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*(映画)*『ワールド・トレード・センター』を見て

2009-09-13 11:50:00 | 徒然なるままに
9.11にちなみ、TVで*(映画)*『ワールド・トレード・センター』を見た。
http://www.cinematopics.com/cinema/works/output2.php?oid=6776

中2の娘と一緒に見たのだが、生存者の証言を下に制作されただけあり、俳優の演技もリアルで、更に当時の現実に撮影された事故状況の映像も組み込まれていて、より、リアルさが増していた。

映画のラストでも言っていたが、この事件は、人間がどれだけの悪意を持てるかと、こんな過酷な状況下で、人間がどれだけのことを頑張れるか、人々と共に助け合うことができるかと言うことを問われた事件だ。

もし、あの生き埋めになっていた公安警察職員が、たった一人だったとしたら、生き残ることはできなかっただろう。
二人で励ましあい、眠らないよう、声を掛け合って頑張ったからこそ、捜索隊が見つけてくれたのだと思う。
それから、家族愛。遠のく意識を呼び覚ましたのは、『家族のもとへ帰りたい』と言う強い想いだ。そばにいなくても、これだけの心の支えになってくれる家族愛、夫婦愛に感動した。

私が声を上げて泣いたのは、病院で、ビルのエレベーターボーイをしていて事件に巻き込まれた息子さんの母親が、朝、別れ際に息子とけんかしたまま送り出してしまったことを後悔し、嘆く母親の姿だった。
私は、2年前の事故で九死に一生を得たときに、もうだめだと思った瞬間、一番に思ったのは、前の晩長女と喧嘩したまま、朝、声もかけずに出かけてきてしまったことだった。
映画の彼女の息子さんも、死の間際、一番強く思ったことは、恐怖でも痛みでもなく、お母さんとな仲直りできないまま逝ってしまう申し訳なさと後悔でいっぱいだったことだろう。

また、これは実話なのかどうかは分からないが、事故現場から遥か離れたところにいた海兵隊員が、ニュースを聞いていてもたってもいられなくなり、助けに行くのが神が私に課した使命と、現場に赴き、生き埋めになった人たちを発見し、救済する姿に感動した。
捜索打ち切りで、誰もが諦めかけていた時に、諦めなかった人。
眠ってしまってはそのまま死んでしまうと、お互い励ましあいながら、最後まで生きて帰ることを諦めなかった人たち。
その両者の強い意志と、あの人の手でしか助け出せない状況に命がけで『使命』を全うしに挑んで行った人たちが、奇跡を呼んだのだと思う。

怖かったのは、ラスト近く、その海兵隊員が
「これからは兵が必要になるだろう。報復のために」
といったセリフだった。

映画を見終わって、娘に
「この事件は、リアルタイムで世界中に配信されていたのだけど、あのビルに突っ込んでいった飛行機をハイジャックした青年の故郷では、ビルが倒壊していく映像を見て、爆竹を鳴らしてお祝いし、ハイジャックして突っ込んで言った息子の母親は、『英雄の母』として皆から賞賛されていたんだよ」
と言ったら、
「知っているよ。ママが前に話してくれていたから。でも、こんなに凄い事件だったんだ・・・。」
とショックを受けていた。

同じ話を、当時、中1だった息子に話したことがある。
「一つの事件を一方からだけ見て善悪を決めてはダメ。ハイジャック犯を『英雄』と称える人々の気持ちや、その背景を知らなければ。なぜ、ワールドトレードセンターなのか。その理由を知ること。本土を攻撃されたことのないアメリカにとって、今度のことがどういう影響をもたらすのか。これは始まり。同時多発テロの序章だと思うよ。」
その冬、彼は同時多発テロ防止で世界中が緊迫している状況の中、外務省からの依頼を受け、イギリスの『ジャパンデー』でソーランを踊るために、短期ホームステイした。
その時に、違う文化圏で生活してみて、彼は何を感じてきたのだろう。

大学受験のとき、彼が選んだ学部は『法学部』。
「国際法を学びたいから」
だと言った。その動機は
「同時多発テロが起きた原因と、それを防ぐための方策を学ぶため」
だと言う。
中学時代は結構やんちゃをし、高校時代はサッカー一色だった息子が、成長したものだと思う。
今、ゼミで、国際法を学んでいる彼は、なかなかの洞察力で物事を考えられるようになってきている(気がする)。

「『ゲルニカ』は中学生のうちに教えたほうがいいよ。」
と私に勧めてくれた息子。
1937年、人類最初の大量無差別攻撃を受けた町『ゲルニカ』の悲劇を、たった1ヵ月で、たった一人で巨大な壁画として描いた画家ピカソ。
中学校の美術の教科書に載っていたにもかかわらず、教わらないまま卒業し、高校の世界史で習い、自分で更に勉強したのだという。


アメリカ同時多発テロ事件で父親を亡くした11歳の少女が、1年後の追悼式で朗読したことで話題になった『千の風になって』は、アメリカでは近親者の死、追悼、喪の機会に読み継がれて来た有名な詩なのだそうだ。
この詩を日本に紹介したのはデーブ・スペクター氏なのだそうだ。坂本九さんの葬儀委員長を務めていた永六輔氏さんのもとに、良い詩があるからとこの詩を持ち込んできたのがデーブ・スペクター氏であり、永六輔氏はその詩を葬式で朗読したということだ。

そして、2001年、小説家でありシンガーソングライターでもある新井満氏が日本語での訳詩を付け、自ら作曲を務めたことにより、『千の風になって』の歌が生まれた。その後、阪神大震災から10年のチャリティーコンサートで歌われたり、紅白歌合戦で秋川雅史氏が歌って一般的に知られることとなった。

8年後のグランド・ゼロの様子を見て、悲しみを新たにしつつも、
『同じ過ちを繰り返してはならない』
『明日は我が身』
という思いを強くした。

『9.11事件』でお亡くなり何になった方々のご冥福を祈り、御遺族、関係者の方々に、改めてお見舞い申し上げます。

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