車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

尾張大國霊神社 in 愛知県稲沢市

2018年03月27日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛知県

愛知県稲沢市国府宮に鎮座される、尾張国総社「尾張大國霊神社(おわりおおくにたまじんじゃ)」。御祭神は『尾張大国霊神(おわりおおくにたまのかみ)』

由緒に【神社は尾張国府の創始とともに創建されたもので、尾張国の総社とされた。 境内別宮の大御霊神社(大歳神之御子)・宗形神社(田心姫命)とともに国府宮三社と称する。『延喜式』では小社に列する。昭和15年(1940)に国幣小社に列格し、戦後は別表神社となった。本社の建築様式は本殿、渡殿、祭文殿、廻廊、拝殿、楼門と並ぶもので「尾張式」と称される。また、本殿に接する位置には自然石を五個、円形に並べた「磐境(いわくら)」があり、社殿建立以前の原始的な祭祀様式を物語るものとして神聖視されている。】

御神紋は「五七の桐にふち竹に笹」

参道に架かる神橋。その昔は勅使や将軍など身分ある人しか渡れなかった橋ですが、今は橋の前後に止めがなければ一般の人も渡ることが出来ます。

神橋を渡ってまず出迎えてくれるのが重要文化財指定の楼門。足利初期の建立。正保3年(1646年)解体大修理の際、上層を改造しているとの記載があります。

楼門 の先に絵馬掛けを兼ねた、桧皮葺の「蕃塀」

楼門からまっすぐ、重要文化財指定の拝殿。徳川初期の建立で特徴として切妻造で内側に柱が並立しているとの事。

拝殿前左右より神域を守護されるのは、明治四十三年七月建立の浪花系の狛犬さんかな? 吽形さんは右手に仔狛を、阿形さんは毬に手を置いています。大きく上を向いた鼻が何ともユーモラスな一対。

拝殿と祭文殿を繋ぐ廻廊

祭文殿・渡殿、この先に御本殿が鎮まられていますが高い垣に遮られ、その外観を見ることは出来ません。

境内から振り返って仰ぐ楼門の何とも美しく凛々しい事。

境内北東に鎮座される「別宮宗形神社」。御祭神は宗像三女神の一柱『田心姫命』。社号標には「天保三年(1832)壬辰九月」の刻が有ります。

境内東側に鎮座される境内社「稲荷神社」「司宮神社」「神明社」「居森社」「白山社」「三女神社」。 

六社を守護されるのは、明治二十七年九月建立の浪花系の狛犬さん。ぐりぐり眉と大きく横に開いた口元、獅子頭をマルっと持ってきたようなお鼻・・かなりユニークな一対です(笑)

桧皮葺の手水舎

何を表しているのか・・不思議な吐水の備え。

約1240年前に「尾張大國霊神社」で行われた厄払いを起源とする「儺追(なおい)神事」。 旧暦1月13日に執り行われる神事は、通称「はだか祭り」と呼ばれます。まず「神男」と呼ばれる「儺負人(なおいにん)」が、神事4日前に選出され、身を清める為に体毛をすべて剃り落とし、食事は御飯と沢庵だけで、「儺追殿」に三日三晩篭もります。この「神男」に直接触ると、厄が落ちると言われており、「はだか祭り」の参加者・数千人がサラシの褌、白足袋のいでたちで、このたった一人の神男めがけて詰め寄り揉み合うのです。

神男」は何ひとつ身につけない真っ裸の状態で「神守り(歴代神男)」に護られ、参道に入ります。神守りの護りは鉄壁で、容易に「神男」に触ることはできず、その揉み合いはまさに格闘状態!「けんか祭り」と言われる由縁ですが、さらに突進を阻止する為に「手桶隊」が冷水を浴びせます。揉み合いの摩擦を減らす役目にもなる冷水は、一気に湯気となって上空に舞い上がります。

鉄柵一杯に結ばれた紅白の布は、神事に参加できない老若男女の為の「儺追布(なおいぎれ)」。 - ”難を追い払う”の意味があり、はだか祭りの際は沿道や参道ではだか男(裸衆)から布をさいてもらう光景が見られるとの事。氏名や年齢等が記された「なおい布」は柵を埋め尽くし、幾重にも重ねられています。

