8月17日(水)
ボランティア活動最終日。
今日は、2か所で活動した。
前半は、大街道地区の民家のヘドロだし。
前回の泥出し作業をしたお宅のすぐ近所だった。
だが、こちらはまだ築5年の最新住宅。
一番の違いは、基礎工事だった。
前回の築30年の住宅は、ベタ基礎だったので、同じ床下のヘドロだしでも、水分は地面に吸い取られ、ヘドロだけが乾いた粘土質となって土の上に堆積していたので、その表層をすくい取ればよかった。奥の方まで丁寧に掻き出した後は、床下を洗浄する必要もなかった。
ところが、今回のお宅は、コンクリートで床下が固めてあり、湿った粘土質のヘドロを掻きだした後は、床下を洗浄しなくてはならないのだ。
その床下に溜まった洗浄水をポンプで汲み出しては、また洗い、また汲みだしては洗い、それが、一階部分でけっこう広い坪数あるのだ。
ヘドロは乾いてあれば、マスクをしていてさほど臭いは気にならないのだが、水分を含んだとたん、猛烈なにおいを発する。
その上、胡麻ペースト状というか、コールタール状の粘り気というか、油分を含んだベトつきがあり、洗剤を使っても、ブラシでこすっても、簡単には落ちない。
ガラスにこびりついたのは、洗剤やタワシより、新聞紙で強くこすった方が取れるのだが、ものすごい力がいる。
これでは、体力と時間の無駄と思い、薬局に換気扇用マジックリンを買いに行った。
それにしても、床上2m以上の浸水となってしまったこの地区の津波が、あんな真っ黒なべとついたヘドロが、この辺り一面を飲み込んだのかと思うと、本当に恐ろしい。
工業港のヘドロなんて、何年分の工場の廃液が堆積していたことか。
それにはどれほどの危険な化学物質が含まれていたことだろう?
2階に逃げて、溺れずに済んだ方は助かったが、平屋にいらして逃げ遅れた方はみなさん亡くなったらしい。
まして、場所によっては、木造家屋の2階建てでも、跡型もなく流されている。
こんな真っ黒なドロドロのヘドロの中を泳いで逃げた方はこの泥水をどれだけ飲み込んでしまったことだろう。
また、この地区は、日和山に続く道が渋滞し、それらの車が津波でドミノ倒しの駒のように前方エンジン部分を下に車が次々と押し流され、その車中でたくさんの方が無くなっている。
近くにはそのぐちゃぐちゃにつぶされた車が何台も積み重なって、まるで長い塀のようになって、ずっと続いているのだ。
依頼主の方と話したら、その方は、たまたま仕事でご自宅にはいらっしゃらず、命は助かったものの、築5年のローンはあと30年残ったうえに、これを直す費用は別に借りねばならず、2重ローンとなるそうだ。
震災後、家を直す気になったのはごく最近で、まずは、床上の瓦礫やヘドロ、壊れた家財道具などの撤去に1カ月もかかり、分厚いフローリング(床暖房!)をはがすには、大工さんに頼まねばならず、その順番待ちが長い!
