昨日に続いて「吉香神社」の紹介は、享保13年(1728)建立、明治18年(1885)に白山比咩神社より移築された、国指定重要文化財の「神門」から。
檜皮葺 切妻造 四脚門で冠木中央には、吉川家の家紋。20177年の参拝は晴れ女の異名を持つj🐣さんが同行。流石に自認するだけあって眩し過ぎるくらい良いお天気🌞
拝殿は檜皮葺・入母屋造。背面に幣殿が張り出した構造となっており、享保13年(1728)建立、明治18年(1885)に白山比咩神社より移築。拝殿幕には吉川家の家紋「輪九曜」。
本殿は檜皮葺、千鳥破風・軒唐破風付きの三間社流造。大工『明田勘九郎明眞・佐伯次郎右衛門直定』により、享保13年(1728)建立。明治18年(1885)に白山比咩神社より移築。映り込んだ不思議な色のオーブが美しい・・
現地案内には「本殿と拝殿および幣殿は独特な形式で複雑な架構と屋根形式を巧みにまとめていて、独自性が認められます。社殿はいずれも軸部から小屋組まで当初形式をよく保持しており、充実した細部を備えた丁寧なつくりとなっています。全国的にも数少ない祖霊を祀る神社建築で、全体に岩国藩大工の高い技術が窺え、地方における江戸中期の優品として、高い価値が認められます。特に本殿、拝殿、神門が同一時期の建築で揃っているものは大変貴重で、昭和63年(1988) に県:有形文化財に、2004年12月10日には国の重要文化財に指定されました。」
拝殿前に奉納されていた「舟形手水鉢」
社殿に隣接して枝を伸ばすのは、樹齢130年、樹高約25mの「槐(エンジュ)」。昭和54年 (1979) に山口県の天然記念物に指定されています。
本殿向かって左手に鎮座される末社「褒忠社(ほうちゅうしゃ)」。
慶應元年(1865)奉納「褒忠社碑」
もと寺谷(紅葉谷)にある竜門寺の境内に「節臣廟」を建て、吉川家の死節の臣を祀ったのが始まり。初代藩主:吉川広家が回向所としていましたが、廃藩後に神社に改められました。
明治25年(1892)、旧岩国藩公と藩の有志により吉香神社内に建立された「三士誠忠の碑(さんしせいちゅうのひ)」。
「栗栖天山(くりす てんざん)は東沢瀉(ひがし たくしゃ)と必死組(後に精義隊)を組織し、藩風改革運動の先駆をなすも、柱島に流罪。慶応2年、沢瀉を救うため柱島を脱し同士に所思を訴えるも、賛同を得られず自刃。翌慶応3年、南部五竹(なんぶ ごちく)は沢瀉を救出し奇兵隊に呼応しようと計るも、未然に捕らえられ刑死。その後、沢瀉は慶応4年に釈放され、翌慶応5年に沢瀉塾を開き、後進の指導にあたった。」岩国公式サイトより
「義済堂碑」。明治6年(1873)廃藩置県で禄を失った藩士の職を確保する為、吉川氏が設立。創業当初は製紙業、養蚕業など幅広い分野の商品を商っていたそうで、碑は吉川氏の徳恩と初代の功績を記念して建立されました。
お堀に面して建つ二重屋根 楼閣造の「錦雲閣」は、旧岩国藩主吉川家の居館跡が公園として開放された際、吉香神社内の絵馬堂として建てられたものです。
旧藩時代の矢倉に似せて造られた桟瓦葺 入母屋造の楼閣風建築で、明治18年(1885)に建造。2000年2月、国登録有形文化財に指定されました。
参拝日:2013年4月20日&2015年11月19日&2017年11月27日
残念ながら御朱印は無し・・・昔は御母堂がお書きになられていたそうですが「現在は書いておりません」とのお言葉でした。