今、教育現場では度重なる教員の不祥事について、全国展開で意識改革が行われている。
千葉県でも、昨年は事例報告と職場への呼びかけ程度だったのが、今年度は、各校で全職員のレポート提出と校長面接という取り組みがなされている。
この夏休み、私もレポート提出に向けて思いつくまま書いてみた。
実際はこの内容を更に半分ぐらいのページ数に要約して提出するのだが、今回、原文のまま自分のHPにアップしてみようと思う。
この内容を読んで、何かご意見を伺えれば幸いに存じます。結構長い文章ですが、しばしお付き合い下さい。
テーマ「職場の不祥事根絶に向けて思うこと」
ア.職場全体及び職員個々のモラルアップにために、日ごろ考えていること、必要だと考えていること
結論から言えば、どんなに、守るべきモラルを並べ上げ、違反した場合の罰則を提示し、実際に違反した場合、見せしめの処罰を与えて見せても『根本的な問題』を解決せずして、『不祥事』を根絶することはありえないと思っている。
『不祥事根絶』の核になるのは、かつてクラーク博士が言った『紳士たれ』にならい、『教育者たれ』という言葉に立ち返ることだと思う。
まずは、自分が教師を目指そうと思った初心に帰る。生徒の前に立つ時、どういう人間でありたいと思ったかを思い返すことが大切だと思う。
教師を目指した動機は、人それぞれであろうし、各自、教育や自分の教科に対しての意識については『温度差』というものがあるとは思う。しかし、生徒を前にして、自分は『尊敬される教師』であり、『人生の先輩』でありたいという理想は誰でも共通に抱いて教職に就いたはずだ。
それがいつの間にか当初の情熱を失い、楽を求め、保身を気にして、激務に追われているうちに、理想とは違う現実に流されてはいないか。
モラルに欠ける言動、精神的に余裕のない心理状態や、慣れや怠惰から来る慢心は、集中力にも思いやりにも欠け、心無い言葉が口をついて出たり、自分自身への甘さから、小さなミスを繰り返し、それが大きなミスを生みかねない。
教育者、社会人としての『理想』と『初心』を忘れぬ努力を貫くことができないことを、自分自身の弱さではなく、周りに責任転嫁していること、その背景こそが『不祥事の根本的問題』だと私は考える。
イ. 職務や人間関係について日ごろ不安に思っていること、心配していること、自分の考えていることについて
『不祥事』を起こす人は、自分本位のあまり、自分のその後についても、相手だけでなく自分の家族の迷惑、学校にかける迷惑までシュミレーションができないのだろう。そういう意味では、事例と具体的な処分を公表するのは効果的かもしれない。が、その人に愛校心や同僚への仲間意識、家族への愛情が欠けている場合はあまり効果がないかもしれない。
教師だって、人間だ。家庭を持っていたり、いろいろなしがらみや責任を背負っている人もいる。うかつに同業の人に相談できない事情を抱えていたり、そういう状況にいる人もいる。
同じ学校の教員同士の信頼関係、チームワークが取れていなくて、どうして生徒達にその大切さを指導することができるのだろう。
私自身も、人間関係やその学校での自分の教科の位置づけに悩み、疑問を持ち、激しく自信を失った経験がある。
不祥事を起こしてしまった教師は、その辺に問題はなかったのだろうか。
教科で、学年で、学校で、職員室で、『孤立』していたり、『ホウ・レン・ソウ(報告/連絡/相談)』したくてもできないでひとりで抱え込んでしまったり、助けて欲しくてもSOSを受けてもらえるような人間関係がなかったのではないか?
