車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

ご当地マンホールとマンホールカード in 山口県岩国市

2024年07月11日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・山口県

岩国市(いわくにし)は山口県の内陸部東端に位置する市です。2006年3月20日、旧・岩国市、玖珂郡由宇町、玖珂町、本郷村、周東町、錦町、美川町、美和町が新設合併し誕生しました。広島市と周南市の中間地点に位置し、市の中央を横断するかのように「岩国-五日市断層帯」が通っており、名勝・錦帯橋や国の天然記念物・白蛇(岩国のシロヘビ)生息地で知られています。光市、柳井市、周南市、田布施町、和木町に隣接。また、小瀬川を挟んで広島県:大竹市、廿日市市と接し、県を跨いで島根県:益田市、吉賀町、さらに海上を隔てて愛媛県:松山市に隣接。

岩国市の名の由来は、城山の岩から岩国になったという説があり、本来の岩国は錦帯橋周辺を指していると云われています。「市の木:クスノキ」「市の花:サクラ」を制定。

キャッチフレーズは「豊かな自然と都市が共生した活力と交流にあふれる県東部の中核都市」

マンホールは旧岩国時代の物がそのまま設置されており、便宜上デザインタイプのみこちらに掲載。市章を中心に「錦帯橋、錦川の鵜飼い、岩国城」がデザインされています。

知章が岩国市章に変わった旧周東町のデザインマンホール。十字に4分割し旧周東町の「町の花:ウメ」がデザインされています。

市章と錦帯橋がデザインされた側溝蓋。

岩国の観光大使『はあすちゃん』は、ハスの花をイメージして誕生した妖精。普通のレンコンよりも穴の数が一つ多い「岩国れんこん」をPRするため全国のイベントで活躍中!今日は山口県から来た『ちょるる』と一緒です。

2012年12月13日に開港した、岩国錦帯橋空港のPRキャラクター『ソラッピー』。空を飛ぶのが大好きで、ちびっ子の人気者。ただいま、地元はもちろん、首都圏で積極的に活動中です。

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旧岩国市(いわくにし)は山口県の東、広島湾に面していた市です。由宇町、玖珂町、周東町、和木町、美川町、美和町。県を跨いで広島県大竹市に隣接。江戸時代には吉川氏の治める岩国領の城下町として発展してきましたが、長州藩から永らく支藩として認められなかったため、岩国領が岩国藩となったのは大政奉還後の慶応4年の事でした。

大正14年(1925)に、現岩国駅周辺の麻里布地区に帝國人造絹糸(帝人)の工場が建設されて以降、岩国港を基盤にして山陽パルプ工業(現・日本製紙)、東洋紡績などの軽工業の工場が進出し、「人絹町」と呼ばれる工業地区が発展しました。中国山地に端を発し、広島湾に注ぐ錦川の作った三角州上の岩国飛行場には、海上自衛隊岩国基地、在日米軍(海兵隊)の基地が存在します。

明治22年(1889)、町村制の施行により玖珂郡岩国町(第1次)・横山村・麻里布村・川下村・愛宕村・灘村・小瀬村・藤河村(第1次)・御庄村・北河内村・南河内村・師木野村・通津村が発足。

1905年、横山村と合併、改めて玖珂郡岩国町(第2次)が発足。

1916年。藤河村が分割し、大字関戸・多田・阿品・田原に改めて藤河村(第2次)、大字御庄・大谷・持国に御庄村が発足。
1928年、麻里布村が町制を施行、玖珂郡麻里布町となる。

