8月1日(月)
早朝、夜行バスにて石巻入りした。
私の実家がある向陽町は、津波の被害も、北上川の浸水の被害もなく、実家も、直して住めるようになっていた。
両親が無事なこと、自分の実家が現存することが、どんなにうれしいことか。
この、当たり前のことが当たり前にある奇跡のありがたさを痛感した。
家は、津波も浸水も免れたが、3月11日と4月7日の地震で、被害は受けたがG.Wに帰省した弟が、壊れたり傷んだところをだいぶ直して、家具にも耐震金具を付けてくれていた。
午後から仙台で被災した、小学校教諭をしている友人と会い、当時の様子などを聞いた。
教員という職業柄、災害発生時ばかりでなく、その後の多種多様な対応など、実際に体験した人でないとわからないいろいろなことを聞いた。
夜、川開きの花火大会を見た。
昼間、石巻河北新聞社の震災写真集を見ていたので、石巻の町がどんなふうになっているのか本当に心配だった。
行ってみると、あちらこちらに津波の爪痕は生々しく残って入るものの、町は、メインストリートだけでなく、裏通りまで瓦礫もヘドロもきれいになくなっていた。
みんな、この川開きを目標に、一生懸命頑張って、街をきれいに片づけたんだなあと思うと、感謝と感動で涙が出た。
日和山の陰になって、瓦礫に吹きだまりになって、いまだに電気は通じず、最後まで片付かなかった地区の店のショーウインドーに
「ボランティアの皆さんへ
私たちの街をきれいにしてくださって、ありがとうございました。」
という貼り紙があった。
空は薄曇りで、心配された雨はなく、花火はきれいに見えた。
かのまたやのご主人の話では、花火大会開催についてはギリギリまで賛否両論あったということだ。
なんと言っても、大口スポンサーの漁協、商工会、造船所、製紙工場が甚大な津波の被害を受けているのだ。
「こんな時に、晴れるかどうかも分からないのに、花火に金を使うより、他に使うべきところがあるだろう」
「こんな時だからこそ、供養の花火大会をやって、石巻の再興への奮起を図るんだ!」
本来なら、今年は、石巻が全国花火大会の会場だったのだそうだ。
震災・津波の被害で、川開き花火大会の開催が危ぶまれているのを聞きつけた、全国8か所から、花火の寄贈があったのだそうだ。
長岡からは、石巻の会場に合わせた「ミニフェニックス」が寄贈されたそうだ。
本当にありがたいことだと思う。
来年は、ぜひとも全国花火大会の会場として、恩返しの花火がたくさん打ち上げられるように、一緒に頑張りましょう!
果たして、皆の願いを聞き届けてくれたように、当日は雨は降らず、美しい花火が中瀬から石巻上空に上がり、8月1日の夜空を彩った。
きっと、天国に昇ったたくさんの人たちも、空の上からきれいな花火を楽しんでくれたことだろう。
花火の映像はこちらをぜひご覧ください。
http://www.youtube.com/watch?v=MrCifbhwlEQ
8月2日(火)
朝から両親と妹と一緒に、渡波~女川、鹿妻、新漁港、湊地区、門脇、南浜町という、私たち一家が関わりのあった地区で、壊滅的な被害を受けた場所を車で回った。
行く途中、石巻女子商業高校の校庭に、信じられないほどの高さに積み上げられた瓦礫の山を見た。
松原町にあった父の実家は、土台と水道栓だけ残して、家の残骸すらも残っていなかった。
家の跡地には、どこからか漂着したわけのわからないよその家の残骸が砂に埋もれて散乱していた。
庭には、亡き叔母が娘時代に植えた薔薇の木が花の時期を終え、緑の葉を茂らせていた。
持って帰ることはできないので、持ってきた水をかけてあげた。
瓦礫と無人の半壊の家々が建ち並ぶ国道沿いに、1件だけ、きれいにして営業しているケーキ屋さんがあった。
それに感動して、その元気を分けてほしいというか、応援したくて立ち寄ったら、その店は、私が乳飲み子の時に母が働いていた製菓店だった。
自宅もまだ半壊状態なのだが、店の鉄骨だけは残ったので、ヘドロを出し、修理して、店を再開したのだと言う。
母は、その話に甚く感動していた。
女川は、まさに、壊滅状態だった。
土台ごとひっくり反された4階建てのビルや、1階に泥だらけの車が飛び込んだまま放置されていた。
