明日に向けて

福島原発事故・・・ゆっくりと、長く、大量に続く放射能漏れの中で、私たちはいかに生きればよいのか。共に考えましょう。

明日に向けて(693)「私は死んでも訴え続けます」・・・追悼、イアン・アパイ アマア

2013年06月22日 23時00分00秒 | 明日に向けて(601)~(700)

守田です。(20130622 23:00)

みなさま。昨日(6月21日)午前3時に、台湾の旧日本軍性奴隷問題の被害女性の一人で、タロコ族のイアン・アパイ アマアが亡くなられました。ガンとの闘病の末でした。とても悲しく、淋しいです。
アマアが安らかに眠られるようにお祈りするばかりです。

僕は昨年秋に、病院にアパイさんを訪ねました。そのとき書いた記事を紹介しておきます。アマアをはじめ、タロコ族のおばあさんたちの被害についても書きました。台湾の被害女性について書いた一連の記事の中の一つです。

明日に向けて(551)タロコ族のアマアたちのこと・・・
http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011/e/55e1cbf5935c0ab7a2b77d1e7fc82387
 
イアン・アパイさんと初めてお会いしたのは2006年11月のこと。私たちの呼びかけに答えてくださって京都までこられ、辛い体験を証言してくださいました。今日は多く方に彼女の訴えを知っていただくために、その証言録をここに掲載したいと思います。ぜひお読みください。なお今回の記事のタイトルにつけた「私は死んでも訴えます」は、証言の中でアマアが語られた言葉です。
(『阿媽的聲 Voices of Ah-Ma 台湾・旧日本軍性奴隷被害女性の声』旧日本軍性奴隷問題の解決を求める全国同時企画・京都実行委2007年11月発行に掲載)

*****

台湾・旧日本軍性奴隷被害女性の声
2006年11月19日 京都
イアン・アパイ/林沈中(リン・シンチュウ)阿媽

台湾の花蓮から参りました。林沈中という中国名ですが、原住民族の名前はイアン・アパイです。今日、何故京都にきたのかというと、私が若いとき日本軍に何をされたのかをみなさんにわかってもらいたいからです。

私は四人兄妹です。上の三人は男、私は末っ子で、ただ一人の女の子です。一番目のお兄さんはニューギニアで戦死しました。二番目、三番目のお兄さんも、台湾で徴兵されました。

ある日、派出所の警官が二人家に来て「お宅のお嬢さんを軍の雑用係として働かせてはどうか」と言いました。最初の仕事はボタンつけや掃除でした。

最初の三ヶ月は帰宅を許されましたが、三ヶ月を過ぎた頃、ある軍人が「帰宅の道が遠すぎるので、今日から住み込みにしてくれ」と言いました。

ある夜が、すべての悲惨な出来事の始まりでした。軍隊の高官が私を暗い洞窟に連れて行き、強姦しました。当時、私は十七歳。十七歳の私は日本の軍人に真っ暗で何もない洞窟に連れて行かれました。暗くて怖かったです。軍人に強姦されたときは全身裸にされて、泣いても抵抗しても誰も助けてくれません。本当に怖くて、悔しかったです。そのときの気持ちはというと、本当に苦しくて、悔しくて、でも誰にも言えませんでした。

ある日、私は身体の調子が悪くなり一度家に帰りました。一人でずっと泣いていると、お母さんが心配して「大丈夫?」と声をかけてくれましたが、こんなに屈辱的なことは誰にも言えませんでした。その後も「慰安婦」にされ続けました。

あるとき軍医が言いました。「生理がこなくなったら必ず報告するように。流産させる薬を渡すから」。私は天に向かって問いかけました。「何故、私は十七歳でこんなに酷い目にあわなければならないのでしょうか」と。

私は運が悪かったのだと思います。小さいときは、貧乏でした。また日本軍にそのような酷いことをされました。(解放後)四回結婚しましたが、三人の夫に離婚されました。私たち原住民族は貞操を重視します。三人の夫は私の過去を知ると「お前は汚い女だ」と言って去っていきました。私と三人の夫の間に何人か子どもがいましたが、その子どもたちを女で一つで育てなければなりませんでした。サツマイモやトウモロコシを栽培し、子どもを育てました。本当に辛い生活でした。

自分の心にしまっていた私の体験を外に出すのは、大変勇気のいることです。何故私が京都に来たのか、そのことをみなさんにわかってもらいたいのです。私は訴訟のために七、八回ほど日本に来ました。どうしても納得がいかないのは、毎回こうして証言をするのに、いつも苦しみをそのまま台湾に持って帰らなければならないことです。日本政府は今もまだ謝りもしないし、補償もしません。私がどうしても欲しいものは、日本政府が事実を認めること、そして人間としての尊厳を回復してくれることです。