1940年(昭和15年)4月1日 - 玖珂郡岩国町・麻里布町・川下村・愛宕村・灘村が合併して岩国市(第1次)が発足。

1955年(昭和30年)4月1日 - 玖珂郡小瀬村・藤河村・御庄村・北河内村・南河内村・師木野村・通津村を編入。

昭和30年(1940)9月18日制定の市章は「錦帯橋(五つ反)と桜花を象徴したるものにして白色を以って之を表すものとす。」公式HPより

中央に「岩」の文字がある雨水用マンホール。古いものですが、岩国市の物なのか他の自治体の物か不明。

空気弁

仕切弁

消火栓

側溝蓋

撮影日:2012年月日&2013年4月20日&2015年11月19日&2017年11月27日

旧本郷村・旧美和町に関しては未訪問の為、マンホール画像はありません。

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マンホールカード、頂きました

2019年8月7日、第10弾として全国61自治体で61種類(累計455自治体539種類)の マンホールカードの配布が 開始されました。「岩国市」のマンホールカードは、「岩国市観光交流所 本家 松がね」でいただけます。

1989年に設置開始されたマンホールには「錦帯橋」と「鵜飼漁」「岩国城」がデザインされています。

「このマンホール蓋は、本市のシンボルである「錦帯橋」と「岩国城」を、伝統的な夏の風物詩である「鵜飼漁」と併せて描き、中心に市章を配置しました。 錦帯橋は1673年の建造以来変わらぬ佇まいで、多くの人々を魅了してきました。 幕末を描いたドラマなどでおなじみの篤姫が、嫁入りのために上京する途中に回り道をして岩国に立ち寄り、渡橋許可を待ちきれず強引に渡ってしまったという逸話があるほか、各地の大名たちも見学に訪れたという記録から、その美しさは当時から評判だったことが窺えます。 約1万7千本もの和釘を使用し、大工や職人達の熟練の技が光る錦帯橋をぜひご覧ください。」

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ご当地マンホールとマンホールカード in 山口県和木町

2024年07月10日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

玖珂郡和木町(わきちょう)は山口県の最東端、広島県との県境である小瀬川の右岸河口部に位置する町です。南側を岩国市に囲まれ、北側は県境である小瀬川を挟んで広島県大竹市と隣接。南側に緑豊かな山々を擁し、北側を小瀬川に接した低い地域で東西に開け、東は瀬戸内海に面し、江戸時代には岩国藩の配下にあった町です。「町の木:やまもも」「町の花:つつじ」を制定。

キャッチフレーズは「山口県の東の玄関口 緑の風薫る文化のまち」

明治22年(1889)、町村制の施行により玖珂郡小瀬川村が発足。

1899年、小瀬川村を廃止し、小瀬村(小瀬)と和木村(和木・瀬田・関ヶ浜)に分割。

1973年、和木村が町制を施行。玖珂郡和木町となる。

マンホールは、中央に町章があるだけの、いわゆる規格タイプと呼ばれるものです。

昭和28年(1953)7月制定の町章は「和木町の「ワキ」を図化したものです。大きな円はワキの「ワ(輪)」、そして円満融和の「和」を表します。中央のカタカナの「キ(木)」は躍進を続ける町の発展を表しています。」公式HPより

石油化学コンビナートの町としての裕福な財政を背景とし、昭和52年に和木地区の公共下水道が完成、昭和56年に、瀬田・関ヶ浜地区においても公共下水道が共用開始され、普及率は何と、99.5%(全国下水道普及率80.6%)。そんな和木町ですが、私が訪問した時期にはデザインマンホールは設置されていませんでした。

撮影日:2015年11月19日

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マンホールカード、頂きました。

2018年4月28日、第7弾として全国49自治体で49種類(累計301自治体342種類)の マンホールカードの無料配布が 開始されました。 表にはマンホール写真と位置情報が書かれています。和木町のマンホールカードは「和木町蜂ヶ峯総合公園 管理棟」で頂けます。

