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車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

坂越大避(おおさけ)神社 in 兵庫県赤穂市坂越

2023年10月01日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・兵庫県

赤穂市坂越・宝珠山麓に鎮座される「大避(おおさけ)神社」。主祭神は『大避大神(秦河勝)』、『天照皇大神・春日大神』を配します。

由緒に「河勝は太子死後の皇極3年(644年)、海路をたどって坂越に移り、千種川流域の開拓を進めたのち、大化3年(647年)に80余歳で死去。河勝公の御霊は神仙化とし、村人が朝廷に願い出、祠を築き祀ったのが大避神社の創建と伝えられている。一方近在の村々30余ケ村に、ご分社を祀り開拓神として今日も信仰されている。」兵庫神社庁HPより

大避神社の正面の海上に浮かぶ「生島」。その山頂には、この地で没した『秦河勝』の墓と伝えられる墳墓があり、一帯は全て神域とされています。

石段参道の先に建つのは神仏習合の影響を受けた神門。延享3年(1746)の再建です。

石段最上段の左右より神域を守護されるのは、丁寧にカールした巻き毛がとても素敵な狛犬さん一対。とても穏やかな顔で参拝者を出迎えてくれます。

神門内には、仏の守護者である阿吽の仁王像と、神の守護者である左右随神が背中合わせに配置され、それぞれに神域と祭神を守護されています。

随身門から真っ直ぐ、神門と同じく延享3年に再建された拝殿が、厳かな雰囲気で参拝者を迎えてくれます。

拝殿前より神域を守護されるのは、天保7年(1836)9月建立の狛犬さん一対。廻船の海上安全を祈願して奉納されました。

拝殿の左手には開放的な絵馬堂がつながり、40枚もの絵馬が所狭しと奉納されています。

「海上安全 順 風」と書かれた船絵馬は、享保7年(1722)の奉納、日本最古のものと云われています。

絵馬殿の一画に置かれているのは「祭禮用和船:楽船(がくぶね)」。瀬戸内海三大船祭りの1つ「坂越の船祭り(国重要無形民俗文化財)」に用いられるものです。

これは奉納絵馬の中にあったもので、坂越浦沖に浮かぶ生島と、和船巡航の様子が鏝絵で描かれています。

こちらは観光案内所に展示されていた絵馬ですが、「大避神社祭禮船:歌船」が鮮やかに描かれています。

祭神『秦河勝』の墓と伝えられる墳墓がある事から、現在でも一般の人の立ち入りが禁じられている生島。祭礼では10数艘の祭禮船が、湾口にある生島の御旅所まで往復します。

参道途中に鎮座される唐破風屋根の社は、その赤い鳥居から直ぐに察せられる「境内社:稲荷社」

社殿の左右より神域を守護されるのは、市内に唯一存在するという、尾道型の狛犬さん一対。慶応2年(1866)5月建立ですから、150年以上もここで頑張っておられる事になります

さらに屋根の上、留蓋の飾瓦には稲荷の神狐さんがいるのですが、これがまたおとぎ話に出てくるような愛らしい姿。

同じく「境内社:恵美須神社」。漁師町らしく海の神様である「恵比寿神」が祀られます。

一の鳥居から参道、境内と見所沢山の「大避神社」、その裏参道と思しき場所に「船岡園十三景」の石碑が建立されています。「船岡園」は大正3年(1914)5月13日、児島高徳卿550年忌の記念大祭典の準備として御墳墓付近3,000坪を開拓し、官幣大社、吉野神社の摂社船岡神社の社号に因み開設されました。そう言えば、船岡園中には『児島高徳』の墓とされる五輪塔があると聞いていましたが・・結局行きそびれてしまいました。

参拝日:2010年8月9日

冒頭の由緒にも記載があるように、「大避神社」は相生・赤穂・上郡一帯の千種川流域にのみ約30数社が鎮座されています。秦の始皇帝の末梢として渡来し、『聖徳太子』に使えた『秦河勝』。推古天皇30年(622年)『聖徳太子』の死後(643年)に起こった「乙巳(いっし)の変」を避けて、摂津国難波浦から出航し播磨国赤穂郡坂越浦へ漂着。生島で没した後、大避大明神となった秦河勝の足跡、辿ってみるのも面白いかもしれません。


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4 コメント

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秦氏 (まっち)
2023-10-01 13:55:52
渡来系氏族で秦の末裔とされていますが、秦氏全体の朝鮮との関係を見てみると実際には朝鮮系氏族と見るのが妥当かと?
来日以来山城の国に本拠を置いて交易や海運で財を成し、平安遷都は秦氏の強い働きかけがあったとされています。
藤原家が表の権力者とすれば秦氏はいわゆるフィクサーのような存在だったのでしょう。
奈良県人の私から見れば桓武帝と彼は故郷から都の座を奪った憎き人物といったところ。笑
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陰の実力者 (tibineko)
2023-10-01 16:24:02
ユダヤ系とか秦の始皇帝の子孫とか、色々と盛られてますが、実際のところとなると???
実は私正直に白状すると、聖徳太子は好きなのに、秦河勝はあまり・・(^^;)
物凄い実力者で、金も力も持っていた人物というのは、その影響力から見ても十分に想像できるのですが。
でもやっぱり「秦河勝はあまり・・😓」(笑)
まっちさんの最期の一文😅
そうか、平安遷都の立役者でしたね
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色々な説がありますね (onecat01)
2023-10-02 14:34:55
 tibinekoさん

 こちらの記事を先に読んでいれば、わたしのコメントも少しは変わっていたのかもしれませんね。

 
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謎多き氏族 (tibineko)
2023-10-02 15:25:52
来歴等にかんしては謎の部分が多い人物ですから様々な説があってしかり😊

日本という国の歴史の一端を担った人物として、日本の国で神となる。
これって、他の国では考えられない事です。
で・・・一連の「大避神社」のブログでせっせと取り上げているくせに、
やっぱり「秦河勝はあまり・・ 😅 」(笑)
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