明日に向けて

福島原発事故・・・ゆっくりと、長く、大量に続く放射能漏れの中で、私たちはいかに生きればよいのか。共に考えましょう。

明日に向けて(1421)蓮花アマと満妹アマのお墓を訪ねて

2017年08月30日 07時00分00秒 | 明日に向けて(1300~1500)

守田です(20170830 台湾時間07:00)

台湾桃園国際空港からの投稿です。8時半のフライトで帰国の途につきます。
その前に、昨日29日に、期せずして2人のアマのお墓を訪ねることができたのでその報告を書いておきたいと思います。

お訪ねした1人は陳蓮花(チェンレンファ)アマ、今年の4月に亡くなられました。もう1人は盧満妹(ルマンメイ)アマ、2011年の8月に亡くなられました。まずレンファさんのことを書きます。

レンファアマが眠っているのは台北市の崇徳寺。小高い山の上にあります。
ホエリンに連れられて車で向かうとお孫さんが待っていてくれました。とても優しげな男性です(台湾にはこういう感じの若い男性が多いです)。

僕ら一行が祈りを捧げられるようにすでに祭壇が作られていました。お祈りの場に作られたテーブルにアマの名を書いた紙を貼り、そこにお供え物を広げます。そして長い線香を一人一人が数本持ち、アマの元へ、お寺の元へ、神様の元へと刺して行きます。

「アマ。ありがとう。京都で初めてカムアウトしてくれたのだよね。アマの言葉を忘れないよ。いつも一緒だよ。アマの心を受け継いで頑張るよ」と祈りを捧げました。

それからみんなでお金に模した紙を燃やしに行きました。アマの元へ送るお金と神の元へ送るお金に別れています。たっぷり燃やした後でアマを呼んで「アマ、たくさん渡したよ。みんな持っていってね」と伝えました。

それが終わってからアマの骨壷が置かれた棚まで案内してもらえました。アマは共同墓地、パブリックスペースへの埋葬を望んでいたのですが、そこは今はいっぱいで仮置き場で順番待ちをしているのだそうです。
おかげでと言ってよいやら分かりませんが、アマの骨壷と会えて嬉しかったです。お葬式に駆けつけられなかったのでなおさらでした。

アマへの祈りを捧げた後に、アマが心身を休めている霊園も少し見学することにしました。するとここが台湾で長く続いた戒厳令下の犠牲者の埋葬の場であり「紀念公園」(台湾語の記述)になっていることを知り、なんとも胸を打たれました。

その場に入ってみると「人民忠魂」と書かれ、大きなひまわりが描かれている碑文が建っている。2002年の建立だそうです。
その周りには台湾のオーソドックスなスタイルからは外れた小さな石の墓標だけがあるお墓がたくさんありました。政治弾圧の中で小さなお墓しか建てられなかったのだそうです。さらに名前もわからず無縁仏になっている方もおられるのだとか。

台湾の戒厳令が解除されたのはまだほんの少し前のこと。それまで多くの方が血が流されて、いまの民主主義が実現されたのでした。それは台湾を訪れる私たちにも豊かな恩恵をもたらしてくれています。血を流して人々の幸せの道を切り開いてくださった全ての方への感謝の念が湧きました。

アマもその時代の全てを生きたのですね。日本の占領時代。騙されて性奴隷にされ、アマはフィリピンのセブ島のとんでもない激戦区に連れていかれたのでした。
そして帰国後の台湾の独立。中国大陸から渡って来た国民党の横暴と228事件などの血の弾圧。そしてその後の長い長い戒厳令時代をです。

長い時代を逞しく生き抜いて、2008年に京都に来て初めて公衆の前でカムアウトしてくれて、以降の約10年間、アマはいつもおばあさんたちの先頭で声を上げ続けてくれました。
しゃんと背筋を伸ばして日本政府を正すとともに、陽気な声で私たちに愛を伝え続けてくれました。

そのことでアマはこの公園に眠っている方たちの後を受け継いで、台湾の、そして世界の民主主義を大きく前進させてくれたのだと思います。その点でアマが戒厳令下の犠牲者を祀ったこの場にともに埋葬されているのは素敵なことだと思えました。

アマの思い、そしてこの場に眠る多くの方の思いを受け継いで頑張りたいです。写真をFacebookページにアップしたのでご覧下さい。

https://www.facebook.com/photo.php?fbid=10211739872230619&set=pcb.10211739872950637&type=3&theater

 

続いて台湾での盧満妹(ルマンメイ)アマのお墓を訪ねた報告を書きます。

今回の訪問は一緒に訪れた柴洋子さんの願いによるもの。柴さんは満妹アマをはじめ、台湾のたくさんのアマたちととても親しくされた方で、生前に満妹アマから「お墓を買ったから教えるよ」とお寺の名前を聞いたのですが、よく覚えられないままにアマとの別れを迎えてしまったのだそうです。

その後、唯一の遺族と思われる息子さんに連絡を取ろうとしたのだけれどなかなか連絡が取れず、お墓の場が分からず訪ねることができませんでした。しかしとみに最近、「お墓を買ったよ。柴さんに場所を教えるよ」と語ったアマの姿が思い出されて、どうしてもお参りに行きたいと思われていたのだとか。

今回、時間ができたのでホエリンさんに頼んで連絡を試みてもらったところ、昨日の夜まではつながらなかったのに、今朝になってようやく連絡が取れ、息子さんにお墓に案内してもらえるようになりました。交渉力抜群のホエリンのおかげだったかも。それでこの日、蓮花アマのお墓をお参りした後に、満妹アマの住んでいた新竹市に向かうことになりました。台北市から片道90キロほどの道のりを、ホエリンが快くドライブしてくれました。

新竹に着いて息子さんと合流するとやはり小高い丘を登って行きました。そこには蓮花アマの霊園にあったのとは違う形のお墓がずらりと並んでいる。ここは客家の方たちの霊園なのです。もちろん満妹アマも客家の方。その客家の方たちのたくさんのお墓を分け入るように進んでアマの眠る場に着きました。

客家の方たちは「家」を大切にします。お墓にはどれも家の名前が書いてあって、故人の名は記されていない。アマの名もありませんでした。ここに果物などとともにアマが好きだったお酒とタバコをお供えしました。もちろんタバコには火をつけて。それから柴さんと一緒に深い祈りを捧げました。

「アマ。いつも達者な日本語で声を上げて頑張ってくれたね。どうもありがとう。アマの勇気をしっかりと受け継ぐよ。そこでゆっくりしていてね」とアマに語りかけました。サングラスを小粋にかけ、指にタバコを挟んで流暢な日本語を操るアマの姿が目に浮かぶようでした。

その後にここでもまたお金に模した紙をたくさん燃やしました。「アマ!お金だよ。持ち帰ってね」と心の中で呟きながら。
台湾ではお金を送るのがとても大事なことなのです。「現金」と言えばまさにその通りなのですが、ストレートでわかりやすい風習だなと思いました。
生前、苦労の中で貧しいけれど尊厳を保って生き抜いたアマ。
「そうだね、天国ではうんと贅沢してね!」とか思いつつ、僕もたくさんのお札を焼きました。

こうして今回は2人のアマのお墓を訪ねることができました。生きてるアマを訪ねることから比べるともちろんずっと淋しいですが、しかし死は誰にも最後に訪れるもの。僕もこの報告を読んで下さっているみなさんにも確実にやってくるのです。

その時、誰かが自分の思いを少しだけでも受け継いでくれたらやっぱり嬉しいと思うのです。その思いが深ければ深いだけなおさらでしょう。
だからこうしてお墓にお参りして、アマたちに平和への思いを受け継ぎ続ける約束をしてくるのも、けして淋しいばかりではなく、ある種の暖かい交流の場なのかなとも思いました。

今回はアマたちとの約束を胸に帰国することになります。
アマたちの思いを平和に、みなさんの幸せにと、しっかりとつなげていきたいです!それがアマたちの一番の願いなのだから。

アマのお墓の写真と帰りの夕暮れの風景をご覧ください。

https://www.facebook.com/photo.php?fbid=10211741636354721&set=pcb.10211741637434748&type=3&theater

 
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明日に向けて(1420)台湾のアマたちとともにーアマミュージアムと花蓮を訪ねて

2017年08月29日 23時30分00秒 | 明日に向けて(1300~1500)

守田です(20170829 23:30)

再び台湾からです。
今回の訪問の目的は、現代美術作家の友人である曽田浩隆さん、馬場智子さんとともに故宮博物院とアマの家を訪れることと、花連のおばあさんに会いにいくことでした。とくに故宮博物院では、台湾在住の田崎敏孝さんに同行してもらって、書を始め、本当に豊かな臓物の解説をしてもらいました。田崎さんは台湾、中国、朝鮮の歴史、文化、そして宝物の知識が堪能で話もとても面白い。とてもありがたい説明をしてくださいました。でも残念ながら僕にまだ記事にするほどの力がないので、故宮博物院についてはまたの機会に記事にしたいと思います。

さてその後におばあさんたちの足跡を記した「アマの家」に行って来ました。昨年末のオープニングセレモニーへの参加以来の訪問でした。
このセレモニーに参加してくれた陳蓮花(チェンレンファ)アマも今年の春に亡くなってしまい、さみしいばかりですが、ここに来ると元気だったおばあさんたちの姿がたくさん展示されています。

そのうちの一部はおばあさんたちが京都に来てくれた時の写真で僕が撮影したものも混じっています。
また京都グループの面々がインタビューに応えた映像も流してくれていて、今回もアマの家のスタッフが僕らを喜んで迎えてくれました。

この館内の写真をFacebookのタイムラインに掲載したのでご案内します。

https://www.facebook.com/photo.php?fbid=10211730344432430&set=pcb.10211730351032595&type=3&theater

ピンクのドレスを着ているのは一番高齢だった呉秀妹(ウーシュウメイ)アマ。京都でサプライズパーティを開いた時の写真です。ハートないし日の丸を記したカードにメッセージを書いて貼る場があったので僕も即席のメッセージをのこして来ました。

館内はオープニング時よりもよりきれいにコーディネートされています。しかも朝から台湾の若い人たちがたくさん来ていてとても嬉しく思いました。

過去の過ちを捉え返すのは第一に被害を受けた方達の尊厳を回復するためですが同時にそれは私たちの人権と未来の平和に繋がるのです。
だからそれは日本に住まう私たちのためでもあること、そのためにもおばあさんたちが奮闘し続けてくれたこと、そこにおばあさんたちの深い愛があることを知ってほしいです。みなさんも台湾を訪れた時は、ぜひこの場にお立ち寄りください!