やっと床をはがし終わって、ボランティアを要請できるまで2カ月かかったのだそうだ。
その時も、これまでも、今も大変だが、これからも二重ローンを抱え、女性一人では大変だと思う。ぜひ、お身体に気を付けて、頑張ってほしい。
男性は、水で戻ってべとべとの真っ黒なヘドロにまみれながら、床下の洗浄作業を中心に行い、女性は主に、庭先の乾いたヘドロのさらい出し、外壁やガラス窓(2重サッシ!)の汚れ落としをやっていたが、洗剤がないのと、蛇口が1か所しかないところに、人数が多すぎて、作業がはかどらないため、後半は、人数の半分は昨日の日和山清掃作業のつづきに回った。
日和山に着き、まずは、参拝して、今日の清掃場所の川村孫兵衛重吉爺の石像付近に向かおうとした時に、一人のおばあさんが、私に向かって歩いて来て、
「家まで送ってって」
とおっしゃった。
「おばあさん、どっから来たの?」
と聞くと、
「流留(ながる)。おじいさんも亡くなって、日和山に気晴らしに来たの。来る時はタクシーで来たんだげっと、あるがいね(歩くことができない)・・・。家まで送ってってけろ(ちょうだい)…。」
と、具合悪そうな顔で訴えてくる。
「おばあさん、ごめんね、私、今日、車で来てないんだ。どうしよう。」
と困っていたら、後ろから歩いて来た神奈川から来ているメンバーが、
「僕が送って行きますよ。」
と名乗り出てくれた。
でも、流留は渡波と女川の中間の万石浦の岸辺の町だ。ここから車で1時間半近くかかる。
「駅まで行けば、ディーゼルカーの代わりの女川行きの代行バスが出てるから、駅まで送って行ってあげて」
と言って、メンバーにおばあさんを託した。
しばらくたってもそのメンバーが戻らないまま、作業はどんどん進んで行った。
今日の場所は、石巻市街を一望に見渡すことができる絶好の撮影スポットだ。
私達石巻出身者の『原風景』ともいえる景色が広がる場所だ。
いつもなら、河口にたくさんの船が停泊し、造船工場の活気や、街のにぎわいが感じられる石巻のパワースポットだ。
桜の名所でもあり、夜景もとても美しい。
実際、今日のメンバーの中には、この場所で奥さんにプロポーズしたと言う人もいた。
あのおばあさんも、この場所にはおじいさんとの思い出がいっぱいあったんだろうなあ…と思っていたところへ、さっきのメンバーが帰ってきた。
「ずいぶん遅かったね。おばあさんは大丈夫だった?」
「それが、車に乗ってから、『本当は、死に場所を探してたの』って、言われて・・・。家まで送ろうと思ったんだけど、何を言ってるのかわからなくて・・・」
「で、どうしたの?」
「『女の川』って書くところまで送ってきました。」
「え~っ?!女川(おながわ)まで行ってきたの?!流留よりずっと先だよ?」
「そこの町立病院におばあさんの友達がいると言うので、そこまで送ってきました。あの、崖の上に立ってる病院」
「ご苦労様~。○○君、最大のボランティア活動だったね。お疲れ様~。」
センターに帰ってから、3月からずっとボランティア活動をしているNPOの方に、このことを話したところ、その方が、
「それ、まずいよ。一人にして置いて来たの」
と真剣な顔をしておっしゃった。
「自殺兆候のある人をボランティアが気がついたら、すぐに、ボランティアセンターに連絡するか連れて来て、常駐している臨床心理士に診てもらわなくちゃいけないんだ。」
と言われた。
知らなかったこととはいえ、そのおばあさんの名前も住所も知らず、連れて行ってくれた神奈川のボランティアの人ともさっき別れたばかりで、もう、どうすることもできない。
後は、そのおばあさんの無事と、生き残ったことを悔やむことなく、おじいさんの分まで幸せに長生きしようと前を向いて生きていってほしいと願うことしかない。
そう言えば、阪神から来て3月からずっと石巻でボランティア活動をしている人がこう話してくれていた。
「避難所にいた人が、仮設住宅に入ったとたん、自殺することが多いんだよね。
避難所暮らしは大変だけど、自分と同じ境遇の人同士、煩わしいことがあっても、挨拶ぐらいは交わしていた。
でも、仮設に入ったら、本当に誰とも口をきかず、独りぼっちだ。
隣からは、家族団欒の声が聞こえてくる。
この仮設住宅もいずれ出て行かなくてはくてはならない。
ここを出ても帰る家もない、家族もない、仕事もない。なぜ、自分だけ置き去りにされたのだろう。
