車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

常楽寺龍照院(りゅうしょういん) in 愛知県蟹江町

2016年11月30日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛知県

蟹江町須成、「冨吉建速神社・八劔社」に隣接した境内に門を構える真言宗智山派寺院「蟹江山:常楽寺龍照院(りゅうしょういん)」。尾張三十三観音札所十三番。国宝『十一面観音菩薩立像』を本尊とします。

「奈良時代の天平5年(733)に行基菩薩により草創され、その後、寿永元年(1182)木曾義仲により再興されたと伝えられています。最盛時の規模は、七堂伽藍(しちどうがらん)のほか龍照院をはじめとした18の坊や寺院があったと伝えられています。しかし、天正12年(1584)の蟹江合戦の際に兵火に遭い、龍照院一坊とご本尊のみが残りました。本堂は、明治24年の濃尾地震で倒壊し、現在の本堂はその後に再建されたものです。」蟹江町HPより

龍照院の境内の一角に「大日如来。堂内には西国三十三観音とともに、『大日如来坐像』が安置されています。

「源頼朝が平家追討の兵を上げたとき、木曾義仲に従って上洛した巴御前。武術を心得え、義仲が危急のときには、身の危険をおかしながらも付き従った華麗で美しい女武者だったといわれています。元暦元年(1184)正月21日、粟津で義仲最期のとき、巴は、主君義仲と一緒の死を望みましたが、義仲は武人の名誉を思い、巴に落ち延びるように言いました。義仲の最後を見届ける事もできず、義仲の命に従い戦場を離れる巴。義仲に大将にふさわしい最期を全うさせるため、死よりも苦しい生を生きなければならなかったのです。」

「信濃へ落ちる際、蟹江町の常楽寺は義仲が建てた寺であることを知った巴は、この寺に如来坐像を安置し、髪を下ろして尼となり、名を「東阿禅尼」と呼び、義仲の菩提を弔ったと伝えられています。」蟹江町観光サイトより

2012年に参拝した小矢部市埴生「護国八幡宮」『木曾義仲・巴御前』絵馬。愛する人と共に果てる事が叶わなかった『巴』・・今は共に彼方の上にて優しい時を過ごされていますように。

「大日堂」の屋根より参拝者を見下ろす飾り瓦の獅子一対。

境内の入り口近く、復興の際に寄進された「鐘楼」

記憶の中からすっぽりと抜け落ちてしまった飾り瓦の獅子一対。はて・・君たちはどこの屋根に居たのだろう?

行脚姿の『弘法大師修行象』。錫杖と鉄鉢を手に諸国を巡歴されたお姿は真言宗寺院ではすっかりお馴染みのお姿。

「人形とは人の形なり 人形を抱くは母の悲しみを抱くなり 人形には与える物 持つ物の心がこもるなり 年月を経て哀れなる姿となり 大自然の中に帰る人形たちよ 我々の感謝の心を受けて み佛のもとに行きて安らかならんことを」

裕福ではなかった幼いころ、私の側にいてくれたのは人形と呼ぶには恥ずかしいような、母が余り布で作った小さな人形さんでした。いつの間に手元からいなくなってしまったあの人形・・「み佛のもとに行きて安らかならんことを」

参拝日:2011年4月24日&2017年3月28日

 
コメント (3)
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