 
さてその翌日に台湾の花蓮を訪ねて来ました。
ここには日本軍性奴隷問題で日本政府を相手取って奮闘してきたおばあさんたちの中で最後に生き残った2人の方がおられます。
この日はこのお二人を訪ねて来ました。といってもお二人のうち一人の方はカムアウトされていません。なのでこの方についてはまだまだお元気で私たちを迎えてくれたことのみをお知らせしたいと思います。

もう一人のおばあさんはイアルタナハさん。タロコ族の方です。
僕もこれまで数回この方をお訪ねしていますが、部屋に入るといつも横になっておられる。もともと物静かな方ではあるのですが、他のアマたちの元気さに比べて少し弱々しげでもあったので、いつも大丈夫かな?と心配していたのですが、そのイアルタナハさんが結局、カムアウトされたおばあさんの中で一番長生きしてくださっています。

今日は息子さんも一緒にいていろいろとお話を聞けました。息子さんもタロコ族の代表の一人として二度ほど日本を訪れられています。靖国神社への台湾人の強制合祀に遺族の方が行われた抗議、分祀の要請行動にも参加されたそうです。
おばあさんも息子さんも敬虔なクリスチャン。今回はタロコ語のバイブルをみせてくれました。表記はローマ字なのだとおっしゃっていました。
イアルさんが賛美歌がお上手だと聞いていたのでみんなでお願いすると、息子さんと2人で何曲かうたってくださいました。そのうちの1つは日本語でした。

どうしてタロコの方たちが日本語を知っているのか、また台湾の部族の方たちはどんな歴史を背負ってきたのか、僕は5年前にこの場を訪問した時に「明日に向けて」に何回かに分けて連載しています。興味のある方は「明日に向けて」「タロコ族」と検索してみてください。

おばあさんとの楽しいひと時を終えて、みんなでまたくるからと声をかけて、イアルさんの家を後にしました。
イアルさん、まだまだ元気でいて欲しいです。また会いたい、会うために花蓮に来たいと思いながら車に乗り込みました。

このタロコ族のおばあさんたちは、自宅のごく近くの洞窟に連れ込まれて性奴隷生活を送られました。南方の日本軍の基地へと送られた漢族のおばあさんたちとの大きな違いでした。そのイアルさんが連れ込まれた洞窟跡を帰りに見て来ました。いまは木製のドアで封がされていました。タロコ渓谷の深々とした山並みの風景とともにおばあさんの姿、そして洞窟の写真をFacebookにアップしておきました。よければご覧下さい。

https://www.facebook.com/photo.php?fbid=10211739488341022&set=pcb.10211739505501451&type=3&theater

続く

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明日に向けて(1419)NHKドキュメント『原爆死 ヒロシマ 72年目の真実』が突き出したものー原爆の非人道性が再度、明確にされた!

2017年08月28日 08時00分00秒 | 明日に向けて(1300~1500)
守田です(20170828 台湾時間08:00)
 
台湾に来ています。
今回は芸術家の友人夫妻とともに故宮博物院やアマミュージアムを訪れることと、日本軍「慰安婦」問題の犠牲者のおばあさんを訪ねることが目的の旅ですでに3回目の朝を迎えています。前回の台湾への旅は昨年末、おばあさんたちの足跡を記した「アマミュージアム」が開設されたときでした。オープニングセレモニーに招待してくださったのですが、このとき、台湾のアマとしてはただ一人出席してテープカットなどにも参加してくださった陳蓮花(チェンレンファ)アマも、今年になって亡くなられてしまいました。今日はあとわずか2人になったおばあさんを訪ねてきます。良い時を過ごしてきます。
 
さて、このところ「明日に向けて」でタイトルに掲げたNHKドキュメントの文字起こしを3回にわたって行いました。画期的な位置があると思ってのことです。
またこれに続いて2012年8月6日にやはりNHKドキュメントで放映された「黒い雨」に関する番組の文字起こしも再掲しました。黒い雨の調査がアメリカによって握りつぶされていたことを告発したものです。これをも踏まえて、今回の番組に関する僕なりの解説を試みたいと思います。

今回の番組で特筆すべきことは、原爆の残虐性の中で、これまで明らかにされていなかった特有の火傷のひどさが浮き彫りにされるとともに、アメリカや日本政府が認めてこなかった内部被曝の影響がビッグデータの解析から裏付けられたことです。
この内部被曝の絶大な影響については、これまで肥田舜太郎さん、矢ケ崎克馬さんなど、多くの方が告発を行なってきました。中沢啓治さんの名著『はだしのゲン』でもこの問題が明快に描かれています。原爆投下時には広島にいなかった兵隊のおじさんが、遺体処理等をしているうちに下痢を起こし、髪の毛が抜け、やがてガタガタ震え出して亡くなってしまうことなどを描くことを通じてです。
 
番組が扱ったデータは広島原爆投下の朝からの人々の行動の軌跡です。投下前、多くの人々が続々と広島市に出勤してきていました。その上にアメリカ軍は原爆を落としました。広島市はその後の人々の行動を調査していました。番組はこれら55万人以上の記録のすべてをデータに落とし込み、コンピュータグラフィックで原爆投下前から投下後の人々の動きを可視化しました。そのことで多くの事実が浮かび上がってきました。

番組は50分あり、文字起こし量も長いので3回にわけて掲載しましたが、この分割は、番組が主に3つのことを扱っていたことに沿ったものでもあります。
ここにも番組が掲載されているネット上のアドレスを記しておきます。
 原爆死 ヒロシマ 72年目の真実 (2017年8月6日 放送) 
 http://www.dailymotion.com/video/x5w6j3i
 
扱われたのは一つ目は「圧焼死」の問題です。
原爆は多くの家屋をたたきつぶし、崩壊させたため、多くの人々が下敷きになりました。身動きが取れないままの人々に火がまわってきて「圧焼死」するという惨劇を多数もたらしました。番組は実際に爆風でつぶされ、20人の女子学生が圧焼死した広島女学院を舞台にこの問題をレポートしました。
自らはがれきの中から這い出すことができて、友を助けようとしたものの、教師にうながされて泣く泣くその場を後にした女性が、焼け死んだ友を嘆き悲しむシーンが収録されています。
 
二つ目には新たに明らかになった原爆特有のやけどの問題です。
今回、原爆による猛烈な光線によって血管内部の水分が沸騰し、水蒸気を発生させて血管を熱破裂させていたことが告発されました。
このため血管の周囲の組織がダメージを受けて死滅。人々は皮膚が剥がれたまま2~3日かけて命を失っていきました。
さらにこの時期を生き延びた人々も、治りにくい深い火傷の傷から細菌が侵入して感染し、高熱と痛みにさいなまれながら一週間後には亡くなっていきました。いずれも長い苦しみの末の悶絶死でした。
 
番組はこれらの火傷が爆心地から500mから1.5㎞の「死のドーナツ地帯」とでも呼ぶべき地域に集中していたことも明らかにし、当時、こうした火傷患者が運び込まれた旧府中国民学校(現府中小学校)を舞台にレポートを発しています。
広島原爆で最も犠牲になった年齢層 は10代前半の少年少女たちでしたが、この救護所でも亡くなった方の中で最も多かった年齢層が14、15歳だったそうです。
この場に当時12歳で救護にあたった女性が登場します。彼女は少し年上の子どもたちに「家族にここにいることを伝えて」と言われながら、とても伝えるすべなどなく、その場しのぎの答えしかできなかったそうです。
 
「ごめんね。私なりに精一杯じゃった。ごめん。なんの力もなかったあ。ごめんなさい。すまなんだね。ごめんね」と彼女は号泣するのですが、なぜ彼女が謝らなければならないのでしょう。
目の前でたくさんの同世代の子どもたちをなぶり殺しにされ、助けようとして助けられないもどかしさに終生苦しめられてきたのであろう彼女もまた、原爆のむごさの犠牲者に他なりません。謝るべきは、償うべきは、原爆を投下したアメリカ軍とアメリカ政府、およびその関係者たちです。
私たちは原子爆弾のこうしたひどさをきちんとつかみとり、世界に発信していかなくてはならないと、激しく嗚咽する彼女の姿を見ながら、再度思いました。
 
この二つのことだけでも、核兵器がまったく許されざるものであることは明らかですが、この点で触れておきたいのは本年7月7日に採択された核兵器禁止条約の画期的な位置性です。同条約は核兵器の使用だけでなく、核兵器を使った威嚇をも禁止対象に上げました。広島・長崎に実際に原爆を投下し、そのことをこれまで一度も謝罪もしていないアメリカを始めとする「核クラブ」の国々のさまざまな妨害をはねのけ、戦後72年目にしてようやく締結されました。
 
ご存知のように日本政府は条約締結交渉に参加せず、条約そのものに反対しました。核兵器保有を戦略としているアメリカにまたもべったりと追従したのです。しかし一度も原爆投下を謝罪もしたことのないアメリカがいまの段階で参加することなどありえないことは明らかです。もし日本政府がアメリカに本当に参加を促すつもりがあるのであれば、日本は政府として、非人道的な核兵器の投下に対し、アメリカに謝罪を要求すべきです。
本来、日本中の都市への空襲も、沖縄での地上戦も、軍人と民間人を分けずにおこなわれたので、戦争犯罪として裁かれるべきですが、こうした一連のことを問い返すためにも、日本からアメリカの戦争犯罪を問い、謝罪を要求する必要がある。そしてそれこそが世界の平和の可能性を広げるのです。
 
僕は今、台湾にいて、今日は日本軍性奴隷問題の被害者のおばあさんを訪ねてきますが、日本政府に謝罪を求めた各国のおばあさんたちが異口同音に述べていたのは「二度と、若い子たちが同じ目に遭わないため」でした。そうです。もう二度と惨禍を繰り返さないために、日本政府は戦争犠牲者に誠実な謝罪と補償を率先して行なうべきであり、同時にアメリカに対して謝罪を求めるべきなのです。
 
この点を踏まえて、番組後半で明らかにされた内部被曝のデータ的裏付けの意義について、次号で述べていきたいと思います。
 
続く
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明日に向けて(1418)隠されてきた内部被曝の実態を明らかにするために被爆者が奮闘してきた―「黒い雨 活かされなかった被爆者調査」(NHKスペシャルより)その3

2017年08月24日 16時00分00秒 | 明日に向けて(1300~1500)

守田です(20170824 16:00)

連載中のNHKスペシャル「黒い雨 活かされなかった被爆者調査」の文字起こしの3回目をお届けします。これが最終回です。
今回は「黒い雨」の調査資料が隠されてきたことに対して、被曝者が原爆症認定を求めて裁判をおこすなど、奮闘してきたこと、この結果、裁判で黒い雨の影響を認める判決が引き出されましたが、なお国が内部被曝の影響を認めずに来ていることが描かれています。
重要なポイントですのでご注目ください。

とくに番組の終盤ではこのことと福島原発事故による被曝の問題のつながりが示唆的に描かれています。
今回の放影研への問い合わせの中で、初めて自らが黒い雨を受けていたことを母親が残してくれた証言から知った佐久間邦彦さんが、福島などから広島に避難してきたお母さんたちに次のように語っているシーンを流すことを通じてです。
「佐久間さんが繰り返し訴えているのは、事故のときにどこにいて、どう避難したのか、自分と子どもの記録を残すことです。被曝の確かなデータがなければ、子どもを守ることはできない。母親が答えてくれた自らの黒い雨の記録を見せながら、語り続けます」

広島・長崎原爆の被害の中で、アメリカが内部被曝の影響をひた隠しにし、だから「黒い雨」に関するデータが活用されてこなかったことがここまで描かれてきましたが、日本政府はこのアメリカの姿勢にべったりと追従し、多くの被爆者に「あなたは放射線被曝の影響を受けていない」と冷たく言い放ってきました。
被爆者の懸命の努力で、多くの裁判で、この政府の見解が正されましたが、それでもいまなお、政府は内部被曝の影響を認めていません。
そしていま、福島原発から飛び出した放射能による被曝に対しても、政府は同じ姿勢をとり続け、子どもや妊婦さんを含む膨大な人々を被曝するに任せています。