周りであの人はおかしいと思われていても、誰からも指摘してもらえたり、心配や励ましの声をかけてもらっていなかったのではないだろうか。
逆に、プライドが高すぎて、また、自分の年齢やキャリアを過信したり、立場をかさに着たり、傲慢なせいで、周りから敬遠されてはいなかっただろうか。
教員は子どもの前に立つときは、『聖職者』で無ければならない。
そのためにも、教員にも学校カウンセラーが必要だと思う。
あまりにも煩雑な校務分掌や、難しい学級運営、困難な事情を抱えている生徒やその保護者を担当することへのストレスは、精神も身体をも蝕んでいく。
心や身体が悲鳴を上げている。その信号を見逃さず、ストレスを軽減したり、マイナス思考を良い方向に転換するためにも、健康診断と同じように、早い段階で心の健康診断や相談を定期的に行うことを提案したいと思う。
ウ.不祥事を防止するために、職場環境のみならず、自分自身や同僚の言動で気になることや改善すべきことなどについて
暴力には体罰のほかにも、言葉による暴力と、『無視』という暴力もあると思う。
身体だけでなく、人の心を傷つける行為は全て暴力であり、人として許されない行為であると思う。
それは生徒間のみならず、生徒対教師、また、教育現場に限らずだが、同僚同士間でもあるのは情けない限りだ。
『道徳』や『いじめ問題』について教える立場にある人間が、生徒や同僚をいじめている現状があるのは甚だ情けない。
子どもは敏感だ。本気で向き合ってくれる先生と、義務や馴れ合いで自分に接する先生は本能で分かる。
そういう生徒に対して、子どもだからといって、騙したり、欲求不満のはけ口にしたり、利用したりというのは、その生徒にとって、どれだけの心の傷を与えるかを思い知って欲しい。
不用意な言葉や、行き過ぎた指導は、生徒自身が反省すべき点や欠点を改善し、苦しみの乗り越え方を模索するというよりも、恐怖や憎悪や挫折感しか残らない指導であって、もはや『指導』ではなく、『いじめ』でしかない。
まして、教師という立場を利用した性的不祥事は人の道にあらず。被害にあった子どもには生涯消えない心の傷が残る。
性犯罪者は罪を繰り返すという。それは性癖というよりはそういう心の病を持った人間なのだ。そういう人間には、生徒には絶対に関わらないで欲しい。
エ.自分がモラルアップのために実践していることについて
人の一生は、『出逢い』によって決まる瞬間があると思う。
『一期一会』の精神こそが、教育の原点だと思う。
その生徒と向き合えるのは、そのときだけなのだ。翌年、同じ教室、同じ学年で、同じ単元を教えたとしても、全く違う個性、顔を持った生徒たちなのだ。
今教えたことが、分からない生徒、分かる生徒、ずいぶん経ってから、『あのときのことはこういうことだったのか』と分かる生徒、それぞれだと思う。
切り捨てないで、諦めないで、可能性を信じて、自分にできる精一杯で向き合ってあげること。そういう姿勢で生徒に向き合っている。
期間ではない、共有できる時間の『濃さ』だと思う。
私は講師なので、同じ学校での『来年』はない。だからこそ、1日1日を大切に過ごし、一回一回の授業を全身全霊で展開している。
『生涯、美術を愛好する人間』を育成することが私たち義務教育の美術教師の使命である。『記憶に残る授業』を目指して、教材研究と指導に励みたい。
また、学校生活においても、生徒指導の反面、潤いと生徒がホッとできる居場所作りができればと思っている。
その気持ちを常に忘れないよう、生徒の前に正々堂々と立ちたい。
そして、心に傷を負っている子や、認められたいと努力している生徒の信号を見逃すことのないよう、常に心のアンテナを張り巡らし、精神的に余裕のある教師を目指したい。
実践例として、この夏大きなヒントを得ることができた。
トイレ掃除だ。不浄の場を磨くことで、自分自身と向き合うだけでなく、生徒に対して『率先垂範』ができる。生徒に『やらせる』のではなく、生徒を『やる気にさせる』言葉かけを学んだ。自分を磨き、自分の邪な心を無くす、貴重な実践だと思う。
終わりに。
私は、今の時代、教育現場に立つべき人は、品行方正、成績優秀、一度も挫折 したことのない優等生、恵まれた家庭環境の人だけでなく、むしろその逆の人生を歩み、弱い自分と向き合い、社会と戦い、乗り越えてきた人、弱者や『軌道』から落ちこぼれた立場の人の心の痛みや実情を知っている人にこそ、教育現場に立って欲しいと思っている。
