8月11日(木)
今日で、東日本大震災から5カ月目を迎える。
私は、その時刻、午後2時46分を被災地石巻市渡波で迎えた。
何故か私は、その時間に「黙祷」の号令をかけることになった。
リーダーが、私が小4までこの地域に住んでいて、当時住んでいた父の実家が津波で土台ごと流されたことを知っての配慮だった。
今日のボランティア活動は、渡波新沼地区の泥出しと家屋の洗浄だった。
総勢20名ほどで床下のヘドロ(この地域は工業港ではないので、さほど匂いはなかった)を出し、傾いたテラスハウスを直して、きれいに拭きあげた。
私は前半は、次々に出る床板や壁板をはがした瓦礫を通りのゴミ置き場まで運ぶ役目だったのだが、気温35℃を超える猛暑の中は、きつかった。
後半は、台所、洗面所、お風呂場と言った水回りの磨き方だった。
特にお風呂場は、4年前にリフォームしたばかりということもあって、入った時は、泥だらけだったが、磨き上げるとピカピカになった。
壁に残る浸水の縞模様を消しながら、カビもシミもない天井を見て、この家の人がどれだけ大事にこのお風呂場を使っていたかがうかがわれた。
休憩時間に、この家のおばあさんが、アイスコーヒーを差し入れてくださった。
津波当時は首まで水に浸かってしまい、先日まで入院していたそうだ。
2回めの休憩時間には、お腹の大きなお嫁さんがスイカの差し入れをしてくれた。9月に2人が目生まれるのだと言う。
家の中から瓦礫を撤去する時に、勝手口付近の泥を瓦礫を取り除いていたら、三つ葉が生えていた。
モンゴルの留学生が
「そこ気を付けて」
と言った。
また、家の中を洗浄し終わった後、外回りを片付ける時も、テラスに飛び散ったガラスの破片を、砂利石をよけながら、一つ一つ丁寧に拾っていた。
「もうすぐ赤ちゃん生まれます。小さなお兄ちゃんもいる。安心して庭で遊ばせたい。」
思わずじわっと来て、時間いっぱいまで一緒にガラスを拾った。
最初に片付けたテラスハウスに、この家のおじいさんとご近所のお友達がいて、私たちの作業を見守っていた。
おじいさんは、目が不自由で、津波がきた時は二階にいて逃げられなかったそうだ。
「ボランティアさんの働きぶりには本当に感心する。私は、目がこんなだから、何にもできないのに、こんなに一生懸命やってくださって、感謝します」
と深々と頭を下げてくださった。
たしかに今日の作業は、徹底していた。
高圧洗浄機で、床、壁、扉、窓にこびりついた泥を落とし、雑巾で拭き上げ、磨き上げ、終わった頃には、後、床を貼り、畳を敷き、襖を入れればすぐにでも生活できそうなくらいだった。
ここまで徹底的にやると、ものすごい達成感がある。
終了時間を1時間もオーバーして機材を片付け終わった後、息子さんが仕事から帰ってきた。
ご家族揃ってお礼を行ってくださった時に、
「あの時も、今も、これからも大変でしょうが、新しい家族を迎えて、みなさんで頑張ってください。」
と言ったら、目にいっぱい涙を浮かべていらした。
休憩中に、ご近所の方とも話をした。
渡波小学校に避難する車が渋滞する中、逆走して祝田地区に逃げ、助かったという奥さんは、万石橋を渡る時、頭のはるか上を波とその上には船が見えたと言う。無我夢中で橋を走り抜けたと言う。
私が子どもの頃、祝田の友達の家に行く時、いつも渡っていた橋だ。あの橋を飲み込む波って・・・・。鳥肌が立った。
また、すごい偶然があった。
なんと、現勤務校の保護者の方が、ボランティア活動にいらしていたのだ。
ドーベルマンを連れていらしたその方は石巻とは縁もゆかりもないそうなのに、震災直後から石巻に来て、瓦礫や遺体で足の踏み場もなく、車も通れない頃から活動されているとのことだった。
その犬の飼い主かと思えるほど仲の良い中学生とも話をした。
彼は、私も2,3歳の頃住んでいた南浜町の家が流され、今はアパートで暮らしているとのことだった。
その日の午前中は卒業式で、津波の時間は友達と遊んでいたので、家からは何も持ち出せなかった。
