明日に向けて

福島原発事故・・・ゆっくりと、長く、大量に続く放射能漏れの中で、私たちはいかに生きればよいのか。共に考えましょう。

明日に向けて(1277)「放射線を浴びたX年後」について語り合う(川口美砂さんとの対談-6終わり)

2016年06月28日 10時30分00秒 | 明日に向けて(1201~1300)

守田です。(20160628 10:30)

6月24日から26日の後藤さんとのジョイント企画、各地でたくさんの方にご参加いただき大成功でした。
おいおいご報告を載せていきたいと思います。

今回は川口美砂さんとの対談の最終回をお届けします。

ちなみに26日深夜に放送された以下の番組はご覧になられたでしょうか。
その後も続く川口さんの聴き取りに感動しました。
お父さんと一緒の船に乗られ、大変親しくされたいたおんちゃんも登場していました・・・。

 NNNドキュメント’16
 『汚名 〜放射線を浴びたX年後〜』(1時間・日本テレビ)
 放送時間 6月26日(日) 深夜24時55分〜
 語り 樹木希林
 https://www.facebook.com/video.php?v=1042961179126965

見逃された方、再放送があります!ぜひこちらで!

 再放送:7月3日(日)11:00~ BS日テレ
 7月3日(日)5:00~/24:00~ CS「日テレNEWS24」 

 詳しくは以下から
 https://www.facebook.com/nnndocument/

それでは川口さんの対談の最終回、質疑応答の後半部分をお届けします。

*****

連載第6回

京都「被爆2世3世の会」2016年度年次総会
記念トーク「父の死が放射線のためだと知った時」
川口美砂×守田敏也

感想交流と質疑応答の時間(抜粋)-2

倉本
3つ質問です。
①妹さんはどういう経緯で川口さんを『X年後1』を観ることに誘われたのでしょうか?
②自分とは関係ないと思っていたことが、お父さんとの関係で当事者であると自覚されるようになってきた。その時の感想は?
③労災申請は、一人でもできる手続きではあるけれども、それほど簡単ではないと思います。結構勉強しなければならない。高知県にも民医連があるのでアドバイスを受けられればいいのではないでしょか。

川口
①『X年後1』の上映が東京で行われていた時、たまたま室戸市出身の人がそれを観ていて、「この映画は室戸でやらな(上映しなければ)アカンやろう」と思って、地元の人と一緒に企画されたのですね。
それで室戸市で上映されることになって、それを妹が知って、私を誘ってくれたのです。
②被曝とか放射能とかは自分とは無縁のものと思っていたので、身近にいた父が被ばくしていた事実を知った時、すごく戸惑いました。
自分が二世だということも理解しました。でも今、そのことを率先して話題にすることはちょっとまだできないでいます。二世なんていうと、室戸の私の世代、妹もそうですが、ほぼ全員そうなるのですね。
さらに日本国中マグロ漁船はあります。マグロ漁船だけではないのです。
一つ聞いたことがあるのは、大型の外洋貨物船に当時乗り組んでいたおじさんがいて、事件後すぐに健康診断を受けたのだそうです。つまり事情を分っていて経済的に対応力があり、かつ意識の高いところではちゃんとそういうことをしていたのですね。
ところがマグロ漁船の船員さんたちは全然何もされていない。もし定期健診が義務付けられていたら、ガンも初期に見つかったかもしれない。そういう悔しさも持っています。当事者として。
③労災申請のアドバイスありがとうございます。申請手続きは、私ぐらいの人間でもできると思っています。ただその先は非常に難しいということは私の耳にも届いています。
第五福竜丸のみなさんの申請は受理されましたけど、他のマグロ漁船の船員さんたちの申請は非常に険しい途が待ち構えているのでしょうね。でも、何人も何人もやっている内にかなうこともきはっとあるだろうと思っています。それが今の私の支えです。

井坂
午前中の原水爆被災者懇談会の総会でも報告があったのですが、昨年が被爆70年で、被爆者の平均年齢も80歳を超えました。80歳も超えて被爆者がどんどん亡くなっていく中で、あの被爆当時、広島・長崎で何が起きたのかを語る人がどんどん少なくなっている。それで、川口さんがおっしゃいましたが、1954年のビキニで、働き盛りの30代の方たちが経験したことというのは今の被爆者の平均年齢と合致しますよね。
私の父も昨年87歳で亡くなりました。父が当時のことをしゃべりだしたのはその一年前なのです。それまでは私がいろいろ聞き出そうとしてもなかなか語ろうとはしなかった。
亡くなる一年前になって鮮明に記憶していたことを突然しゃべりだした。入市被爆して見た光景を思い出して語りながら「あんなむごいことをしてはいけん」と言いました。

川口さんが一生懸命聞き取りされている被曝された人たちの思いというのは、船主などから言われて、自分の中では何とか被曝というものを消し去ろうとしてしてきた思いが、解きほぐされたということがあったのではないかと思います。
素朴な質問ですが、映画のタイトル『X年後』ですが、Xの意味ですが、X年後とはどれぐらいのイメージなのかと。今、福島原発事故という大きなことがあって、それはわりとオープンに語られていて、今がX年後ではないかという気がしながら、でもまだまだ

隠蔽しようとする動きがある中で、国民的、世界的に明らかにしていくX年後というのがこの映画のテーマなのかと思いますけど、映画製作に参加された川口さんの思いと、守田さんのX年後についてのお考えを聞かせて下さい。

川口
X年後というのは、起こってから、どれぐらい経てば何かが分るという一つの暗示としてのXだと思うんですね。実際にビキニ事件に関しては、山下先生や伊東監督は長く関わってこられましたけど、世の中にはまだほとんど伝わっていないというのが現状だと思うのです。被曝をされた方も高齢になられてきましたが、高齢になってしまって消えていくのを待つことはできません。着地点はないと私は認識しています。

守田
「X年後」というタイトルを監督がつけた理由はさきほど紹介したこの本の中に書いてあるのですが、僕が思うのは、X年後は多分一人ひとりにとってのX年後なのだと思います。X年後が実は数ヶ月後だった方もあるのですよね。
漁から帰られてすぐに亡くなられた方もおられたわけですから。これまで僕が見聞してきたことからすると、人間の放射線に対する感受性には個人差、個体差が相当あるのだと思うのです。
感受性が強い方は影響が早く出るだろうし、弱い方はもっと後から出てくる。一人ひとりにとって、X年後がそれぞれにあるというのが実際ではないでしょうか。今X年後が来ている方もあるし、もっと早く来た方もある。逆に大丈夫な方もあるでしょう。

一般参加者
先ほど被ばく二世という言葉がありましたけれど、私は40歳で、親は1946年生まれです。1962年まで頻繁に核実験されていたので、ひょっとしたら私の親も被ばく者で、私も二世かもしれない。
食べものにどれほど放射性物質が当てられているか分りませんが、ひょっとすると私自身が被ばく当事者かもしれないと思いました。
川口さんにお聞きしたいのは、聞き取り調査をされていて、怒りはありましたか?映画を観ていると、真実を明らかにしようとするすごく強いメッセージがあるわけではなく、淡々と「こういうことがありました、ああいうことがありました」というふうに映画は構成されていたように思うのです。
「アメリカが憎い」とか、「日本政府が悪い」とかおっしゃるわけでもなく、大変な人にはこんなサポートをしていきたいとおっしゃるわけなのですけれど、怒りというものをどこかに向けられていなかったのかな、ということをお聞きしてみたかったのです。

川口
いろんなことを知るごとに、何も知らされていなかったおんちゃんたちのことを思います。第五福竜丸でさえも、あの時、読売新聞のスクープがなかったら闇に葬られていたのだと思います。
1954年の10ヶ月間の記録は確かにあったので、情報開示を求めて父のことを知ることができました。怒りはやっぱりあります。何も漁師に通告しないまま「無かったことにしよう」とされたことにやっぱり怒りますよ。
怒りますけど、拳を挙げて政治や思想を語ることは私はしない。私の知恵や能力のこともありますし。

漁師のおんちゃんたちは格好いいです。話していても苦労話や恨み話は言わない。思い出話と武勇伝ばかりです。
魚を捨てたことはおそらく怒っているのでしょうけど、本当は漁師のおんちゃんたちこそ怒って当たり前なのですけれど、そういう態度はしないのです。
そういう漁師のおんちゃんたちに寄り添っているわけですから、私がけしかけるような訴えをしようなんて気持ちには絶対にならないのです。怒りはあります。ありますけどそれを表に出してヒステリックに叫ぶようなことは今後も多分ないでしょう。

守田
映画を観ていて思いましたけど、まず「捨て置かれた被害者」という前に、すごく誇り高く生きてきた漁師さんたちの姿と、それに思いを馳せようとするものが強く出ているのですね。
そしてその中に悲しみとか怒りとかも折り込まれているのだと思うのです。漁師さんたちも、悲しみ、怒りをぶちまけるのではなくて、雄々しく生きてきた自分を保とうとして語られているのではないかと思いました。
それに本当に寄り添って、そのスタンスからこの時にあったことを語り継いでいった方が、真実がより伝わるのではないかという気がしています。
漁師さんたちに寄り添っていて、そんな漁師さんたちが次々と亡くなっていってきたことに深い悲しみと怒りを持ちながら、しかしそれ以上の愛情でもってこの問題を解き明かしていくことが大事なのだと思います。
すべてのみなさんの幸福のために、この漁師さんたちが辿ってきたことを明らかにしていくことが大切だし、漁師さんたちも何よりもそれを望まれているのではないかと思います。

川口
最後に、今日はみなさん長時間ありがとうございました。守田さんにかなりフォローしていただきましたが、私の拙い話がみなさんにどこまで届いたか不安です。
とにかく一人でも多くの方々にこのビキニ事件の真実を知って欲しいと強く思っております。
本当に今日はありがとうございました。

(了)

連載終わり

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守田敏也 MORITA Toshiya
[blog] http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011
[website] http://toshikyoto.com/
[twitter] https://twitter.com/toshikyoto
[facebook] https://www.facebook.com/toshiya.morita.90

[著書]『原発からの命の守り方』(海象社)
http://www.kaizosha.co.jp/HTML/DEKaizo58.html
[共著]『内部被曝』(岩波ブックレット)
https://www.iwanami.co.jp/cgi-bin/isearch?isbn=ISBN978-4-00-270832-4

 

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明日に向けて(1276)「放射線を浴びたX年後」について語り合う(川口美砂さんとの対談ー5)

2016年06月23日 08時00分00秒 | 明日に向けて(1201~1300)

守田です。(2016623 08:00)