しかし「黒い雨」による内部被曝の実態は、被爆者援護政策が切り縮められてきており、とてもではないけれどもまっとうな救済措置にはなっていないことを明らかにするとともに、現在の日本政府による福島原発事故による被曝防護対策もあまりに誤っていることを突き出しています。
かつてアメリカに追従して、広島・長崎の被爆者を切り捨て、見捨ててきたと同じ理屈、同じ論理による被曝影響の極端な軽視が、いまなお繰り返されているのです。
この状態をなんとしてもひっくり返さなければいけないし、ひっくり返したい!
このNHKドキュメントで明らかにされた事態が私たちに問いかけているのはこのことであると僕は思います。

*****

「黒い雨 活かされなかった被爆者調査」2012.8.6NHKスペシャル
(その3は32分25秒から最後まで)
http://www.at-douga.com/?p=5774

1975年、ABCCは組織改正されます。日本も運営に加わる日米共同の研究機関、放射線影響研究所が発足しました。研究の目的に被爆者の健康維持や福祉に貢献することも加えられました。ABCCの調査を引き継ぎ、被爆者の協力のもと、放射線が人体に与える影響を研究しています。
国は放影研の調査結果をもとに、被爆者の救済にあたってきました。原爆による病気と認められた人に医療手当てを支給する原爆症の認定制度です。救済の対象は実質、初期放射線量が100mSvを越える2キロ以内。残留放射線の影響はほとんど考慮されてきませんでした。
原爆症と認められる人は、現在、被爆者全体のわずか4%、8000人にとどまっています。被爆者は自分たちの調査をもとに作られた国の認定制度との闘いを強いられることになりました。
2003年から全国にひろがった原爆症の認定を求める裁判。その中で被爆者は、半世紀以上も前の被曝の影響を自ら証明することを求められたのです。

原告の一人、萬膳ハル子さん(享年68)です。爆心地から2.6キロで被曝、黒い雨に合いました。訴訟が続いていた2005年、原爆症と認められないまま肝臓がんで亡くなりました。
遺族のもとには戦後の貧しさの中で学校に行けなかった萬膳さんが、国に訴える紙を書くために練習していた文字が残されています。
「一生懸命に頼みたいからね、こういう字とか、「切実」とか」
自らの苦しみを必死に伝えようとしていた萬膳さん。それに対し、国は、裁判で被曝の確たる証拠を示すように迫ったのです。

「黒い雨を浴びたなどと供述しているが、それに放射性物質が含まれていた証拠はなく、肝臓がんの発症に影響を与えるとの知見も存在しない」
「脱毛などの症状も、客観的証拠は存在しない上、考えられる被曝線量からすれば、放射線による急性症状とは考えがたい」(国が提出した裁判資料より)
萬膳さんが亡くなった翌年、黒い雨の影響を認める判決が出されました。しかしそれから6年が経った今も、国は認定制度を抜本的に見直そうとはせず、黒い雨の影響についても、認めようとしていません。

30年以上、被爆者の医療にかかわり、医師として原告団を率いてきた齋藤紀さん(医師)。詳細な調査もせず、黒い雨の影響をないものとしてきた国こそ、責任を問われるべきだと考えています。
「初期放射線で国は説明がつかないから被曝がなかったんだと国は言っているのですけれども、説明のつかない放射線にもとづくと思われる症状が、多数被爆者の中に認められていたわけですね。
その被害がなかったのかどうかは、その調査を突き詰めていくことによって結果として出てくることであって、その調査をつきつめないで被害がなかったというのは科学の常道ではないわけなんですね」(齋藤医師)

解明されてこなかった、黒い雨が人体におよぼす影響。放影研のデータが公開されないなか、被爆地広島の科学者たちが、独自の研究で明らかにしようと動きはじめています。(原爆放射線医科学研究所の映像)
広島大学の大瀧慈教授です。被爆者ががんで死亡するリスクについて研究してきました。大瀧教授らは、被ばくした場所によって、がんによるリスクがどのように変わるか調べてきました。すると意外な結果が得られたのです。
初期放射線の量は、距離と共に少なくなるため、死亡のリスクは同心円状に減っていくはずです。しかし結果は、爆心地の西から北西方向でリスクが下がらないいびつな形を示しました。初期放射線だけでは説明のできないリスクが浮かび上がってきたのです。
「まさか、同心円状でないようなリスクの分布があるということは、まさしく想定外だったと思いけれども。はい。」

このリスクは黒い雨によるものではないか。しかし大瀧教授らが使ってきた独自の被爆者データだけでは、確認できませんでした。37000人について、どこで被爆したか調べていますが、黒い雨にあったかどうかまでは尋ねていなかったからです。
去年、放影研が黒い雨の分布図を公開してから、大瀧教授らは新たな分析を試みました。被爆者ががんで死亡するリスク全体から、初期放射線の影響を取り除きます。すると問題のリスクが姿を現しました。それは西から北西にかけて、爆心地よりも高くなっていたのです。
これを今回、放影研が公開した黒い雨の分布図とあわせると、雨にあったと答えた人と、重なったのです。
「やはりその、リスクが高くなっている地域というのは、黒い雨の影響を受けたのであろうということが、強く示唆されているものと考えております。
直接被ばく以外の放射線の影響が、あまりにも軽視されてきたのではないかなということが、今回のわれわれの研究を通じてですね、明らかになってきたのではないかと思っております」(大瀧教授)

今年6月、大瀧教授らのグループは、研究成果を学会で発表しました。
「黒い雨などの放射性降下物が影響しているのではないかと想像されます」(研究員の学会における説明より)
黒い雨によるリスクをさらに明確にしたい。大瀧教授は放影研が持つ黒い雨のデータを共同で分析したいと考えています。

放影研はABCCが作成した93000人の調査記録をもとに、すべての被爆者を追跡し、どのような病気で亡くなったか調べています。国から特別な許可を得て、毎年全国各地の保健所に、新たに亡くなった方の調査票を送り、死因の情報を入手しているのです。
黒い雨にあったと答えた13000人について死因の情報を分析すれば、黒い雨の人体への影響を解き明かせるのではないか。大瀧教授は考えています。
「黒い雨の影響を研究する上で、世界に類をみない貴重なデータだと思います。可能な限り、広い見かたができるような状況で解析をするということが、データから真実をひきだす必要条件だと思います。そうするとデータはおのずから語ってくれるようになると思います。真実をですね」(大瀧教授)

こうした指摘を放影研はどう受け止めるのか。共同研究については、提案の内容を見て判断したいとしています。しかし黒い雨による被曝線量が分からない限り、リスクを解明することはできず、データの活用も難しいとしています。
「可能性があるというところまでは、ああ、そうですかということで、もちろんそうかもしれない。そうかもしれないだけで、それ以上のことはいえませんのでね。
ゆがむにはゆがむだけの死亡率の、リスクの違いがあるわけですから、その違いを証明できるだけの被曝線量を請求書でもなんでもだしていただかないとですね、放影研として一緒に、同じ土俵で議論することはできないということです。」(大久保理事長)

今、私たちは新たな被曝の不安に直面しています。去年おきた原発事故です。子どものころ、母親の背中で黒い雨を浴びた佐久間邦彦さん。福島などから広島に避難している母親たちに、自らの体験を語り始めています。
「母が私を連れて裏山に逃げたのですが、そのときに黒い雨にあったのですね。」(母親たちへの講演で)

佐久間さんが繰り返し訴えているのは、事故のときにどこにいて、どう避難したのか、自分と子どもの記録を残すことです。被曝の確かなデータがなければ、子どもを守ることはできない。母親が答えてくれた自らの黒い雨の記録を見せながら、語り続けます。
「調査したけれども、その後、何もやっていない。やはり広島の経験を、本当に調査をやってなかったことは残念なことなのですが、怠慢だと思いますが、だけどやはり福島で生かすためには、どんどん進めていかなければいけないと思いますね。過去を振り返りながらね。そうすることが子どもたちを守ることにつながると思います」(佐久間邦彦さん)

広島・長崎で被ばくし、ガンなどの病気で苦しんできた被爆者たち。
長年にわたって集められてきた膨大なデータは、放射線によって傷ついた一人ひとりの体を調べることによって得られたものです。半世紀の時を経て明らかになった命の記録。見えない放射線の脅威に正面から向き合えるかが、今、問われています。

終わり

語り 伊東敏恵
声の出演 坂口芳貞 関輝雄

取材協力 高橋博子 冨田哲治
広島原爆被害者団体協議会
国立広島原爆死没者追悼平和祈念館

資料提供 アメリカ国立公文書館
全米科学アカデミー 広島平和記念資料館
気象庁 広島大学原爆放射線医科学研究所
林重男 林恒子

取材 田尻大湖 山田裕規 松本成至
撮影 佐々倉大
音声 土肥直隆
映像技術 猪股義行
照明 西野誠史
CG製作 妻鳥奨
音響効果 小野さおり

編集 川神侑二
リサーチャー ウインチ啓子
コーディネーター 柳原緑
ディレクター 松木秀文 石濱陵
製作統括 井上恭介 藤原和昭

制作 著作 NHK広島

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明日に向けて(1417)アメリカが核戦略維持のために真実を葬った―「黒い雨 活かされなかった被爆者調査」(NHKスペシャルより)その2

2017年08月23日 11時30分00秒 | 明日に向けて(1300~1500)

守田です(20170823 11:30)

前回に続いて2012年8月6日に放映されたNHKスペシャル「黒い雨 活かされなかった被爆者調査」の文字起こしの続きをお届けします。
今回はNHKの取材班がアメリカに飛んで、広島における「残留放射線の影響」に関する研究・調査が、核実験が頻繁に行われ、日本の漁船、第五福竜丸が被曝させられていく中で、アメリカに不利だとしてもみ消されていった過程が明らかにされています。

とくに注目すべきはABCCに属していたローウェル・ウッドベリー博士が、「黒い雨など残留放射線の影響は低い」とした戦後直後の測定結果に疑問を投げかけていたことです。
残留放射線の影響調査は、原爆投下の一か月後、戦後の三大台風の一つとされる巨大な枕崎台風が広島を直撃し、洪水を起こし、放射性降下物の多くが海に流されたあとに行われていたからです。
博士はこの点の追及を進めますが、やがて辞職に追い込まれていき、以下のような言葉を残しています。
「この問題はほとんど関心がもたれていない。私が思うに、何度も何度も、研究の対象としてよみがえっては何ら看取られることなく、静かに葬り去られているのだ。」

ちなみに広島原爆の残留放射線の影響調査が、巨大な台風が広島市を襲った後に行われたことの理不尽さ、非科学性を一貫して主張されてこられたのが矢ケ崎克馬さんです。
広島には原子雲から大量の「死の灰」が降ったのでした。アメリカ軍はその存在を十分に知りつつ、広島市が巨大台風による洪水を被り、放射性降下物が流されたあとに市内の調査を行いました。
そして洪水で流された残りの降下物の量から、原爆投下直後の降下物の量を「推し量る」という科学に見せかけた大嘘の報告書を作成し、放射性降下物の摂取による内部被曝の影響を完全に無視したのでした。
こうした偽の調査を1986年にまとめたのが「放射線量評価体系(DS86)」ですが、これがその後の放射線傷害の認定の基準とされています。矢ケ崎さんは著書『隠された被曝』でそのあまりにもひどい非科学性を怒りを込めて暴露されています。
私との共著『内部被曝』(岩波ブックレット)でこの点をより分かりやすくまとめてくださっていますので、ぜひこの2冊をお読みいただきたいです。