参拝日:2011年4月25日

 
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立部(たてぶ)神社 in 愛知県稲沢市

2018年03月26日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛知県

愛知県稲沢市北市場に鎮座される「立部(たてぶ)神社」。御祭神は『須佐之男』

創建年代等、詳細は不明。織田信長の居城の北にあった市場が地名の由来とされ、またこの地一帯は立部荘という荘園であったと言われており、その荘園の名がこの神社の名の由来ではないかと伝えられています。

鳥居の奥には石造連子窓型の蕃塀。上部の透かしに双龍紋が彫られています。

拝殿前左右より神域を守護されるのは、大正十三年六月建立の狛犬さん一対。太い眉と鼻の下にたっぷりと蓄えられた鼻髭などは、ご亭主殿の好きな「髭オヤジ顔」(笑)

石工『角田六三郎』。阿形さんは手の下に毬を、吽形さんは仔狛を座らせています。

珍しく親狛さんの足の前にお行儀良く座る仔狛さん。

本殿玉垣の内より神域を守護されるのは、明治41年4月 建立の出雲型狛犬さん一対。頭頂部が平たくなっているこのタイプは、海路運ばれてきた狛犬さんによく見かけるタイプだとご亭主殿が教えてくれました。

拝殿屋根の留め蓋から境内を見下ろす飾り瓦の獅子さん。何が有ったのか・・どちらも後ろ足のひざ下が二本ともに欠けています。

参拝日:2011年4月25日

 

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草部(くさかべ)神明社 in 愛知県稲沢市日下部

2018年03月25日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛知県

愛知県稲沢市日下部に鎮座される「草部(くさかべ)神明社」。御祭神は『天照皇大神・豊受大神』。 

鳥居の奥、拝殿前には石造連子窓型蕃塀。左右に獅子、中央に虎、上部の透かしに双龍が彫られています。

由緒「神社の記録が伝わっておらず正確なところは不詳。社号「草部」は地名の「草部郷」、伊勢神宮荘園名の「草部御厨」に由来すると考えられる。江戸時代初頭の尾張藩資料(寛文村々覚書)に当神明社に関する記載があるため、三百年余前に神明社として当地に鎮座されていたことは確かである。  当社は、中世の「草部御厨」の地に鎮座されている神明社であることから、七百年~九百年前頃に伊勢神宮荘園に勧請された神明社の一社と思われる。」

拝殿前左右より神域を守護されるのは昭和四十二年十月建立の岡崎現代型狛犬さん一対。吽形さんは仔狛を、阿形さんは毬に手を置いています。

境内社「津島社」御祭神は『建速須佐之男命』。境内社「琴平社」御祭神は『大物主命』。いずれも鎮座時期等の詳細は不詳。

社殿前より神域を守護されるのは、明治三十八年六月・日露戦役紀念として建立された丹後系狛犬さん一対。 阿形さんは毬の上に手を、吽形さんの足元には仔狛が縋りついています。

必死に何かを訴える仔狛さん。泣く子と地頭には勝てぬと言いますが、お子の表情はそれが何者であれ可愛らしいものです。

境内社「秋葉三尺坊大権現」。御祭神は『火之迦具土大神(ひのかぐつちのおおかみ)』

社殿前左右、高い石柱の上より神域を守護されるのは、昭和三年建立の浪花系狛犬さん一対。大きな鼻とその下のたっぷりとした髭が特徴で、私たちは秘かに「髭オヤジ」と呼んでいます。

「役行者社」に祀られる 『役行者(えんのぎょうじゃ)』江戸時代後期の弘化四年(1847)三月に発生した信濃国大地震(善光寺地震)の後、安全祈願で祀ったのではないかと考えられます。

並んで祀られていた地蔵菩薩。もしかしたら地震で犠牲になられた方々の為に建立されたのかもしれません。

参拝日:2011年4月25日

 

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愛西市内ぶらっと散歩 in 愛知県愛西市

2018年03月19日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛知県

愛西市佐屋町宅地に、ご贔屓の芭蕉の句碑があるとの事。場所は「佐屋八幡社」とありましたが、境内なのか境外なのか今ひとつ判然としません(^^;)

