小説「野菊の墓」で知られるアララギ派の歌人『伊藤左千夫』。山武市役所の横にある「伊藤左千夫記念公園」には、彼の代表作と言われる「野菊の墓」発行時の挿し絵を基にした、主人公、政夫と民子の像があります。
野菊をつむ民子に「民さんは野菊のような人だね」と話しかける政夫・・映画などでお馴染みの、有名な一場面。『木下惠介』監督脚本により「野菊の如き君なりき」のタイトルで、最初に映画化されたのは昭和30年(1955)。 明治という時代背景の中で、身分の違いを超えた恋は叶う筈も無く結末は悲恋で終わります。
記念公園の一画には、「伊藤左千夫を歌う」と題して、アララギ派八歌人の歌碑があります。
まるで円形ステージを思わせるスペースに並ぶ歌碑は、一二度は見聞きした歌人の名。「たて川の 茅場の庵を訪ひ来れば 留守の門辺に柳垂れたり:正岡子規」「立川の 茅場の庵は青田風 時じくに吹く椎の若葉に:島木赤彦」「この庭の 槐(えんじゅ)わか葉のにひみどり にほへる蔭にわれ立ちにけり:古泉千樫」「千葉の野を 越えてしくれば蜀黍の 高穂の上に海あらはれぬ:長塚節」
一応『伊藤左千夫』と題したブログなので、彼の歌碑は別枠で😊
【九十九里の 波の遠音や降り立てば 寒き庭にも 梅咲きにけり】
こちらは記念公園入り口に建立されていた、「野菊の歌」五首と「ほろびの光」五首の歌碑。
訪問日:2019年3月10日
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『伊藤左千夫 (本名:孝次郎)』は、元治元年(1864)8月18日、上総国武射郡殿台村(山武市松尾町)の比較的裕福な自作農の四男として生まれました。
生家である藁葺きの母屋は、約200年前の建築で、この地域のごく一般的な中農の家構えだと言います。『左千夫』はここで多感な少年時代を過ごし、やがて明治法律学校(現・明治大学)に進学するも眼病を患い挫折。失意の内に帰郷します。
その後、牛乳搾りをするかたわら短歌を学び、三十七才の時に正岡子規に感化され彼に師事。 子規の没後は、短歌雑誌『馬酔木』『アララギ』の中心となって、多くの著名歌人を育成。 自らを牛飼と呼んだ【牛飼が 歌よむ時に世の中の あらたしき歌 おほひに起る】は良く知られており、旧家跡に碑として建立されています。
敷地内の茶室は、同じ山武郡出身の友人であった『蕨真(けっしん)(蕨真一郎)』から贈られたもので、昭和16年(1941)に東京の自宅から現在地に移築、生家と共に保存されています。 子規から「茶博士」と呼ばれるほど茶道に通じ、心の底から「茶の湯」を愛した『左千夫』。 彼はこの茶室を「唯真閣(ゆいしんかく)」と呼び、終生愛着をもっていたと伝えられています。
『伊藤左千夫』の歌風は万葉集を尊重して雄大であり、東洋的な諦念が底流するといわれています。 私には歌の良し悪しは分かりませんが、それでも「ああ、美しい」と思える歌は作者が誰であっても心を惹かれます。
【久々に 家帰り見て故さとの 今見る目には 岡も河もよし】
彼の中にある故郷、岡も河も美しい故さと。その記憶があの美しい「野菊の墓」の舞台を生み出したのか・・彼の歌を見ているとそんな事が頭をよぎります。
さて・・上の画像は全て2014年の訪問の時の物。できれば「私」が付いていない建物だけの画像が欲しくて、2019年に再訪したのですが・・・・・結果は見るも悲しい「改装中」😱 下調べが足りなかった事を悔やむしかありません。遠方からわざわざ回り道をしてこの結果は、正直・・心折れます😭
訪問日:2014年5月19日