「和木町の花「ツツジ」と、町内随一の観光地である蜂ヶ峯総合公園のキャラクター「はっち」がデザインされたマンホール蓋です。 町が進める「おしゃれでアートな町づくり」の第1弾として、「和木町の魅力、シンボル」をテーマに町内の小学生からデザインを募集しました。 97点の作品の中から選ばれたこのデザインは、たくさんのツツジの花に囲まれながら、本町の将来像である「緑の風薫る文化のまち和木町」を元気よく飛び回る「はっち」の姿を構図化したものとなっています。 本デザイン蓋は町内の主要箇所に設置されているほか、本カードの配布場所である蜂ヶ峯総合公園管理棟にも展示されています。」

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周防大島~あちこちウォッチ in 山口県周防大島町

2024年07月09日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・山口県

周防大島町久賀地区、大島大橋を渡って最初に目に留まったのは「椋野漁港」。不思議なもので何十年たっても漁港の風景と言うのは、奇妙な懐かしさを思い出させる。小さな漁師町で育った私にとって、漁船の形が違っていても、周りの景色が違っていても、ただ潮の香りという一点で懐かしい。それは幼い頃に染み付いた「故郷」を思い起こさせるからかもしれません。

437号線沿い、まるでポケットパークのような一画に立つ「大崎鼻灯台 。

眼下に見えた小さな岩礁、向こうにかすんで見えるのは何処だろう? そう言えば故郷の近くにこんな岩礁があって、私はそれを見るのが大好きだった。帰省の度に「そこに在る」事を確認してホッとしたっけ😊

旧大島郡久賀町(くかちょう)は山口県の東端、瀬戸内海に浮かぶ屋代島(通称周防大島)の中央に位置した町です。東と南は嵩山と嘉納山を主峰とする山脈を境として橘町に、西側は文珠山に連なる山脈を境にして大島町に隣接。「町の木:くろがねもち」「町の花:みかんの花」を制定。

「「久賀」の由来は、久賀町字追原に「竜頭様」という神様が祭られていて、村の開びゃく以来の鎮守神であったが、これがいつの頃からか「十賀様」と呼ばれるようになり、この「十賀」が地名となった。しかし、満つれば欠けるの理で、「十賀」が「九賀」に転じ、さらに「久賀」になったものと伝えられている。」旧公式HPより 

久賀町:町制施行100周年記念植樹「クロガネモチ」

昭和5年(1930)12月27日制定の町章は「「久」を中心に、「か」を象形化し、「久」を囲むようにして図案化したもの」

これだけ丹念に下調べして、二度目の訪問では真っ先に庁舎に寄ったのに・・肝心のマンホールが無い・・・一枚も無い😱

訪問日:2013年4月18日&2015年11月17日

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周防大島町安下庄、旧橘地区の県道60号線沿いの海岸にそそり立つ高さ40mの「竪岩」

「仕合わせ祈願所」立岩、巌門、帯石、岩屋の4つの奇岩をお参りして幸せを願う「四岩合わせ奇岩(仕合わせ祈願)」として信仰されています。」現地案内より

安山岩でできた奇岩は、その勇ましさから通称・男岩と呼ばれているとか。岩のほとりの小堂には「馬頭観音」が祀られているそうですが、生憎の雨・・マンホールデザインの「竪岩」のみ写して先を急ぎます。

二年後の旧橘地区、県道4号線沿いの車中で見かけたちょっと気になる素敵な眺め。三つ仲良く並んだ小さな島、グーグルマップで検索しても特に名称は無く、いわゆる無人島の類。後方に見える島影はおそらく「平郡島」。

同じく車中で見かけた光景、見れば碑なども建立されているようですが、子細不明。残念ながら「車は急に停まれません😓」

訪問日:2015年11月17日&2017年11月28日

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周防大島町平野、旧東和地区にある「東和総合支所」に併設して2007年にオープンした「星野哲郎記念館」。同町和佐地区出身の作詞家・星野哲郎氏の作品・資料等が展示されているそうです 。