さんざんウロウロしてやっと見つけた『荻原井泉水』筆の「水鶏塚」碑。でも句は刻まれていません。

再びウロウロ(笑)見つけました!!愛西市(旧佐屋町)指定文化財「水鶏塚(くいなづか)」

【 水鶏(くいな)鳴(なく)と  人乃云へ者(人のいえば)や  佐屋泊 】

由来記【元禄7年5月芭蕉翁が江戸から故郷伊賀の国へ帰る途中、佐屋御殿番役の山田庄左衛門氏の亭で泊まられた。そのあたりは非常に閑静な幽地で昼さえ藪のほとりで木の間がくれに水鶏が鳴いた。翁がこられたと聞いて遠方からも俳人集まり千載不易の高吟が続いた。そのときうたわれた初の句が「水鶏鳴と人の云へばや佐屋泊 はせを」である。翁逝って40年余後さきに坐を共にした人達により、翁がうたったこの現地でそのときうたった句を石にきざみこみこの碑がたてられた。ときに正に享保20年5月12日のことである。昭和35年大字佐屋故黒宮庸氏の御意志によってこの水鶏塚(土地共)は黒宮家から佐屋町へ寄贈された。】

無時に芭蕉さんの句碑も発見できました。何度も素通りしていた「八幡社」に改めて参拝。

愛西市須依町屋敷に鎮座される「佐屋八幡社」。御祭神は『応神天皇』

創建等は不詳、佐屋村の氏神として清須より勧請されたと伝えられています。

御本殿近く、左右より神域を守護される狛犬さん一対。阿形さんは口中に玉を含み、吽形さんはその名の通り、固く一文字に口を引き結びます。

境内の一角にあった碑、かすかに地蔵像らしき輪郭が見られるのですが、摩耗が進み過ぎて仔細は不明。

八幡社を後にして見かけた「佐屋代官所跡」碑。

碑文「徳川方がこの地から船出し、1615年「大坂夏の陣」で大勝した吉祥の地であったことから、1634年尾張初代藩主徳川義直は、佐屋街道に佐屋宿、佐屋湊、佐屋御殿を設け、1653年船番所を置いた。1695年奉行所が廃され、1781年所付代官所制実施の際、同地に佐屋代官所が置かれ、将軍上洛時に大役を果たした。」

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鵜戸川沿いの一画、「富岡神社」に残る「古木江(こきえ)城跡」

古木江城の鎮守社であったと伝えられる「富岡神社」

【古木江城は織田信長の弟、織田信興(信与)が対岸の長島一向宗に対して築いた城です。1570年(元亀元年)に尾張・伊勢長島一向一揆衆に包囲され、6日間は耐えたものの落城し、信興は自刃しました。この一件を機に信長の一向宗への憎悪はより強まり、門徒約2万人が焼き殺されたとされる1574年(天正2年)の長島焼き尽くしにつながります。現在、遺構はありませんが、城址にある富岡神社には城址碑が建てられています。】

鵜戸川の向こうに見える「道の駅・立田ふれあいの里」

「道の駅・立田ふれあいの里」で見かけた「縁結びの松」。傍らの碑には『加藤倉一』作とあります。良く分かりませんが・・きっと「御縁を結ぶスポット」的な存在かと(((((^_^;)

「縁結びの松」

愛知県愛西市森川町井桁西にある「道の駅・立田ふれあいの里」。県道125号佐屋多度線沿いに位置し、尾張地方では初、愛知県内では10番目の施設。2011年4月の愛知県蟹江・あま・清須・稲沢方面への車泊旅。また、2014年7月には津島市の「尾張津島天王祭」朝祭りを見る為に、車中泊で利用させていただきました。お土産に購入した現地特産のレンコン、偏食過ぎる私ですが大層美味しく頂きました。

車で旅をするものにとって、このような道の駅は本当にありがたく大切な場所です。

改めて、その折は有難うございました m(__)m

訪問日:2011年4月24日&2017年3月27日

 

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橋詰神社 in 愛知県清須市西枇杷島町

2016年12月24日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛知県

愛知県清須市西枇杷島町に鎮座される「橋詰神社」、御祭神は『須佐之男命』

「もと、一六五四年創建の神明社。のち牛頭天皇を合わせ祭り、天王社が主となった。その後、この地が橋詰町であったことから橋詰神社と呼ばれるようになる。古来より天王社に因み、西枇杷島地方で唯一、幼子の守護神として近郷の人々に広く崇められ「虫封じ」神事が行われている。」

