学生時代、当時卒業ゼミと云っていたゼミナールで「ヒルベルト空間論入門」を
一緒に勉強した友人が昨日お見舞いに来てくれました。
テキストは英文で,ハルモスと云う数学者の著作、何しろ1ドルが360円の時代である。
正式にアメリカかイギリスで出版されたものを輸入して買っていたら貧乏学生には買えそうもない値段になっていたことだろう。
こうなると「蛇の道は蛇」の格言通り通称海賊版と呼ばれていた本が何処からか入手で き た記憶である。思い違いかもしれない。
そのテキストの節ごとに担当者を決めておいて、担当の節が来たら、
担当者はその節に書いてある内容を説明し大切なところを友人と先生の前で解説する。
定理の証明も同様に扱いその定理の有用性を解説する。
テキストに「容易に分かる」と書いてあるところにも証明を付ける。
これが難しかった記憶である。
先生は「確率」の学会の機関誌の編集委員を務めておられた偉い先生で我々のようなオソマツな学生にはモッタイナイ先生であった。《僕たちを送り出した後すぐに京都大学に転勤されました》
学会の機関誌編集委員は会員の選挙によって選ばれ、学会員が投稿してきた研究論文の価値を判断して機関誌に掲載するか没にするかを判断し、
更に内容に関しても意見を添えて書き直しを依頼したりする権限を持つ。
機関誌が将来性のある論文で溢れている学会は発展するが、そうでない機関誌の学会は会員が減る。つまり、機関誌編集委員は実質学会の運営委員のような権限を持つ人である。
今日来てくれた友人は77鍵のキーボードを肩に掛けてきてくれ、コンセントにプラグを差し込み、アッという間に僕の病室でピアノ演奏をしてくれたのには驚いた。曲目は何とシャンソンで永遠の愛を誓った「愛の賛歌」だったような気がする。一番驚いたのは僕の病室の壁や天井だったことだろう。何故なら、僕の病室が素敵なコンサートホールのようになって、素敵な反響と共鳴を醸し出してくれたから、部屋が生まれて初めて華やいだ響きに満たされたのだから。
僕の学生時代は、雰囲気が、現在の学生たちと全然違っていて何というか貧乏臭いというかがめついというかそんな雰囲気が満ちていた。
頑張って沢山単位を取ると小学校教員の1級免許が取得できるというと頑張って1時間目から講義に出て単位を取って1級免許を取っておこう.
何かの折に役立つかもしれない、その時のために今は頑張っておこうという考え方が一般的で友人たちもそんな単位を取っていた。
昨日来てくれた友人は自分は根っから子ども相手の仕事が好きで、紙芝居や人形劇をして子どもたちを喜ばせようと考えていたようだった。彼は「児童文化研究会」と云うサークルに入り山村の分校や漁村の小さな小学校へ出かけて人形劇や紙芝居を上演していた。
1級免許取得を目指して準備に入ると何とピアノ演奏の単位を取得しなければならないとわかった。これには驚いた。バイエルとかいうピアノ演奏の教習本があって、60番ぐらいまで進まないとその単位が取れない。僕ははたと困ったが、
僕の家から徒歩7分のところに僕が卒業した小学校があって、其処にグランドピアノもあった。そこで母校を訪ねて理由を話し練習させて戴くことができることになった。
僕は夕食後に母校に行って宿直の先生に音楽室のカギとピアノのカギをお借りして練習をする。2~3時間練習して疲れたら鍵をお返しするために宿直室へ行くと直ぐに「入れ入れ」と云って下さる。
そこにはお酒とおつまみの用意がしてあって先生が『飲みなさい」と云って下さる。
そこで、お言葉に甘えて座り込み先生の質問に答えながら杯を重ねた。
とまあこんなことで66番まで演奏できるようになり何と評価Aで単位を取った。
昨日来た友人はスタンドピアノが家にあり、先生の家に教えて貰いに通ったと聞いたことがあった気がする。そのピアノが彼の場合の今「愛の賛歌」になっている。素晴らしいことだ。
僕の場合はそれっきりで何の役にも立っていない。
そいえば、美術の実技の単位も必要だった。その講義で学生たちが三脚を立てが用紙を乗せて、4Bか何かの柔らかい鉛筆を用意していた教室に先生がプロのモデルさんを連れて入ってこられた。手際よく床に毛布を敷かれその中央に椅子を置かれた。
先生が「始めようか」と云われたらモデルさんが「はい」と小声で云われて椅子の横でパッと服を脱がれ、全裸で椅子の横に立たれた。
学生たちは声にならない声を出しておののいた。つまりその日は「裸婦のデッサン」の実技指導の講義だったのだ。
裸婦のデッサンは本当に難しい。お尻から足に流れる曲線1本も美しく描けない。
先生は学生の間を歩きながら学生の姿勢を注意しておられた。之も忘れられない思い出である。
余談が多く、さいごになってしまったが、僕が感動したはなしがあります。それは、昨日来てくれた友人だけど最愛の奥様を亡くされた時のお通夜で何度も何度も「愛の賛歌」を演奏されたそうだ。その時のことを想像すると、御棺に収まった奥様のお顔を見ながら愛の告白のように愛の賛歌を演奏されたに違いないと想像しています、そしてその心はきっと奥様に届いたに違いないという確信が胸に湧いてきます。
現在僕は80歳である。小学校教員1級免許は僕の場合何の役にも立たなかった。あえて言えばおかげでこんな話をブログに書くことができるという効用ぐらいがあっただけである。(T)
友達の演奏