8月16日(火)
ボランティア活動をするために帰省して今日で一週間。
毎日が一期一会だ。
石巻を元気にするために、石巻の復興のために、どんな小さなことでもやってきたい一心で帰ってきた。
ところが、元気をもらうのはむしろ私の方で、こんな過酷な状況の中で、立ち上がろう、顔を上げよう、前に進もうとする故郷の人たちの姿に励まされ、また、日本中、世界中の人たちが石巻に駆けつけ、自腹を切り、手弁当で、本当に徹底的に片づけ、清掃をしてくださる気持ちに、ただただ感謝の気持ちでいっぱいだ。
はっきり言って、一銭にもならないことだ。鼻ももげそうな、息も詰まりそうなヘドロの匂いやべたつき、目をそむけたくなるようなあの日のままの惨状を、ただひたすらに、黙々と、てきぱきと瓦礫を片付け、泥出しをし、家を洗浄する。一日中ヘドロにまみれ、汗だくになって働いても、どこからもお金なんてもらえない。
なのに。
本当に、みんな、一生懸命なのだ。
徹底的にきれいにするのだ。
誰も文句も言わず、誰から命令されたわけでもなく、自分にできること、というか、自分がやりたいことをただひたすら、時間いっぱい一生懸命やるのだ。
ただ、それの報酬は、お金以上のものがある。
依頼主の笑顔と感謝の言葉だ。
そして、共に、ミッションを達成した仲間の笑顔と達成感だ。
この充実感は、どんなにお金を積んでも手に入れることはできない。
この、自分を突き動かすエネルギーはどこから来るのだろう?
休憩時間にボランティアのメンバーが互いに名乗り合う時、どこから来たのか、どんなきっかけや理由でボランティアをやろうと思ったのか、これは、どんな小説や道徳の教科書よりも胸を打つ。
来て良かった、参加して良かった!出会えて良かったと、心の底から思い、この縁と絆に感謝する。
さて、今日の活動場所は、日和山神社の境内の掃除だった。
私は、震災後まだ日和山には登っていなかった。
あの、石巻の中高生の卒業アルバムに必ず載る日和山からの眺めが、どう変わってしまったのか、自分の目で確かめるのが怖かったのかもしれない…。
案の定、日和山から見た日和大橋方面を望む景色も、中瀬を望む風景も、かつての風景を知っているだけに、この変貌してしまった北上川河口のあり様は、筆舌に尽くし難い。
メンバーの中に、津波直後の様子から現在の姿に至るまでを知っている人がいて、
「だいぶ片付いたんだよ」
というつぶやきに、どれほど大変な作業だったかを思い、そのご苦労とここまでにしてくださったボランティア精神に、心から敬意をはらいたい。
11時から、境内で、イタリアからコーラスグループが慰問に来て、奉納コンサートを開くと言うので、みんなで必死になって、草刈りをした。
出羽三山を奉納して歌ってまわっているというそのグループは、イタリア民謡だけでなく、『さくら』も歌ってくれて、桜の名所日和山にとって、何よりもの奉納曲だった。
また、そのグループは、イタリアと日本の国旗を刺しゅうしたユニフォームを、石巻各地の少年少女サッカーチームに寄付してくれたのだ。
チームを代表して来ていた子どもたちや保護者も大喜びだった。
社務所の裏で昼食を食べる時、千葉の教え子の梨園に注文して届いた梨をメンバーの皆さんに差し入れした。
夏バテ予防にはなんてったって、梨が一番だ。
みんな、喜んで食べてくれた。
午後からは、本格的に境内を掃除した。蜘蛛の巣を掃い、高床の下に堆積した落ち葉を描きだし、砂利の間から生えている雑草を抜き・・・。
30人を超すメンバーで、徹底的に掃除した。
明日初詣でも*(OK)*なぐらい*(キラキラ)*にした*(びっくり1)*
石巻にとって、日和山はシンボルであり、最大のパワースポットだと思う。
石巻に住んでいたって、この場所をこんなふうに掃除をするなんてできないことだ。