敷地内には、氏の代表作「三百六十五歩のマーチ」に因んで、一歩目の足跡が記念館の入り口に設置・・・とりあえず最初に目についた二番目の足跡を😅。

訪問日:2015年11月17日&2017年11月28日

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周防大島町庁舎を後にして旧大島地区の県道4号線を走り海岸線へ。車窓から見える不思議な岩の造形に思わずデジカメを向けて一枚。もっとじっくり見たかったのだけど、何しろ「車は急に・・・以下略」😓

訪問日:2017年11月28日

 

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久賀(くか)の石風呂と久賀薬師堂 in 山口県周防大島町久賀

2024年07月08日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

周防大島町久賀、ゆったりとした時間が流れる山間の一画に残る、西日本最古の石積み式蒸し風呂「久賀(くか)の石風呂」

「治承4年(1180) 平重衡の南都焼討によって焼失した東大寺再建の大勧進に任命された『俊乗房重源』は、後白河法皇の知行国であった周防国から用材を求める為に、国司として防府へ下った。佐波川上流の徳地保で用材を求める一方、長い兵乱と飢饉により荒れ果てた国土の平定と布教活動の為領内を巡回した。その間この地へ立ち寄り、諸病に悩む民衆の為に石風呂を創建したと伝えられている。」

「花崗岩と粘土で築造された石積式蒸風呂で、庶民の湯治場として親しまれ、昭和の初め頃まで日常的に使われていた。この石風呂は、資料で存在が確認できるものとしては日本最古のもので、昭和三十三年に国の重要民俗資料(重要有形文化財)として認定を受けた。」太色字-現地案内より

もう少し全体像がわかる画像があれば良いのですが、柵の中に展示されている状態ではこれが限界。でも大切な文化財、実物を間近に見られるだけで良しとしなければ😊

SSサイズの私に変わって、精一杯腕を伸ばして石風呂の撮影をしてくれたj🐣さん。有難うね~😀

「『俊乗房重源』が当地に石風呂を造ると共に、庶民の病平癒と仏の加護を祈り薬師如来を安置たのが薬師堂の創建であると伝えられており、信仰と入浴が結びついた当時の風俗をうかがわせる。江戸時代後期に発生した安政の大地震で、東郷山中腹から大岩が落下したが、薬師堂を飛び越えて堂前の水田に落ちたとも伝えられており、明治二十二年周防大島八十八ヶ所霊場創設で第五十二番目札所となった。」現地案内より

2008年の夏、職場で倒れて緊急搬送され、大手術を経て三か月後に無事私のもとに帰ってきたご亭主殿。以来、神仏の加護を願い続けた私に倣い、神妙に真言を唱えています。

さらにお薬師堂の周辺には、地元の豪商や豪農の方達によって奉納された、三十三体の観音石像が安置されています。「無病息災で一生を幸せに。老後も家族の手を煩わせる事なく極楽往生が叶う」の案内。ああ、そうであれば、きっととても幸せですね。

久賀の石風呂の近くに併設された「久賀歴史民俗資料館」。諸職用具、歴史文化財15,000点(内2,707点重要有形民俗文化財)が展示されているとの事。

ところがご亭主殿ときたら、建物の壁際にずらりと並べられた飾瓦に夢中。いや、その気持ち・・充分に理解できるので、構わないんですけどね😅 

何と表情豊かな二体の「恵比須様」

向かい合う「伊勢海老」の細かい細工に思わず見惚れ・・

いくつもの時代の中で、それぞれの建物を見守ってきた沢山の細工瓦たち。思いがけない出会いに感謝🙏

訪問:参拝日:2017年11月27日

 

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ご当地マンホール in 山口県旧東和町(周防大島町)