以下、黒い雨調査隠しの核心部分についてお読み下さい。

*****

「黒い雨 活かされなかった被爆者調査」2012.8.6NHKスペシャル
(その2は17分35秒から32分25秒まで)
http://www.at-douga.com/?p=5774

(アメリカ ワシントン)

ABCCに資金を提供し、大きな影響力を持っていたのが、原子力委員会(現エネルギー省)です。戦時中、原爆を開発したマンハッタン計画を引き継ぎ、核兵器の開発と、原子力の平和利用を、同時に進めていました。
被爆者の調査がはじまったのは1950年代。
「核分裂物質が人類の平和のために使われるだろう」(アイゼンハワー大統領)

アイゼンハワー大統領の演説を受け、原子力の平和利用に乗り出したアメリカ。しかし核実験を繰り返した結果、国内で被曝への不安が高まり、対処する必要に迫られていました。
原子力委員会の意向を受け、ABCCは被曝の安全基準を作る研究にとりかかります。被爆者93,000人について、被曝した状況と健康被害を調べて、データ化する作業がいっせいに始まりました。
当時の原子力委員会の内情を知る人物が、取材に応じました。セオドア・ロックウェル氏、90歳です。戦時中、広島原爆の開発に参加したロックウェル氏は、原子力委員会で、原子炉の実用化を進めていました。
安全基準を一日も早く作ることが求められる中で、黒い雨など、残留放射線について調べる気は初めからなかったといいます。
「被爆者のデータは絶対的な被ばくの安全基準を作るためのものだと最初から決まっていました。残留放射線について詳しく調査するなんてなんの役にも立ちません。」

さらに私たちは残留放射線の問題に対する原子力委員会の強い姿勢を示す資料にいきあたりました。
「これは原子力委員会からの手紙です。1955年のものです」

手紙を書いたのは、原子力委員会の幹部だったチャールズ・ダナム氏。調査を始めるにあたって、学術機関のトップにこう説明していました。
「広島と長崎の被害について、誤解を招く恐れのある、根拠の希薄な報告を抑え込まなければならない」

ダナム氏が抑え込もうとしていた報告とは何か。ちょうどそのころ、広島のABCCで残留放射線の影響を指摘する報告書が出されていました。
「広島における残留放射線とその症状」。
報告書を書いたのは、ローウェル・ウッドベリー博士。広島のABCCで統計部長を務めていました。報告書の中で博士はまず、黒い雨など残留放射線の影響は低いとした当時の測定結果に疑問を投げかけています。
原爆投下の1ヵ月後、巨大な台風が広島を直撃。ほとんどの調査はそのあとに行われ、測定値が正確でなかった可能性があると指摘しています。

「台風による激しい雨と、それに伴う洪水によって、放射性物質の多くは洗い流されたのかもしれない。」
ウッドベリー博士は、実際の被曝線量は、健康被害が出るほど高いレベルではなかったかと考えたのです。

その根拠として、ある女性の調査記録を示しています。下痢や発熱そして脱毛など、九つもの急性症状が出たことをあげ、黒い雨など、残留放射線の影響ではないかと指摘しています。
「女性が被曝した4900メートルの距離では、初期放射線をほとんど受けていないはずだ。女性は市内をさまよっている間、黒い雨が降った地域を数回通っている。この領域の放射線量が高ければ、症状が出るほどの被曝をしていたかもしれない。」
女性の名前は栗原明子(くりはらめいこ)。取材を進めると、この女性が今も広島にいることが分かりました。

栗原明子さん。86歳です。当時、ABCCに事務員として務めていたため、ウッドベリー博士の調査の対象にもなっていました。原爆が投下されたとき、爆心地から5キロの場所にいた栗原さん。その後、市の中心部にあった自宅に戻り、激しい急性症状が出たのです。
「髪をといたら、櫛にいっぱい髪の毛がついてくるから、これはおかしいね思って、髪の毛が大分抜けましたね。」

しかし残留放射線の影響をうたがっていたのは、ウッドベリー博士だけで、ほかの研究者に急性症状のことを話しても、まったく相手にされなかったといいます。
「怒ったように言われましたね。絶対にありえないいうて。二次被曝というようなことは絶対にありえないからって断言されました。
矛盾しているなあ思ったんですけれど、本当に私も体験して、他にも体験した人をたくさん知ってましたからね。なぜそれは違うんかなあと思って、不思議でしかたがなかったんですけれども」。

ウッドベリー博士が報告書を書いた直前、アメリカは太平洋のビキニ環礁で水爆実験を行っていました。日本のマグロ漁船、第五福竜丸が、放射性物質を含んだいわゆる死の灰を浴び、乗組員が被曝。死の灰の一部は日本にも達し、人々に不安が広がっていました。
「一方、青果市場には、おなじみのガイガーカウンターが出動しました。青物をしらみつぶしに検査しましたが、ここでも心配顔が増えるばかりです。」(当時のテレビニュースより)
「最近、日本の漁師が、水爆実験による死の灰で被曝するという不幸な事件が起きた。今、広島・長崎の残留放射線に対する関心が、再び高まっている。この問題は、より詳細な調査を必要としているのだ。」(ウッドベリー博士)

原子力委員会のダナム氏は、こうした主張こそ、東西冷戦の最中にあったアメリカの立場を悪くするものだと警告します。
第五福竜丸事件の後、日本で反米感情と、反核の意識が高まっていました。広島では第1回、原水爆禁止世界大会が開かれ、被爆者が被害の実態と核の廃絶を訴えはじめていました。
「もしもここでアメリカが引き下がれば、何か悪いもの、時には共産主義の色合いのものまでが広島・長崎の被害を利用してくるだろう。そうなればアメリカは敗者となってしまうだろう。」(ダナム氏)

被害の訴えに強く対処すべきだという考えは、原子力委員会の中であたりまえになっていたとロックウェル氏はいいます。
「放射線被害について人々が主張すればするほどそれを根拠に原子力に反対する人が増えてきます。少なくとも混乱は生じ核はこれまで言われてきた以上に危険だという考えが広まります。
私もアイゼンハワー大統領も考えていたように原子力はアメリカにとって重要であり、原子力開発にとって妨げになるものは何であれ問題だったのです。」(ロックウェル氏)

1958年11月、原子力委員会の会議にダナム氏と、広島から呼び寄せられたウッドベリー博士が出席。残留放射線の問題が議論されました。議事録は公開されていません。分かっているのは、会議の1ヵ月後、ウッドベリー博士が、ABCCを辞職したことです。
ウッドベリー博士の報告書には、こんな一節が残されています。
「この問題はほとんど関心がもたれていない。私が思うに、何度も何度も、研究の対象としてよみがえっては何ら看取られることなく、静かに葬り去られているのだ。」

ウッドベリー博士が、報告書の中で残留放射線の影響を指摘した栗原明子さんです。戦後、貧血や白内障など、さまざまな体調不良に悩まされ続けました。
しかし被曝直後の急性症状も、その後の体調不良も、その後の研究で省みられることはありませんでした。

続く

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明日に向けて(1416)「黒い雨」による被曝データが隠されていた―「黒い雨 活かされなかった被爆者調査」(NHKスペシャルより)その1

2017年08月22日 23時30分00秒 | 明日に向けて(1300~1500)

守田です(20170822 23:30)

明日に向けて(1413)~(1415)で、2017年8月6日に放映されたNHKスペシャル「原爆死 ヒロシマ 72年目の真実」の内容を文字起こしして紹介しました。
これを踏まえて僕なりの解説を試みようと思っているのですが、その過程で5年前の2012年8月6日にやはりNHKスペシャルで放映された「黒い雨 活かされなかった被爆者調査」という番組のことを思い出しました。
この時も非常に重要な内容が展開されたと考えて、すぐに文字起こしを試み、同年8月11日に以下のように記事にしました。

「明日に向けて(526)「黒い雨 活かされなかった被爆者調査」(NHKスペシャルより)
http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011/e/6529d3ea6f5edcd5becace7cda4452be

今回、読み返してみてNHKの取材の積み重ねの素晴らしさに共感し、ぜひ5年後に作られた「原爆死 ヒロシマ 72年目の真実」を補足する形でこの番組も観ていただきたいと思い、再度、文字起こし部分を掲載することにしました。ぜひお読み下さい。
なお再録にあたって、いまもネット上にアップされている番組の動画を調べて記入しましたので、時間のある方は番組そのものをご覧ください。

***********

「黒い雨 活かされなかった被爆者調査」2012.8.6NHKスペシャル (その1は17分35秒まで)

http://www.at-douga.com/?p=5774

広島に住む女性が大切に保管しているものがあります。無数の黒いシミが残るブラウスです。

「染み込んどるの洗っても洗ってもとれんかった、これ。」

原爆投下直後、広島に降った黒い雨。67年前の確かな痕跡です。
アメリカが広島・長崎に投下した原子爆弾。きのこ雲には、爆発で巻き上げられたチリや埃とともに大量の放射性物質が含まれていました。それが上空で急速に冷やされ、雨となって降りました。いわゆる黒い雨です。
原爆資料館に保管されている雨だれのあと、原爆の材料となったウランなどの放射性物質が検出されています。しかしこれまで雨がどこに降り、どれだけの被曝をもたらしたのか詳細なデータがないため、わからないままになっていました。
ところが去年12月、国が所管する被爆者の調査をする研究所に大量のデータが存在していたことが明らかになりました。

公開されたのは広島・長崎10000人を超える被爆者がどこで雨にあったのかを示す分布図です。丸の大きさが雨にあった人数を表しています。データは戦後、被曝の影響を調べる大規模な調査の中で集められたものでした。
突然あかされた新事実。黒い雨を浴びてガンなどの病気になっても、その影響を認められなかった人たちに衝撃が広がっています。

「どうしてだしてくれんかったんかね。こういうものがあったのに」
「これはもう、憤り以外の何者でもないですよね」

このデータをもとに、黒い雨の実態解明を進める動きも起きています。最新の研究で、雨が多く降ったところで、被爆者ががんで死亡するリスクが高まっている可能性が浮かびあがってきたのです。
「まったく驚きですね。リスクが高くなっている地域が黒い雨の影響を受けているんだろう」
黒い雨のデータはなぜ生かされてこなかったのか。それは今の時代に何を語るのか。被曝から67年、はじめて明らかになる真実です。

今回公開された黒い雨のデータ、その存在があきらかになったのは長崎のある医師が抱いたある疑問でした。長崎市内で開業している本田孝也医師です。
黒い雨を浴び、体調不良を訴える患者を長年診てきました。

「アメの色は黒かった?」
「はいもう黒かったですよ、汚れて」
「髪の毛が抜けたとは」
「私は髪の毛が抜けたなという感じはしましたもんね。」(患者との対話)