5回にわたって掲載してきた川口美砂さんとの対談の最終回をお届けします。
今回は対談後の会場との質疑応答部分です。対談には盛り込めなかった話がずいぶんフォローしてもらえました。

なおすでにお知らせしましたが、6月26日に『放射線を浴びたX年後2』の「その後」とでも言える番組が6月26日深夜にテレビで放映されます。
ぜひご覧下さい。

NNNドキュメント’16
『汚名 〜放射線を浴びたX年後〜』(1時間・日本テレビ)
放送時間 6月26日(日) 深夜24時55分〜
語り 樹木希林
https://www.facebook.com/video.php?v=1042961179126965

ちなみに僕はこれから京都府北部の綾部市に向かいます。
今日から綾部・舞鶴・高浜・舞鶴・向日・彦根とまわってきます。明日からは後藤政志さんと一緒です。
次の「明日に向けて」の配信は、この旅の後になる予定です・・・。

*****

感想交流と質疑応答の時間 (抜粋)

守田
これからは是非、みなさんからも質問とかご意見を伺いたいと思いますが、初めに僕のことを少しお話させて下さい。
僕にとってもこの映画とのつながりは特別なものがありまして、『X年後1』は2012年に上映されたものですけれど、その前に2011年の7月にこの映画の作成に参加された方々が京都に来てシンポジュウムを開かれたのです。
高橋博子さんや山下先生などが来られたのですけど、その中に琉球大学の矢ヶ崎克馬先生もおられました。矢ヶ崎さんは内部被曝研究の第一人者で、僕はその矢ヶ崎さんに会うためにこのシンポジュウムに出かけて行ったのです。

2011年3月11日に福島第一原発事故があったとき、僕はそれまで「日本で原発事故があったら政府は絶対に住民をきちんと逃がしてはくれない」という確信があったので、もしもそうなったら、自分の近くの原発だったらとっと逃げる、遠いところだったら逃げることを呼びかけると、前から決めていて、すぐに避難することを訴えだしたのです。
ところがそんな僕も、原発の危険性について見識は積み上げていたのですが、被曝そのものには向い合ったことがなかったので、そのメカニズムについてもよく知らなかったのです。

でもそのことについては専門家がたくさんいるのだから、その内に次々に出てきて、被曝がいかに危険なことかを人々に伝えてくれると思って、そういう人の登場を待っていたのです。ところが待てど暮らせど出てこない。
出てこないどころか「被曝はたいして危険ではない。少しなら安全だ」とか言うとんでもない人ばかり出てきて、ひどいことになってきました。この時、「これも俺がやらなければいけないのか」と悟って、すごくショックを受けたことを覚えています。

でももうやるしかないと考えて、ではどうしたらいいだのろうと思って、ネットをずっと検索していたら、「これは」と思えた方が肥田舜太郎さんと矢ヶ崎克馬さんでした。この方たちのおっしゃっていることを広めるのが良いのではないかと思いました。
そうしたら岩波書店から「守田さん、『世界』誌上で肥田さんのインタビューをしてくれませんか?」という話が飛び込んできました。そして丁度、肥田さんにインタビューにうかがう前日が、京都でのシンポジウムの日だったのです。
僕はその前に矢ヶ崎さんの書かれた『隠された被曝』という著書を読んで、「素晴らしい。素晴らしいけれど、これを普通の人が読み解くのは難しい」と思っていたので、当日の懇親会の席上で、矢ヶ崎さんの前に飛び出して行って「矢ヶ崎さん、この本を僕に翻訳させて下さい」と言ったのです。今、思えば失礼千万だったのですが、そうしたら矢ヶ崎さんは「そういうことを言ってくれる人が出てくるのを待ってました」とおっしゃって下さった。
それで翌日に肥田先生にお会いしてインタビューするとともに、矢ヶ崎さんからのインタビューで構成した『内部被曝』(岩波ブックレット)を作ったのです。こう考えると、この映画のスキームの中で肥田先生や矢ヶ崎さんとも出会えたと言えます。

その後に『X年後2』ができました。その『X年後2』を僕に最初に紹介してくれたのは、僕の親友の気功師の方なのですけれど、なんとその方が川口さんと何十年来の友だちだったのです。なんという偶然のつながりなのだろうと思いました。
それで川口さんが京都の上映会で挨拶される時、是非、お会いしたいと駆け付けて、お話して、もうその場で今日の対談をお誘いしたのです。
ここでも僕は、核の被害に遭われた方に、その無念さや思いを「お前が代わりに語れ」、そして「人々の未来の幸せに役だたせよ」と言われているような気がしています。
それで今日こういう形でお話しさせていただいて、とてもありがたいことだと思っています。この経験を次の何かに大切につなげていきたいと思います。


まず感想からですが、私も前作『X年後1』を観た時、非常に衝撃的で、これで日本の歴史は書き変えられなければならない、教科書も書き換えられなければならない、と思った、そういうインパクトのある映画でした。
次の『X年後2』が公開されると聞いた時、おそらく『X年後1』で告発された真実というものがもっと広く明らかにされて、追及されて行くのがストーリーの中心だろうと、いわば面的な広さを勝手に想像していました。

事実そういう側面もありましたけど、『X年後2』の後半で、80歳を超えた高齢の方が登場され、自分は生きてるけれど息子が41歳でガンでなくなったという告白のシーンを観た時、私が直感的に思ったのは、ビキニの被災者にも2世がいるんだというということでした。当然、ビキニの被災者にも家族があり、お子さんやお孫さんがあって当たり前なのですけれど、そのことの深い意味に初めて思い至ったような感じでした。
そして、今にして思えば自分自身迂闊だったなと思ったのは、映画の主人公である川口さんや、それから映画にも登場される漫画家の和気さんたち、あの人たちも、後でパンフレットを見て、年齢とかお父さんの被ばくされた年度とかを見て、2世ではないかと思いました。おそらくご本人たちにはそういう2世とか3世とかいう思いは、私たちと同じようにはないだろうと思うし、そういうことを押しつけるつもりも全然ないのですけれど。

何が言いたいかと言うと、『X年後1』が『X年後2』でさらに広がっていくと同時に、それは水平的な広がりだけではなく、世代を超えた深みのようなものをすごく感じたわけです。
しかもそれは2世にあたる川口さんのような方が映画の中心になって真相を究めていこうとする、そこに2作目の映画の凄さというか、深みのようなものを、とても強く感じて、今日もとてもいい企画にしていただけたなと思いました。
質問は、今全国で上映会、舞台あいさつもされていますが、全国で聞かれている反応、感想などありましたら是非紹介して下さい。

川口
一番代表的な反応、感想は、「知らなかった」「事実を教えてくれてありがとう」というものですね。ほとんどの人が知らなかった。
『X年後1』を観られている方はある程度知識をもって来られていますが、『X年後2』で初めて観られた方は、とても衝撃的で、「こんなことがあったのか」と思われます。
他にこんなエピソードもありました。岩手県の宮古で上映会があった時、岩手県は石川啄木の故郷なのですが、父が啄木が好きだったことを知って「啄木の碑が港のこのあたりにあるよ」とか、「私は啄木のこの歌が好きだった」とか言っていただけた方がおられました。父に対して、そうやって思いを込めて観てくれているのだなあと、個人的にはとても印象的でした。

萩原
私は福島県の郡山市から避難してきています。外部被曝はしていないと思いますけれど、いろんな事情が重なって内部被曝したと確信しています。大変な被曝症状が出て、京都に来てから食材を変えたら体調が良くなってきた経験をしています。
それで3点質問があります。
①漁師さんたちは汚染されたマグロを食べたというお話ですが、どれくらいの期間、だれだけの量を食べられたのでしょうか?
②原発事故後、子どもの避難者の中には乳歯が抜けた後に新しい歯が1年以上もはえてこないという人がいます。漁師さんたちの中に似たようなことはないでしょうか?
③映画のパンフレットに「文部科学省選定」とあるのですが、私たちは政府といろんな交渉をしていてとても冷たい人たちだと感じています。文科省選定というのはすごいことなのではないかと思いますけれど、どうしたらこんなに選定を受けらけれるのですか?

川口
①マグロ船の漁師は、木造船時代は冷凍設備がないので、氷を積んでそこに野菜とか食料を入れて行くのですが、食料が無くなると釣った魚の傷ものとかをほぼ毎日食べていました。
釣ったものを捌いて、生で食べたり、焼いて食べたりしたのですね。1回の航海で40日ぐらい。年に5~6回は航海に出ていました。

②歯の抜ける話は、とても印象的な例は、聞き取りの訪問先の方が末期ガンで苦しまれていましたが、話を始めると目がランランと輝き始め、昭和29年当時のビキニ事件のことや航海のお話をして下さいました。
その方は30代で奥歯のガンになられていました。削って処置されたのですが、若い頃から晩年にかけて全身に転移して、次に訪問した時には亡くなっていました。非常に印象に深く残っている方です。
それから30代後半で歯が全部抜けてしまったいう漁師さんもいらっしゃいました。その方もビキニで操業されていた方です。
私が聞き取りさせていただいた漁師さんもまだ少なく100人にもなっていません。いろんな症状にこれからも出遭っていくのではないかと思います。歯についてはそういうことでこれまでに2件ありました。
聞き取りでは病気された時の話を中心に聞いていますので、健康状態など日常の体調についてはこれまでは聞いていないのですね。症状をお聞きすると、盲腸が多かったり、背骨を悪くされている方が多いですかね。
私の父は糖尿病があったのですけれど、伊東監督のお話では漁師さんたちに糖尿病の患者さんは結構いるらしいとのことでした。
③文科省の推薦は政府とか政治とかは関係なくて、文科省の中の映像部門というところがあって、映像の研究者などが委員となり、その方々が認定審査を行ない、そこで作品が評価されているのだと認識しています。

守田
今の質疑はとても重要なところで、放射線被曝でどういうことが起きるのか、まだ分っていないことの方が圧倒的に多いのですね。だから見過ごされていることも凄く多いのだと思います。
私たちの行なった「被爆二世の健康実態調査」でも、行なってみたら、みんな小さい頃よく鼻血を出していたというこれまであまり分っていなかった事実が浮き上がってきたり、二世、三世の間であまり話されていなかったことがいっぱい出てきました。
そこに調査の重要性があると思います。

続く

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明日に向けて(1275)原発の寿命延長と老朽化の考え方(後藤政志さん談)

2016年06月22日 08時30分00秒 | 明日に向けて(1201~1300)

守田です。(20160622 08:30)