その孤独に耐えかね、生き残ったことを悔いて、自ら命を絶ってしまう人が少なくない。
だから、俺たちは、『ひまわりゲリラ作戦』として、そういうおじいさん、おばあさんのところに、ヒマワリを植えに行くんだ。
最初は、
『お花植えさせてくださいな』
と言って、庭に、ヒマワリ*(ひまわり)*の種を植えさせてもらう。ヒマワリ*(ひまわり)*は塩害に強いから、津波の後の土でも元気に育つ。
今度は、毎日
『お水をやりに来ました。水かけさせてもらってもいいですか?』
と言って、通わせてもらっているうちに、顔見知りになり、話をするようになって、そのうち、心待ちにしてくださるようになる。
その頃には、何度も同じ話を聞かされるようになってくるので、新しくボランティアに来た人で、被災者の話を聞きたい人を連れて行き、話をしている間、お風呂を使わせていただくんだ。」
最初、
「お風呂はどうしているんですか?」
という私の質問に対しての答えだったのだが、石巻の街のあちこちにヒマワリ*(ひまわり)*が咲いている理由を初めて知った。
生育に差があるのは、ボランティアが入った順に植えているからなのだ。
阪神大震災の復興のシンボルのヒマワリ*(ひまわり)*の種は、石巻の各小中学校にも配られ、校庭に咲いている。
泥出しや、瓦礫、壊れた家財撤去も、街や寺社仏閣、公園の清掃も人の手が足りないくらいのお仕事だが、こういう、生き残った人たちへのきめ細かい心のケアも、『人』でなくてはできない大切なボランティアだと思う。
被災者である友人たちに何人か会ったが、皆、明るく元気だ。
被災した当時のことを、淡々と、時にユーモアを交えながら明るく話す。
でも、その笑顔の下に、どんなに辛く、厳しい惨状を目の当たりにし、絶望を乗り越え、過酷な現状を日々困難に立ち向かってきているのか、そして、どれだけの心の大怪我を負っているのかと思うと、胸がえぐられ、目頭が熱くなってくる。
ボランティアに来る前に、弟に言われた。
「姉ちゃん、被災した人たちの前で、メソメソすんなよ。みんな、泣きたくても泣かないで、泣いたってしょうもないと思って一所懸命やってるとこに、無事な所から来て無事な所に帰る人が話きいてメソメソされっと、イライラするだけだから。
でも、向こうから話してきたら、じっくり聞いてやって。」
そして、父にも言われた。
「どうしても泣きたくなったら、渡波の海に向かって泣けばいいさ」
こちらに帰って来てから、Cafeで知り合った方から教えてもらったサイトで見つけた歌を紹介します。
全ての被災者の方に贈ります。
http://www.youtube.com/watch?v=SkNSWbleLJ4
ボランティア活動最終日。
今日は、2か所で活動した。
前半は、大街道地区の民家のヘドロだし。
前回の泥出し作業をしたお宅のすぐ近所だった。
だが、こちらはまだ築5年の最新住宅。
一番の違いは、基礎工事だった。
前回の築30年の住宅は、ベタ基礎だったので、同じ床下のヘドロだしでも、水分は地面に吸い取られ、ヘドロだけが乾いた粘土質となって土の上に堆積していたので、その表層をすくい取ればよかった。奥の方まで丁寧に掻き出した後は、床下を洗浄する必要もなかった。
ところが、今回のお宅は、コンクリートで床下が固めてあり、湿った粘土質のヘドロを掻きだした後は、床下を洗浄しなくてはならないのだ。
その床下に溜まった洗浄水をポンプで汲み出しては、また洗い、また汲みだしては洗い、それが、一階部分でけっこう広い坪数あるのだ。
ヘドロは乾いてあれば、マスクをしていてさほど臭いは気にならないのだが、水分を含んだとたん、猛烈なにおいを発する。
その上、胡麻ペースト状というか、コールタール状の粘り気というか、油分を含んだベトつきがあり、洗剤を使っても、ブラシでこすっても、簡単には落ちない。
ガラスにこびりついたのは、洗剤やタワシより、新聞紙で強くこすった方が取れるのだが、ものすごい力がいる。
これでは、体力と時間の無駄と思い、薬局に換気扇用マジックリンを買いに行った。
それにしても、床上2m以上の浸水となってしまったこの地区の津波が、あんな真っ黒なべとついたヘドロが、この辺り一面を飲み込んだのかと思うと、本当に恐ろしい。
工業港のヘドロなんて、何年分の工場の廃液が堆積していたことか。
それにはどれほどの危険な化学物質が含まれていたことだろう?