患者の中にはガンや白血病などの病気になった人も少なくありませんでした。しかし詳しいデータはなく、どうすることもできませんでした。
何か資料はないのか。さまざまな文献に当たる中で、去年、気になる報告書を見つけました。広島と長崎で、被爆者の調査をしてきたアメリカの調査機関ABCCの調査員が内部向けに書いたものでした。そこには黒い雨を浴びた人に、被曝特有の出血斑や脱毛などの急性症状が出たことが集計された数字と共に記されていました。元になったデータがあるのかもしれないと本田さんは思いました。

「そんなことは聞いたことがなかったので、それほどのデータがあったのかなと、ずっと昔から研究されている研究者の中で話題にならなかったのかというのが、最初は不思議だなと思ったところですね。」

本田さんは当時、報告書を書いた研究員がいた研究所に問い合わせました。
アメリカのABCCを引き継いだ放射線影響研究所、放影研。国から補助金を受けて、被爆者の調査を行い、そのデータは被曝の国際的な安全基準の元になってきました。本田さんに対する放影研の答えは、確かに黒い雨に対する調査は行ったが、詳細は個人情報であり、公開はできないというものでした。そのとき渡されたのは調査につかった質問表でした。どこで被曝したか、どんな急性症状を起こしたか、数十もの質問が並んでいました。
1950年代、ABCCが放射線の人体への影響を調べるため、広島と長崎の被爆者93000人に行った聞き取り調査でした。

「原爆はどちらでおあいになりましたか?脱毛はありましたですか?」
「すっかり毛が抜けてしまったんです」

「原爆直後、雨にあいましたか?」 黒い雨に関する聞き取り項目もありました。
放影研は本田さんとの数回におよぶやりとりの末、13000人がイエスと答えていたことを初めて明かしたのです。

「ほんとかなという実感がわかなくて。なんかありそうじゃないじゃないですか、そんな膨大なデータをいまどき、そのままにしているなんて。
そこからは何かがでるはずだろうし、何で今まで出さなかったのかという、ちょっと険しいやりとりになったのですけれど。」

マスコミから問い合わせが殺到し、2ヵ月後、放影研は分布図だけを公開しました。これまで公開しなかった理由について、隠してきたわけではなく、データの重要度が低いと判断したからだとしています。その根拠は何か。
放影研が重視してきたのは、原爆炸裂の瞬間に放出される初期放射線です。その被曝線量は爆心地から1キロ以内では、大半が死に至るほど高い値ですが、2キロ付近で100mSvを下回ります。100mSvは健康に影響をもたらす基準とされている値とされていて、放影研はそれより遠くでは影響は見られないとしているのです。

しかし被曝はそれだけではありません。黒い雨や地上に残された放射性物質による残留放射線です。原爆投下後の1ヶ月あまり後の測定から、被曝線量は高いところでも10から30mSvと推測されています。
放影研の大久保利晃理事長。残留放射線の被曝線量は、研究の中で無視してよい程度だったとしています。

「集団としてみた場合には黒い雨の影響はそんなに大きなものではなかったと思います。影響はないとは言ってませんよ。もちろん放射線の被曝の原因になっているということは間違いない事実だと思いますけれど。それが相対的に直接被曝の被曝線量と比べて、それを凌駕する、あるいは全体的に結論を変えなければいけないようなものであったかという質問であっととすれは、それはそんなに大きなものではなかったと。」

公開された分布図を見ると、黒い雨にあった人は、爆心地から2キロの外にも多くいたことが分かります。それなのになぜ黒い雨の影響を調べなかったのか。多くの人が、放影研の説明に納得できずにいます。
爆心地からおよそ2.5キロ。広島市の西部、己斐(こい)地区です。黒い雨が激しく降りました。しかしひとりひとりが黒い雨を浴びた確かな証拠はありません。

佐久間邦彦さん。67歳です。当時、生後9ヶ月だった佐久間さんにとっても、黒い雨を浴びたことを示すものは自分をおぶっていた母の話だけでした。
「聞いているのは最初、パラパラっときて、それからザーッときたというふうには聞いてますけどね。頭と背中と、当然、もろに濡れたんじゃないかなと思っています。」

佐久間さんは幼いころから白血球の数が異常に少なく、小学生のときには、腎臓と肝臓の大病を患いました。母親の静子さんは乳がんを発症。しかし黒い雨を浴びた確かな証拠はなく、その影響を強く訴えることはできませんでした。佐久間さんは放影研のデータの存在を知り、自分のデータはあるのか問い合わせました。二週間後、送られてきた封筒には、調査記録のコピーが入っていました。
「イエスというふうにこれ(原爆直後、雨ニ逢イマシタカ?)にチェックしてあります。まさかですね、私がこの中の人になるとは思っていなかった。」

調査に答えていたのは母、静子さんでした。母が答えた調査記録があるのに、なぜ国は病気のことを調べてくれなかったのか。病気と黒い雨との関係を明らかにできなかったのか。疑念が湧いてきました。
「そのままにしておかれたのかという、私たち被爆者の立場から考えたら、もう何の調査もされていないということは、これはもう憤り以外、なにものでもないですよね。」

今、放影研から調査記録を取り寄せる被爆者が相次いでいます。私たちは今回、被爆者の承諾を得て、53人分の調査記録を集めました。被爆者自身、初めて眼にする黒い雨の確かな記録です。中には、発熱や下痢など、複数の急性症状が爆心地から5キロの場所にいたにもかかわらず、強く出ていたという記録もありました。
調査を行ったABCCは、黒い雨のデータを集めていながら、なぜ詳しく調べることなく眠らせていたのか。私たちは調査を主導していたアメリカを取材することにしました。

続く

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明日に向けて(1415)広島の被曝死の真実を捉え返す−3 2.5キロ圏外でも多数の内部被曝死が起こっていた!(NHK「原爆死 ヒロシマ 72年目の真実」より)

2017年08月19日 16時00分00秒 | 明日に向けて(1300~1500)
守田です(20170819 16:00)
 
NHKスペシャル「原爆死 ヒロシマ 72年目の真実」の内容の紹介の3回目です。
今回、紹介されているのは「いまだ解明されずにきた問題」とされている内部被曝についてです。
ナレーションがこう説明しています。
 
「国は広島の原爆による放射線をめぐって、爆心地から2.5キロより遠方では、直接的な健康被害はほとんどないとしてきました。
しかし広島市の被爆者動態調査では、2.5キロより遠いところで被爆しながら急性原爆症で亡くなったとされた人が500人以上いたのです」
 
実はここで2.5キロとされているラインももともとは2キロとされていました。
戦後にアメリカ占領軍が作った原爆傷害調査委員会(ABCC)が「放射線傷害は爆心地から半径2キロ以内でしか確認されていない」と言い張ったからです。
この2キロラインは外部被ばくの線量が100ミリシーベルトだったと推定されるところで、実はこれが「100ミリシーベルト以下安全論」の根拠にもされています。
これが2.5キロまで拡大されたのは、少しでも被害認定を拡大しようと、多くの被爆者が血のにじむような努力を重ねる中で政府の見解をあらためさせたためです。
 
しかしこの「傷害」は外部被曝だけを原因としたものでしかありませんでした。内部被曝による被害は一切、調べられて来なかったのです。ところが今回の調査でこの2.5キロラインの外にいた少なくとも500名の方たちが、急性原爆症で次々と亡くなっていたことが明らかになりました。
しかも番組は二つのタイプの亡くなり方を調べ上げています。1つは2.5キロよりも外で被災しながら、避難の途中に爆心地を通り、放射性の塵を吸ったと思われる方。そしてもう一方はこの2.5キロ圏に一度も入らなかったのに、すぐに容態が悪化して亡くなっていった方です。後者の方が住まわれていた家には、放射性物質が大量に含まれていた「黒い雨」が降っていました。
 
これらのことは今までも肥田舜太郎さんや矢ケ崎克馬さんなど、さまざまな方から繰り返し指摘がなされながら、データ的な裏付けがされてこなかったことがらでした。NHKは今回、この2.5キロより外でも多くの方が急性症状によって亡くなっていたことを裏付け、これまでの「2.5キロより外では放射線傷害は起こっていない」としてきた政府の見解の誤りを明確に正しています。政府は即刻、自らのあやまちを認め、放射線傷害は2.5キロより外では起こってないとしている見解を撤回すべきです。
 
以下、文字起こしを紹介します。なお今回が番組紹介の最終回になるため、番組の制作者や出演者、協力者、協力団体などのクレジットも紹介します。番組の作成に携われたすべての方への感謝を捧げます。
 
*****
 
原爆死 ヒロシマ 72年目の真実 (2017年8月6日 放送) −3
 
ビッグデータが明らかにする原爆死。
データはいまだ解明されずにきた問題に光を与えようとしています。
 
投下から2週間が経ったころ、人々の死因には変化が現れます。
それまで最も多かったのは焼死や圧焼死、火傷などでした。
ところが8月21日、この日を境に急性原爆症が上回ります。
 
広島市は動態調査で、当時、下血や下痢などの症状で、1945年の年末までに亡くなったと記録された人を急性原爆症としました。
急性原爆症で亡くなったとされた人たちがどこで被爆したかをデータをもとに可視化しました。
すると爆心地から遠くはなれた場所で被爆したにもかかわらず、多くの人が亡くなっていたのです。
国は広島の原爆による放射線をめぐって、爆心地から2.5キロより遠方では、直接的な健康被害はほとんどないとしてきました。
しかし広島市の被爆者動態調査のデータでは、2.5キロより遠いところで被爆しながら、急性原爆症で亡くなったとされた人が500人以上いたのです。
とくに数が多かったのが旧南観音町(みなみかんおんまち)です。
ここでは44人が亡くなったとされていました。
 
この地域で何が起きていたのか
私たちはデータを手がかりに亡くなった人たちの遺族を捜して聞き取りを行ないました。
その結果、一人の遺族が取材に応じてくれました。
奥本和彦さん。74歳です。
 
「これが父ですね」
亡くなったのは父の正市さん。当時37歳でした。被爆したあと連絡がとれなくなりましたが、一週間後、無傷で帰宅したと言います。
 
奥本
「「元気じゃ元気じゃ」というふうなことで、家族が再会して絶頂期の喜びを感じて、「広島はああだったこうだった」という話をですね、村人の、この近所の方にも説明していたようですよ。「私は運がよかった。助かった」と」
 
「この辺りになるかと思います」
正市さんは被爆してからの自らの足取りを家族に話していました。
職場の南観音町で被爆した直後、避難の途中で爆心地近くのけが人の救助に手を貸していました。
その後、県北部、家族が疎開していた村に向かいました。
身体に異変が起きたのは、帰宅して一週間後のことでした。
 
「吐血が始まる。洗面器を持って来たらぶわーっと血が出る。触ると髪の毛が抜けるというのが繰り返し」
そして8月26日。治療に向かう大八車の上で正市さんは亡くなりました。
 
原因も分からず苦しむ正市さんを家族はなすすべもなく、看取るしかなかったといいます。
「なんで原爆で37歳で亡くなったのかなあという思いの方が強いですね。
もう70年経ってもまだ苦しんでいる。
「なにか私たちがしたか」それだけですね。悔しい」
 
爆心地から2.5キロより外にある南観音町で被爆してなくなった正市さん。
その体内で何がおきていたのか。
 
広島大学の名誉教授の星正治さんです。
放射線の人体への影響について研究を続けてきました。
正市さんの足取りをみて可能性を指摘したのは、爆心地で小さい埃の粒を吸い込んでおきる内部被曝です。
 