かなりの高台にある町立病院の1階まで浸水したという津波の水位は、何メートルあるのだろう。
駅は跡形もなくなっていて、女川線の復旧は全く目度がつかないそうだ。
美しい漁業の町女川の、一日も早い復興と行方不明者の方々の安否確認ができますように…。
再び、渡波に戻り、海沿いを行くと、あの美しかった松林は、塩害で赤茶けていた。津波の直後は、松林のてっぺんまで、わけのわからないものが枝枝に引っかかって、もっと無残な姿だったらしい。
かつて東洋一を誇った石巻新漁港は、まともに津波の被害を被って、たくさんの人が仕事中に被害に遭い、犠牲になったと聞いた。
瓦礫と残骸の中で、全国の漁協から支援を受けて、立ち上がって元気に営業を再開しているブースがあって、逆にこちらが勇気づけられた。
新漁港から日和大橋を渡り、その橋上から石巻を見降ろすとその痛ましい姿に胸がえぐられるようだった。
かつて街並みがあったところは更地となり、その脇には残骸と瓦礫の山、津波でぐちゃぐちゃに潰された自動車が何台も積み上げられて壁のように道路脇に続いていた。
石巻パルプはいつから操業できるのだろう。
津波と火災で壊滅状態になった門脇地区は、電気が通じていないらしく、信号が点滅していないので、交差点では皆が譲り合って走行していた。
その日の家に帰るという妹を見送った後、専修大学のボランティアセンターに行って、9日~17日までのボランティア活動の申請をして来た。
夕方、両親と3人で映画を見た。
「ロック~わんこの島~」という、三宅島の大噴火の時の犬とその家族の話だった。
http://www.rock-wanko.com/
公開中の映画なので内容には触れないが、ぜひ、被災地の人たちに見てほしい、タイムリーな映画だと思った。
早朝、夜行バスにて石巻入りした。
私の実家がある向陽町は、津波の被害も、北上川の浸水の被害もなく、実家も、直して住めるようになっていた。
両親が無事なこと、自分の実家が現存することが、どんなにうれしいことか。
この、当たり前のことが当たり前にある奇跡のありがたさを痛感した。
家は、津波も浸水も免れたが、3月11日と4月7日の地震で、被害は受けたがG.Wに帰省した弟が、壊れたり傷んだところをだいぶ直して、家具にも耐震金具を付けてくれていた。
午後から仙台で被災した、小学校教諭をしている友人と会い、当時の様子などを聞いた。
教員という職業柄、災害発生時ばかりでなく、その後の多種多様な対応など、実際に体験した人でないとわからないいろいろなことを聞いた。
夜、川開きの花火大会を見た。
昼間、石巻河北新聞社の震災写真集を見ていたので、石巻の町がどんなふうになっているのか本当に心配だった。
行ってみると、あちらこちらに津波の爪痕は生々しく残って入るものの、町は、メインストリートだけでなく、裏通りまで瓦礫もヘドロもきれいになくなっていた。
みんな、この川開きを目標に、一生懸命頑張って、街をきれいに片づけたんだなあと思うと、感謝と感動で涙が出た。
日和山の陰になって、瓦礫に吹きだまりになって、いまだに電気は通じず、最後まで片付かなかった地区の店のショーウインドーに
「ボランティアの皆さんへ
私たちの街をきれいにしてくださって、ありがとうございました。」
という貼り紙があった。
空は薄曇りで、心配された雨はなく、花火はきれいに見えた。
かのまたやのご主人の話では、花火大会開催についてはギリギリまで賛否両論あったということだ。
なんと言っても、大口スポンサーの漁協、商工会、造船所、製紙工場が甚大な津波の被害を受けているのだ。
「こんな時に、晴れるかどうかも分からないのに、花火に金を使うより、他に使うべきところがあるだろう」
「こんな時だからこそ、供養の花火大会をやって、石巻の再興への奮起を図るんだ!」
本来なら、今年は、石巻が全国花火大会の会場だったのだそうだ。
震災・津波の被害で、川開き花火大会の開催が危ぶまれているのを聞きつけた、全国8か所から、花火の寄贈があったのだそうだ。
長岡からは、石巻の会場に合わせた「ミニフェニックス」が寄贈されたそうだ。
本当にありがたいことだと思う。
来年は、ぜひとも全国花火大会の会場として、恩返しの花火がたくさん打ち上げられるように、一緒に頑張りましょう!
