足守の町並の中で最も陣屋町らしい一画と言えば、白壁の長屋門と土塀に囲まれた「足守藩家老:杉原家旧邸宅」。江戸時代に備中国:足守藩の国家老を務めた居宅は、当時の家老屋敷の佇まいをほぼ完全に近い形で伝えており、県下でも唯一の貴重な建物と言われています。
正面に唐破風の屋根を構えた玄関の式台を上がると、上床つき8畳の式台の間があります。この日、訪ねてきた客人を迎えるのは、お武家の奥方ではなく段飾りのお雛様。
茅葺:寄棟造の母屋は伝統的な武家書院造の構造を持ち、今日の和風建築の原型とも言われています。
母屋の前面には池泉を主にした遠州流の小庭園があり、外側の土塀には、藩主来訪時に使用する御成門が設けられています。
玄関の奥に続く式台の間・二の間・一の間の3間が公式用の書院として使われ、特に小庭園を望む一の間は、藩主などを迎える際の貴賓室的な部屋としても使われます。
母屋の左手(東)脇には米倉の土蔵が一棟あり、私達の目を楽しませてくれる鏝絵や飾り瓦が出迎えてくれました。「蕪」「飛鶴に松」派手では有りませんが素敵な出来。
でも何と言ってもこの火難除けの亀の飾瓦の表情は、まさに秀逸。
町歩きのラストは、足守町並み保存地区の北端にある県指定名勝「近水園(おみずえん)」。樹齢数百年のカエデの古木がたたずむ大名庭園は、岡山の後楽園、津山の衆楽園と並ぶ大名庭園の一つだそうです。
園内の池泉に浮かぶのは、藩主の長寿と繁栄を象徴する鶴島と亀島。鶴島には木下家十四代当主利玄の歌碑が建てられていたとか。また、めずらしいマリア燈篭などもあります。
無粋なブルーシートの囲いの中は、復元作業中の「木下家十四代当主:木下利玄の生家」。利玄は明治十九年に生まれ、5歳で上京。学習院、帝国大学国文学科へ進み勉学に励むかたわら、歌の道へも精進を続け、後には武者小路実篤や志賀直哉らとともに雑誌「白樺」を発刊。利玄調といわれる歌風を完成させ、明治大正の文学史に大きな足跡を残した人物です。
池畔に建つ数寄屋造りの「吟風閣」は、六代当主『木下 㒶定(きんさだ)』が京都の仙洞御所と中宮御所の普請を仰せつかった折、その残材を持ち帰って建てたもの。
3月初旬の午後4時は、町歩きをするにはもう遅い時間です。もう少し、もう少しだけと言いつつ時間を引き延ばしてみても、曇り空のような空の色が私たちを急きたてます。でもね、名残が尽きないのはそれだけ楽しい時間だったと言う事なのです。
訪問日:2010年3月3日
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