あるみまんの本日の修行

競技者としては引退しましたが、
楽しく完走する為には、
まだまだ修行が足りません、
楽しみのために日々修行です。

ダイアリー1996

2005-07-29 | ダイアリー
前年の後半から、思い切り駆け抜けたためか、年が明けても疲労感が抜けず
始動してもいまいち気持ちが乗らない日々が続いた。スランプを実感する。

1月 館山若潮マラソンをキャンセルする。この頃練習パートナーがH野氏に代
り、NECK林氏は出世して主任になったそうでTAより引退する(練習が出来る
環境では無くなった)正直な所H野氏との練習はしんどかった、彼を前に出すと
恐怖であった、自分のために(色んな意味で)前を引くしか無くずいぶん無理を
した。

2月 びわ湖を申し込む、絶対通ると信じて出した。
宮古島ツアーをI奈さんから頼まれるが、断ると
「誰かがやらなければいけないんだから。気持ちよく引き受けてください」と
半ば強制的に押し切られてしまう、納得できなかったがやる羽目に、、、
以降6回続ける(重荷になっていったことは確か)ことになった、7回目より
なりすけ君が引き継いでくれて現在に至る、ご苦労様です。

3月 宮古島まで、一月半ようやく体調も回復の兆しが見えて一安心する大事
を取り、佐倉朝日健康マラソンもキャンセルする、30日H野氏とM脇さん、
関内プラザホテルで挙式、新婚旅行は宮古島TAツアーで、、、、

4月 びわ湖選考される、昨年辞退してたがグローバルのおかげだと思った12日宮古島へ、この年は例年より1週早い開催で、まだ寒かった、パイナガマビーチへ泳ぎに行くが、水が冷たくてやめる、このときのメンバーはハート・ヴューより私、S津男お兄さん、K戸夫妻(婦人は応援)JOYよりK村氏、H野夫妻の7人で今では定宿の「ペンション・ジロー村」に宿泊した。当初宮古島カルチャーショックを覚えびっくりの連続であったが、今では宮古にいる間は違和感無くしっかり宮古人になれる。

翌日東急リゾートへバイクを預託し前浜ビーチへ、ウエットを着ておよぐ
つもりがやはり水が冷たく、浸かる程度でやめる、翌日レース、びわ湖と違い
緊張感はあるものの緊迫感が無い、楽しいと感じる、スイムを上がりバイクへ
何処を走っていても応援がある、楽しい、ランへ移って折り返しの激坂を這いつ
ばるように登る、応援がすごい、嬉い、平良市内へ戻ってくると「お帰り~」
の声援、涙が出そうなくらい嬉しい。平良競技場は人の波、すごいこんな声援受けたことが無い。感激でゴールした、この時より宮古島は特別な物になる。H野氏32位、K村氏96位で翌年のシード権獲得、私116位で届かず、アワードでMN子女史と初対面、正確には前年びわ湖で見ていたが話すのは初めてで、このときはまだびわ湖の女子選手とは知らなかった。直Pとこのときから呼ぶ、、、、

5月 びわ湖に向けてハードな練習をこなす、(のちにオーバーワーク
だったと反省)

6月  28日びわ湖へと向かう、メンバーは私、K村氏、H野夫妻、東名海老名
でハート・ヴューチームS津男お兄さんとT橋夫妻(婦人は応援)と合流夜、NECK林氏応援に来てくれて宿で合流、(この年も千松園に宿泊)尚、CTSさんの友人岡山のO椋Y子さんも合流した。長浜ロイヤルにはK松崎プロとI田氏が、師匠とはロング初対決であった。この年もバイクコースが変更になり、びわ湖史上最もきつい設定となる(山間部あり)30日 6:30スタート、しばらく横にK村氏がいたがいつの間にか解らなくなるスイム終了、先にK村氏着替えていた、バイクで飛び出し湖岸道路北上する5km付近なんとCTSさんを発見、ショックであった。70km付近I田氏に追いつく、80km付近の山間部でK村氏に追いつくがK村氏余裕の表情、、、、5:21でバイク終了ランへ、しかし15km付近でまたもや失速、歩いてしまう。程なくK村氏にパスされた、「歩いてるとハワイへはいけないよ!」と叱咤激励を受けるが走れない、一昨年のK松崎氏のアドバイスの意味がようやく解った、最後はランなのだから、バイクを行き過ぎてはいけないと言うことをようやく理解するが、とき既に遅し、、23km付近でI田氏にもパスされてしまうが、背中の見える距離を何とか保つ、30km付近で再び横に並ぶが追い越すことは出来なかった、I田氏も一杯のようで「最初で最後ですね」と言った、私もうなずきI田氏の心情を悟る、そのまま長浜ドームへ、I田氏の家族が待っていた、3歳になる長男の豪君を真ん中に3人でゴールテープを切る。結果的にはハワイは取れなかったが、師匠と同時ゴールが出来て感動が2倍、反省が4倍である。