私は神様に聞きました。一体、何をしたら日本政府は謝ってくれるのか。私はもう年をとりました。いつ死ぬかわかりません。何回も日本に来て、東京・京都・大阪、いろんな所で証言の機会を与えてもらいました。私は死んでも訴え続けます。絶対に日本政府に謝って欲しい。そして私の尊厳を回復して欲しい。会場の皆様にお願いします。私たちには時間がありません。年老いた阿媽たちのために、何とかしてください。

私は余計なことは言いません。世界はみな慰安婦のことを知っています。認めないのは日本政府だけです。みなさん、ありがとうございます。

*****

みなさま。どう思われたでしょうか。僕は読み返していて涙が溢れてきました。

イアン・アパイさんは、いつも顔に威厳をたたえていた方でした。その一方でとてもお茶目で、カメラを向けるときっとおどけたポーズをしてくれました。
アマアの毅然としている顔、笑った顔、おどけた顔が次々と胸に浮かびます。

でもこのアマアの発言に触れると心に浮かびあがってくるのは、日本兵に犯され、絶望しながら、神様にどうしてこんな酷い目にあわねばらなないのですかと問いかけている十七歳の少女の泣き顔です。
ああ、とうとう、アマアに日本政府の謝罪を届けることはできませんでした。やはりそのことがあまりに悲しく、悔しく、残念でならないです。人間としての尊厳を回復してくださいという、アマアの心からの叫びを無視し続けてきたこの国の政府に、僕は激しい怒りを感じます。
あくまでも、完全な謝罪と補償を引き出すまで僕らは奮闘を続けなくてはいけない。そう強く思います。

証言の中で、アマアは「私は死んでも訴え続けます」と言われました。そうですよね。アマアはこれからも訴え続けるのですよね。だから僕もこれからもアマアの声を支え続け、一緒になって訴え続けます。
あなたの声を僕の声として、私たちの声として、訴え続けます。だからアパイアマア、天国に言ったら、少しは休んでくださいね。安らかになってくださいね。そうして先に旅立ったおばあさんたちと楽しく暮らしてください。

あとは私たちが頑張ります。死んでも訴え続けるアマアの声を多くの人に届け続けます。そしていつか日本政府を謝らせます。・・・だから、どうか、天国で幸せになってください。

イアン・アパイアマア。たくさんの愛と勇気を、ありがとうございました。

合掌

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7 コメント

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涙があふれてきました。 (ポンタ)
2013-07-09 11:19:47
アマアさんの話を読んで、涙があふれて震えがとまりませんでした。 
アマアさんに実際にお会いして日本人の一人として謝り、一緒にアマアさんの苦しみを共感する日本人がいることを知ってもらえたら、ほんの少しでもアマアさんの気持ちを癒す助けになったのではと残念です。
この国が他国の人を傷つけても謝りもしない、他国の人を犠牲にしても自国の利益を追い求めるようなあり方をしている限り、アマアさんたちに起こったことは、今度は私達の子供に降りかかってくることと思います。そういうことがまともに考えられる人にこの国を動かしてほしいと切に願います。
貴重なお話を聞かせて頂きありがとうございました。
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ありがとうございます (みき)
2013-06-30 21:59:59
守田様

お忙しい中、貴重なコメントありがとうございます。

こちらこそ、守田さんのコメントが胸に沁み入りました。

祖父、つまり母の父は、台中で大きな菓子店を営んでいました。

母の話によれば、当時、やはり良くない態度を取る日本人も少なからずいたようですが(民間人だったかもしれません)、祖父は面倒見の良い人柄で、お店で働いていた台湾の方達にも慕われていたようです。

ですので、日本が敗戦を迎え、財産を全て没収され、追い立てられるように帰国しなければならなかった時も、台湾の方たちがよくしてくれた、と、母は申していました。

母の話を聞く限り、そして、帰国後も台湾の方達と交流があったこと(よく祖母に手紙を下さった方達がいたようです)を考えると、祖父は台湾の良い面に貢献してくれたのではないかと思いたいし、守田さんが書いて下さったコメントを読ませていただいて、私もそう思えるようになりました。ありがとうございます。

私はプライベートな話しか聞いたことはなかったのですが、母は国民党軍や蒋介石が台湾に来た時のことも良く覚えていて、自分の親しい知人には、その話もしていたようです。

しかしこれも、母の死後に、その知人からお聞きしたことです。

それでも、母の波乱の人生は時折聞かされていたので、本当は、台湾の話を、きちんと聞き書きしておきたいと思ううちに、私も実家を離れ、自分の人生の荒波にのまれているうちに、母は亡くなってしまいました。

母から聞いた台湾にいた時の話で忘れられない事はたくさんありますが、そのひとつが、台湾人とか日本人とか分け隔てなく面倒見の良かった祖父のところに、「赤紙」がきた日本人の若者たちが、徴兵前によく立ち寄っていた、という話です。