果たして、皆の願いを聞き届けてくれたように、当日は雨は降らず、美しい花火が中瀬から石巻上空に上がり、8月1日の夜空を彩った。
きっと、天国に昇ったたくさんの人たちも、空の上からきれいな花火を楽しんでくれたことだろう。
花火の映像はこちらをぜひご覧ください。
http://www.youtube.com/watch?v=MrCifbhwlEQ
8月2日(火)
朝から両親と妹と一緒に、渡波~女川、鹿妻、新漁港、湊地区、門脇、南浜町という、私たち一家が関わりのあった地区で、壊滅的な被害を受けた場所を車で回った。
行く途中、石巻女子商業高校の校庭に、信じられないほどの高さに積み上げられた瓦礫の山を見た。
松原町にあった父の実家は、土台と水道栓だけ残して、家の残骸すらも残っていなかった。
家の跡地には、どこからか漂着したわけのわからないよその家の残骸が砂に埋もれて散乱していた。
庭には、亡き叔母が娘時代に植えた薔薇の木が花の時期を終え、緑の葉を茂らせていた。
持って帰ることはできないので、持ってきた水をかけてあげた。
瓦礫と無人の半壊の家々が建ち並ぶ国道沿いに、1件だけ、きれいにして営業しているケーキ屋さんがあった。
それに感動して、その元気を分けてほしいというか、応援したくて立ち寄ったら、その店は、私が乳飲み子の時に母が働いていた製菓店だった。
自宅もまだ半壊状態なのだが、店の鉄骨だけは残ったので、ヘドロを出し、修理して、店を再開したのだと言う。
母は、その話に甚く感動していた。
女川は、まさに、壊滅状態だった。
土台ごとひっくり反された4階建てのビルや、1階に泥だらけの車が飛び込んだまま放置されていた。
かなりの高台にある町立病院の1階まで浸水したという津波の水位は、何メートルあるのだろう。
駅は跡形もなくなっていて、女川線の復旧は全く目度がつかないそうだ。
美しい漁業の町女川の、一日も早い復興と行方不明者の方々の安否確認ができますように…。
再び、渡波に戻り、海沿いを行くと、あの美しかった松林は、塩害で赤茶けていた。津波の直後は、松林のてっぺんまで、わけのわからないものが枝枝に引っかかって、もっと無残な姿だったらしい。
かつて東洋一を誇った石巻新漁港は、まともに津波の被害を被って、たくさんの人が仕事中に被害に遭い、犠牲になったと聞いた。
瓦礫と残骸の中で、全国の漁協から支援を受けて、立ち上がって元気に営業を再開しているブースがあって、逆にこちらが勇気づけられた。
新漁港から日和大橋を渡り、その橋上から石巻を見降ろすとその痛ましい姿に胸がえぐられるようだった。
かつて街並みがあったところは更地となり、その脇には残骸と瓦礫の山、津波でぐちゃぐちゃに潰された自動車が何台も積み上げられて壁のように道路脇に続いていた。
石巻パルプはいつから操業できるのだろう。
津波と火災で壊滅状態になった門脇地区は、電気が通じていないらしく、信号が点滅していないので、交差点では皆が譲り合って走行していた。
その日の家に帰るという妹を見送った後、専修大学のボランティアセンターに行って、9日~17日までのボランティア活動の申請をして来た。
夕方、両親と3人で映画を見た。
「ロック~わんこの島~」という、三宅島の大噴火の時の犬とその家族の話だった。
http://www.rock-wanko.com/
公開中の映画なので内容には触れないが、ぜひ、被災地の人たちに見てほしい、タイムリーな映画だと思った。