2024年07月07日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・山口県

旧大島郡東和町(とうわちょう)は瀬戸内海の西に浮かぶ屋代島(周防大島)の最東端に位置した町です。西に橘町、東・南は伊予灘から愛媛県に、北は安芸灘から広島県に海を隔てて相対。町の歴史は古く、町内で発見された土器片などから弥生時代の後期には、稲作農耕をする人々が住んでいたと推測され、さらに町の全域が「島末荘(しまずえのしょう)」と呼ばれていた事から、早くから平家の荘園が開かれていた事も判明しています。
三方を海に囲まれているため、県下でも下関市に次いで長い海岸線を有しており、「片添ヶ浜海水浴場」や、青少年旅行村の中にある「逗子ヶ浜 海水浴場」など、季節になると多くの海水浴客で賑わいます。「町の木:鳳来寺サクラ」「町の花:ミカン」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により、大島郡油田村・和田村・森野村・家室西方村が発足。

1941年、家室西方村が、大島郡白木村に改名。

1955年、油田村・和田村・森野村・白木村が合併、大島郡東和町が発足。

2004年、大島郡久賀町・大島町・橘町と合併、周防大島町となりました。

マンホールには町章を中心に「町の木:鳳来寺サクラ」「町の花:ミカン」「鯛」「ミカン」が四分割されています。

昭和35年(1960)5月10日制定の町章は「頭文字の「と」を図案化したもの。

撮影日:2013年4月18日&2015年11月17日

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2013年・2015年・2017年の車泊旅では「道の駅サザンセトとうわ」で車中泊をさせて頂きました。お土産に買った「山口大島みかんジュース」は皆に人気で、行くたびに購入。田舎餅も餡が私好みで、これも必ず購入。夜は専用Pが使えなくて心細く感じたけれど、不思議とお仲間が来るので心強いし。何より「片添ヶ浜温泉:遊湯ランド」まで10分弱という立地は、夜の運転を避けたいご亭主殿には、有難かったそうです。車で旅をする私たちにとってこの様な道の駅は、本当に有難く大切な場所です。改めて、その折には「有難うございました」🙏🙏

訪問日:2013年4月19日&2015年11月17日&2017年11月28日

 

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ご当地マンホール in 山口県旧橘町(周防大島)

2024年07月06日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・山口県

旧大島郡橘町(たちばなちょう)は山口県の南東部、屋代島(周防大島)の中央部に位置した町です。西は、大島町、久賀町、東は東和町に隣接。嵩山・飯ノ山・沓松の山の尾根を境に、北側の日良居地区は広島湾に面し、浮島、頭島、飛瀬島の3つの島を浮かべ、南側の安下庄地区と秋、吉浦地区は広大な伊予灘に面し、安下庄湾に立島があります。地名の橘とは、温州みかんのことで、嘉永年間に日前村の庄屋 藤井彦右衛門が郡内で初めて温州および紀州みかんの苗木を持ち帰り植栽したことに因むとされます。「町の木:ウバメガシ」「町の花:ミカン」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により、大島郡安下庄町・日良居村が発足。

1955年、安下庄町・日良居村が合併、大島郡橘町が発足。

1956年、大島町大字秋の一部を編入。

2004年、久賀町・大島町・東和町と合併、周防大島町となりました。

マンホールには「奇勝立岩」と後方に「空海山」、「町章」。右下に「特産のミカン」がデザインされています。

鹿家地区にある「奇勝立岩」

集落排水のマンホールには、上に「橘町」「町章」。左上に「飛び跳ねる鯛」右下に「特産のミカン」がデザインされています。

中央に「いきいき橘」「町章」。左に「ミカン」、右に「鯛」がアップでデザインされています。

昭和40年(1965)3月11日制定の町章は「橘町をみかんで表したもので、円形はみかんの実で町民の和・平和を、上部の突端はみかんの葉で躍進を、また、中の三角はみかんのヘタをそれぞれ意味しています。」旧公式HPより

撮影日:2015年11月17日&2017年11月28日

 