今日、ここでこのメンバーたちと境内を掃除したこと、はるばるイタリアから来てくださったフォークグループの生歌を聞けたことは、本当に得難い経験だった。
帰り道、来た時とは違う車に乗って帰ろうとしたら、静岡から来たという青年たちが、石巻でいまだに当時の惨状のままの場所を見たいと言ったので、3月からずっと活動をしてくださっている阪神出身の方が、案内をしてくださった。
地元出身の私は、そこがそんな惨状になる前の姿を知っているナビゲータ役だった。
もう、胸がえぐられるような見るも無残な廃墟を通り過ぎながら、『復興』という言葉の軽さと、その理想へのはるかな険しい道のりを思った。
その無尽蔵な困難の前では、自分たちのやっていることなんて、空しくなるほどちっぽけなことだ。
でも、どんなに小さなことだって、
「昨日よりはまし」
そうやって、できることを一つ一つやって行くしかない。
専修大学を出た時、自転車に乗ったボランティア帰りのような人に
「お疲れさまでした」
と声をかけた。
すると、その人は、私に近寄って来て、
「ボタンティアに個人で参加するにはどうしたらいいのですか?」
と聞いてきた。
ボランティアをしようと思って帰省したが、個人の受け入れがないと聞き、困っていたのだと言う。
実家は我が家の近くだというので一緒に帰りながら、手続きの取り方や、準備するものなどをアドバイスした。
家に帰る途中、すごい夕立に降られ、家で雨宿りをしてもらった。
その方は、現在、静岡県に住む石巻高校出身の人で、父の後輩にあたるのだが、今回、帰省して、石巻グランドホテルで友人といた時に、たまたま石高(鰐陵)同窓会会長(父の後輩)に声をかけられ、個人のボランティア活動は、専修大学のボランティアセンターでやっていることを教えて頂き、様子を見に来たところで、私に会ったということだった。
同窓生同士、父と話がはずんだ後、その人が帰った後、母が、その人の名字を聞いて、父が会長を務める絵の会のメンバーの息子さんでは?と話をしていたところ、果たして、そのご本人から電話がかかって来て、
「息子がお世話になりました。明日からのボランティアを一緒にさせていただけるようで、どうぞよろしくお願いいたします」
と言われた。
本当に、不思議な御縁だ。
ボランティア活動をするために帰省して今日で一週間。
毎日が一期一会だ。
石巻を元気にするために、石巻の復興のために、どんな小さなことでもやってきたい一心で帰ってきた。
ところが、元気をもらうのはむしろ私の方で、こんな過酷な状況の中で、立ち上がろう、顔を上げよう、前に進もうとする故郷の人たちの姿に励まされ、また、日本中、世界中の人たちが石巻に駆けつけ、自腹を切り、手弁当で、本当に徹底的に片づけ、清掃をしてくださる気持ちに、ただただ感謝の気持ちでいっぱいだ。
はっきり言って、一銭にもならないことだ。鼻ももげそうな、息も詰まりそうなヘドロの匂いやべたつき、目をそむけたくなるようなあの日のままの惨状を、ただひたすらに、黙々と、てきぱきと瓦礫を片付け、泥出しをし、家を洗浄する。一日中ヘドロにまみれ、汗だくになって働いても、どこからもお金なんてもらえない。
なのに。
本当に、みんな、一生懸命なのだ。
徹底的にきれいにするのだ。
誰も文句も言わず、誰から命令されたわけでもなく、自分にできること、というか、自分がやりたいことをただひたすら、時間いっぱい一生懸命やるのだ。
ただ、それの報酬は、お金以上のものがある。
依頼主の笑顔と感謝の言葉だ。
そして、共に、ミッションを達成した仲間の笑顔と達成感だ。
この充実感は、どんなにお金を積んでも手に入れることはできない。
この、自分を突き動かすエネルギーはどこから来るのだろう?
