高校デビューとか大学デビューなどと言って
人がそれまでの人生をリセットするような、キャラを変える現象がある。
自分は殆どキャラを変えずに生きてきたが、あえて言うならばそれは小学校六年生の時である。
人生ずっとシャイで繊細で生きてきたことは変わらない。
しかし裏では結構な情熱と自己主張とユーモアさを抱いていたことも変わらない。
コミュニケーションの上で重要なそのユーモアさを一気に人に表現するようになった、
それが小学校六年生の時だった。
クラスの友達に攻撃的な発言をするなんて事はあり得ないと思っていたが、
小学校六年の時のクラスは、
お笑い好きが多く、
ちょっとした事で人の頭を叩いて突っ込んだりしていた。
僕としてはその環境が楽しくてたまらず、
自分がウチに秘めていた面白さを一気に表現出来るようになった。
本当に自由なクラスでランドセルで来る生徒は一人で、
彼はランドセルキャラとしていじられて居た。
小学生がランドセル背負っていじられるって時点でどうかしてたのですが。
面白いメンバーが揃ったそのクラスはちょっとした伝説的なエピソードとなった。
高校生になっても当時別のクラスだった友人たちは
「あのクラスは凄かったよね、ぶっ飛んでたよね、オールスターだったよね」
などと言われるほどだった。
小学校の学園祭で我々クラスがやった催しはぶっ飛んでいた。
その内容はなんと「憂さ晴らし屋」
他のクラスが小学生らしい出し物をする中、
憂さ晴らし屋。
イライラしてる人はウチのクラスの無抵抗のメンバーに
おもいっきり玉入れの玉をぶつけていいよ!
目隠ししてるからハリセンで叩いていいよ!
みたいな。
決していじめ的な要素はなく、小学生にしてバラエティを理解して。
ぶつけられ役を立候補で選んでましたからね。
キャッチコピーは僕が考えて
「そこの二頭身で悩んでいる君、ケツがデカすぎると悩んでいる君
今すぐ憂さ晴らし屋へ行こう!」
というものだった。
(二頭身弄られ、ケツデカ弄られしてる子がいたのでそういう分かる人には分かるみたいなフレーズ)
その一年で培ったアイデンティティは
今でも大きく僕を繕ってる気がするのです。
人がそれまでの人生をリセットするような、キャラを変える現象がある。
自分は殆どキャラを変えずに生きてきたが、あえて言うならばそれは小学校六年生の時である。
人生ずっとシャイで繊細で生きてきたことは変わらない。
しかし裏では結構な情熱と自己主張とユーモアさを抱いていたことも変わらない。
コミュニケーションの上で重要なそのユーモアさを一気に人に表現するようになった、
それが小学校六年生の時だった。
クラスの友達に攻撃的な発言をするなんて事はあり得ないと思っていたが、
小学校六年の時のクラスは、
お笑い好きが多く、
ちょっとした事で人の頭を叩いて突っ込んだりしていた。
僕としてはその環境が楽しくてたまらず、
自分がウチに秘めていた面白さを一気に表現出来るようになった。
本当に自由なクラスでランドセルで来る生徒は一人で、
彼はランドセルキャラとしていじられて居た。
小学生がランドセル背負っていじられるって時点でどうかしてたのですが。
面白いメンバーが揃ったそのクラスはちょっとした伝説的なエピソードとなった。
高校生になっても当時別のクラスだった友人たちは
「あのクラスは凄かったよね、ぶっ飛んでたよね、オールスターだったよね」
などと言われるほどだった。
小学校の学園祭で我々クラスがやった催しはぶっ飛んでいた。
その内容はなんと「憂さ晴らし屋」
他のクラスが小学生らしい出し物をする中、
憂さ晴らし屋。
イライラしてる人はウチのクラスの無抵抗のメンバーに
おもいっきり玉入れの玉をぶつけていいよ!
目隠ししてるからハリセンで叩いていいよ!
みたいな。
決していじめ的な要素はなく、小学生にしてバラエティを理解して。
ぶつけられ役を立候補で選んでましたからね。
キャッチコピーは僕が考えて
「そこの二頭身で悩んでいる君、ケツがデカすぎると悩んでいる君
今すぐ憂さ晴らし屋へ行こう!」
というものだった。
(二頭身弄られ、ケツデカ弄られしてる子がいたのでそういう分かる人には分かるみたいなフレーズ)
その一年で培ったアイデンティティは
今でも大きく僕を繕ってる気がするのです。