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大歳神社 in 山口県周防大島町日見

2024年07月05日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

周防大島町日見に鎮座される「大歳神社」。御祭神は『大歳神(おおとしのかみ)』。合祀『天照大神』、配祀『御年神・若年神』

こちらの神社は「西長寺」参拝の際に偶然お見掛けして立ち寄らせて頂いた神社。神社名も御祭神も不明で、ネットの海を泳ぎまわって分かったのは上の神社名と御祭神のみ。

一の鳥居から真っ直ぐに続く参道、神橋と思われる左右より神域を守護されるのは徳山型狛犬さん一対。

吽形さんには角が、阿形さんはこれ以上は無理というほど大きく口を開けて足を踏ん張っておいでです。生憎の雨に祟られてしまいましたが、予定外に素敵な狛犬さんに出会えてご亭主殿は大喜び。ただし・・雨の日のデジカメ撮影は色々と不都合がありすぎて・・

阿形・・「なんじゃなぁ、こげんな雨の中を、わざわざワシ等に会いに来たんかね?!」

吽形・・「もの好きなやっちゃ・・・・」  妄想です、妄想(笑)

神橋を渡り参道を経た先に〆鳥居。きちんと管理されている事は、掃き清められた境内の様子からも容易に察せられます。

もしかしたら由緒の類が分かるものがあったかもしれませんが、何しろ雨です😥 お尋ねしようにも、誰にも出会えません。

偶然とはいえ、周防大島で唯一の神社参拝。予備知識も無しに、これほどの神獣さんに出会えたのは、やっぱり「お招きいただいた」のでしょう😊 素晴らしい出会いに感謝🙏

参拝日:2015年11月17日

 

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日見の大仏様 in 山口県周防大島町日見

2024年07月04日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

周防大島町日見奥田中に門を構える真言宗御室派寺院「日密三王山:西長寺」。周防大島八十八カ所霊場第19番札所。『不動明王』を本尊とします。

「大同2年(807)、唐より帰国した空海は、瀬戸内海を航海中、周防大島に立ち寄った際に、海に沈む太陽に御仏の姿を感得。空海は即座に船の帆柱に不動明王を刻み、西向寺を創建。明治3年(1870)に牛頭山の長楽寺と合併、それぞれの一字を取り「西長寺」と改称。」公式HPより

瓦葺・切妻造、薬医門の山門、お天気が良ければここから周防灘を望めた筈ですが、眼前に広がるのは灰色の世界。「こんな時に雨女の真骨頂を発揮せずとも」とご亭主殿。・・「き・・聞き捨てなりません!!😠」

雨脚の弱まるのを待ってご亭主殿がデジカメを向けた先は、山門の飾り瓦。定番中の定番は留め蓋の獅子一対。「雨の所為で対の向きで撮れなかった」と、わざわざ私を見て嘆くご亭主殿・・だからぁ!雨は!!😡以下略。

とても健康優良児っぽい「お坊さん」・・確かに毛は無いけど、でも本当にお坊様だろうか??

天を仰ぐ鯛・・と書くとカッコいいけど、雨水を飲む鯛って書くと、ちょっとね😩 他にも沢山写してましたが、キリが無い(笑)

社務所らしきところにお声がけをして御朱印をとお尋ねしたところ、日付の無い書き置きの御朱印のみとの事。大変申し訳ない事ではありますが、私の拘りでご辞退させて頂きました。にも拘わらず「日見の大仏様」への参拝を勧めて頂き、感謝に堪えません🙏。

「檜材の寄木造りで、漆箔着色の像。像高は284cmの丈六仏で、県下の重文の仏像で最も大きい。右手は屈して前方に手の平を見せ、左手は掌を上にして左膝の上におき、共に第一指と第二指の指先をつけて、上品下生(じょうぼんげしょう)の手印を結ぶ。螺髪(らほつ)はやや粗目で、しっかり見開いた眼、厚めの唇をきりりと結んだ表情には威厳がある。浅い衣紋やひざ張りに対して、ひざ厚が少ない等から、平安時代後期12世紀頃の制作と見られる。二重円光の光背は当初のままで貴重であるが、この外にさらに飛天光の外縁がついていたものと考えられる。また台座は大衣の端が下方に垂れた形の八角形裳懸座(もかけざ)。光背、台座も本像作成当時のものである事は貴重である。」公式HPより

