旧安八郡墨俣町(すのまたちょう)は濃尾平野の西北部に位置した町です。起伏のほとんどない平坦な地形は長良川の右岸に沿って細長く、東は長良川をへだてて岐阜市・羽島市に、北は犀川を境に本巣郡穂積町、西と南は同じ輪中(わじゅう)の安八郡安八町に隣接。県道岐阜・垂井(旧国道21号線)と長良川の交点に位置し、昔から交通の要所として知られていました。また「木下藤吉郎・墨俣一夜城」の故事で知られた墨俣城址には、町のシンボルとして「城郭天守・墨俣城歴史資料館」が建てられています。「町の木:サツキ」を制定。
旧キャッチフレーズは「桜と歴史の町 墨俣町」
明治22年(1889)、町村制の施行により、安八郡墨俣村・西橋村・下宿村・二ツ木村が発足
1894年、墨俣村が町制を施行、安八郡墨俣町(初代)が発足。
1897年、墨俣町が西橋村、下宿村、二ツ木村と合併、墨俣町(二代目)となる。
2006年、大垣市に飛び地編入され、「大垣市墨俣町地域自治区」となりました。
墨俣町には独自のマンホール類はなく、唯一見つけられたのは町章付きの量水器が一点のみ。ですが、個人的にはガッツポーズの貴重な一枚😍
昭和49年11月3日制定の町章は「墨俣町の頭文字の「す」を図案化したもので、平和を願う町民の団結・勤労の精神で力強く躍進する姿を、鋭角と翼で表現しています。」旧公式HPより
防火水槽には自治体章や自治体名は無く、いわゆる規格蓋。もしかしてもっと根性を入れて探したら他に見つかったかも知れませんが・・今のところ情報はありません。
古くより鎌倉街道(京~鎌倉)の宿場町として栄えてきた「墨俣宿」。
墨俣宿跡の近くには「大垣市指定史跡:墨俣本陣跡」の碑と常夜灯が残されています。かっては賑わいを見せていたと思われる宿場ですが、今はいずれも碑だけ。
そんな宿場の通りに残る「美濃路墨俣宿脇本陣跡(安藤家)」。その佇まいは流石の貫禄と言えます。が、脇本陣そのものは明治24年(1891)の濃尾震災で倒壊。現在は隣接する「本正寺」に脇本陣の山門が残るのみ。。跡の意味を改めて認識。
撮影日:2012年5月14日
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