エピソード  たこ焼き事件、ゴール後ドーム内のたこ焼き屋台でたこ焼きを
買おうとした、長蛇の列で、私まで回るか心配であった、パックされていた物が
後わずかで、それが無くなると焼けるまで待つことに、私の前の人が3パック買わ
無ければ私まで回ると皮算用、、しかし3パック買った、、、突然目の前が真っ暗
に、千円札をきつく握り締めたままその場に倒れる、M島氏がそれを見ていて
K村氏たちに知らせてくれる、たんかで医療テントへ、低血糖症で点滴2本打た
れた。点滴中も千円札は離さなかったらしい、、、、

K村氏、H野氏はハワイをゲット、私は11時間を切るもだいぶ届かず
再チャレンジに期することを誓い、ハワイに行くまで髪を切らないと宣言する、

9月 サンライズ磐田初出場、まだ距離が87kmのミドルタイプであった。
H野氏ぶっちぎりで優勝、私は13位で惜しくも総合の表彰台には乗れず
しかしエージ2位で、このときより現在まで出場すると必ず入賞している
この時期に完全に活動資金が底をつき,再びアルバイトを始める(家計に負担
を掛けてはいけない、)土曜の練習は出来なくなった。

11月 JOY・ノーラン100kmマラソンの移動エードを昨年に引きつづき、
ラストゴールはいつも感動する、、、、

12月 またまた宮古島よりクリスマスプレゼントが、いついただいても
嬉い!!感謝

4月   全日本宮古島TA  9:51:19  116位完走
6月   アイアンマンびわ湖  10:46:21 251位完走
9月   サンライズ磐田TA  3:22:45  13位(エージ2位)完走

1996年 練習合計

スイム    288700m
自転車   7198km
ランニング 2527km

完全にロングのTAに絞った最初の年であった。K松崎プロの
アドバイスをどう実践するかを来年の課題とする、髪がだいぶ伸びていた。

ダイアリー1996宮古島編

I奈さんに押し切られて、宮古ツアーのとりまとめをやる羽目になってしまった。
幸い、第一回ツアーは参加者も少なく、とりあえず員数を確定し名簿を作り、そのまま旅行会社(相鉄観光)の友人のところへ持ち込む、JALツアーのGコースで(最安値)申し込む、最安値の癖にJTAの金曜直行便を抑えてくれて、一番ゴールに近い安い宿でペンション・ジロー村を探してくれた(JALのパンフには出ていたが、どこかにあるかは出ていなかった。)相鉄観光のM田N行氏に感謝!現在氏は鍼灸師の道に進み、開業準備中である。

金曜直行便は朝が早く、羽田に行くのが大変であった、飛行機は真ん中通路の両側3座席の小さな飛行機で、離陸までが恐ろしく早く、あまり飛行機が得意ではない私は離陸した瞬間恐怖のあまり叫んでしまい、以来仲間内で離陸の時注目されるように、、、、(大きな飛行機はゆっくりと離陸するから平気です、あしからず。)96年当時はまだ古い宮古空港で、飛行機を降りると空港ビルまで歩いていった、初めて宮古に降り立つも天気が良くなく肌寒かった。まだ右も左もわからず、とりあえずストロングマンと張り紙のしてあったバスに乗り込む、程なく登録会場の平良総合体育館へ、登録を済ませ、タクシーに相乗りして「ペンション・ジロー村」へ「オカエリー」といきなり言われ面食らう、ペンションと言うが鉄工所の中にあった、もっとも本業はジロー工業と言う何でもやる会社で、今でこそなれたが最初の年はカルチャーショックをうけた。全てにおいてゆっくりと時間が過ぎていき、私たちと体内時計のサイクルが違っていることに気がつくまで少し時間が必要であった。チェックインを済ませ荷物を置き、敷地内にあった食堂「味平」で昼食を取る、定食は¥500でアイスコーヒー付き、驚いた、安過ぎる!!