原爆の炸裂により建物の土壁などが一瞬で放射能をおび、その後、大量の粉塵が飛散したと考えられています。
原爆投下直後に爆心地に入った人々は、放射能を帯びた大量の埃を大量に吸い込んだ可能性があります。
国は原爆による内部被曝の線量は極めて小さいとしています。
しかし星さんはそう断言するには研究がまだ十分ではないと感じています。
 
「どうも怪しいというか何かあるとずっと思い続けてきたわけです。
それを証明しようとしてきたわけだけれど、証明がすごく難しいわけですね」
 
これは星さんが繰り返して来た実験の映像です。(カザフスタンにて)
放射能を帯びた粉じんをねずみに吸い込ませています。
これまでの実験結果によると、ネズミの体内では粉じんが付着した肺の細胞が破壊されたことが分かっています。
正市さんは原爆が炸裂した直後に爆心地近くに入ったことで死に至った可能性があるといいます。
内部被曝が人々の死に影響した可能性が、今回のデータ解析からあらためて浮かび上がったきたのです。
 
「いわゆる直爆の放射線はほとんどないわけですから、その人たちがおそらく放射線による影響を受けたような脱毛とか下痢とかの症状があるということは、今まで分からなかった放射線の影響がある可能性があると思っています。これは解明していかないといけないと思います」
 
さらにビッグデータからは爆心地に近づいていない人の中に、同じようなケースがあることがわかりました。
爆心地の西にある旧己斐(こい)町です。ここでは67人が急性原爆症で亡くなったと記録されていました。
山に囲まれたこの町で何が起きていたのか。私たちは亡くなった人のうち4人の遺族を捜しあてました。
取材の結果、その4人は爆心地に近づいていないにも関わらず4ヶ月以内に亡くなっていたことが分かりました。
 
遺族の一人 大塚叔子さんです(74歳)。
当時、76歳だった曾祖母のヒロさんと2歳だった従兄弟の啓一さんを亡くしました。
大塚さんが当時住んでいた家の平面図をもとに説明してくれました。
 
大塚
「ここです。ここで朝ご飯を食べていて、光を感じて倒れた」
 
曾祖母のヒロさんと従兄弟の啓一さんは、暫くして下血などの症状を発生したといいます。
「寝たきりで起きてはこれなかったみたいで、離れにいって食事を与えたりしてたけれども、受付はしなくて、水を飲ませるしかないみたいな感じでした」
家族は懸命に介抱しましたが、下血がひどくなり、2人は2ヶ月以内に亡くなりました。
「ただただ何が起こったか分からないという感じで、腸からどろどろとしたようなものが出て、亡くなってしまった」
 
なぜ2人は亡くなったのか。大塚さんはある写真を見せてくれました。
写っていたのは自宅の庭にあった灯籠です。上の部分がどす黒く見えます。その原因は原爆の後に降った放射性物質やすす等を含む黒い雨だと言います。
己斐町で何が起きていたのか。
 
原爆による放射線の影響について研究を続けて来た広島大学特任教授(大学院放射線物理学)の静間清さんです。
「ちょうど己斐の駅があってこう‥」
まず動態調査と取材の結果をみてもらいました。
 
静間
「確かに驚きますね。こういうデータを見ましたら。特に市内にも入っていないような方でしたら、考えられることとしてはフォールアウト、それが全てフォールアウトなのかどうかは分かりませんけれども、何らかの影響があったとすれば、フォールアウトかなというのはその意味では驚きです」
 
原爆でおきたフォールアウト。爆発直後、大気中に放出された放射性物質が拡散し、その一部が雨等とともに地表に落ちる現象です。
8月6日、原爆投下の2〜30分後から己斐町には雨が降ったとされています。
これまでの研究でこの雨には放射性物質が含まれていたことが分かっています。
 
当時、己斐町で干されていた洗濯物です。静間さんはここから残留する放射性物質を測定しました。 
原爆由来のセシウム137が検出されました。
己斐町は三方を山に囲まれた特有の地形です。雨水が谷に沿って集まりやすくなっています。
静間さんは放射性物質を含む雨が、この地域で濃縮された可能性を指摘しています。

この地域について、国は「フォールアウトによる放射線量では、健康への影響は認められない」としています。
しかし静間さんは放射性物質を含んだ水を体内に取り込んだ場合、健康への影響は出る可能性があると言います。
 
静間
「人が浴びる外部線量、体の外から浴びる線量ですが、それだとすぐ死亡に結びつくようなそんな線量にはならないと思います。
それを何らかの形で体に取り込んだということがあれば、被曝線量は少し高くなるのではないかと思います。
死亡に結びついたかどうかは置いておきまして、影響が出た可能性はあると思います」

データ解析から見えてきたもの。
それは放射線の影響が少ないとされてきた地域に見過ごされた死がまだ残されてるという重い事実でした。

広島市役所原爆被害対策部調査課です。
原爆被害の実態を正確に伝えるため、大学と協力しながら今も動態調査を続けています。

広島大学原爆放射線医科学研究所 大谷敬子研究員
「被爆者個人個人を追いかけてたんじゃ分からないことが数を追いかけてくると見えてくる。
今私たちがこうしてやっているっていうのは未来のため、今後のために何か役に立てるんじゃないか」
 
被爆者55万人のビッグデータ、原爆被爆者動態調査。
そこから見えてきたのは、一人一人の命が無残に奪われていった死の現実でした。
原爆が投下された日、生きながら焼かれ命を奪われていった人々。
命を取り留めた人が、傷つきながらも生きようとした痕跡。
治療を求めた先で家族に会う希望すら奪われ、亡くなっていきました。
放射線の影響が及ばないとされた地域では、いまだ亡くなった理由が分からない死もありました。
被爆者55万人のデータは、核兵器がもたらすあまりにも残虐な死の実態を改めて突きつけています。
 
語り 新井浩文
取材協力 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館
     広島大学原爆放射線医科学研究所
     広島女学院 水野潔子 野邊英子
     佐伯晴将 七條和子 田村克巳 村上秋義
 
資料提供 広島平和記念資料館 広島市公文書館 国土地理院
     松室一雄
     広島市市民局文化スポーツ部文化振興課
     Hoover Institution Archives
 
写真提供 尾糠政美 川原四儀 木村権一 中田左都男
 
撮影   森山慶貴
照明   堀口武士
音声   森嶋 隆
映像技術 佐山りか
 
映像デザイン 妻島 奨
CG制作   鈴木 聡
VFX     長谷川翼
音響効果 福井純子
編集   関口正俊
コーディネーター 野島理紗子
リサーチャー 坂本千晃
取材   阿部博史 長尾宗一郎
 
ディレクター 葛城 豪(葛の下は「ヒ」)片山厚志
制作統括 樋口俊一 高倉基也
     今井 徹
 
制作 著作 NHK広島
 
***
 
番組紹介を終わります。
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明日に向けて(1414)広島の被曝死の真実を捉え返す−2 原爆は血管を破裂させ人々を悶絶死させた(NHK「原爆死 ヒロシマ 72年目の真実」より)

2017年08月18日 08時00分00秒 | 明日に向けて(1300~1500)
守田です。(20170818 08:00)
 
前回に続いてNHKスペシャル「原爆死 ヒロシマ 72年目の真実」の内容の紹介を行ないます。
今回は原爆特有の火傷について報じているところを扱っています。とくに特徴的なのは爆心地から500mから1.5㎞の範囲で、即死は免れたもの3日後から一週間後にかけて多くの方が火傷で亡くなっていったことです。番組はここを「死のドーナツ地帯とも呼べる地域」と名指しています。
 
ここで起こった火傷は、通常のそれと違っていました。原爆は強烈な光線によって血管内部で水蒸気を発生させ、血管を熱破裂させたからでした。このため即死を免れた人々の血管の周りの組織が徐々に死滅していき、3日間のうちに悶絶死が訪れました。さらにその3日間を生き延びても、火傷の傷口から細菌が入り込んで感染症が起こり、人々は激しい痛みと高熱のうちに一週間で亡くなっていきました。ある小学校に作られた救護所では、亡くなった方のうち最も多かったのは14歳、15歳の少年少女でした。
 
この火傷の研究を行っている日本熱傷学会の元理事、原田輝一医師は、番組の中で以下のように語っています。
「あらゆる意味で害が大きい。ひょっとするとこの爆弾というのは軍事目的で使うものではなくて、一般市民を標的にして、一般市民を苦しめる効果のほうがはるかに大きいものじゃないかなというふうに感じますね。そこまで長引く苦痛をもたらすという爆弾は、おそらく他にはないんじゃないかなと思いますね」
 
以下、文字起こしをご参照ください。
 
*****
 
原爆死 ヒロシマ 72年目の真実 (2017年8月6日放送) −2
 
ビッグデータを手がかりに追う原爆死の実態。
解析によって死のドーナツ地帯とも呼べる地域があることが分かってきました。
そこで被爆し即死を免れた人々が、翌日以降集中して亡くなっていたのです。
爆心地から500m以内で被爆して亡くなった人は6日の9,530人から翌日には218人に激減。
代わって死者が増えたのがその周縁部500mから1.5㎞の間にあるドーナツ状の地域です。
7日には1,940人。8日には1,226人増え、その後も毎日600人以上の死が1週間にわたって積み重なっていきました。
 
この地域で被爆した人たちの死がなぜ続いたのか?ビッグデータをもとに原爆の被害について研究を続ける人がいます。
日本熱傷学会の元理事、原田輝一医師です。
この地域で被爆した人が多く亡くなり続けたのは特殊なやけどが原因だと考えています。
 
原田
「深いですね。深くぼろっと落ちて 皮膚のすぐ下のところでおそらく血管が発熱して熱破裂したということだと思います。
通常のね、熱傷(やけど)ではないまったく別のメカニズムが、やっぱり背後にあるんだろうと思います」
 
原爆で血管が破裂したと考えた原田さん。
被爆者が残した膨大な手記の中にその手がかりを見つけました。
 
「『青白い閃光が走ったとき、体全体がプーッと膨れるような感じは覚えているが熱いと感じたことはなかった』。
これは最初から光に当たったところがふくれあがっているという感じをあらわしていますね」
 
特殊なやけどの原因となったのは原爆が発した強烈な光線ではないか。
特殊な医療機器を通常以上の出力で使い、爆心地から2㎞までの地点と同じ強さの光線を再現。
血液をゼラチンで挟み血管に見立てたものに光を照射します。
すると血液から水蒸気が発生しました。
血液は膨張し細かな気泡がいくつも噴き出していました。
 
原田さんが推測する原爆の光線によるやけどのメカニズムです。
強力な光線が皮膚を通過し血管に到達します。
熱せられた血液から水蒸気が発生。血管を破裂させます。
これにより徐々に周りの組織は死滅。
皮膚が剥がれたまま2~3日かけて命が絶たれるといいます。
やけどによる死者の推移を見ると原爆投下の翌日から3日間で多くの人が亡くなっていた事が確認できます。
 
さらにこの3日間を乗り越え、命を取り留めた人を感染症が襲います。
深い火傷はなおりにくいため、傷口から細菌が侵入しやすくなります。
全身で炎症がおき、臓器が死滅。
激しい痛みと高熱に一週間ほど苦しめられた末に亡くなっていったのです。
 