後藤政志さんと6月24日舞鶴、25日向日市、26日彦根と講演と対談でご一緒させていただくことに向けて、後藤さんの最新のネットでの発信を前回より文字起こししています。
今回は後半の部分、「原発の寿命延長と老朽化の考え方」についてです。
ちょうど6月20日に、原子力規制委員会が高浜原発1号機2号機の40年を超えた使用延長への認可を与えてしまったことも踏まえつつ、ぜひ以下の後藤さんの指摘をお読み下さい。
(今回も文字起こし文の責任は守田にあります)

*****

科学の原則を無視した原子力規制
2016年5月25日公開 後藤政志
https://www.youtube.com/watch?v=gFNmpcA3qlA&feature=youtu.be

②原発の寿命延長と老朽化の考え方

もう一つ、最近の重要な話をします。原発の寿命延長の話が出ています。40年延長の議論が盛んにされています。その時に老朽化の問題、40年を超えてどうこうという問題には当然、幾つかの技術的課題があります。
代表的なものが原子炉の内部構造物の照射脆化、中性子があたって金属が脆くなる。とくに圧力容器、原子炉容器が万一のときは脆化して割れてしまう可能性があるということを口にされる。だからものすごく慎重になるのですね。
それで知見をつけてデータをとりながらやる。ですがここにいろいろな不確定性がある。どうも、予測式の間違いさえ指摘されています。

それから容器や配管の腐食・疲労・減肉・SCC(応力腐食割れ)、こういうものの壊れ方がいっぱいあって欠陥が時間と共に増えるわけですね。そうすると初期のころは問題はないのですけれども、10年、20年、30年となるとだんだんそれが溜まってくるわけです。

そうすると思わぬところに欠陥を内包しているというのが常識なのですね。同時に鉄筋コンクリートも劣化して亀裂が入る。亀裂と言うのは乾燥収縮といってコンクリートが乾く段階で小さな亀裂が入ります。さらに地震が加わると大きな亀裂が入っていく。
しかし亀裂が少々入っても、実は鉄筋コンクリートは簡単には壊れない。力をけっこう受けられる。ただし亀裂が生じるとそこから水が入って鉄筋が腐食するのです。ですから老朽化したときに怖いのは鉄筋の腐食なのです。コンクリート自身の劣化もあります。
いずれにせよ、鉄筋コンクリートといえども長い間経つと劣化があって、とくに亀裂が入ると、構造物の剛性といって硬さが変わるわけですね。すると揺れ方が変わるというのが大きな問題です。

それともう一つはケーブルの劣化です。ケーブルが劣化しますとケーブル間がショートします。絶縁によってケーブルとケーブルの間に電気が流れないようになっていますが、絶縁抵抗が減ってショートしてしまうと当然、いろいろな問題が起こる。
かなり深刻な問題なことが起こるのです。そういうことがきちんとできなくなるのが老朽化問題です。

これに関して私の申し上げたいことは、これについては「維持基準」といって、検査のやり方、どうやって検査をして判断するかの基準があります。
それはいいのですが、検査をして欠陥がなければOKということになるわけです。これは他にしょうがないからと言えばそうなのですけれども、ここが問題なのです。
実は実際には原子炉圧力容器も、全部検査できるか、溶接線を全部できるかというと検査ができないところがある。なぜかというと複雑になっていてものを外したくても溶接線を出して検査できない場所がある。
そういうところはできる範囲でやれば良いとなっている。本当にそれでいいのだろうかということです。

さらに非破壊検査などでいろいろなデータがでたときに、これは傷があるのかないのか、大きさはどうだとか、欠陥に対して、本当に大丈夫か大丈夫でないのか、いわゆるグレーゾーンの問題が起こります。
グレーゾーンのときにどうするかということが、きちんと安全側の評価基準になっていないと、極めて危ないわけですね。そういうことが言えます。

ですからここからが一番私の言いたいことの一つになるのですけれども、欠陥というものがあるのは危険なのは明らかですね。しかし欠陥が見つからないといういことは本当に安全なのかということです。
まあ、一般的には調べて「欠陥が見つからなければいいよね」となるのは分かりますけれども、老朽化した原発というのは40年経っていてそこら中に欠陥があることが推測されるのです。

老朽化しているということは、それだけ欠陥が多く多発している、容器や配管で言えば腐食とか疲労とか減肉、応力腐食割れ、こういうことが発生している蓋然性が高いのですよ。そのときに発見できなかったらいいというのはおかしい。
その時は全部確かめたらいいというべきであって、確かめられないのだったらホールドをかける。つまり「確かめることができないので、安全に運転できるとは言えない。だからちょっと待て」というのが原則です。
そうすると安全が確認できない、少なくとも主要な部位が検査がてきない場合、これは諦めて廃炉にすると言うのが当たり前だと思うのですね。
それが貫かれないようなら原子力規制はあってなきがごとしで、老朽化原発についての非常に問題なところだと思います。

これは考え方によるわけですけれども、福島でもまさかと思った電源喪失をしています。こういう形である面では技術的には常識的なこと、それがあったらダメなことを分かっていることを甘くみた結果が福島なのですね。
同じことなのです。老朽化して「いや調べたよ。調べた範囲はなかったよ」と。だけど「分からない場は当然あるよ」と。そこはたまたま見落としてしまった。では見落としたのは許されるのかと言うとこれは許されない。
40年経っているのですから。見落としなんてありえない。あっちゃいけない。だから40年が原則なのです。
それを超えていいというのは特別な原則として全部を見たからいいと。そういう関係になるということを忘れてはいけない。このことは一番老朽化問題のキモなわけですね。そのことを忘れて細かい議論をしても意味がないというのが私の意見です。

もちろん個々の問題について追及していくことは必要だと思います。ですけれども大原則としてそういうものの見方が一番大切であると私なりに感じましたので今日はあえてそういう話をさせていただきました。
どうもありがとうございました。

(後藤さん談・終わり)

以下、後藤さんの講演会と守田との対談連続企画をお知らせします。

*****

ほんとに大丈夫?私たちのまち(舞鶴)
https://www.facebook.com/events/2046900525535211/

6月24日 19:00
舞鶴市政記念館

講師 後藤 政志さん
コーディネーター 守田 敏也さん

主催 子どもの未来を考える舞鶴ママの会

*****

原発をなくす向日市民の会 第5回
記念講演会・総会のお知らせ

日時 6月25日(土) 1時30分開場 2~4時
第1部  記念講演 講師 後藤政志さん
     後藤政志さんと守田敏也さんのトーク
第2部 第5回総会
場所 慶昌院 (寺戸町西野2)
*年会費を集めます。講演は無料ですが、会場でカンパを募ります

お問い合わせは TEL/FAX(事務局 筒井) 075-931-3788
メールアドレス genpatsu.zero.20120714@gmail.com

*****

原発学習会「原発のほんまのこと」
https://www.facebook.com/events/1613695418958424/

2016年6月26日 13:30 - 17:00
滋賀大学経済学部 第6講義室(校舎棟1階)
〒522-8522 滋賀県 彦根市馬場1-1-1

原発技術者の後藤政志さんと、ジャーナリストの守田敏也さんに原発の実態について詳しくお伺いします。

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守田敏也 MORITA Toshiya
[blog] http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011
[website] http://toshikyoto.com/
[twitter] https://twitter.com/toshikyoto
[facebook] https://www.facebook.com/toshiya.morita.90

[著書]『原発からの命の守り方』(海象社)
http://www.kaizosha.co.jp/HTML/DEKaizo58.html
[共著]『内部被曝』(岩波ブックレット)
https://www.iwanami.co.jp/cgi-bin/isearch?isbn=ISBN978-4-00-270832-4

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明日に向けて(1274)科学の原則を無視した原子力規制(後藤政志さん談)

2016年06月21日 23時30分00秒 | 明日に向けて(1201~1300)

守田です。(20160621 23:30)

川口さんとの対談の最終章(質疑応答部分)がまだ残っているのですが、元格納容器設計者の後藤政志さんとのジョイント企画が迫ってきましたので今回はそのことを特集します。
まず後藤さんとご一緒させていただく企画ですが、6月24日舞鶴市、25日に向日市、26日彦根市と3日連続で行います。いずれの場でもまずは1時間、後藤さんにお話いただいて、後の1時間、僕が対談させていただきます。
それぞれの企画の案内を最後に貼りつけますので、詳細はそちらをご覧下さい。

今回は後藤さんがネットで話されている最新の見解をご紹介します。
以下のYouTubeでのお話を2回に分けてお伝えします。
なお今回も文字起こしした上で、一部、話し言葉を書き言葉に改めていますので、文責は守田にあります。この点をご注意ください。

*****

科学の原則を無視した原子力規制
2016年5月25日公開 後藤政志
https://www.youtube.com/watch?v=gFNmpcA3qlA&feature=youtu.be

①科学の原則を無視した原子力規制

原子力規制では常に「科学的」という言葉が使われます。しかしどうも気になるのは「科学的に最新のデータを基に」とか言ったときに本当に中身を伴っているのかです。
「科学的」と言えばすべてが客観性を帯びるかのように言われるふしがあるのですけれども、中身が伴っていない場合が多い。
科学的な言葉を使いながら、科学的な実証性や、誰しもが認める客観性を伴わないままに科学的という装いをもって、すごく主観的なことが言われている。というより規制においても使われているのではないかという危惧を持ちます。

そもそも科学と言うものは、仮説、理屈上こういうことではないかという説を建てるわけですね。それを実験やデータその他によって実質的に証明する。それが実証性です。
科学では仮説の段階は科学の入り口でありまして、実証されてない段階は、「実証されてない」と言わなくてはいけないのです。
ところが、これは地震とか津波とかを専門的にやっている方にお叱りをうけるかもしれませんけれども、あえて私なりに言わせていただくと、研究として理論的な部分はその通りで、ある面で科学的な理論を建てて、調べながらやっている。それはそう思います。

ただ内容で、土のメカニズム、壊れ方、地球のプレートがぶつかってこすれて摩擦でひずみが集中して跳ね返ってとか、その途中が壊れるとか、直下型の断層の地震とかですね。そういうものの壊れ方が絡んでいます。
そうすると理論上は分かっているけれども、データで全部カバーできるわけではないのです。
つい最近でも南海トラフの話で、全体のひずみが5センチぐらい動いていると、これは大変なことだと、今までと違った結論になると、その限りでは科学的な話をしています。
ですけどそれを原子力規制において、そのひずみからどういう地震が来ると分かるかというと実証性がないのです。それをもとにあたかも「何ガル」ということを(分かっているかのように-守田補足)出してくる。私はこれはおかしいと思います。
原子力規制の根幹の問題です。