2階に逃げて、溺れずに済んだ方は助かったが、平屋にいらして逃げ遅れた方はみなさん亡くなったらしい。
まして、場所によっては、木造家屋の2階建てでも、跡型もなく流されている。
こんな真っ黒なドロドロのヘドロの中を泳いで逃げた方はこの泥水をどれだけ飲み込んでしまったことだろう。
また、この地区は、日和山に続く道が渋滞し、それらの車が津波でドミノ倒しの駒のように前方エンジン部分を下に車が次々と押し流され、その車中でたくさんの方が無くなっている。
近くにはそのぐちゃぐちゃにつぶされた車が何台も積み重なって、まるで長い塀のようになって、ずっと続いているのだ。
依頼主の方と話したら、その方は、たまたま仕事でご自宅にはいらっしゃらず、命は助かったものの、築5年のローンはあと30年残ったうえに、これを直す費用は別に借りねばならず、2重ローンとなるそうだ。
震災後、家を直す気になったのはごく最近で、まずは、床上の瓦礫やヘドロ、壊れた家財道具などの撤去に1カ月もかかり、分厚いフローリング(床暖房!)をはがすには、大工さんに頼まねばならず、その順番待ちが長い!
やっと床をはがし終わって、ボランティアを要請できるまで2カ月かかったのだそうだ。
その時も、これまでも、今も大変だが、これからも二重ローンを抱え、女性一人では大変だと思う。ぜひ、お身体に気を付けて、頑張ってほしい。
男性は、水で戻ってべとべとの真っ黒なヘドロにまみれながら、床下の洗浄作業を中心に行い、女性は主に、庭先の乾いたヘドロのさらい出し、外壁やガラス窓(2重サッシ!)の汚れ落としをやっていたが、洗剤がないのと、蛇口が1か所しかないところに、人数が多すぎて、作業がはかどらないため、後半は、人数の半分は昨日の日和山清掃作業のつづきに回った。
日和山に着き、まずは、参拝して、今日の清掃場所の川村孫兵衛重吉爺の石像付近に向かおうとした時に、一人のおばあさんが、私に向かって歩いて来て、
「家まで送ってって」
とおっしゃった。
「おばあさん、どっから来たの?」
と聞くと、
「流留(ながる)。おじいさんも亡くなって、日和山に気晴らしに来たの。来る時はタクシーで来たんだげっと、あるがいね(歩くことができない)・・・。家まで送ってってけろ(ちょうだい)…。」
と、具合悪そうな顔で訴えてくる。
「おばあさん、ごめんね、私、今日、車で来てないんだ。どうしよう。」
と困っていたら、後ろから歩いて来た神奈川から来ているメンバーが、
「僕が送って行きますよ。」
と名乗り出てくれた。
でも、流留は渡波と女川の中間の万石浦の岸辺の町だ。ここから車で1時間半近くかかる。
「駅まで行けば、ディーゼルカーの代わりの女川行きの代行バスが出てるから、駅まで送って行ってあげて」
と言って、メンバーにおばあさんを託した。
しばらくたってもそのメンバーが戻らないまま、作業はどんどん進んで行った。
今日の場所は、石巻市街を一望に見渡すことができる絶好の撮影スポットだ。
私達石巻出身者の『原風景』ともいえる景色が広がる場所だ。
いつもなら、河口にたくさんの船が停泊し、造船工場の活気や、街のにぎわいが感じられる石巻のパワースポットだ。
桜の名所でもあり、夜景もとても美しい。
実際、今日のメンバーの中には、この場所で奥さんにプロポーズしたと言う人もいた。
あのおばあさんも、この場所にはおじいさんとの思い出がいっぱいあったんだろうなあ…と思っていたところへ、さっきのメンバーが帰ってきた。
「ずいぶん遅かったね。おばあさんは大丈夫だった?」
「それが、車に乗ってから、『本当は、死に場所を探してたの』って、言われて・・・。家まで送ろうと思ったんだけど、何を言ってるのかわからなくて・・・」
「で、どうしたの?」
「『女の川』って書くところまで送ってきました。」
「え~っ?!女川(おながわ)まで行ってきたの?!流留よりずっと先だよ?」
「そこの町立病院におばあさんの友達がいると言うので、そこまで送ってきました。あの、崖の上に立ってる病院」
「ご苦労様~。○○君、最大のボランティア活動だったね。お疲れ様~。」