昼食後、バイクを引き取りに平良総合運動場の雨天練習場(オリックスのキャンプ用の施設)へ、バイクを組み立て宿へ戻り、競技説明会の工業高校体育館へ出向く、程なく終わり、体育館へ1200名の大移動、カーボパーティーに参加するためである、パーティーは盛大で、飲食物も豊富にあり、他の大会とのギャップに驚く、しっかり色々といただきました。エイサーも楽しかった。S津男兄さんとK村氏は泡盛の古酒を飲みすぎて、いい気分であった、宿に戻り風呂へと行くが湯が出ない、事務所へ湯が出ないと言いに行くと「ボイラーのスイッチを入れてなかったよ~」とさらに「燃料もいれてなかったよ~」と、ここで初めて宮古人がわかる、これ以降、宮古時間にあわすことにする、あくせくするのはやめた。翌朝パイナガマビーチへ行くが、水が冷たく泳ぐのはやめる、小さいが綺麗なビーチである。東急へバイク預託に行く前「古謝そば」へ、びっくりするほど美味くは無かった、そばと言うが小麦粉の麺である、ソーキとかつおの相出汁で独特の風味がある、コーレーグースという島唐辛子の泡盛付け液を掛けて食べると辛くて美味くなった。東急へバイクを走らせるが土地勘がまるで無く、距離もわからず、すぐそばだと思っていたが12kmもあった。

東急へ到着、バイクを預託し、前浜ビーチへ、ウェットに着替え泳ぐが水が冷たい
すぐ上がる、明日のスイムが心配になった。翌朝5時ジロー村前より大会バスに乗り、東急へ、いよいよストロングマンが始まる、水温が心配であったがもうしょうがない、あとは泳ぐだけである、7:30スタート冷たいがすぐに慣れた、最初のターンのデッキ船のところで前の人に左胸を蹴られ、死にそうになる。実は2週間前仕事中に鉄パイプの足場にぶつかり肋骨を折っていたのである。ブイにつかまり痛みが引くのを待つ、息を整え再び泳ぎだすもペースは上がらず、おまけにうねりで浪酔いしそうであった、何とか泳ぎきりバイクトランジットへ、応援がもう既にものすごい、着替えに少し手間取るがバイクスタート、この当時バイクコースは、島を大きく1周して2周目は池間、東平安崎をカットするコースであった。最初の折り返し池間大橋を目指しペダルを廻す。この時点ではまだトップグループを見ることができた、濱野氏を見つける30位前後であったと思う、次は東平安崎を目指す、この辺までは結構集団があり、何処でもドラフティング野郎はいるもんだと思った。来間大橋を渡り、折り返して1周目を終える、2周目池間カットの先でK村氏に追いつく、何とか逃げ切りたいと思いペダルに力を入れる。距離は155km足は残ると思った。バイクゴールの工業高校へ、高校生ボランティアにバイクを預けランスタート、市内を抜け空港通りの坂を上る、走っていたがペースは上がず、10km51分で通過、まだ先は長い、15km付近でトップとすれ違う、宮塚選手であった。

折り返し前でK村氏に追いつかれる、逃げ切れず、これが実力差であろう、気持ちを取り直してゴールを目指す、30kmの坂がきつい歩きそうになるが頑張り所であると思い頑張る、空港通を下り左折市内に入った、応援がすごい、道行く人が全て応援してくれた、「おかえり~」といってくれる応援を始めて体験する。鳥肌が立つくらい感動して走る、フラワーゲートが見えてあと1km競技場に入った、場内放送でまたしても「おかえり~」感動!!テープ前で振り返り「宮古のみなさん、応援有難うございました、ゴールします~」一礼して雄たけびを上げたその後万歳ゴールでフィニッシュ、花冠を貰いタオルを架けてもらう、しばらく感動に浸る、、、先にゴールのK村氏、H野氏がまっていた、両氏と一度宿に戻るとK戸さんがいた、バイクで間に合わなかったそうでランニングに出れなかったとのこと、残念でしたねと慰める、着替えてからCTSさんとS津男兄さんのゴールを迎えに再び競技場へ、二人のゴールを出迎え、感動の1日が終わった、重い足を引づり宿に戻り、さらに市街の「あぱら樹」と言う店で即日の打ち上げ、この頃はまだこんな元気があったのだ

翌日、アワード前に写真や土産など物色中にMN子女子に会う、このとき初対面であったと思う、色の違うビーチサンダルを履いていた。サンダルをチャンジして足の写真を撮った。直pも私もまだ若かった(と言っても当時38歳)良い思い出になる。アワードが始まる、よく食べた、知り合いも増えた、思いでは尽きない。このときは月曜帰りのためアワード終了後速空港へ、後ろ髪引かれる思いであった。ボランティアフェスティバルにも出たかったが、出たら飛行機に間に合わない、火曜帰りにすべきであった。帰りの飛行機も直行便の小さな飛行機、K村氏、S津男兄さんの嘲笑を受ける、怖い物は怖いのだ、叫ばなかったが、顔面蒼白になった、羽田まで2時間半、思い出を整理するには少し足りなかった。翌年は火曜帰りの設定でツアーを組んだことは言うまでも無い。

第12回全日本トライアスロン宮古島大会

1996/4/14   9:51:19 116位完走 ストロングマンになる



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