可能性としてこれが一番高いということは言えるかもしれないけれどもそれで断定できないのは明らかです。
この科学の実証性ということでは、裁判でも課題になっていましたけれども、活断層の長さと地震のエネルギーはある相関関係にある。平均化すると活断層の長さが分かると地震の規模が分かるというのが地震学の理論なのですね。データを平均化していわれる。
ですけれどそれはばらつきがある。しかも大きなばらつきがあるというのがある種の常識なわけです。ところがそれが科学的にあたかも真の値であるかのごとく喧伝されていく。それが非常におかしいわけです。

地震のエネルギーについて分かっていることと分からないことがあって、熊本の地震を見ると分からないことだらけなのですね。
今まで余震、本震という言葉を使ってきましたけれども、今回は震度7の地震が2回もおきて、最初のは実は本震ではなくて前震だったという定義づけがされました。
ある意味では科学者が後付けて解釈したわけですが、問題なのは解釈をするのはよろしいと思いますが、予測の段階で信憑性が問われるときには、分からないことを分かっているように言うなということなのです。

こういう風に思われてこういう可能性が高い。例えばひずみがこうたまってきたからこういう可能性が高い。そこまでは言っていいと思うのですね。しかしそうだけれど、「それはどこまで言えて、ここは分からない」とはっきり言うべきなのです。
だからテレビを見ているとこういう状況になることを予知できなくてはいけない。予知できるようにやって欲しい。予知を出してくれとみなさんが言うわけですがそれは無理な面があるのです。科学的にできないことを予知できると言うのはナンセンスなのです。

私は地震学者ではありません。工学者ですが、物が壊れる破壊現象は扱ってきています。破壊現象というのは非常に不確定なもので、断定しがたい。不確定性がいろいろある。ある場合には確率がからんでくることになります。
たかだか人工物でもそうですから地球規模ではより大きな不確定性があるのは明らかなのですね。その不確定性をなぜに科学者が明確に言わないのか。それは科学者としての怠慢であり、科学者として許されないことだと思います。
とくに社会的に影響のあることについてはまずいと思います。

もちろんきちんと話されている方も存じ上げています。しかしそうでない方も結構いる。それが問題だと思います。それにのっかって規制が動いている。この間代表的だったのは地震もそうですけれども火山ですね。
川内原発の火山の話を観ますと火山学者がとても(噴火を-守田補足)予測できないと言っているのに、原子力規制委員会の方は、火山が動くのは何万年とか十万年とかの単位なので、十分にその前に予知をして使用済み燃料を取り出せるのだと言っています。
それは何に基づいているのかというと「科学的」という「科学に基づいている」という嘘っぱちです。科学的に分かりもしないことを科学と称して勝手に引用している。

日本はとくに「科学」に対しての幻想が大きすぎます。「科学的」ということをもってものを考えていますけれども、実は非科学的です。科学的ではまったくない。単なる推測の域を出ない。占いの域を出ません。
そんなものをもとに原子力規制をやるというのは根幹が間違っているということになるのです。

それに関連して申し上げたいのはリスクについてです。リスクをテイクするという場合、どういうリスクがあるか。例えばどういう地震でどのようにプラントが壊れるか、それによってどこの人たちが被害を受けるかということになります。
そのリスクを背負う、被害を受ける人たちがどういう人たちなのかということと、もともとになる原発の有用性とリスクを比較します。
そのときに有用性を理由にリスクを押し付けているわけです。これは大都市と現地の人たちの問題です。原発のリスクを一番抱えているのは、原発の地元、近くが多いです。

それに対して原発の利益を受けるのは電力会社が一番ですが、大都市の人たちなわけですね。つまりリスクと有用性、メリットが明確にならなければいけないわけですが、リスクのすり替えと押しつけが行われている。最悪です。
こういうことを止めようというのが私の意見です。それが科学的な装いのもとになされていることが非常に気になることです。

もう一つ付け加えると、原子力規制では完全な安全はできないのです。本質的安全はできない。フェールセーフといって、何があっても安全側に落とすということができない。
だから「多層防護」といって、安全対策を5段階に分けて、第一が突破されたら第二、第二が突破されたら第三と考えている。
もともとは軍事用語なのですが、これでもって多層防護でやるからいいのだと言っているわけですけれども、多層防護というのは突破されてやむを得ないからやるのであって、そもそも突破されるなどということがあってはいけないのですね。
働かない安全装置は安全装置ではないのです。安全学の中で一番大事にするのですけれども、何かが壊れて使い物にならなくなるならそれは安全装置ではない。それが安全学の常識なのです。

例えば火災報知器だって火災でケーブルが焼けてしまうのならそれは火災報知器ではないのです。火災で情報が出ませんから。本来では火災で断線したら火災報知器がなるようなシステムになっていなくてはならない。
しかしそうなってないものがいっぱいある。原発はその典型です。これが「科学を無視した原子力規制」ということについての私の意見です。

(後半に続く)

以下、後藤さんの講演会と守田との対談連続企画をお知らせします。

*****

ほんとに大丈夫?私たちのまち(舞鶴)
https://www.facebook.com/events/2046900525535211/

6月24日 19:00
舞鶴市政記念館

講師 後藤 政志さん
コーディネーター 守田 敏也さん

主催 子どもの未来を考える舞鶴ママの会

*****

原発をなくす向日市民の会 第5回
記念講演会・総会のお知らせ

日時 6月25日(土) 1時30分開場 2~4時
第1部  記念講演 講師 後藤政志さん
     後藤政志さんと守田敏也さんのトーク
第2部 第5回総会
場所 慶昌院 (寺戸町西野2)
*年会費を集めます。講演は無料ですが、会場でカンパを募ります

お問い合わせは TEL/FAX(事務局 筒井) 075-931-3788
メールアドレス genpatsu.zero.20120714@gmail.com

*****

原発学習会「原発のほんまのこと」
https://www.facebook.com/events/1613695418958424/

2016年6月26日 13:30 - 17:00
滋賀大学経済学部 第6講義室(校舎棟1階)
〒522-8522 滋賀県 彦根市馬場1-1-1

原発技術者の後藤政志さんと、ジャーナリストの守田敏也さんに原発の実態について詳しくお伺いします。

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守田敏也 MORITA Toshiya
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[著書]『原発からの命の守り方』(海象社)
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[共著]『内部被曝』(岩波ブックレット)
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明日に向けて(1273)闇に葬られた事件のことを知って欲しい伝えて欲しい・・・(川口美砂さんとの対談-4)

2016年06月20日 23時00分00秒 | 明日に向けて(1201~1300)

守田です。(20160620 23:00)

川口美砂さんとの対談の4回目です。今回で対談部分は終わり、次回、質疑応答を掲載して連載を終わります。
なお前回掲載分の中に、川口さんがお父さんの被曝に気がつかれたことくだりがありましたが、川口さんはその後も調査を続け、なんとその頃、お父さんと同じ船に乗っていたおんちゃん、しかも親友だった方と出会われました。
それら『放射線を浴びたX年後2』のその後と言える内容がまとめられ、この6月26日の深夜に放送されることになりました。ぜひご覧下さい!Facebookの予告編ページをお知らせします!

NNNドキュメント’16
『汚名 〜放射線を浴びたX年後〜』(1時間・日本テレビ)
放送時間 6月26日(日) 深夜24時55分〜
語り 樹木希林
https://www.facebook.com/video.php?v=1042961179126965

以下、対談の続きです。

*****

連載第4回

京都「被爆2世3世の会」2016年度年次総会
記念トーク「父の死が放射線のためだと知った時」
川口美砂×守田敏也


◇おんちゃんたちへの思いが募る

守田
お父さんが亡くなった時、お母さんと6歳下の妹さんと3人残されて、「酒の飲み過ぎで死んだんだ」と言われたりして、悲しい思いをされたとお聞きしましたけれども、そのあたりはどんな気持ちだったのでしょうか?

川口
「酒の飲み過ぎで死んだ」と言われて、悲しいのは悲しいのですけど、室戸ではたいていの漁師は早く死ぬとみんな「酒の飲み過ぎ」で片付けられるのですよ。そのためそれを言われたからといって特別な感じはなかったですね。
それがこのように調べていくにつれて分ってくることがたくさんあって。たった2年前に初めてたくさんの漁船が被曝していたことを知って、そこから色んな話を聞かされて勉強も重ねて、3・11以降色んなところで放射能の怖さも知ってきたことも重なって。
父のことに限らないのですが、人々には何も知らされてきませんでした。マグロにしたって検査されたのは昭和29年のあの3月1日から12月までだけで、その後にもう大丈夫だと打ち切られたのですよね。

だけどそもそも原水爆による核実験は、終戦の翌年の1946年から1962年までに100回以上もやられていたのです。
後追いで昭和29年だけは集中的に対策がなされていますけれど、それ以外の年の水爆実験のあった年にも、父もしっかりその海域を航海しているのです。高知県だけでなく全国の漁師さんたちのほとんどがです。マグロ漁船に限らず、貨物船も、捕鯨船も。
えらい大変なことをしていたのだと。歴史的に考えても。あのころは世界的に核実験だらけだったのですよね。

それでもう、私の意識もすごく変わってきました。「父もお酒で命縮めたな」から、「父もそういう目に遭っていた」にですが、多くの船員さんへの思いというか、とても強い憤り、許せない気持ちが募ってきました。
この問題、とにかく知らない人が多い。私もその一人だったのですけれど。事実の解明というのはなかなか時間のかかることでしょうが、一人でも多くの人にこの事実を、ビキニ事件で何が起こったのかを伝えていきたいというのが今の私の気持ちです。

守田
『X年後2』の中でとても印象的なシーンがありました。高齢者の介護施設に入られていた漁師さんの一人を川口さんが訪ねて行かれた時に、その方が「自分に来るガンが息子に行ってしまった」とおっしゃっていました。
息子さんが30代後半でガン亡くなったことが説明されて「一番大切なものを取られた」とその方がおっしゃり、観ていて胸がつまったのですけれど、この時の聞き取りはどのようなご様子だったのでしょうか?