こんなに間近に重要文化財の大仏様と対面できるって・・・思わずご亭主殿と顔を見合わせ、失礼にならないようにフラッシュなしで一枚だけ尊像をデジカメに収めさせて頂きました。圧倒的な存在感・・・にも関わらずそのお姿はおだやかで優しく、心の中にふわっと入り込んでくような錯覚を感じさせてくれます。

「弘法お清め大師」と青書きされたお提灯を左右に、お厨子に納められた弘法大師像。各地の寺院参拝で、開祖となられた方の尊像を頻繁にお見受けするのですが、弘法大師様だけは何故か特別に親しく感じられます。大した信仰心もない癖に、不思議と言えば不思議ですが🙏。

閻魔十王像の前においでになるのは子安のお地蔵様?、それとも慈母観音様?赤子に乳をのませる仏像を見たのは、西日本では初めてではないかと・・

心持ち小降りになった気配に境内の散策。沢山のお地蔵様に囲まれた石碑。

「宝篋印塔」と板碑

「慈悲と功徳のさんぽ道」と題された回遊式の庭。海を仰ぐ景勝地に、2007年に建立された大島霊場第45番札所、「摩尼宝塔」

本堂「西向不動明王」前に奉納されていたお地蔵様。いずれも赤い前垂れやお帽子を奉納され、また瀬戸内のハワイの名に相応しく、花のレイをかけられたお地蔵様もおいでです😊。

本堂の近くに枝を広げていた「山茶花」。樹高:7.5m、目通り幹周:1.7m。天文4年(1535)頃に植樹したと伝えられ、周防大島町指定天然記念物に制定されています。

手水鉢の水は『弘法大師』が杖で掘ったとされる「閼伽水」。側の薬壷から水が出るらしく、その下には可愛らしい「薬師如来」さまのお姿も。

参拝日:2015年11月17日

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tibineko一口メモ

「閼伽水(あかすい)」、仏様に供える清浄な水の呼び名。

 

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ご当地マンホール in 山口県周防大島

2024年07月03日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・山口県

大島郡周防大島町(すおうおおしまちょう)は山口県の最東端に位置し、瀬戸内海の西に浮かぶ屋代島(周防大島)、および周囲の5つの有人島と25の無人島から成る町です。2004年10月1日、大島郡久賀町・大島町・東和町・橘町が合併して発足しました。瀬戸内海に浮かぶ島では淡路島・小豆島に次いで3番目の面積を有し、島と本土とは大畠瀬戸を渡る大島大橋によって連結。柳井市、 岩国市。また松山フェリーで県を跨いで愛媛県:松山市、大洲市に隣接。「町の木:ミカンの木」「町の花:ミカンの花」を制定。

キャッチフレーズは「ひと・まち★きらり 元気 にこにこ 安心で 21世紀にはばたく先進の島」

2005年6月11日制定の町章は「周防大島町のイニシャル「S」と「O」をモチーフに、4町が合併して一つになる様子をデザイン。海の青・山の緑・みかん色で「文化・自然・人」の融合を表し「先進の島」の「発展力・創造力」を象徴している。」公式HPより

2017年の訪問では、中央に新町章のある規格タイプの親子マンホールを一枚見つけただけ😢

周防大島町のPRサポーター『みかとと君』は、周防大島町のお魚とおいしいみかんが合体。『みかきんちゃん』。は周防大島町のおいしいみかんと金魚が合体して誕生しました。周防大島町観光のイメージアップの為に活躍しています。