私自身、生徒・学生だった時代もあり、保護者・PTA役員として学校で活動したこともあり、現在、非常勤講師として教育現場に立ってみて、だからこそ見えてきたり、分かってきたことがたくさんある。
また、これから教職を目指す人には、本採用試験を受ける前に、いろいろな社会経験を積んできて欲しい。できればサポート校的な現場で、講師経験を積むとか。
教育現場以外の職場体験があれば、生徒達の職場体験学習や進路指導の際に役立つネットワークができたり、さまざまな視点から生徒の相談にも乗れるし、いろいろな職場のプロのノウハウを教育現場に生かすこともできると思う。
教科書で学んだことやマニュアルは、参考程度にしかならない。実践経験と臨機応変できる柔らかい心、初心を貫く固い決意で採用試験に臨んで欲しい。
管理事務所の方へ。教職免許を持ちながら、多方面でのさまざまな職業経験を持つ人を広く採用して欲しい。採用試験の年齢制限などは廃止し、門戸を開いて欲しい。そして、 現職の教師も一緒に、『適性検査』『道徳観』『意欲』という点に重点を置いた採用試験、更新試験をするべきであると思う。
さらに、できれば、過ちを犯してしまった人間には、それで教師人生が終わってしまうような、それまでの、また、それ以外の面での努力と功績が無に帰してしまい、人間的に全否定させてしまうことのないような措置を講じて欲しい。(本人にとって転職したほうが最良であれば別だが) 『失敗から学んだこと』、『挫折から立ち直ること』それらを身をもって体験し、それを子ども達に伝えることも、教育の一環であると思う。
たとえどん底からでも、『いつもここから。人生七転び八起き』の精神で、たくましく生きる力を教えられる教師として復活、継続できるような、フォロー体制を望む。
子どもは国の宝。その大事な宝を預かり、けして二度と戦への道を歩ませることなく、人として生きる道を説くには、それなりの経験と智恵と愛情と責任感が無ければならない。その自覚を持てる人間こそが次代を担う子ども達の前に立てると思う。
そういう人間に私はなりたい。
そして。私は今、忙しくもとても充実した毎日を送っていることに感謝する。
仲間に恵まれ、生徒達もかわいく、家族も応援してくれている。
少ない時数を最大限に生かして指導できるような配慮、私の指導内容や目標に対しての理解と支援と評価が更に意欲と達成感をますことができる。
私は、この学校のために、仲間のために、生徒達のために、家族のために、精一杯頑張ろうと思う。
ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。お疲れ様でした。
できましたら、簡単で結構ですので、ご意見ご感想をいただければ幸いに存じます。
9月7日提出までに推敲する参考にさせていただきたいと存じます。
千葉県でも、昨年は事例報告と職場への呼びかけ程度だったのが、今年度は、各校で全職員のレポート提出と校長面接という取り組みがなされている。
この夏休み、私もレポート提出に向けて思いつくまま書いてみた。
実際はこの内容を更に半分ぐらいのページ数に要約して提出するのだが、今回、原文のまま自分のHPにアップしてみようと思う。
この内容を読んで、何かご意見を伺えれば幸いに存じます。結構長い文章ですが、しばしお付き合い下さい。
テーマ「職場の不祥事根絶に向けて思うこと」
ア.職場全体及び職員個々のモラルアップにために、日ごろ考えていること、必要だと考えていること
結論から言えば、どんなに、守るべきモラルを並べ上げ、違反した場合の罰則を提示し、実際に違反した場合、見せしめの処罰を与えて見せても『根本的な問題』を解決せずして、『不祥事』を根絶することはありえないと思っている。
『不祥事根絶』の核になるのは、かつてクラーク博士が言った『紳士たれ』にならい、『教育者たれ』という言葉に立ち返ることだと思う。
まずは、自分が教師を目指そうと思った初心に帰る。生徒の前に立つ時、どういう人間でありたいと思ったかを思い返すことが大切だと思う。
教師を目指した動機は、人それぞれであろうし、各自、教育や自分の教科に対しての意識については『温度差』というものがあるとは思う。しかし、生徒を前にして、自分は『尊敬される教師』であり、『人生の先輩』でありたいという理想は誰でも共通に抱いて教職に就いたはずだ。
それがいつの間にか当初の情熱を失い、楽を求め、保身を気にして、激務に追われているうちに、理想とは違う現実に流されてはいないか。