川口
ご親戚がその方から「ビキニで光を見たり、海が突然汚れたりした」と語っているのを聞いたと言うことで、「聞き取りはどうですかと」とお声かけいただいのです。それで行きました。
その時はまったくそんな話が出てくるとは思っていなくて、見たことをそのまま話していただくつもりだったのです。3回ほど光を見たことなどもお話ししていただきました。
すると突然、その方が、マグロ船から貨物船に乗り換えた頃に生まれた子どもさん、昭和38年生まれの方ですが、「それがガンになってしもうて、41歳でのうなってしまったんや」と言われたのです。どう声をかけたらいいものか分かりませんでした。
「ワシに来るもんが息子に来てしもうて、それから女房がおかしくなってしもうて」と語られました。ひとり息子さんだったそうで、かなり辛い思いをされたようです。

守田
子どもへの影響について語られたのはその方ぐらいですか。

川口
私が聞いた範囲ではその方ぐらいでしたね。
土佐清水でも20人ぐらいの漁師さんから聞き取りをしています。先週も土佐清水に行って一番最近の昭和4年生まれの方のお話ですが。その方はいきなり「ワシは13で長崎に行ってな、三菱で魚雷作っとったんや」と言われました。
長崎でも工場で被爆されて、怪我人の救助などをいっぱいされて、その後に土佐清水に帰ってきて、マグロ漁船に乗るようになって、今度はビキニで被曝されたのです。2回被曝された方のお話しでした。

守田
2回も被曝された方のお話は、伊東監督の本の中にも出てきましたね。長崎で爆心地から1.8㌔で被爆されて、その後マグロ船の漁師さんになられて被曝し、病気になってすごく苦しまれて、最後は海に入られて自ら亡くなられている。
監督さんは墓前にお参りされたと書かれていました。あの年代はそういう方もいっぱいおられたのでしょうね。
ところで、そのようにおんちゃんたちのお話を聞き取っていかれる上での苦労というか、難しかったことはどのようなことでしょうか?

川口
そうですね。最初に会ってくれるかくれないか、そこのところが一番難しいし大切で、その入口が一番しんどかったですね。
でも最近は本当に変わってきたなと思うのは、一度聞き取りした方にも、「おんちゃん、どうしてる?元気にしてる」とその後も訪ねるようにしているのです。努めて。そうしたらすごく喜んで下さって、あらためてまた話してくれることもあるのですね。
そうしたらすごくアットホームな雰囲気を作ってくれるようになり、コミュニケーションもしやすくなりました。今までは縁側からの聞き取りでしたけれど、今度は「まあ玄関から入れや」と言われるようになってきている。

最初はやはり、いくら「室戸の子や、漁師の子や」といっても、知らない人間にいきなり自分の大事な話をするはずがないですよね。
ただそれで終わったら仕方がないので、心を開いていただくまでとにかく粘って、辛抱強くアプローチしていく。しんどいのはその過程のことです。
それとご高齢な方々なので、もうすでに4人ぐらい亡くなられています。母から「○○さん入院されてるようだよ」と言われて、次に帰った時「まだ入院してるよ」と言われて、その次には「あっ、亡くなったらしいよ」とかいうことがあるのですよ。
若い時にガンを患って、「2回もやってるからもう大丈夫だよ、もうないよ」と言っていたのに、去年の暮れからまた大腸ガンになって、でも達者で退院してきている人もいます。
その方には、今後私の希望として、労災保険の適用申請をお勧めしようとしています。

まだ私自身もよく手続きを知らないのでこれから勉強しなければならないのですが。山下先生たちはプロジェクトを立ち上げて、そういう活動を進めていらっしゃるのですね。
第五福竜丸の船員の方々の労災申請で尽力された浜松市の聞間先生という方がいらっしゃるのですが、7人ほど医療費の援助を受けられたのです。
その先生に勉強させていただこうと思って、3月にお話を聞いたのですけど、もう申請のフォーマットがあって一人でも申請できるようになっているらしいのです。

一人でもできるのであれば、私が先生からきちんと教えてもらって、それを室戸のおんちゃんたちにお伝えしたい。それも私の役目であればやりたいと思っています。
労災申請を出した先の審査は、第五福竜丸の方たちとは違って厳しいとは思いますが、やらないよりはやった方がいい。「こういうふうに出せばいいのか」と申請しようかという思いが広がっていけばと、新しい一つの希望を持っています。
大腸ガンになったその方にもそのお話をしたら、最初は「もうええ、もうええ」と言っていましたが、「これやってもし通ったら、お金で苦労している人がいたら『ワシでもできるんだな』と希望になるのでどうでしょうね」とゆっくり、丁寧に説明すると、「じゃあ申請してみようか」となってます。

守田
ここはすごく大事なポイントだと思います。これは映画の次の段階のことですが、考え直さなければいけないのは、第五福竜丸は焼津の船でした。『X年後』で取り上げられたのは高知の船です。でも実際の被害は全国に及んでいるのですね。
特に太平洋のあらゆる港から船は出ていますから、その中にはここにおられるみなさんの郷里も含まれているかもしれない。伊東監督はその全国各地で聞き取りをして欲しいと願っているのです。
その時に川口さんがどうやっておんちゃんたちの中に入っていったのか、その経験が重要なポイントになると思います。
伊東さんはこの事実の掘り起こしや聞き取りの動きを全国にもっと広げて欲しいと訴えていますね。そのために映画の上映もして欲しいと。これに応えたいと思います。

ところで、川口さんはいつの間にか映画の主人公になってしまっているのですけれど、その辺りについて、監督さんは川口さんにどんなアプローチをされたのでしょうか?


◇自ら考え、行動する力を与えられた

川口
監督は一切何もしゃべりませんし、ただ私が聞き取っているところを取材させて欲しいということだけでした。もちろんそれが記録になるので「どーぞ、どーぞ、ご一緒に」ということで始めてきたのです。
月に一回、多い時は月に三回、四回になる時もありますけど、聞き取りしているところを撮影して記録してもらっています。
最初は私、「お手伝いをします、下働きでもなんでもします」ということで関わっていったのです。カメラが回されていても、私はカメラの後ろにいるようにして。
次第に私が聞き取りに協力して下さる方をリサーチしたり、訪ねたりする姿もカメラで追うようになられました。
父の船員手帳や航海日誌が出てきたあたりから、もう少し私をクローズアップしたいと思われるようになったみたいです。その頃から私自身、何となく「写されているなあ」と思っていました。

守田
監督はどう言われたのですか?

川口
「あれして、これして」は一切ないですし、インタビューでも何を聞くかなど少しはアドバイスがありましたけれど、他は何もないのです。
私もドキュメンタリー映画は好きですし、少しは身構えるものもあるのではないかと思っていましたけれど、まったく何もない。「ああそうか、これがドキュメンタリーなのだ」と思うようになって。
私の露出がこんなにあるとは、試写会で観るまで知りませんでした。初めての試写会は割と盛会でしたけれど、観てびっくりしました。編集方針の打ち合わせとかも全くないし、何の話もしてくれませんでした。それがドキュメンタリーなんですね。

守田
最後に映画が公開されてこれからのことについて、川口さんが希望されていることについて、みなさんに訴えたいことについてお話し下さい。

川口
まず、一つの映画によって私の意識がこれだけ変わったことが印象的です。自ら考えて行動する力を与えていただけました。伊東監督との出会いも大きかったです。
知らなかったとことは「無かった」ことにされる、知らされなかったことも「無かった」ことにされる。知らさないというのは、事実を「無い」ことにしようと、行なっていることだろうと思います。ビキニに限らず公害でも薬害でも同じようにです。
権力を持っている人たちは、これらの事実を、何事もなかったようにするのが、彼らにとって一番平和に収まる道だと思ってそうするわけですが、とんでもないことですね。でもそんなことは神様が放っておかないです。

ビキニについては、伊東監督が、土日もなく、愛媛から何の得もないのに、小さな車で何度も高知へ来て、取材して映像に収めて、南海放送の深夜放送でシリーズで放映して世に出したのでした。
でも視聴率は稼げないし、人からは「何やってんだ」と言われて立つ瀬はないし、もうボコボコの状態で辛い思いを延々とされたのですが、「今、自分がこれを止めたら漁師さんたちへの誠意がなくなる」という思いでやってこられました。
皮肉なことに2011年のあの悲しい出来事によって、国民のみなさんの意識が放射能に向けられるようになって、伊東監督の『X年後』がクローズアップされたのですね。その中で、私自身も、たった2年前にこのことを知ったわけです。

これからも私には大きなことはできません。自分に無理を課すとパンクしますし、いっぱいっぱいになってしまうので、できることを一歩づつやっていけばまたそれがどこかでつながるのだと思っています。
やはり若い方たちに知っていただいて、事実を継承していってもらえればとても嬉しく思います。
映画は九州から北海道までたくさんの会場で上映をしていただきました。明日は神戸でも上映会があります。
そこでもご挨拶する時間をいただくのですが、その時に必ず言うのは、「今日見たこと、初めて知ったことを、お家に帰って、お友達一人でもいい、家族内でもいいから話して欲しい」ということです。そしたらその人たちからまた話が広がっていく。
とにかく一人でも多くの方に、この闇に葬られた事件のことを知ってもらいたいというのが私の願い、希望です。今日、聴いていただいたみなさんにも、是非この事実を広げていただくようにお願いいたします。

ありがとうございました。

続く

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明日に向けて(1272)1人生き残ったおんちゃん、そして父も被曝水域にいた!(川口美砂さんとの対談-3)

2016年06月19日 23時30分00秒 | 明日に向けて(1201~1300)

守田です。(20160619 23:30)

川口美砂さんとの対談の3回目です。今回は川口さんが訪ねた多くのおんちゃんが、〇〇丸の最後の生き残りだったこと、また調べていくうちにお父さんも被曝水域で操業されたことが分かったことについてのくだりです。

再び『放射線を浴びたX年後』の公式サイトをお知らせしておきます。
http://x311.info/part2/

自主上映についてのサイトです。
http://x311.info/blog/theater/


*****

連載第3回

京都「被爆2世3世の会」2016年度年次総会
記念トーク「父の死が放射線のためだと知った時」
川口美砂×守田敏也

◇「〇〇丸の生き残りはワシ一人や」

守田
『X年後1』を観ると、あの時光を見たとか、太陽のようなものを見たとかありますが、そんな話も聞かれたのですか?

川口
ある乗組員の人は、「お日様が沈んだのにもう一回ポコッと出てきた」とか言っていました。「何かが降っていることに気が付かんかったけれど頭に手をやったら灰だらけやった」とか。
光を見て「ワシはいろんな海で航海してきたけどあれはオーロラやないぞ、あの赤さはなんやろ?今でも分らんけど」とか言った人もいました。でも何も見てない人もいるんですね、実際には。

守田
お話しを聞くのは生き残りの方ですよね。その方たちから亡くなった仲間の方たちのことは出ないのでしょうか?