小学校は津波でぶつかった船からの重油に火がついて燃え、中学校は避難所となり、バスケット部だが、ずっと部活動はできなかった。先日の中学校総合体育大会はボロ負け。
訥々と語る彼の顔は、口元は笑みを作っていたが、目は一点を見つめ、何かをあきらめたような、耐えているような、悲しい色をしていた。
「大変だったね。生きていてくれてありがとう。石巻はきっと復活するよ。みんなで助けに来るよ。一人じゃないからね。
来年、最後の中総体、今年の分まで頑張って!『諦めたら、そこで試合終了ですよ。』」
と言ったら、初めて笑ってくれた。
そこに、ボランティアメンバーから、
「そこは『先生、バスケがしたいです~』じゃないすか?」
と突っ込みが入り、そこからしばらく『スラムダンク』の話で盛り上がった。
その話を、千葉の梨園の教え子に、梨の注文のFAXに書いて送った。
「今、普通にバスケができると言う当たり前の幸せに、感謝だね。受験、頑張って!」
ところで、長女は、友達のお父さんに連れられて、3人で女川に行き、『高政』というかまぼこ工場、避難所、小学校を慰問し、石巻市役所にも行って、職員の皆さんを激励してきたそうだ。
長女の友達は、津波に遭う前の女川に行ったことがなかったのをとても残念がっていた。
私が高校生時代好きだった人が女川の人だという話を、大きな眼でじっと見つめながら、熱心に聞いてくれた。
その人の家は湾のすぐそばだったから流されただろうし、本人とは22歳の時に偶然会って以来、消息はしらず、Googleで尋ね人検索をしても情報は得られなかったことをいうと、大きな眼はウルウルしていた。
明日、仕事やバイトがあると言う娘たちは、夜行*(バス)*で東京に帰って行った。
帰り際、
「またボランティアに来たいです!」
と言ってくれたのが、本当にうれしかった。
是非、ここ↓にアクセスしてください!ダウンロードしてくださると、義援金として寄付されるそうです。
http://www.youtube.com/watch?v=2hZn7upG_nA
今日で、東日本大震災から5カ月目を迎える。
私は、その時刻、午後2時46分を被災地石巻市渡波で迎えた。
何故か私は、その時間に「黙祷」の号令をかけることになった。
リーダーが、私が小4までこの地域に住んでいて、当時住んでいた父の実家が津波で土台ごと流されたことを知っての配慮だった。
今日のボランティア活動は、渡波新沼地区の泥出しと家屋の洗浄だった。
総勢20名ほどで床下のヘドロ(この地域は工業港ではないので、さほど匂いはなかった)を出し、傾いたテラスハウスを直して、きれいに拭きあげた。
私は前半は、次々に出る床板や壁板をはがした瓦礫を通りのゴミ置き場まで運ぶ役目だったのだが、気温35℃を超える猛暑の中は、きつかった。
後半は、台所、洗面所、お風呂場と言った水回りの磨き方だった。
特にお風呂場は、4年前にリフォームしたばかりということもあって、入った時は、泥だらけだったが、磨き上げるとピカピカになった。
壁に残る浸水の縞模様を消しながら、カビもシミもない天井を見て、この家の人がどれだけ大事にこのお風呂場を使っていたかがうかがわれた。
休憩時間に、この家のおばあさんが、アイスコーヒーを差し入れてくださった。
津波当時は首まで水に浸かってしまい、先日まで入院していたそうだ。
2回めの休憩時間には、お腹の大きなお嫁さんがスイカの差し入れをしてくれた。9月に2人が目生まれるのだと言う。
家の中から瓦礫を撤去する時に、勝手口付近の泥を瓦礫を取り除いていたら、三つ葉が生えていた。
モンゴルの留学生が
「そこ気を付けて」
と言った。
また、家の中を洗浄し終わった後、外回りを片付ける時も、テラスに飛び散ったガラスの破片を、砂利石をよけながら、一つ一つ丁寧に拾っていた。
「もうすぐ赤ちゃん生まれます。小さなお兄ちゃんもいる。安心して庭で遊ばせたい。」
思わずじわっと来て、時間いっぱいまで一緒にガラスを拾った。
最初に片付けたテラスハウスに、この家のおじいさんとご近所のお友達がいて、私たちの作業を見守っていた。