モラルに欠ける言動、精神的に余裕のない心理状態や、慣れや怠惰から来る慢心は、集中力にも思いやりにも欠け、心無い言葉が口をついて出たり、自分自身への甘さから、小さなミスを繰り返し、それが大きなミスを生みかねない。
教育者、社会人としての『理想』と『初心』を忘れぬ努力を貫くことができないことを、自分自身の弱さではなく、周りに責任転嫁していること、その背景こそが『不祥事の根本的問題』だと私は考える。
イ. 職務や人間関係について日ごろ不安に思っていること、心配していること、自分の考えていることについて
『不祥事』を起こす人は、自分本位のあまり、自分のその後についても、相手だけでなく自分の家族の迷惑、学校にかける迷惑までシュミレーションができないのだろう。そういう意味では、事例と具体的な処分を公表するのは効果的かもしれない。が、その人に愛校心や同僚への仲間意識、家族への愛情が欠けている場合はあまり効果がないかもしれない。
教師だって、人間だ。家庭を持っていたり、いろいろなしがらみや責任を背負っている人もいる。うかつに同業の人に相談できない事情を抱えていたり、そういう状況にいる人もいる。
同じ学校の教員同士の信頼関係、チームワークが取れていなくて、どうして生徒達にその大切さを指導することができるのだろう。
私自身も、人間関係やその学校での自分の教科の位置づけに悩み、疑問を持ち、激しく自信を失った経験がある。
不祥事を起こしてしまった教師は、その辺に問題はなかったのだろうか。
教科で、学年で、学校で、職員室で、『孤立』していたり、『ホウ・レン・ソウ(報告/連絡/相談)』したくてもできないでひとりで抱え込んでしまったり、助けて欲しくてもSOSを受けてもらえるような人間関係がなかったのではないか?
周りであの人はおかしいと思われていても、誰からも指摘してもらえたり、心配や励ましの声をかけてもらっていなかったのではないだろうか。
逆に、プライドが高すぎて、また、自分の年齢やキャリアを過信したり、立場をかさに着たり、傲慢なせいで、周りから敬遠されてはいなかっただろうか。
教員は子どもの前に立つときは、『聖職者』で無ければならない。
そのためにも、教員にも学校カウンセラーが必要だと思う。
あまりにも煩雑な校務分掌や、難しい学級運営、困難な事情を抱えている生徒やその保護者を担当することへのストレスは、精神も身体をも蝕んでいく。
心や身体が悲鳴を上げている。その信号を見逃さず、ストレスを軽減したり、マイナス思考を良い方向に転換するためにも、健康診断と同じように、早い段階で心の健康診断や相談を定期的に行うことを提案したいと思う。
ウ.不祥事を防止するために、職場環境のみならず、自分自身や同僚の言動で気になることや改善すべきことなどについて
暴力には体罰のほかにも、言葉による暴力と、『無視』という暴力もあると思う。
身体だけでなく、人の心を傷つける行為は全て暴力であり、人として許されない行為であると思う。
それは生徒間のみならず、生徒対教師、また、教育現場に限らずだが、同僚同士間でもあるのは情けない限りだ。
『道徳』や『いじめ問題』について教える立場にある人間が、生徒や同僚をいじめている現状があるのは甚だ情けない。
子どもは敏感だ。本気で向き合ってくれる先生と、義務や馴れ合いで自分に接する先生は本能で分かる。
そういう生徒に対して、子どもだからといって、騙したり、欲求不満のはけ口にしたり、利用したりというのは、その生徒にとって、どれだけの心の傷を与えるかを思い知って欲しい。
不用意な言葉や、行き過ぎた指導は、生徒自身が反省すべき点や欠点を改善し、苦しみの乗り越え方を模索するというよりも、恐怖や憎悪や挫折感しか残らない指導であって、もはや『指導』ではなく、『いじめ』でしかない。
まして、教師という立場を利用した性的不祥事は人の道にあらず。被害にあった子どもには生涯消えない心の傷が残る。
性犯罪者は罪を繰り返すという。それは性癖というよりはそういう心の病を持った人間なのだ。そういう人間には、生徒には絶対に関わらないで欲しい。
エ.自分がモラルアップのために実践していることについて
人の一生は、『出逢い』によって決まる瞬間があると思う。
『一期一会』の精神こそが、教育の原点だと思う。
その生徒と向き合えるのは、そのときだけなのだ。翌年、同じ教室、同じ学年で、同じ単元を教えたとしても、全く違う個性、顔を持った生徒たちなのだ。
今教えたことが、分からない生徒、分かる生徒、ずいぶん経ってから、『あのときのことはこういうことだったのか』と分かる生徒、それぞれだと思う。