川口
だいたいマグロ船の乗組員は一隻20人から23人ぐらいで操業します。話を聞きに行って、「〇〇丸の生き残りはワシ一人や」という人が多いのです。
もちろんお話ししてくれる人は今も達者な人たちなのですけれど、その達者な人たちが「自分は生き残ったけど他はみんな若くして亡くなってしまった」と言います。

守田
少し話が飛躍してしまうのですけれど、実は僕は最初に『X年後2』を観に行った時に先に川口さんにお会いしていて、映画が終わった後にお話しさせていただいたのですが、その時、初めに口から出てきたのは「川口さん、お父さんたちの仇をとりましょう」ということでした。
というのも僕も福島原発事故以降、放射線被曝から命を守る活動をしてくる中で、「被爆者の方が僕の背中を押してくれてる」としか考えられないような不思議で恵まれた出会いがいっぱいあったのです。
そんな中で僕には被爆者からの「仇をうって欲しい、無念を果たして欲しい」と言う声が聞こえてくるような気がしていました。
川口さんとの出会いもまさにそうした出会いの一つなのですが、それで川口さんに「川口さん、漁師さんたちが背中を押してくれていると感じるのではないですか?」と聞いたのです。
そうしたらお話しして下さったのが今のこのお話でした。辿りつく船、辿りつく船で、最後の一人だけが、まるで聞き取りを待っていたかのように生き残っていらっしゃる。

川口
そうですね。亡くなるまでには個人差がありますからね。うちの父みたいに36歳で亡くなった場合もあるし、中には20歳で亡くなった方もいらっしゃる。私の先輩のお父さんは46歳で亡くなっています。そういう若くして亡くなられたケースがたくさんありますが、実際私が聞き取りをしてる人たちは長生きされた方で、この方の生命力のお蔭なのかなあと思いつつ、でもこの方たちは語るために生かされているのではないかな、みたいな気持ちにもなってきていますね。
それぐらいほとんどの方が亡くなられていますから。

守田
でも生き永らえている方も病気とかは結構されているのですよね。

川口
その通りです。若い時からガンを患って、いろんな所に転移して、でも87歳まで生きておられる方がおられます。

守田
そういう聞き取りの時にですね、監督さんはずっと遠くにいて、カメラ持って待たれていたというお話ですが。

川口
それはですね、おんちゃぉんたち、電話では「おお、来てええよ」と言うのですが、私が行って「実はテレビ局の人と一緒なんよ」と言うと、ほとんどの人が「それはイカン」と言われるのです。
そんなおんちゃんを説得して取材を受けてもらうのも私の役目なのです。
監督はその間、ずっと遠くで、カメラを回すことがOKになるまで待っているのですね。許可を得ていないのに、ずかずかと上がり込んで撮影できるような人ではないのです。そのために大雨の日に外で遠くで立っていて、私がOKサインを送るのを待っている。
そういう態度が今、室戸の人たちにすごく信頼を作り出しています。相手の心に寄り添って、誠実に、地道に取材に取り組まれていることが、どんどん信頼を広げて、室戸の中に信頼感が浸透しているのですね。

守田
そうやって聞き取りをされる中で、お父さんが被曝されていたことについても確信が深まったと思うのですが、そのあたりの経過はどうだったのでしょうか?

◇父も被曝地域で操業していた!

川口
父のことは、最初にこの映画製作に参加させていただいた当時は、マグロ漁船に乗っていた漁師さんたちの中の一人ぐらいに思っていたのです。実際にどの海域で航海していたとか、魚捨てたなんて話も聞いたことはなかったですし、聞く時間もなかったのです。
また「ちょっと調べようがないなあ」と思ったのは船員手帳が手許になかったからです。
父は当時の若者たちがそうであるように、父親(私の祖父)を先の戦争で亡くして、その上子だくさんの家で育ったのです。父には一つ上に姉がいて、下には4人の弟妹がいたので、中学を出た時に勉強したくてもさせてもらえなかった。
家族の柱にならなければいけなかったのです。室戸ではそうした男性は、だいたいが一番稼ぎのある漁師になるのですね。伝統です。漁師さんが多いですから。

父が亡くなった時、一番下の妹(私の叔母)がすごく父の世話になっていて、慕っていたということもあって、自費出版で父のことを残したいということで、航海日誌とか船員手帳を引き取ったのです。
私の母は、日誌などにはプライベートなことも書いてあるので渋ったのですけれど、結局叔母に預けていたのです。
私は手帳の行方を知りたかったのですが、4年前にその叔母が亡くなったので、調べようがなかった。義理の叔父にいろいろ尋ねたりしましたが分らなくて、やっぱり捨てられたのだと思い込んでいた。

ところが去年の7月に室戸の実家に帰った時に、母の住んでいる集合住宅の一室に、小さな収納スペースがあり、普段は扉の前に物がいっぱいで扉も開けられなかったのに、そこが整理しようと片付けの途中のような状態になっていたのです。
私がそこを最後まで整理してあげようと思って部屋を開けてみると、奥の方に古い小箱があって、サイズ的にノ―トか何かが入っているような箱だったのです。
その時、「はっと」と感じるものがありまして、「ええっ!」と思いながら、「まさか!」と独り言を言いながら出してきて、開いてみたら「出たっ!」っという感じで、本当にビックリしました。父の航海日誌と船員手帳が入っていたのです。

私にしてみたらすぐそこにあったものだったのですけれども、多分、映画製作に参加していなければ見つけても「ああここにあった」で済まされていたのだと思います。そんな感じで一番欲しかったもの、父の足跡を追えるものが見つかったのです。
その時、父が亡くなった時のいろいろな書類なども一緒に出てきました。母はいろいろな手続きを率先してできる人ではなかったので、12歳の、小学校6年生の私が代わりにやっていて、私の字で書いたものが出てきたのです。
手帳を失効させる手続きとか、死亡診断書を取り寄せるとか。もうやらざるを得なかったのでしょうね。

守田
船員手帳とか航海日誌が出てきたのは凄いことでしたね。それにはどんなことが書いてあるのか、みなさん、知らないと思うので教えて下さい。

川口
マグロ船の漁師ということでお話しすれば、乗船するのに船員組合に入って、そして船主さんが雇用しますよってことで、○○年○○月から○○年○○月まで○○丸に乗ってましたという記録がされているのですね。
小さな、パスポートみたいな大きさで。それが次の乗船の時にも必要になるし、漁師にしたら一番大事なものなのです。

守田
漁師さんたちは、けっこう、乗る船を替えられることが多いらしいのですが、その手帳がないと船を替えることができないわけですよね。漁師さんたちの収入は、どれだけの漁獲高があるかにかかっているから、漁獲高の多い船を求めて、どんどん船を渡り歩いていったりするそうです。そのために後になってからある一隻の船について、一緒に乗る船の仲間を見つけるのも結構大変だと本や映画で知りました。
ところで『X年後2』の映画の中では、多くの漁師さんが1954年のページを破り捨てていたことも描かれていましたが、お父さんはどうだったのですか?

川口
父の手帳には1954年のページはありましたね。
私も延べにすると80人以上の漁師さんたちの話を聞いてきました。もう船員手帳をなくしている方もあって、その点は、当時、「これは絶対に必要なものだよ」と徹底されていなかったことに原因があると思いますけれど。
でも大事にしている人たちは、長く船に乗っていた人はもう束になるほどのものを持っていました。持っている方の手帳を見せてもらうときには、まず調査をしている昭和29年のページを見せてもらうのですけど、映画にあったようにそこが破られている人は、私が見た範囲ではなかったです。
確かに映画では、船員保険組合に勤めていた女性が「そう言えば昭和29年のページを破ってた人もいたよ」と言っていましたが。

守田
被曝の事実を隠そうとしたわけですよね。広島・長崎の被爆者もそうですけど、被害者が自らの被害を隠していかないと生きづらいということがあった。
それで、お父さんの手帳を見られて、お父さんがおられた所(海域)がハッキリしたわけですね。

川口
ええ、もうハッキリしました。昭和29年には第二大鵬丸と第五豊丸という船に乗っていて。これをもっと確実なことにしたいと、昨年の夏に厚生労働省に行って情報開示をしてもらいました。
手帳だけでなく情報開示してもらえれば、この事実はもっと確かなものになるからです。
確実に魚を捨てていました。両方の船共に。あの汚れた海で操業していて体に影響がないはずがない。しかも当時はまだ冷凍技術のない時代ですから、航海してて10日ぐらいで野菜が無くなるのですね。ですから航海の後半は釣った魚を食べる。
しかも内臓など、珍味なのですね。だからよく食べる。スコールで体も洗う。米も、真水は貴重ですから洗米の最後の時だけ使って、他は海水で研ぐ。
これはもう、まったく影響ないことはありえないなと確信を持ちました。

続く

------------------------
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明日に向けて(1271)室戸のおんちゃんたちから海の話を聴く(川口美砂さんとの対談―2)

2016年06月18日 10時30分00秒 | 明日に向けて(1201~1300)

守田です。(20160618 10:30)

今回も川口美砂さんとの対談の続きを掲載します。今回は川口さんが初めて『放射線を浴びたX年後』を観られて、室戸の漁師さんたち、おんちゃんたちへの聴き取りに参加されていったくだりです。

なお『放射線を浴びたX年後』の公式サイトをお知らせしておきます。
http://x311.info/part2/

各地で自主上映が行われていますので、ぜひ以下をチェックして下さい。
http://x311.info/blog/theater/

僕は8月6日、広島への原爆投下から71年目の日に、京都市のひとまち交流館で行われる自主上映会に参加するつもりです。(二度目の観覧です!)
この日は伊東監督のトークもあり、大期待です!!
https://www.facebook.com/events/1887183454842098/

以下、対談の続きです。

*****

連載第2回

京都「被爆2世3世の会」2016年度年次総会
記念トーク「父の死が放射線のためだと知った時」
川口美砂さん×守田敏也さん

◇『放射線を浴びたX年後』を観に行って

川口
今日はお声かけ下さってどうもありがとうございます。これまで歩んできたことを、約2年の歩みですが、守田さんの質問に応える形でお話しさせていただきたいと思います。
守田さんも先ほどお話しされましたように、この映画『X年後1』の方ですけど、それを観たのがきっかけとなって室戸のおんちゃんたちの聞き取りをすることになったのです。
2013年の8月、お盆休みに室戸に帰っていた時に、妹が「お姉ちゃん、漁師のおんちゃんたちの映画があるけど観に行かん?」って声をかけてくれたのです。
8月18日、その日の最終便で東京に戻る予定でしたが、午後1時からの上映スタートだったので、「間にあうねえ、行こうか」と。内容も知らず、まったく先入観もなく観に行きました。観た後のショックを今でも憶えています。

私は室戸の漁師の子として生まれ育ちました。ビキニのあの大きな事件は、第五福竜丸だけのことだとその時まで思い込んでいたのです。単純に私が勉強不足だったのか、知らされてこなかったのか。
観終わった後に一番感じたのは、この映画を作った監督に会いたいということでした。映像の力を非常に感じましたので。それを最初に思いました。
そして『X年後1』を観られた方はお分かりだと思いますが、同じシーンが『X年後2』にも挿入されていて、監督が愛媛県から高知まで何度も足を運ばれて取材を行なわれました。
でも初めのうち、おんちゃんたちは「今更遅い」と断ったり、時には烈火のごとく怒ってなぐりかからんばかりに追い返そうとしたのですね。監督は「50年前に来い」とか、「お墓の下にまで降りて来い」とか言われているのです。
ずいぶんなご苦労を感じ取ったものですから、これを知ってしまった以上は見過ごすことができないと思い、何かお手伝いがしたいと思ったのです。

私がどういう形で何かできるのか、何の自信もなかったのですが、監督の聞き取りの補佐ならばできるのではないか、室戸市であれば、私は出身者なので、聞き取りすることは可能なのではないかと思ったのです。
マグロ船の漁師さんたちにとって、室戸は一時期はマグロの漁獲高の黄金期を迎えた街でした。その頃の漁師たちが何人かいるのではないかとも思いました。それが聞き取りをするきっかけでした。

守田
映画を最初に観た時にお父さんとの結びつきは考えられなかったですか?