休憩時間にボランティアのメンバーが互いに名乗り合う時、どこから来たのか、どんなきっかけや理由でボランティアをやろうと思ったのか、これは、どんな小説や道徳の教科書よりも胸を打つ。
来て良かった、参加して良かった!出会えて良かったと、心の底から思い、この縁と絆に感謝する。
さて、今日の活動場所は、日和山神社の境内の掃除だった。
私は、震災後まだ日和山には登っていなかった。
あの、石巻の中高生の卒業アルバムに必ず載る日和山からの眺めが、どう変わってしまったのか、自分の目で確かめるのが怖かったのかもしれない…。
案の定、日和山から見た日和大橋方面を望む景色も、中瀬を望む風景も、かつての風景を知っているだけに、この変貌してしまった北上川河口のあり様は、筆舌に尽くし難い。
メンバーの中に、津波直後の様子から現在の姿に至るまでを知っている人がいて、
「だいぶ片付いたんだよ」
というつぶやきに、どれほど大変な作業だったかを思い、そのご苦労とここまでにしてくださったボランティア精神に、心から敬意をはらいたい。
11時から、境内で、イタリアからコーラスグループが慰問に来て、奉納コンサートを開くと言うので、みんなで必死になって、草刈りをした。
出羽三山を奉納して歌ってまわっているというそのグループは、イタリア民謡だけでなく、『さくら』も歌ってくれて、桜の名所日和山にとって、何よりもの奉納曲だった。
また、そのグループは、イタリアと日本の国旗を刺しゅうしたユニフォームを、石巻各地の少年少女サッカーチームに寄付してくれたのだ。
チームを代表して来ていた子どもたちや保護者も大喜びだった。
社務所の裏で昼食を食べる時、千葉の教え子の梨園に注文して届いた梨をメンバーの皆さんに差し入れした。
夏バテ予防にはなんてったって、梨が一番だ。
みんな、喜んで食べてくれた。
午後からは、本格的に境内を掃除した。蜘蛛の巣を掃い、高床の下に堆積した落ち葉を描きだし、砂利の間から生えている雑草を抜き・・・。
30人を超すメンバーで、徹底的に掃除した。
明日初詣でも*(OK)*なぐらい*(キラキラ)*にした*(びっくり1)*
石巻にとって、日和山はシンボルであり、最大のパワースポットだと思う。
石巻に住んでいたって、この場所をこんなふうに掃除をするなんてできないことだ。
今日、ここでこのメンバーたちと境内を掃除したこと、はるばるイタリアから来てくださったフォークグループの生歌を聞けたことは、本当に得難い経験だった。
帰り道、来た時とは違う車に乗って帰ろうとしたら、静岡から来たという青年たちが、石巻でいまだに当時の惨状のままの場所を見たいと言ったので、3月からずっと活動をしてくださっている阪神出身の方が、案内をしてくださった。
地元出身の私は、そこがそんな惨状になる前の姿を知っているナビゲータ役だった。
もう、胸がえぐられるような見るも無残な廃墟を通り過ぎながら、『復興』という言葉の軽さと、その理想へのはるかな険しい道のりを思った。
その無尽蔵な困難の前では、自分たちのやっていることなんて、空しくなるほどちっぽけなことだ。
でも、どんなに小さなことだって、
「昨日よりはまし」
そうやって、できることを一つ一つやって行くしかない。
専修大学を出た時、自転車に乗ったボランティア帰りのような人に
「お疲れさまでした」
と声をかけた。
すると、その人は、私に近寄って来て、
「ボタンティアに個人で参加するにはどうしたらいいのですか?」
と聞いてきた。
ボランティアをしようと思って帰省したが、個人の受け入れがないと聞き、困っていたのだと言う。
実家は我が家の近くだというので一緒に帰りながら、手続きの取り方や、準備するものなどをアドバイスした。
家に帰る途中、すごい夕立に降られ、家で雨宿りをしてもらった。
その方は、現在、静岡県に住む石巻高校出身の人で、父の後輩にあたるのだが、今回、帰省して、石巻グランドホテルで友人といた時に、たまたま石高(鰐陵)同窓会会長(父の後輩)に声をかけられ、個人のボランティア活動は、専修大学のボランティアセンターでやっていることを教えて頂き、様子を見に来たところで、私に会ったということだった。
同窓生同士、父と話がはずんだ後、その人が帰った後、母が、その人の名字を聞いて、父が会長を務める絵の会のメンバーの息子さんでは?と話をしていたところ、果たして、そのご本人から電話がかかって来て、
「息子がお世話になりました。明日からのボランティアを一緒にさせていただけるようで、どうぞよろしくお願いいたします」
と言われた。
本当に、不思議な御縁だ。