切り捨てないで、諦めないで、可能性を信じて、自分にできる精一杯で向き合ってあげること。そういう姿勢で生徒に向き合っている。
期間ではない、共有できる時間の『濃さ』だと思う。
私は講師なので、同じ学校での『来年』はない。だからこそ、1日1日を大切に過ごし、一回一回の授業を全身全霊で展開している。
『生涯、美術を愛好する人間』を育成することが私たち義務教育の美術教師の使命である。『記憶に残る授業』を目指して、教材研究と指導に励みたい。
また、学校生活においても、生徒指導の反面、潤いと生徒がホッとできる居場所作りができればと思っている。
その気持ちを常に忘れないよう、生徒の前に正々堂々と立ちたい。
そして、心に傷を負っている子や、認められたいと努力している生徒の信号を見逃すことのないよう、常に心のアンテナを張り巡らし、精神的に余裕のある教師を目指したい。
実践例として、この夏大きなヒントを得ることができた。
トイレ掃除だ。不浄の場を磨くことで、自分自身と向き合うだけでなく、生徒に対して『率先垂範』ができる。生徒に『やらせる』のではなく、生徒を『やる気にさせる』言葉かけを学んだ。自分を磨き、自分の邪な心を無くす、貴重な実践だと思う。
終わりに。
私は、今の時代、教育現場に立つべき人は、品行方正、成績優秀、一度も挫折 したことのない優等生、恵まれた家庭環境の人だけでなく、むしろその逆の人生を歩み、弱い自分と向き合い、社会と戦い、乗り越えてきた人、弱者や『軌道』から落ちこぼれた立場の人の心の痛みや実情を知っている人にこそ、教育現場に立って欲しいと思っている。
私自身、生徒・学生だった時代もあり、保護者・PTA役員として学校で活動したこともあり、現在、非常勤講師として教育現場に立ってみて、だからこそ見えてきたり、分かってきたことがたくさんある。
また、これから教職を目指す人には、本採用試験を受ける前に、いろいろな社会経験を積んできて欲しい。できればサポート校的な現場で、講師経験を積むとか。
教育現場以外の職場体験があれば、生徒達の職場体験学習や進路指導の際に役立つネットワークができたり、さまざまな視点から生徒の相談にも乗れるし、いろいろな職場のプロのノウハウを教育現場に生かすこともできると思う。
教科書で学んだことやマニュアルは、参考程度にしかならない。実践経験と臨機応変できる柔らかい心、初心を貫く固い決意で採用試験に臨んで欲しい。
管理事務所の方へ。教職免許を持ちながら、多方面でのさまざまな職業経験を持つ人を広く採用して欲しい。採用試験の年齢制限などは廃止し、門戸を開いて欲しい。そして、 現職の教師も一緒に、『適性検査』『道徳観』『意欲』という点に重点を置いた採用試験、更新試験をするべきであると思う。
さらに、できれば、過ちを犯してしまった人間には、それで教師人生が終わってしまうような、それまでの、また、それ以外の面での努力と功績が無に帰してしまい、人間的に全否定させてしまうことのないような措置を講じて欲しい。(本人にとって転職したほうが最良であれば別だが) 『失敗から学んだこと』、『挫折から立ち直ること』それらを身をもって体験し、それを子ども達に伝えることも、教育の一環であると思う。
たとえどん底からでも、『いつもここから。人生七転び八起き』の精神で、たくましく生きる力を教えられる教師として復活、継続できるような、フォロー体制を望む。
子どもは国の宝。その大事な宝を預かり、けして二度と戦への道を歩ませることなく、人として生きる道を説くには、それなりの経験と智恵と愛情と責任感が無ければならない。その自覚を持てる人間こそが次代を担う子ども達の前に立てると思う。
そういう人間に私はなりたい。
そして。私は今、忙しくもとても充実した毎日を送っていることに感謝する。
仲間に恵まれ、生徒達もかわいく、家族も応援してくれている。
少ない時数を最大限に生かして指導できるような配慮、私の指導内容や目標に対しての理解と支援と評価が更に意欲と達成感をますことができる。
私は、この学校のために、仲間のために、生徒達のために、家族のために、精一杯頑張ろうと思う。
ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。お疲れ様でした。
できましたら、簡単で結構ですので、ご意見ご感想をいただければ幸いに存じます。
9月7日提出までに推敲する参考にさせていただきたいと存じます。
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