川口
そうですね。父も漁師だったので無関係ではないだろうけど、まさか「被曝」という文字と父と関係があるとはまったく想像しませんでしたね。

守田
最初はお父さんの被曝と結びつけられたわけではなかったのですね。
それで、監督さんに連絡されて、監督さんはどんなふうにおっしゃったのですか?

川口
室戸の上映会の当日は監督は多忙で来ておられなくて、配給会社の方がおられたのでその日はその方と名刺交換だけしました。東京に戻ってから配給会社の方に監督へのアプローチの仕方などお尋ねしました。
ただ監督は非常にお忙しくてなかなか思うようにことが運ばなかったのです。それでもめげずに何度も何度も連絡していたところ、ある日やっと連絡があり、2013年の10月のある日、上京されていた監督と初めて、お会いすることができたのです。

守田
伊東監督は愛媛県にある南海放送という放送局のディレクターでしたね。

川口
初対面は東京。吉祥寺の喫茶店でお話ししました。その時、映画の感想と、私が室戸の出身であること、父が漁師だったことなどを話しました。
監督は非常に誠実で、ぼくとつとした方でした。第一印象はとても良かったです。話しの中で「川口さんのお父さん、漁師さんだったら何という船に乗っていたのですか?」と聞いて下さいました。
父が亡くなったのが36歳の時、私が12歳でした。それまでの6年間ぐらいは、子ども心の中に父の思い出もあるのですが、なにしろ半分以上は家を不在にしている漁師のことですから、あまり父の記憶はなかった。
それでも船の名前だけは憶えていて監督にお話ししました。そうすると2~3日後に、「その船はおそらくこの海域にいたはずですよ」という非常に詳しく丁寧なメールをいただきました。その時に、この監督に協力したいとあらためて強く思ったのです


◇おんちゃんたちの聞き取りに参加!

守田
それから具体的な聞き取りに参加されていったのですか?

川口
すぐにではないです。私は盆暮れには必ず室戸に帰ります。母がおかげ様で元気でいてくれているので。
また私は広告代理店の仕事をしていて、この10年ぐらい室戸のお仕事もいろいろお声かけしてもらえているので、年に3~4回は帰る機会があったので、映画を観た後に「あの漁師のおんちゃんどこにいるのかな」という気持ちを持っていたのです。
どこに誰それがいるというのは分っていたのですが、実際に監督と一緒に行動するようになったのは2015年の正月からでしたね。

守田
それまである程度、「読み」はつけておいた、ということですかね。

川口
そうですね。
2014年の秋には『放射線を浴びたX年後』の本も出版されたので、出版記念イベントにもお声かけいただいて、そこでまた監督と再会しました。その後も頻繁にはお会いできませんでしたけれど、メールなどでは情報交換していました。

守田
みなさん、是非、今紹介されたこの『放射線を浴びたX年後』(講談社)という本も読んで欲しいのです。僕も読んだのですが、監督の人となりがとてもよく分る本です。すごく素朴な方で、本当に本音しか言わなくて。
本には、取材でいかに落ち込んだのかなどということもいっぱい書いてあります。長い間、この活動にはまったく光が当たらなかったのですね。
テレビで取り上げられたのですが、当初は夜中の放送枠にしか当たらない。また放映しても誰も見てくれてなくてまったく割りに合わないと感じる。だけれどもやめられない。そんな思いで関わり続けたことが書かれています。
こうしたくだりを読んだら、僕も、是非伊東監督に会いたくなりました。そういう本です。それでは実際に川口さんがおんちゃんたちに話を聞きに行った時のことを教えて下さい。

川口
「お手伝いできますよ」とは言ったものの、最初から具体的な特定の方を知っていたわけではなかったのです。
ただ手がかりのようなものはありました。母が昭和9年生まれで、同級生の男の人たちは漁師の方も多く、「お母さん、漁師のおんちゃんたちで、今でも元気な人おらんやろか?」と聞いていったのです。
狭い街なのに交流はあまりなかったのです、それでも「○○さんは元気そうに散歩してたよ」と聞くと、「あ、そう」ということで電話帳を引っ張り出して調べるのです。
そして直接、電話を入れました。私は室戸の子で、しかも父が漁師でしたし、母の同級生の人に「私漁師の子で、これこれで」と語りかけていったのです。

室戸のおんちゃんたちは、マグロ漁の黄金期をしっかりと支えてくれた人たちで、もともと私には、ビキニのことよりも先にマグロ船やマグロ漁のことに強い興味があって、いつか何かの形にしたいとも思っていたのです。
なかなかそれは実現できていなかったのですが、それで初めはそこからアプローチしました。
でもほとんどの人が「昔のことやから分らんぞ」、「来ても知らんぞ」と言うのですね。だけどそこは室戸の者同士ということで、「いやあ、私のお父ちゃん36歳で亡くなってねえ、沖の話よう聞かんかったんよ」というふうに話していくと、「うーん、そうかよう」という感じで、しぶしぶ会うことを了解してくれて、それで実際にお会いして、沖の話をしながら、「昭和29年にえらいおおごとがあったみたいやねぇ」と言うと、ほとんどが、ほぼ全員が、ハッキリとした記憶を持っていました。

「おー、お―、知っちゅう、知っちゅう」。
「わしは焼津で福竜丸見た」。
「魚を命がけで獲ったに、港に行ったら、白いお医者さんのような服着た人が魚を調べに来て、ガーガー音のするやつで調べて、こりゃ汚れちゅう、捨ててこいってやられて」。
魚だけ調べられて、身体は全く調べられんかった人もあれば、頭のてっぺんからつま先まで調べられた人もいました。
「頭をやったらえらいガーガーいうがに、風呂に行って来いと言われた」とかで、お風呂に行ってもう一回帰ってきたら「だいぶ取れたな、そんならOK」という具合だったそうです。つまり除染だったのですね。

魚を沖に捨てに行ったけど油代がもったいないから沖まで行かずに途中で捨てたり、捨てるのもったいないから「これ食べてもどうっちゅうことないぞ」と言って全員で食べたとかいう話も聞きました。
まあ、話がそれぞれの人によって異なるのですけれど、おんちゃんたちの個々の記憶がすぐに出てきました。よっぽど衝撃的に一人ひとりの記憶の中に深く刻み込まれてたのでしょうね。
それまで聞く人はいなかった。家に帰って家族に心配させたくもなかった。それから一番大きい問題は、しゃべってしまうと魚が売れなくなる、売れなくなると困るから「言うな!」と言われたのだそうです。
今でもそうですが、漁師の世界では、船主さん、船頭さんは絶対的な力を持っていて、言いつけを破ったら今度は船に乗せてもらえなくなる。ある種の村八分みたいになります。そういうことがあってみんなしゃべることはありませんでした。
今だからいろんなことを話して下さるけど、当時はそうだったのです。

続く

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守田敏也 MORITA Toshiya
[blog] http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011
[website] http://toshikyoto.com/
[twitter] https://twitter.com/toshikyoto
[facebook] https://www.facebook.com/toshiya.morita.90

[著書]『原発からの命の守り方』(海象社)
http://www.kaizosha.co.jp/HTML/DEKaizo58.html
[共著]『内部被曝』(岩波ブックレット)
https://www.iwanami.co.jp/cgi-bin/isearch?isbn=ISBN978-4-00-270832-4

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明日に向けて(1270)放射線を浴びたX年後を考える!(川口美砂さんとの対談-1)

2016年06月17日 22時00分00秒 | 明日に向けて(1201~1300)

守田です。(20160617 22:00)

今回から何回かに分けて、京都「被爆2世・3世の会」会報No43別冊に掲載していただいた京都「被爆2世・3世の会」2016年度年次総会(4月23日)での記念トークの起こしを転載させていただきます。
タイトルは「父の死が放射線のためだと知った時」。川口美砂さんと僕との対談です。
川口さんは室戸市出身。映画『放射線を浴びたX年後2』に主演されました。太平洋核実験で被曝した漁船員を訪ね、聴き取りを行われています。
この映画がどんなものなのか。またなぜ川口さんをお招きすることになったのか、まずは冒頭の僕の解説をお読み下さい。川口さんのご登場は連載2回目からになります。

*****

京都「被爆2世3世の会」2016年度年次総会
記念トーク「父の死が放射線のためだと知った時」
川口美砂さん×守田敏也さん

守田
みなさんこんにちは。「被爆2世・3世の会」の守田敏也です。今日の総会の第2部の記念トークに移りたいと思います。まず今日ゲストとしてお招きした川口美砂さんをご紹介します。

川口
はじめまして。川口と申します。本日はよろしくお願いいたします。


◇川口さんにビキニのこと、お父さんのことを伺おうと

守田
まず初めに、今日川口さんをおよびした経緯についてお話しします。
川口さんは『放射線を浴びたX年後2』という映画に出演されたのですが、そのパンフレットに書かれている記述の一部を読みあげます。
「1954年アメリカが行ったビキニ水爆実験。当時、多くの日本の漁船が同じ海域で操業していた。にもかかわらず、第五福竜丸以外の「被ばく」は、人々の記憶、そして歴史からもなぜか消し去られて行った。
闇に葬られようとしていたその重大事件に光をあてたのは、高知県の港町で地道な調査を続けた教師や高校生たちだった。
その足跡を丹念にたどったあるローカル局のTVマンの8年にわたる長期取材のなかで、次々と明らかになっていく船員たちの衝撃的なその後・・・。そして、ついにたどり着いた、“機密文書”・・・そこには、日本にも及んだ深刻な汚染の記録があった―」

