人だったことも大きいけれど、労働を通して誰かのためになっている事を知るのは、学校では学べないと痛感したからだった。
しかし、それと引き換えに、勉強を犠牲にしているんじゃないかと思う時もあって、時々、実家に帰ると、母さんから、「そんな事で勉強できているの? 」と、説教されて、逆切れしそうになることも多々あったけど、逆切れした所で、何の解決にもならないし、単にエネルギーを消費するだけだから、とりあえず「大丈夫だよ」と言って、母を説き伏せていた。

それでも、時間に追われ続ける日々というのは、正直、息苦しくもなる。そんな時に、度々押し寄せる虚無感は、約束の地を目指して、預言者と共に荒れ野を延々と行脚する懐疑主義者の気持ちと同じなのではないかと塞ぎ込んでしまうときもあったが、荒れ野を歩み続けた者達と同様に、ある日、しかも、突然に、道は開けたのだった。

それは、友人と学食で、だらだら話をしながらご飯を食べている時だった。なんとなく視線を窓側へ移すと、斜め前の席に座っている彼女と眼が合い、その瞬間、僕の鼓動が早くなったのだ。これが運命というものなのか。いやそんなものではない。それは、まさに救済者が降臨するのを目撃した者の気持ちとは、このような感じなのではないのかと思うほどだった。