センターに帰ってから、3月からずっとボランティア活動をしているNPOの方に、このことを話したところ、その方が、
「それ、まずいよ。一人にして置いて来たの」
と真剣な顔をしておっしゃった。
「自殺兆候のある人をボランティアが気がついたら、すぐに、ボランティアセンターに連絡するか連れて来て、常駐している臨床心理士に診てもらわなくちゃいけないんだ。」
と言われた。
知らなかったこととはいえ、そのおばあさんの名前も住所も知らず、連れて行ってくれた神奈川のボランティアの人ともさっき別れたばかりで、もう、どうすることもできない。
後は、そのおばあさんの無事と、生き残ったことを悔やむことなく、おじいさんの分まで幸せに長生きしようと前を向いて生きていってほしいと願うことしかない。
そう言えば、阪神から来て3月からずっと石巻でボランティア活動をしている人がこう話してくれていた。
「避難所にいた人が、仮設住宅に入ったとたん、自殺することが多いんだよね。
避難所暮らしは大変だけど、自分と同じ境遇の人同士、煩わしいことがあっても、挨拶ぐらいは交わしていた。
でも、仮設に入ったら、本当に誰とも口をきかず、独りぼっちだ。
隣からは、家族団欒の声が聞こえてくる。
この仮設住宅もいずれ出て行かなくてはくてはならない。
ここを出ても帰る家もない、家族もない、仕事もない。なぜ、自分だけ置き去りにされたのだろう。
その孤独に耐えかね、生き残ったことを悔いて、自ら命を絶ってしまう人が少なくない。
だから、俺たちは、『ひまわりゲリラ作戦』として、そういうおじいさん、おばあさんのところに、ヒマワリを植えに行くんだ。
最初は、
『お花植えさせてくださいな』
と言って、庭に、ヒマワリ*(ひまわり)*の種を植えさせてもらう。ヒマワリ*(ひまわり)*は塩害に強いから、津波の後の土でも元気に育つ。
今度は、毎日
『お水をやりに来ました。水かけさせてもらってもいいですか?』
と言って、通わせてもらっているうちに、顔見知りになり、話をするようになって、そのうち、心待ちにしてくださるようになる。
その頃には、何度も同じ話を聞かされるようになってくるので、新しくボランティアに来た人で、被災者の話を聞きたい人を連れて行き、話をしている間、お風呂を使わせていただくんだ。」
最初、
「お風呂はどうしているんですか?」
という私の質問に対しての答えだったのだが、石巻の街のあちこちにヒマワリ*(ひまわり)*が咲いている理由を初めて知った。
生育に差があるのは、ボランティアが入った順に植えているからなのだ。
阪神大震災の復興のシンボルのヒマワリ*(ひまわり)*の種は、石巻の各小中学校にも配られ、校庭に咲いている。
泥出しや、瓦礫、壊れた家財撤去も、街や寺社仏閣、公園の清掃も人の手が足りないくらいのお仕事だが、こういう、生き残った人たちへのきめ細かい心のケアも、『人』でなくてはできない大切なボランティアだと思う。
被災者である友人たちに何人か会ったが、皆、明るく元気だ。
被災した当時のことを、淡々と、時にユーモアを交えながら明るく話す。
でも、その笑顔の下に、どんなに辛く、厳しい惨状を目の当たりにし、絶望を乗り越え、過酷な現状を日々困難に立ち向かってきているのか、そして、どれだけの心の大怪我を負っているのかと思うと、胸がえぐられ、目頭が熱くなってくる。
ボランティアに来る前に、弟に言われた。
「姉ちゃん、被災した人たちの前で、メソメソすんなよ。みんな、泣きたくても泣かないで、泣いたってしょうもないと思って一所懸命やってるとこに、無事な所から来て無事な所に帰る人が話きいてメソメソされっと、イライラするだけだから。
でも、向こうから話してきたら、じっくり聞いてやって。」
そして、父にも言われた。
「どうしても泣きたくなったら、渡波の海に向かって泣けばいいさ」
こちらに帰って来てから、Cafeで知り合った方から教えてもらったサイトで見つけた歌を紹介します。
全ての被災者の方に贈ります。
http://www.youtube.com/watch?v=SkNSWbleLJ4