彼らが祖母に「おばさん、今まで世話になったね」と笑顔で挨拶に来た時、祖母が目に涙をためていた姿が忘れられない、と母は申していました。

私も色々な記憶があいまいになりかけているので、史実と違うことを覚えているのかもしれませんが、その話を思い出すと、今でも胸が詰まります。

母が生きていれば、確かめて聞けたのですが。

話では、その祖父が経営していた菓子店の建物は、今でもオーナーは変わったものの、残っているそうです。
母の古い知人が、生前の母に伝えてくれました。

敗戦後は、私を含め私の家族は誰も台湾に行ったことがありませんが、本当は一度行ってみたい気がします。

長くなりすみません。しかも本題からずれました。

しかし、戦争の悲劇、という観点から、少し話題は違いますが、関連したお話を書かせていただきました。

いつも、精錬された文章をエネルギッシュに送り出して頂き、ありがとうございます。

お身体に気をつけて、今後ともよろしくお願いいたします。

返信する
コメントありがとうございます。 (守田敏也)
2013-06-24 18:21:22
愛魂ボーイ様

コメントありがとうございます。
僕はこれまで何人ものおばあさんたちと会い、詳しく話を聞いてきました。また事実関係を調べたりもしてきましたが、少なくとも僕が会ったおばあさんたちは、みんな本当の体験を、辛い思いを押しのけて語ってくださったという強い確信を得ています。なのでおっしゃってくださったように、どんどん発信を続けようと思います。

ムルチコーレ様
コメントありがとうございます。
そう思ってくださるだけでも、少しでもアマアの供養になると思います。
同時にどんどん少なくなっていますが、まだ生き残りのおばあさんたちがおられます。もう日本にお呼びするのは難しいのですが、何かの機会がありましたら、ぜひおばあさんたちの肉声をお聞きください!
返信する
台湾と日本の間に折り重なるもの (守田敏也)
2013-06-24 18:13:24
みき様

いつも心にしみるコメントをいただきありがとうございます。
そうですか。お母様は台湾育ちだったのですね。みきさんの命もどこかで台湾につながっているのですね。

台湾の人々はとても親日的です。日本が敗れたのちに、大陸からわたってきた国民党軍が横暴で、長く酷い独裁がなされたため、日本時代の方が良かったという思いが形成されたからだと言われています。

でも今の台湾は、大陸から戦後にわたってきた人々(外省人)と、もともと台湾にいた人々(内省人)とのカップリングも進み、双方を祖先に持つ人々も増えていて新しい世代になりつつあります。その新しい世代も、親日的な人々が多いです。

性奴隷問題をみるときに、日本軍や警察は非常にひどい支配をしたのですが、もっと違った文化面では、台湾社会の発展に貢献した日本人もいたのは事実です。そうした功績を、今でも台湾の人々が認めてくれていること、また台湾社会が日本人にとてもフレンドリーなことは、ありがたく思うものがあります。

おばあさんたちも、京都観光や北海道観光などはとても好きで、金閣寺など、とても喜んでくれました。京都の紅葉にも、「きれい、きれい」と日本語ではしゃいでくれました。

そんなことも考えながら、台湾と日本の歴史の真相、アジアの私たちの間に折り重なるものの実相を探求し、解き明かし続けていきたいと思います。それが今の日本の若い人たちは大好きだと言ってくれたおばあさんたちのトータルな気持ちを後世に伝えることにもつながると思います。

貴重なお話を書いていただき、ありがとうございました!
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聞きたかった。 (ムルチコーレ)
2013-06-23 22:32:43
守田さん、このアマア様のお話しを、お聞きしたかった
です。生きておられる内に。

亡くなられてしまわれては、浮かばれません。

残念です。
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申しわけない。 (みき)
2013-06-23 02:07:58
申しわけない。
アマアに対して、そんな気持ちでいっぱいです。
お元気なうちに、お会いしたかった。

私の母は、幼少期を台湾で過ごしました。

いわば、「権力側」の人間だったわけです。
もちろん、子どもだった母に何の咎もありませんが。

日本は戦争に負け、台湾は日本の領土でなくなり、台湾にいた人々は、日本に引き揚げてきましたが、その時の、そして敗戦後の苦労は、大変なものだったようです。

母の人生も、そこで大きく変わりました。

それでも、母はよく、台湾の話をしていました。

母は、一昨年亡くなりましたが、もし、アマアのことをもっと早くに知っていたら、母にも話が聞けたかもしれません。

イアン・アバイ・アマアのご冥福をお祈りいたします。
どうぞ、安らかにお休みください。
そして、こんな悲しいことが2度と起こらないような世の中に、少しでもしていけたらと思っています。
本当は、あなたが生きている間に、そのことを伝えたかった。
返信する
天網恢恢疎にして漏らさず (愛魂ボーイ?)
2013-06-23 01:24:17
この件に対しては私も当事者ではないので、何ともいえないのですが、アマアさんの言葉を顔を見て聞いた守田さんなら、それが真実かどうかは分かっていると思うので、どんどん発言して下さい。

世の中には嘘を言っている慰安婦も多いようなので・・・

私はこの件に関しては天網恢恢疎にして漏らさず、きっと神様が正確な判断してくれてくれると信じています・
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