「天王宮」社号額

拝殿前青銅製二の鳥居の左右より神域を守護されるのは、大正14年(1925)6月建立の浪花型狛犬さん一対。吽形さんは仔狛を、阿形さんは毬に手を置いて売ます。

口を閉ざす吽形仔狛さん、ぐいと反り返って後方を確認する姿は将来の大物素質充分。

境内入り口近く、大きく枝を広げる楠の御神木前に鎮座される摂社「金刀比羅社・秋葉社」

文政十年(1827)、旧枇杷島橋小橋のたもとに建てられていた「美濃路道標」

四面それぞれに「東 西ハつし満てん王うきよす宿みち」「西 飛(ひ)がしハとうかゐだうなごや道」「南 文政十年丁亥七月吉日」「北 い王くら道」の刻

道標の斜め後ろに建てられた、巨大な大根を担ぐ「にしび夢大根」像

「尾張名所図会:小田切春江(おだぎりしゅんこう)」作「青物市」「 江戸時代初期、枇杷島橋が架かるのと同時に、徳川家康の命により、市兵衛と九左衛門によって青物市場が開かれ、38軒の青物問屋が軒を連ね、尾張内外から多くの荷が集まり、やがて日本三大市場の一つとなったと言う。」

「尾張名所図会」プレート

参拝日:2011年4月24日

 

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岩清水八幡宮 in 愛知県清須市土田

2016年12月22日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛知県

愛知県清須市土田に鎮座される「岩清水八幡宮」。御祭神は『譽田別尊・玉依姫命・気長足姫命(おきながたらしひめのみこと)=神功皇后

参道真っ直ぐに木製二の両部鳥居と社号標

拝殿前正面に石造り連子窓型蕃塀。連子や羽目に彫り物が有るのが普通と思っていたのですが、このような簡素なタイプも有るのですね。

由緒「建久元年(1190)9月に『源頼朝』がここで眼病治療を受け平癒した際に石清水八幡を勧請したのを起源にするという。その後慶長11年(1606)、清須城主松平忠吉が社殿を再興し所領などを寄進せられる。」

拝殿奥に続く幣殿、正面奥に御本殿

御本殿

本殿近くより神域を守護されるのは明治三十九年九月建立。構えに近い姿勢で顎を上げる狛犬さん一対。吽形さんは仔狛を、阿形さんは毬の上に手を置いています。

愛知県でこのようなスタイルの狛犬にお目にかかるのは比較的珍しいという事で、特別に愛らしいバックスタイルも(笑)

でもって、仔狛がまた格別可愛らしい(〃∇〃)

境内社「福神社」。私の故郷にある「特別史跡:閑谷学校」の敷地内にも「福神社」が祀られていますが御祭神は不明。分からないとなると尚更気になるものです。

「殉国之碑」、大東亜戦争で散華された御英霊に捧げられた碑。

一際高くそびえる奉納鳥居と、読み下せなかった歌碑

ふり返ってみる境内

見上げれば、乙女の肌を思わせる薄桃の八重桜

参拝日:2011年4月24日

 

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土田神明社 in 愛知県清須市

2016年12月21日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛知県

愛知県清須市土田に鎮座される「土田神明社」。御祭神は『天照大神』。境内には由緒を伝える物は無く、詳細は不明。

薄い桜色に塗られた漆喰造りの御本殿。

同じく漆喰づくりの拝殿。

拝殿前左右より神域を守護されるのは、大正二年八月奉納の浪花狛犬さん一対。私たちはこのタイプの狛犬さんを「髭オヤジ」と呼んでいます(笑)。吽形さんの足元には転がり落ちかけて必死に親狛の足に噛り付く子狛。阿形さんは毬に手を置き、笑いながら仔狛を見守っています。

頭と尾っぽを間違えた友人がいたので、念のために頭は向かって右です(笑)

狛犬さんの紹介はポーズが同じものを選んでいるので、たまには横とか後とか。見事にセットされた尾とか、流れるたてがみとか、中々お洒落。台座には名古屋市西区八坂町 石工 角田六三郎