「あらゆる意味で害が大きい。ひょっとするとこの爆弾というのは軍事目的で使うものではなくて、一般市民を標的にして、一般市民を苦しめる効果のほうがはるかに大きいものじゃないかなというふうに感じますね。そこまで長引く苦痛をもたらすという爆弾は、おそらく他にはないんじゃないかなと思いますね」
 
火傷を負った人々はどこで亡くなったのか。
被爆した場所からの人々の動きを追っていくと、多くの人が特定の場所に移動した末に亡くなっていたことが分かりました。
最も多い173人が亡くなった場所、それは府中国民学校でした。
現在は府中小学校となっています。臨時の救護所に指定され火傷を負った人たちが集まって来た場所です。
当時の様子を知る人が見つかりました。
 
「ほんとうに懐かしいねえ。うん。なんか大きな声で拝みたいようだ」
吉田美江子さん。84歳です。当時12歳。
8月6日の夕方、校長から呼び出され、救護活動の手伝いをしていました。
講堂は火傷を負った人で埋め尽くされていたと言います。
 
吉田
「ほんとにまだ目に焼きついとるよ
頭と頭 足はこっち ずらーっと並べてあって」
 
当時広島にあった救護所の映像が残っていました。傷ついた人たちが、次々と運び込まれています。
痛みに耐えながら横たわる人々。
データによれば。府中小学校で亡くなった人のうち、もっとも多かったのが14歳と15歳でした。
そこで吉田さんは、同年代の子どもたちから家族への伝言を頼まれたと言います。
 
「『ここにおるけえ探しに来てくれ、連れにきてくれ言うてつかあさいや』
言うのが一番多いかった。みんな帰りたかったんよね。
それを偉そうげに「わかったよ。言うてあげるよ」とみな嘘をついたわけや。
嘘のつもりじゃないんよ。どこへ言うてっていいか分からんのじゃけん」
 
吉田さんが、その場しのぎの答えしかできなかった子どもたち。
家族に会えないまま、ここで息を引き取っていったと言います。
 
「ここに来たらよみがえるよ。顔がね。
精一杯やったんじゃけん。許してちょうだいね。ごめんね。
私なりに精一杯じゃった。ごめん。なんの力もなかったあ。
ごめんなさい。すまなんだねえ。ごめんね」
 
即死をまぬがれ 傷つきながらも生きようとした人々。
原爆特有の火傷が、家族に再会するという望みさえ奪っていった実態が浮かび上がってきました。
 
続く
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明日に向けて(1413)広島の原爆死の真実を捉え返すー1 あの日たくさんの人が圧焼死していった(NHK「原爆死 ヒロシマ 72年目の真実」より)

2017年08月17日 23時30分00秒 | 明日に向けて(1300~1500)
守田です(20170817 23:30)
 
ドイツから戻ってから「明日に向けて」の更新を少々長く怠ってしまいました。申し訳ありません。
この間、8月4日に「元気いっぱい琵琶湖キャンプ」で子ども達に放射能からの身の守り方についてお話しし、5日に京都市のすみれやさんでドイツ訪問報告会を行いました。また昨日16日に「夏休みショートステイin信楽」でお話しし、明日18日にびわこ123キャンプでやはり子ども達に放射能からの身の守り方のお話をします。
このほか8月2日と14日に旧日本軍軍隊「慰安婦」問題での街頭行動にも参加するなどそこそこ活動を重ねて来ています。
ドイツ報告会は23日午後3時からキッチンハリーナでも行ないます。ぜひご参加ください。案内を貼付けておきます。
 
守田敏也さんとドイツ訪問をシェアする会
 
さてこの間、広島・長崎原爆の日、「終戦記念日」などが過ぎて行きました。一方でトランプ政権と朝鮮民主主義人民共和国の金政権が、あやうい緊張関係を作り出してもいます。論じなければならないことがたくさんあり、どれをどう論じるか考えているうちにどんどん時間が経ってしまった感があります。ドイツ訪問の疲れも手伝って、たくさんのことを論じたいのにかえって記事を書けない日が続いてしまい、みなさんに申し訳なく思っています。
 
何を優先するのか考える中で、まずはこれを先にしようと思ったのは、8月6日、広島原爆投下から72年目の日に、NHKドキュメントで放送された広島原爆に関する報道に関してでした。タイトルは「原爆死 ヒロシマ 72年目の真実」です。見応えのある番組でした。
番組は広島市がこれまで収集してきた55万7000人もの被爆者のビッグデータを解析し、原爆投下前の朝から被爆後の人々の動きを克明に追ってコンピュータに入力し、コンピューターグラフィックで可視化することを軸に構成されています。このことから、これまで分からない面が多かった原爆死の実体の解明を大きく進めることに成功したのです。
 
原爆投下後、72年も経ってやっとこのような事実が明らかにされたことに忸怩たる思いもありますが、しかしこのNHKの調査には拍手を送りたいと思いますし、ぜひ多くの方に共有化していただきたいと思います。それで時間がかかりましたが、番組全体を文字起こしすることにしました。
まだ動画もYouTubeなどにあがっているので、可能な方はぜひ観ていただきたいのですが、お時間のない方は文字起こしをお読みください。
また番組を観られた方も、内容を振り返るために、文字起こしを利用していただければと思います。
 
なお僕自身の感想は番組全体の紹介の後に書きますが、あらかじめ要点だけを述べておくと、この番組で明らかにされたのは、ものすごい新事実というよりも、今年3月に亡くなられた肥田舜太郎さんや、原爆症認定訴訟への証人としての参加を契機に原爆の問題に関わられた矢ケ崎克馬さんなどが、繰り返し述べて来られた「隠された被曝」の実体そのものだと思いました。これらがビッグデータの解析によって克明に裏付けられたと言って良いと思います。
そうであるがゆえに「72年目になってようやくか」という思いもするのですが、しかしこれだけのデータでヒバクの実相の解明が進んだことの意義はとても大きいです。日本政府はただちにこのデータ解析の内容を被爆者援護行政に反映させ、あやまった被ばく評価(極端な過小評価)をあらためるべきです。こうした点が基軸であることを踏まえてぜひ全体をお読みいただきたいと思います。
 
なお50分の番組を文字起こししたので量が多いので、文字起こしを3回に分けて掲載し、その後に僕の感想を記します。
 
*****
 

原爆死 ヒロシマ 72年目の真実 (2017年8月6日 放送) −1

 
ナレーション
通勤通学の人々が行き交う朝8時の広島市。
72年前、8月6日の朝もここには同じ光景が広がっていました。
これは1945年の広島の航空写真。
無数の青い光は原子爆弾が投下されるまでの人々の動きです。
55万7,000人の被爆者のデータをもとに初めて可視化。
広島市の外から8万人が市内に向かっていた事が分かりました。
国のために動員された学生や女性たち。
多くの人がいつもと同じ朝を迎えていました。
そして8時15分…。
この人々の頭上に原爆は投下されたのです。

人々の動きを遡って見てみると、一人一人の命の軌跡が浮かび上がってきます。
郊外にあるこの5つの点。
一つ屋根の下に暮らす家族でした。
夫婦は幼い子ども2人を老いた母に預け出勤。
45歳の夫は北部にある工場で被爆しましたが助かります。
36歳の妻は勤労動員で市の中心部へ。
そこはまさに爆心地でした。

当時2歳で母親を失った柳原有宏さん(74)です。
 
〜映像、額に入った30代の女性の写真〜
取材者 「お母様?」
柳原  「ええ」

まだ物心が付く前でした。
母の満子さん(享年36)
この写真だけが面影を知る手がかりです。

柳原
「これが母親だと言われてきたんですからね。ああ、美しい、きれいな方だなと思いながらですね。
会いたかったですね」

アメリカが広島に投下した原子爆弾。
その年だけで14万人の命を奪ったとされていますが、いつどこで、どのように命が奪われていったのか、詳細はいまだに分かっていません。
今回私たちは広島市が集めた55万人以上の被爆者の記録を初めて入手。
そのビッグデータを解析して、原爆による死、原爆死の全貌に迫ることにしました。
するとこれまで分からなかった死の実態が次々と浮かび上がってきたのです。

投下された日の死者は53,644人。
それぞれの被爆した場所が詳細に判明しました。
また死のドーナツ地帯とも呼べる特定の地域で被爆した人々が、翌日以降次々と亡くなっていました。
更に原爆の放射線がほとんど届かなかったとされる2.5kmより外の地域でも、謎の死が相次いでいた事も分かってきました。
 
放射線の専門家
「確かに驚きますね。まだ我々が知り得ないところで、何らかの関係があったのかなというふうに思います」

ビッグデータを手がかりに追った、死に至るまでの被爆者一人一人の姿。
人々の頭上に投下された核兵器は何をもたらしたのか。
72年目の真実です。
 
タイトル
 
広島市原爆被害対策部
その一角に被爆者の調査を続けてきた部署があります。
ここにいまだ公開された事のない記録が残されていました。
原爆投下の直後から作成されてきた資料です。
死亡した際の診断書。診察に当たった病院のカルテ。
市が集めた資料はこれまでに150点を超えます。
これらをもとに市はデータベースを作成。
原爆被爆者動態調査と呼んでいます。
その数55万人分に上ります。
これまで一人一人がどのように亡くなったのか詳しく解析されていませんでした。

2歳の時に原爆で母親を失った柳原有宏さんです。
この辺り(原爆慰霊碑付近)で亡くなったとされる母。
遺骨さえ見つかっていません。
最期を知りたいと思い続けてきました。
 
柳原
「やっぱり苦しいですね。
爆風に飛ばされて亡くなったもんやら、熱線で亡くなったもんやらですね。全然分からないですからね。
まあ、母のことを言えば、ついつい涙が出ますけど、それがずっと心の中にあるんだと思うんです」

一人一人がどのように命を奪われていったのか。
私たちは今回初めて動態調査のデータを個人が特定できない形で入手しました。
被爆した場所や死亡した場所。
そしてその日時。
死因や家族構成などのデータです。

更にここに別のデータを重ね解析しました。
火災の発生時刻や気象データ。
被爆者が描いた絵やNHKの取材情報などです。
これらを広島市の航空写真に落とし込み、解析することで、原爆死の全貌に迫ることにしました。

原爆が投下された8月6日、広島はいつもと変わらない朝を迎えていました。
この青い光は一人一人の自宅と被爆した場所を、結び移動を可視化したものです。
多くの人が市の中心部に向かっています。
原爆はこの人々の頭上で炸裂しました。

私たちは被爆した場所ごとにこの日の死者を数え上げていきました。
その数、53,644人。爆心地から3km以上離れた場所でも死者が出ていました。
8月6日の死者の数が被爆した場所ごとに可視化されたのはこれが初めてです。
いたる所で人々の命を奪っていた原爆。
動態調査のもとになった資料から人々がどのように亡くなったのかが分かってきました。
検視調書。
警察官が医師と共に遺体の確認を行った記録です。
焼死ややけど。
そこには一人一人の死因が詳細に記録されていました。

