金沢市天神町に鎮座される「椿原(つばきはら)天満宮」。金沢五社の筆頭格とされ、御祭神は『菅原道真』。
由緒「永仁5年加賀国主富樫義親京都北野天満宮より丹波屋敷と称する山崎に勧請す。観応年間一向一揆により金浦郷田井村へ遷座され、金浦郷の総鎮守産土神となり、当宮を前田家祈願所とし城郭の鎮守と定める。金浦郷総社田井天満宮、椿原神社、椿原天満宮と称え奉り旧金沢五社の筆頭たる御社格であった。明治6年郷社に、明治14年9月県社に列せられる。」石川県神社庁HPより
拝殿へと至る石段は、軽く眩暈を覚える高さ(^^;)ですが、ここまで来て見上げるだけではあまりにも無念(笑)ここは覚悟を決めて!!
何とか辿り着いた手水舎。高い位置にあるので金沢市内が一望できます。ここでしばし息を整えて(^^;)
手水舎に架けられた石製の扁額。巻物風に設えられた俳書の右手には梅の木が陽刻されています。石額は菅原道真生誕950年の嘉永5年に奉納されたもので、45句と詠手の雅号が刻まれています。が、・・・残念ながら殆ど読めません(笑)
手水舎の上、石段参道途中より神域を守護されるのは、安政6年(1859)建立。石工『松田七左衛門』の作で、藩政期に奉納された逆立ち狛犬は、かなり珍しく、ここを選んだご亭主殿からひとしきり蘊蓄(うんちく)を聞かされる羽目に(^^;) 前足だけで体を支える阿形さん・・ただもう凄い。
吽形さんはひたすらどっしりと(笑)。太い四肢で岩場を踏みしめる安定感は流石。
拝殿
御本殿
『菅原道真公』像
かってこの地は、一向一揆の大将『洲崎兵庫』が構えた「椿原山砦」と伝えられています。今は遺構と呼べるものは何も無く、往時を伝えるものは説明版の文字だけ。
階段下の境内、右手奥の藪の中に見える朱塗りの鳥居は「月読社」。加賀騒動の『勢之佐(せいのすけ)・真如院(しんにょいん)』を御祭神としますが、神社としては「命婦神(稲荷の別称)」が祀られます。
朱塗りの祠の左右より神域を守護されるのは神狐さん一対。とてもユニークな表情に、見ているこちらにもその笑が伝染しそう。
「月読社」近くに建立されていた石造物は、文政10年に建立された「がっぱの神様」。「がっぱ」はこの地方の古い方言で「頭に出来た湿疹」。「河童」との関係は特にありません。
同じく、近くに建立されていた碑は、明治十二年(1879)九月、書家『寺岡玉水』を偲んで、有志と門弟百人余がその遺筆を納めて建立した「退筆塚」。
この地は元々椿が群生する林でしたが、砦や社殿の造成時に伐採。戦後、『松井清造』氏らの協力を得て、2008年までの30年間に100本の椿を植樹。それを記念して建立された「椿魂碑」には、そうした由来が記されています。
参拝日:2011年10月13日
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御神名一口メモ「加賀騒動」
『真如院(しんにょいん)』寛永元年(1748)、前田吉徳の側室であった真如院に、前藩主:宗辰の生母「浄珠院」毒殺の嫌疑、および家臣であった「大槻伝蔵」との不義の嫌疑もかけられ、小立野上野の屋敷に幽閉。宝暦9年(1759)、25歳で没した。
『勢之佐(せいのすけ)』、真如院の長子、後の前田利和。「大槻伝蔵」との不義の子とされ、長い間前田家の人間とはみなされず、供養の列からも除かれていた。昭和26年(1951)、加賀騒動の真相の再検討が行われ、真相が明らかになるに伴い、同母弟の八十五郎とともに吉徳の実子とされ復権、前田家の一族として供養の列にも加えられた。