境内の一画に奉納された石、もしくはセメント製の御神馬。戦時下の金属類回収令でこの素材となったのか否か不明ですが、それでも見事な日の丸の腹掛けを見た時は、痛い程の感動を覚えました。

こうした事実を以てして「あの戦争は間違いだ!!」と口角泡を飛ばす人がいる事を否定も肯定もしません。戦争を知らない世代が、知った風な口を利くなどおこがましいと思っています。それでもこの日の丸の赤に込められた想いに触れる時、今生かされている事の有難さに心を揺さぶられるのです。

境内を包み込むような淡い薄紅の八重の桜。今日は何故か目に染みます。

参拝日:2011年4月24日

 

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上条稲荷神社 in 愛知県清須市上条

2016年12月20日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛知県

愛知県清須市上条に鎮座される「稲荷神社」、御祭神は不明ですが、おそらくは『宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)』と思われます。

鳥居の向こうに昭和十四年十月奉納の石造り連子窓型蕃塀。「石匠:角田六三郎」の銘。

連子窓上部に阿吽の双龍、羽目板左右に阿吽の獅子、中央に虎が掘り込まれています。

中々に不敵な面構えの獅子

どことなく愛嬌を感じさせる竹林の虎

四面吹き通しの開放的な拝殿

後方に鎮まられる「稲荷神社御本殿」。右に「須佐之男神社」。 左に「飯縄神社」が共に鎮まります。

玉垣下、左右より神域を守護されるのは、明治から大正にかけて様々なタイプの狛犬を生み出した枇杷島町石工荒木弥助』による、大正七年十月建立の狛犬さん一対。

満開の牡丹を咥える吽形さん。足元には大人しくうずくまる仔狛。片手は岩の上に、もう一方の手の下には毬を置く吽形さん。今回の愛知県車泊旅で出会った一押しの狛犬さんにご亭主殿大喜び。惜しむらくは長い年月によって失われてしまった阿形さんの顎・・・

にしても、この仔狛の不敵な面構え(^^;) 末が楽しみ(笑)

蕃塀の内側に置かれていた旧拝殿の鬼瓦

境内の一画に見つけたのは、和服の柄にしてみたいような可憐な花。さて何の花なのか・・

参拝日:2011年4月24日

 

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西田中:神明社 in 愛知県清須市西田中

2016年12月19日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛知県

清須市西田中本城に鎮座される「村社 西田中・神明社」、御祭神は『大日霊尊(おおひるめのみこと)=天照大神、菊理媛神(くくりひめのかみ)』

鳥居の奥に昭和十二年十月 奉納の「石造り連子窓型蕃塀」。連子・羽目部分ともに飾り彫りはありません。羽目裏部分に「石 工:コメノ ・石工:井上」の記名在り。

境内一段高くに四方吹き抜けの開放的な拝殿

拝殿まっすぐ奥に鎮まられる御本殿。由緒書より「古来この地の産土神として大日霊尊を奉斎し大正元年十二月境内末社白山社を合祀、現在二柱の神を祀る」

本殿左右より有神域を守護されるのは大正三年三月奉納の浪花タイプの狛犬さん一対。愛知県で目にする浪花タイプは、みな一様に鼻の下の髭が立派。
吽形さんは子狛をしがみつかせ、阿形さんは大層綺麗な細工の毬を手の下に置いています。

で・・この仔狛さんですが、どの部分が顔なのか実は判断に迷っています。御亭主殿に言わせると、そっくり返っているから上が口で真ん中が鼻だと断定しましたが・・・・??謎(笑)

屋根の上の留め蓋獅子さん。まるで羽のように大きく顔毛を広げて、さてさて、何処に行こうというのでしょう?