おじいさんは、目が不自由で、津波がきた時は二階にいて逃げられなかったそうだ。
「ボランティアさんの働きぶりには本当に感心する。私は、目がこんなだから、何にもできないのに、こんなに一生懸命やってくださって、感謝します」
と深々と頭を下げてくださった。
たしかに今日の作業は、徹底していた。
高圧洗浄機で、床、壁、扉、窓にこびりついた泥を落とし、雑巾で拭き上げ、磨き上げ、終わった頃には、後、床を貼り、畳を敷き、襖を入れればすぐにでも生活できそうなくらいだった。
ここまで徹底的にやると、ものすごい達成感がある。
終了時間を1時間もオーバーして機材を片付け終わった後、息子さんが仕事から帰ってきた。
ご家族揃ってお礼を行ってくださった時に、
「あの時も、今も、これからも大変でしょうが、新しい家族を迎えて、みなさんで頑張ってください。」
と言ったら、目にいっぱい涙を浮かべていらした。
休憩中に、ご近所の方とも話をした。
渡波小学校に避難する車が渋滞する中、逆走して祝田地区に逃げ、助かったという奥さんは、万石橋を渡る時、頭のはるか上を波とその上には船が見えたと言う。無我夢中で橋を走り抜けたと言う。
私が子どもの頃、祝田の友達の家に行く時、いつも渡っていた橋だ。あの橋を飲み込む波って・・・・。鳥肌が立った。
また、すごい偶然があった。
なんと、現勤務校の保護者の方が、ボランティア活動にいらしていたのだ。
ドーベルマンを連れていらしたその方は石巻とは縁もゆかりもないそうなのに、震災直後から石巻に来て、瓦礫や遺体で足の踏み場もなく、車も通れない頃から活動されているとのことだった。
その犬の飼い主かと思えるほど仲の良い中学生とも話をした。
彼は、私も2,3歳の頃住んでいた南浜町の家が流され、今はアパートで暮らしているとのことだった。
その日の午前中は卒業式で、津波の時間は友達と遊んでいたので、家からは何も持ち出せなかった。
小学校は津波でぶつかった船からの重油に火がついて燃え、中学校は避難所となり、バスケット部だが、ずっと部活動はできなかった。先日の中学校総合体育大会はボロ負け。
訥々と語る彼の顔は、口元は笑みを作っていたが、目は一点を見つめ、何かをあきらめたような、耐えているような、悲しい色をしていた。
「大変だったね。生きていてくれてありがとう。石巻はきっと復活するよ。みんなで助けに来るよ。一人じゃないからね。
来年、最後の中総体、今年の分まで頑張って!『諦めたら、そこで試合終了ですよ。』」
と言ったら、初めて笑ってくれた。
そこに、ボランティアメンバーから、
「そこは『先生、バスケがしたいです~』じゃないすか?」
と突っ込みが入り、そこからしばらく『スラムダンク』の話で盛り上がった。
その話を、千葉の梨園の教え子に、梨の注文のFAXに書いて送った。
「今、普通にバスケができると言う当たり前の幸せに、感謝だね。受験、頑張って!」
ところで、長女は、友達のお父さんに連れられて、3人で女川に行き、『高政』というかまぼこ工場、避難所、小学校を慰問し、石巻市役所にも行って、職員の皆さんを激励してきたそうだ。
長女の友達は、津波に遭う前の女川に行ったことがなかったのをとても残念がっていた。
私が高校生時代好きだった人が女川の人だという話を、大きな眼でじっと見つめながら、熱心に聞いてくれた。
その人の家は湾のすぐそばだったから流されただろうし、本人とは22歳の時に偶然会って以来、消息はしらず、Googleで尋ね人検索をしても情報は得られなかったことをいうと、大きな眼はウルウルしていた。
明日、仕事やバイトがあると言う娘たちは、夜行*(バス)*で東京に帰って行った。
帰り際、
「またボランティアに来たいです!」
と言ってくれたのが、本当にうれしかった。
是非、ここ↓にアクセスしてください!ダウンロードしてくださると、義援金として寄付されるそうです。
http://www.youtube.com/watch?v=2hZn7upG_nA