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旧大島郡大島町(おおしまちょう)は周防大島の西部に位置し、島内では一番広い町域を擁した町です。 町の東側は、久賀町及び橘町に接し、他の3方は海に囲まれ、西部は昭和51年7月に開通した「大島大橋」により、柳井市、大畠町に隣接。気候は概ね温暖で、急傾斜地が多く柑橘栽培の適地であり、 良質のみかんが生産されています。「町の木:桜」「町の花:ツツジ」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により大島郡小松志佐村・蒲野村・屋代村・沖浦村が発足。

1916年、小松志佐村が町制を施行・改称して大島郡小松町となる。

1952年、小松町、屋代村が合併、大島町が発足。

1955年、大島町が蒲野村・沖浦村と合併、改めて大島町が発足。

1956年、 蒲野村大字椋野が久賀町へ編入。沖浦村大字秋の一部が橘町へ編入。

2004年、大島郡久賀町・橘町・東和町と合併、周防大島町となりました。

大島町戸田地区集落排水マンホールには、特産のミカンと瀬戸内海をゆく二隻の漁船がデザインされています。

昭和27年(1952)制定の町章は「蜜柑を図案化し、五枚の蜜柑葉で「大」を象っている」

大島町:自治体名のみの集落排水マンホール

大島町自治体名のみの集落排水マンホール親子タイプ

大島町自治体名のみの仕切弁

「大島町」の自治体名と「町章」がある消火栓。

撮影日:2015年11月17日&2017年11月28日

 

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岩尾の滝 in 山口県柳井市大畠町

2024年07月02日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・山口県

柳井市大畠町神代。R437号線をひたすら下って右折、「岩尾の滝」を目指し、苦手なカーブが連続する山道を走る事しばし・・見事な紅葉に彩られた一画に無事到着😅 「廣濟宗厄難(こうさいしゅやくなん)」の碑に出迎えられました。

紅に染まる眼下には、水音と共に白く輝く三筋の滝。阿弥陀如来の四誓偈の一節「廣濟宗厄難」とは、「広く人々の災いを取り除く」。その文言通り「滝にうたれると脳病・肩こり・腰痛・のぼせ眼・脚気などに効能がある」と古来より云い伝えられる「岩尾の滝:雄滝」

延暦5年(786)、伝教大師(最澄)が摂津住吉明神の神託により神代(現:柳井市大畠)の地に下られ、観音像を刻み御本尊として建立された観音堂(現:岩尾山光明寺)。

川向うに見える赤い橋を渡れば「雌滝・白糸の滝・住吉の滝」に至ると案内にありましたが・・橋は閉鎖されています。

光明寺への参拝を済ませ、黄色く染まった落ち葉の道を進めば、広い一画には「観音の滝」の謂れともなった観音菩薩像、三十三観音碑、宝塔などが奉納され、古よりの崇敬の篤さを伝えています。

私たちの前に神秘的な姿を見せる「雄滝」。滝壺の右手には天然の窟屋へと続く石段が設けられ、窟屋のうちには地蔵菩薩像が祀られています。

高さ16m、二条の水流は駆け下る龍の如く岩肌を濡らし滝壺へと下り、赤く染まった水の中にかき消える・・・それを確かめるいとまも無く、新たなる水龍は飛沫を周囲に降り注ぎながら、先に行った龍の後を慕うように滝壺に落下し、波紋だけを残して・・繰り返されるその様は、時空を忘れる光景。

ご亭主殿の「危ないから!」の制止を珍しく振り切って窟屋まで登り、そして気が付く。違う!龍は滝壺に消えたんじゃない、滝壺から天の高みを目指して登ろうとしているんだと。言葉を忘れて真っ直ぐに向かい合う龍の目が優しく細められ、岩肌に縋りつく私を見返す。

それは今思い返しても不思議な瞬間でした。流れ落ちる滝に、私は確かに白銀に輝く龍の姿を見た・・と、今でも確信しています。

訪問日:2017年11月27日

 

コメント (4)
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