境内の一画に降ろされていた先代の留め蓋獅子さん。個人的にはこちらの顔立ちの方が好み。ともあれ、こうして境内でちゃんと守護の任を勤めていられて良かったですね(^▽^)/

〆勧請が渡された鳥居。小さなお子様以外は屈まなければ潜れない低さです。

参拝日:2011年4月27日

 

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日吉神社(清洲山王宮 ) in 愛知県清須市

2016年12月18日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛知県

愛知県清須市清洲に鎮座される「清洲山王宮 日吉神社」。御祭神は『大己貴命、素盞嗚命、大山咋神』

創始「宝亀二年(771)尾張地方に疫病が流行した為、素盞鳴命・大己貴命を祀り、病災除去の氏神とした。大同二年(807)橘逸勢(たちばなのはやなり)が社殿を建立。又伝教大師による天台宗の布教とともに神仏習合説が広まり、山王宮と称されるようになった。尾張の国府が清洲に移されてからは、清洲総氏神として信仰を集め荘厳な社殿が構えられた。天正八年(1580)、清洲城代織田信張により、近江坂本の日吉大社より大山咋神と摂社二十一社を勧請。明治以降、社名を山王宮から日吉神社と改め、県社として尊崇された。」公式HPより

木造檜皮葺きの蕃塀。左に「厄をさる福を招く天下随一お申神社」

拝殿前左右より神域を守護されるのは烏帽子姿で正装した、大正十年十月十日 :奉猿会奉納の青銅製の神申像一対。日吉神社の神使いは申とされており、肩に御幣を担いだ姿勢で参拝者を迎えてくれます。

拝殿屋根の留め蓋にも御幣を担いだ神申さん。

一生懸命神申像を写していたら、拝殿内にも神申象があるから見ても良いと、宮司さんのお言葉。それはもうどれだけ嬉しく舞い上がったか(^▽^) あまりの嬉しさに社伝の撮影をすっかり忘れてしまいました(-"-)

拝殿内にて神域を守護されるのは白磁の神殿狛犬一対。

神殿横左右に奉納されていた神猿様三対

奉納絵馬は、織田信長の家臣であった『伊藤蘭丸』によるもの。松坂屋の創業者『伊藤次郎左衛門』の祖で、故あって清洲の地で絹布商を営み、その後松坂屋へと大発展させた人物です。ただし、現在神殿に掲げられている絵馬は、明治時代に『小田切春江』によって描かれた複製だそうです。

社務所で売られている「御幣を担ぐ神申絵馬」は、上記の絵馬をモデルとしています。

こちらの絵馬には特に謂れはありませんが、おそらくそれなりの方が奉納されたものなのでしょう。

拝殿前より神域を守護されるのは明治四十一年卯月上旬奉納の狛犬さん一対。いわゆるブタ鼻のでこっぱち、額から肩の左右に大きな毛玉をつけたユニークな顔立ちですが、じっくり拝見させて頂くと中々に味わいのあるお顔(笑)

有難く拝殿を辞して境内に戻れば、ここにも『井上北斗氏』奉納の巨大申絵馬。御祭神の使いである申(猿)にちなんで、2004年(申年)の正月に神前にて描かれ奉納されたもの。畳約八畳大(縦3メートル×横4.5メートル)で、神前にて描かれた絵馬としては最大級となっている旨が、駒札に記されています。

古来より神社の一角にある「子産石」は、女性が触れるとたちどころに懐妊するという霊験あらたかな石。豊臣秀吉の生母は、この子産石に触れて秀吉を授かり、幼名を『日吉丸』と名付けたと伝えます。

境内社「山王稲荷社」

名古屋藩の第4代藩主『徳川吉通公』が、正徳三年(1713)に、山王神霊の分霊と共に山王稲荷として移し祀られたもので、江戸時代の終り頃の創建と伝えられています。

遠い昔、傀儡(かいらい)と呼ばれた芸能者が旅の途中、当社に参詣し神前で神舞を奉納し、世俗の怨念、苦しみを祓ったと言い伝えられており、これを「はきだしまいり」といいました。この場所は、そうした負の感情や執着をはきだし、皿に封じ込め、祓い清める場所だそうです。

板碑群の後方に祀られる小社。御社名、御祭神いずれも不明。で、何故この社だけと聞かれて思わず「猫さんが・・・」可愛さに負けて、お賽銭も奮発しました(笑)

板碑群

「神像」役行者のようにも見えますが・・・わかりません。

尾張の神社参拝で久々に出会った二代目・青銅製の御神馬は、昭和41年の再建。

何とも優しい目つきの「吐水龍」

参拝日:2011年4月24日

 

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