検視の拠点となったのは爆心地から1.2km離れた東警察署。
現在は銀行になっています。
当時の東警察署が写った航空写真です。
青で示したのは人々が亡くなった場所。
データは広島の街の1/3ほどに限られていました。
しかしここを詳しく見ることで、市全体の傾向をつかめるのではないかと考えました。
死因を詳しく見ていくと最も多かったのが黄色で示した焼死。
1,406人に上りました。
赤で示したのは聞き慣れない死因でした。
圧焼死です。
それはどのような死だったのか。
圧焼死が集中している地域を見てみると20人が同じ地点で亡くなっている場所がありました。
そこは女学校でした。
 
広島女学院。当時の校舎は原爆で焼失しましたが戦後同じ場所に再建されました。
8月6日の朝もここに144人が登校し礼拝が行われていました。
この日は久しぶりに学徒動員を解かれた女子学生たちが学校に集まっていました。
その一人が見つかりました。

「私はこの辺りにいたんです。」
当時17歳だった鎌塚寿恵子さん(89)です。
音楽を通じて仲よくなった親友と一緒に講堂にいたといいます。
それが成井明子さんでした。
 
鎌塚
「あの方、きれいなソプラノですからね。わたくしは低い方だから。
いつも2人で高音と低音で二重唱をやっていました。
それだけはやっぱり懐かしい思い出なんですけれども‥」

礼拝を終えた直後の8時15分。
原爆が炸裂。
鎌塚さんたちを秒速100mを超える猛烈な爆風が襲いました。

「光ったとたんにドカンですから。あっと思ったらもうつぶされたんです」
講堂は倒壊。
鎌塚さんと成井さんたち生徒は生き埋めになりました。
鎌塚さんはなんとかがれきの隙間を見つけ、脱出しましたが成井さんの姿はありませんでした。
 
「あの方の声だけ聞いて姿が見えないんですよ。
成井さんの声だってことがわたくしがすぐ分かってかけよったんですけれども
がんばって、がんばって、なんとかするからって‥」

その時、学校周辺はどのような状況だったのか。
ここに火災発生時刻のデータを重ねてみます。
学校のそばではまだ火災は発生していませんでした。
鎌塚さんは成井さんを助けたい一心でがれきを必死に動かそうとしていました。
1時間半を過ぎた頃燃え広がった火がついに女学院に迫ってきました。
友人たちはまだがれきの下でしたが、教師から逃げるように命じられ、泣きながらその場を後にしたといいます。
 
「一生懸命、こうやってたんです。どうにかならんかと思って。
「それがどうしても助けることができなかったのは私の一番の苦しいというか思い出したらたまりません。
何年もたっても忘れることはできないんです」
広島には被爆者によって原爆投下後の様子が描かれたおよそ4,000枚の絵が残されています。
8月6日の様子を描いた絵の場所を特定しました。
そして赤い圧焼死による死者が集中した地域に絵を重ね合わせます。
そこで描かれていたのは倒壊した建物に火災が迫る様子でした。
がれきに挟まれた母と子が助けを求めています。
圧焼死とは生きながら焼かれ、亡くなった人の姿だったのです。
 
鎌塚さんはその後、成井さんがどのように亡くなったのか分からないままでした。
私たちは8月6日女学院で20人が圧焼死していたことを伝えました。
 
「むごいです。亡くなり方があまりにもむごたらしい。
わたくしも相当苦しかったけれど、この亡くなられた方は 火が来たんだもん。気の毒ですよね。ほんとに。
辛かったと思います。苦しかった。どんなに苦しかったろうねえ。
‥長い沈黙‥
会いたいです。わたし、成井さんに。もう一度会いたかったです」
 
8月6日、いつもと変わらぬ朝を迎え命を奪われていった53,644人。
その一人一人の軌跡は苦しみ抜いて亡くなった人々の姿だったのです。
 
続く
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明日に向けて(1412)ドイツの旅を振り返って(ドイツからの報告14ー5日報告会に向けて)

2017年08月03日 09時30分00秒 | 明日に向けて(1300~1500)
守田です(20170803 09:30)
 
みなさま。8月1日に無事にドイツより帰国しました。
7月14日から19日間のドイツ訪問の旅、とても実り多きものとなりました。
 
この旅に向けてたくさんの方からカンパをいただき、支えていただけました。航空券自腹支払いでのキャンプ参加でしたが、おかげさまで必要経費を賄うことができました。カンパをいただいたみなさま、本当にどうもありがとうございました。
 
8月5日に京都市元田中のすみれやで午後7時より今回の旅に関する報告会を行います。ぜひお越し下さい。
Facebookのイベントページをご紹介しておきます。
 
ドイツ反核サマーキャンプ報告会
 
報告会に向けて今回の旅の概要を振り返っておきます。
日本を発ったのは7月14日、同日夜にライプチヒハレ空港に着き、近くのホテルで一泊しました。
翌日15日にデーベルンのキャンプ地に到着。車でピックアップしてもらい、以降、23日までをここで過ごしました。
 
反核サマーキャンプを主催してくれたのはニュークリア・ヘリテージ・ネットワークという組織です。
 
参加した人々がやって来た国は、ドイツ、イギリス、フランス、オーストリア、オーストラリア、ラトビア、スウェーデン、ロシア、ウクライナ、トルコ、アメリカ、インド、日本と13ヶ国でした。キャンプは17日午前中にスタートし、連日、それぞれの国の様子が伝えられるとともに、大きなテーマとしてウラニウム鉱山のことが取り上げられました。中でもデーベルンに近い旧東ドイツのソ連の核兵器のためのウラン鉱山について詳しく扱われ、現地見学ツアーも行なわれました。
 
キャンプの様子が地元紙に載ったのでご紹介します。ただしなぜか「反核の活動家たちがハンストを決行」と間違ったタイトルがついてしまっているのですが。
 
僕自身も初日に日本からの報告を行いました。英語で発言原稿を作ってもっていきましたが、友人の平賀緑さんにかなり丁寧な添削と手入れをしていただきました。日本語の元原稿もお渡ししていましたが、僕が力不足で英訳しきれていない部分まで補って下さっていて、僕の力を越えた素晴しいものに仕上がり、参加者から賞賛の言葉をいただけました。
その後のキャンプでは毎日、本当にたくさんのことを学びました。またいろいろな方と交流できました。はじめて個人的に知り合いになった国の方もたくさんいます。
今後、これらの方たちと連携を深めて行こうと思います。とくに11月にパリで行なわれる反核世界社会フォーラムにも、キャンプの場でできた派遣チームの一員として一緒に参加しようと思っています。
 
さてキャンプは23日に終了しました。僕はこの日、午前中にキャンプ地のデーベルンを発ち、後は、ドイツ在住の桂木忍さんがコーディネートしてくださったドイツ各地を訪問する旅にでました。
訪れたのはビーレフェルト、ブラウンシュヴァイク、ベルリンで、それぞれに2日、3日、3日の滞在でした。
 
ビーレフェルトは僕の初めてのドイツ・ベラルーシ・トルコ訪問の旅で親しくなったIPPNW(核戦争防止国際医師会議)ドイツ支部副代表のアンゲリカ・クラウセンさんと、トルコ人医師のアルパー・オクテムさん夫妻の家に泊めていただき、2日間、ゆったりと過ごさせていただきました。
その後、ブラウンシュヴァイクに移動しましたが、その時点ですでに僕のブラウンシュヴァイク訪問が地元新聞に掲載されていました。
 
ブラウンシュヴァイク訪問を紹介してくれた記事
 
ここで使われている写真は2014年秋にポーランドの国際会議に招かれた時のもの。僕の向かって右隣にいるのがアンゲリカ・クラウセンさんです。
その他、ここにはポーランドで行動を共にしていた多くの方が写っており、僕にとっても感慨深い写真です。こんな写真で紹介されるとは夢にも思っておらず、とても嬉しかったです。
 
ポーランドの写真の拡大版と、京都の伏見での集会で撮っていただいて以降、プロフィールで活用させていただいている写真も載せていただいていたのでご紹介します。

http://www.unser38.de/denkte/politisches/toshiya-morita-bei-einem-vortrag-in-japan-m40212,21162.html

 
ブラウンシュヴァイクでは、放射性廃棄物処分場のアッセ2の見学に連れて行ってもらいました。
処分場といっても塩を採掘した鉱山あとに低レベル放射性廃棄物をドラム缶状のものに入れて無計画に投げ入れていた場で1978年に住民訴訟の力で使用が中止されたものの、その後、大量の地下水の流入が分かり大問題になった場です。ドイツ政府が危険性を認識し、すべての廃棄物の取り出しを決定したものの、取り出し方法の詳細や搬出先などが決まらず、調査と保全、および取り出しの研究と準備が進められているところです。
 
この処分場見学の後に、この場を監視してきた地域の市民の方達の集会にも参加し、激しいやりとりなども聞かせていただいたのちに、日本の現状の報告に立ちました。みなさんの気持ちにフィットする発言になるかどうか分からずに「えーい」という気持ちで発言しましたが、大きな拍手で迎えていただけました。そのときの新聞記事もご紹介します。
 
ブラウンシュヴァイクでは、アッセ2の反省を生かしたとされる放射性廃棄物処分場が新たに作られています。鉄の鉱山跡地を利用するコンラート坑で、こちらの見学もさせていただきました。

なおこのブラウンシュヴァイクの旅を受け入れて下さったのはパウル・コーチさんとボード・ワルターさんでした。教会関係の仲間であるお二人で旅程をくんでくださり、教会関係の施設に3日間泊めてくださるなど、すいぶんと手厚いおもてなしをしていただけました。
通訳で参加して下さったフラウケさんも、アッセ2の見学時に長い時間にわたる同時通訳をしてくださるなど、大変な活躍で支えてくださいました。心からのお礼を表しておきたいです。
 
その後、ベルリンに移動し、ドイツ放射線防護協会に参加し、『放射線テレックス』を発行されてきたトーマスさん、アネッテさんご夫妻のところにお世話になりました。ここではとてもゆっくり過ごさせていただきましたが、アネッテさんにベルリンの街を案内していただき、とくにアネッテさん自身が立ち上げに関わられたベルリン市におけるナチの活動を捉え返した「恐怖の地政学」という場に連れて行ってもらえました。
このときのお話だけでなく、ドイツの旅で出会った多くの方から、一方でのアメリカ軍、イギリス軍の空襲による深刻な被害の話も聴き、他方でのナチ時代の捉え返しについてのさまざまな取組みを聞きました。デーベルンの街でもナチの傷跡をめぐるツアーにも参加しました。
一方でドイツでは、それでも2015年のシリアからの難民の流入によって生じた危機以降、ネオナチの台頭などが起こっているのです。この現代のリアルな問題にも触れてくることができました。
 
こうやって短く振り返っても1つ1つが長い記事や論文を書くに値することであり、それを5日の報告会でわずか1時間半でどれだけ伝えられるか分かりませんが、みなさんと核心部分を共有するために、たくさん撮って来た写真をどんどんお見せしてお話したいと思っています。
 
なお日本に帰国したときに、ドイツからさらに新聞への僕の投稿が記事になったとの知らせを受けました。放射能被曝に関する見解を求められて書いたもので、これもまたフラウケさんが翻訳してくださいました。
掲載記事をご紹介します。
 
この記事は有料で途中までしか読めないので、送っていただいたコピーと、日本語の元原稿全文を掲載してアップしたFacebookの記事もご紹介します。こちらもご覧下さい。
 
それでは可能なみなさま。5日午後7時から京都市元田中のすみれやでお待ちしています!
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