僕自身もそうなのですが、みなさんも「第五福竜丸」という船の名は強く記憶に残っていると思うのですよね。アメリカのビキニ環礁の核実験で被曝した船です。
ところが被曝したのは第五福竜丸だけではなかった。記録に残っているだけでも延べ992隻もの船が数え上げられています。
記録にはない船ももちろんたくさんあるはずで、膨大な量の日本の船が巻き込まれていて、推定1万人から2万人の漁師さんたちや船員さんたちが被曝していたのです。
漁船だけではなくて貨物船などもあの海域にいて、その船員の方たちも被曝している。それなのに、まるで被曝したのは第五福竜丸一隻だけかのように扱われてきてしまいました。

このことに高知県の山下正寿先生他、2名の先生が気がつかれました。当時は高校の先生をされていて、自分が教えている高校生たちと一緒になって被曝の事実を一つ一つ丹念に調べ上げ、たくさんの被害があったことを明らかにしていったのです。
その活動の成果をまとめるとともに、高知県室戸市の遠洋マグロ漁船・第二幸成丸の乗りこまれていてマーシャル漁場で被曝された有藤照雄さんなどの50年の沈黙を破っての証言をはじめ、たくさんの乗組員の方やご家族の証言や、アメリカ公文書に記載されていた水爆実験によるアメリカ本土や日本全域の被曝の事実など、衝撃的な内容を入れ込んで作り上げたのが、映画『放射能を浴びたX年後』です。川口さんが出演されたものの前作です。
まずこちらを先に観て欲しいのですけれど、核実験で被曝したのは高知県の船だけではなかったのです。日本の太平洋側のあらゆる港から実験海域に船が行っていた。だから日本中の港に被曝した船がいて、漁師さんたちがいたのです。
これを山下先生たちが20年以上の歳月をかけてずっと調べあげていったのですが、ここに途中から南海放送のディレクターの伊東英朗さんという方が参加されたのです。
映画のタイトルに使われた「X年後」という言葉は、その伊東さんが思いついたもので、被曝してから何年か後に影響が出てくることを指した言葉です。
漁師さんたちの場合、早ければ船が帰って来てからすぐに亡くなった方もいますし、その後に次々と亡くなられていった。とにかくまだまだお若くして亡くなられた方が多いのですね。40代、50代と。

ところが伊東さんらがさらに調査していくと衝撃的なことが分ってきた。
アメリカという国は25年経つと公文書を公開していく国なのですね。そこで出てきた文書から分ってきたのは、実はなんと、ビキニ環礁水爆実験の時にアメリカは、アメリカ本土のかなりの場所で放射性物質を捕まえる用意をしていたのです。
そして日本でも沖縄、広島、長崎、そして米軍基地のある三沢とかに用意をしていました。南太平洋での水爆実験が各地にどのような影響を及ぼすのかデータをとっていたのですね。
そのデータを見るとアメリカのかなりの部分が被曝しているし、日本全土が放射能の雲に覆われてしまった日も何日もあったのです。

もちろん一番濃度のきつい放射能にさらされ、激しい被曝をされたのは船員さんたちです。あたりの海域が汚染されていましたが、彼らは放射能の入った水でお米を研いで食べたり、スコールのない時には海水で体を洗っていました。ですから物凄い被曝量です。
でも彼らだけではなく、日本中が被曝していたのですね。だから私たち全員が被曝者なのです。それが映画『放射線を浴びたX年後』で告発されたのです。
この映画、『放射線を浴びたX年後』(以下『X年後1』)と、第2作の『放射線を浴びたX年後2』(以下『X年後2』)は、全国で自主上映が呼びかけられていますので、ぜひ協力していただきたいです。

さて川口さんはそれまで特にこの映画に関心があったわけではなかったのですが、故郷の室戸に行かれた時に、妹さんに誘われて観に行かれました。そこからこの映画との関わりが始まったのですね。
川口さんのお父さんも室戸の漁師さんで、36歳で亡くなられているのです。川口さんは映画を観て、たくさんの証言を集めている伊東監督の手助けをしたいと考えて、室戸の漁師さんたち、「おんちゃん」たちを取材されていくようになりました。
そのとき川口さんは映画に出るつもりなど全然なかった。なかったのですけれども、途中から監督さんから「美砂さんでいこう」ということになって、映画ができてしまって、今、戸惑っているのだそうですが、ビキニ環礁の核実験の被曝のこと、漁師さんたちのこと、映画のことなどを、私たち京都「被爆2世・3世の会」でぜひお聞きしたいということから今日は川口さんをお呼びしようということになったわけです。

記念トークのタイトルが「父の死が放射線のためだと知った時」とありますが、実は僕も同じなのです。僕の父も原爆が落ちた時、広島の呉市にいたのですね。正確に言うと香川県の善通寺というところにあった陸軍基地から呉まで救助命令が出て行ったのです。

父は呉に止まったのですけど、何の因果か、僕の友人のお父さんが呉に先にいた海軍部隊にいて、トコロテン式に押し出されるように広島市内に入ってるのです。そして被爆しています。
僕の父は呉からは動かなかったので、父自身も被爆したとは思ってなかったし、僕も家族もそう了解していました。その父が亡くなったのは広島の被爆から35年後のこと。1980年5月。死因は脳溢血で享年59歳でした。

ところが福島原発事故以降のことなのですが、名古屋大学名誉着教授の沢田昭二先生に父のことを話していたら、「守田さん、呉には確実に放射能の雲が届いているんですよ。だからお父さんも被爆されてるし、あなたも被爆二世ですよ」と言われたのです。
あー、そうだったのか、ということで、僕も50歳を過ぎて初めて事実を知ったというわけです。
そういうことを踏まえて、今日は川口さんにいろいろとお話を伺いたいと思います。
まず最初に映画を観に行かれたきっかけから伺いたいと思います。

続く

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守田敏也 MORITA Toshiya
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明日に向けて(1269)選挙とTPPと原発について話します。後藤政志さんと3市を回ります!

2016年06月16日 16時00分00秒 | 講演予定一覧

守田です。(20160616 16:00)

みなさま。少しくご無沙汰してしまいました。大変、申し訳ありません。
15日間のブランクでしたが、このところ2日に1回に近いペースで講演などが続いたため、「明日に向けて」を書く時間がまったくとれませんでした。
またこういう時に身を削って執筆を続けると、必ずあとで手痛いほどにダメージが出るため、とくに深夜の執筆を自重し、できるだけ良質の睡眠を取るようにもしていました。

ただFacebookで情報を共有している方には連日の行動等の情報もお伝えできるのですが、ブログやメルマガだけでつながっている方には、また守田が健康不良で倒れているのではという心配もおかけしているかもしれません。どうもすみません。
今後はこういう時でもあまり間があかないように発信に工夫をしていきます。

この2週間の間にもいろいろな社会的にも僕の周りでもいろいろなことがありました。
論じたいこと、お伝えしたいことが山ほどありますが、今日のところはまずは当面の講演などのスケジュールについてお伝えしておきます。
6月18日から26日まで7つの企画に参加します。

18日は選挙について思ってることをぶっちゃけて話しながら、どうやったら実りの多い選挙が実現できるのかを語り合おうという企画に参加します。しょっぱなに僕から問題提起をします。
19日は友人の田中愛子さんのお宅で「原発からの命の守り方」についてお話します。ほっこりしながらのお話会です。

そして23日から26日まで綾部市・舞鶴市・向日市・彦根市と回ります。
23日は綾部の竹松うどんさんで再びトークカフェ、今度は食のことがメインテーマです。
夜は、大丹波 農業者 意見交流&懇親会『子どもたち 孫たちに 手わたせる 農業を』でゲスト講師として発言します。

24日から26日は舞鶴市・向日市・彦根市と、元東芝の格納容器設計者・後藤政志さんと一緒にまわって、原発再稼働の危険性を論じます。
とくにスタートの24日の舞鶴市の講演では、事前に一緒に高浜原発を見学し、現場に立った感想と共に、高浜原発の何がどう危険なのか、抜本的な問題は何かについてお話していただきます。
25日向日市、26日彦根市の講演もこれを受けて行いますので、ぜひお近くの会場にお越し下さい。

29日、7月11日は自然派コープ奈良さん主催の連続講座の2、3回目の講演を行います。

以下、それぞれの案内を貼り付けておきます。

*****

6月18日京都市

京都の今を考えるⅦぶっちゃけ選挙ばなし
https://www.facebook.com/events/290666501270670/

6月18日 13:00-16:00
京都市左京西部いきいき市民活動センター

今度のウチこまは、選挙ぶっちゃけ話
目の前にはもう参議院選挙
なんで今やるの?

2月の市長選挙も3月の補欠選挙も
投票率は3割や
このままいってもみんなの選挙にならへん
暮らしが安心やからとはちがう
そんなわけあらへん!
安心どころか腹立つことや、不信がいっぱいや
市長選の時 涙ぐみながら話を聞いてくれた人もおったよ
せやけど選挙に行かへん人も行けへん人もいるんや

どないしたらええにゃろ?
それを話し合うねん
次の選挙から18歳以上の若い人も参加する
みんな集まって
本音でとことん話しして
みんなの選挙に変える始まりやで!

入場無料(駐車場はありません)

*****

6月19日京都市

守田敏也さんと語らう会
テーマ『原発からの命の守り方』
~日曜日の午後、普通の家でお茶を飲みながら大切な話をしませんか?~

とき:6月19日(日) 午後2時から4時半まで
ところ:田中愛子宅(京都市吉田山近く)
参加費:1000円(茶菓子付き)

定員20名 予約制
ご予約・お問い合わせは以下まで
電話 09036726985(田中愛子)icotanaka@nifty.com
ご予約をいただきましたら会場までの地図をお送りします。

熊本・九州地震の後も、稼働し続ける危険な川内原発。私たちひとりひとりにとって本当に切実な問題です。
今まで原発問題にあまり関心のなかった方も、原発の危険性についてもっと知りたい方もぜひ守田さんの分かりやすいお話を聴きに来てください。
後半の質問コーナーでは今さら聴きにくいということも何でも質問できます。守田さんはどんなことにも笑顔で丁寧に答えてくれます。

*****

6月23日綾部市

好評につき!第二弾 開催です(^_^)
子どもたちに未来をつなぐ ピーストークカフェ@竹松うどん
『どうなる?日本の食事情 教えて!守田敏也さん』

気になる社会の動きについてジャーナリストの守田 敏也さんに根掘り葉掘りインタビューします!
未来につながる お勉強&意見交換会です。お気軽にご参加ください。

とき:6月23日木曜日  11:00-14:00
ばしょ:竹松うどん

参加費:カンパ & うどん(1オーダーお願いします)

お申し込みは 今井葉波 や Tae Takeharaさん、竹松うどんさんのFacebookメッセージ
又は0773211665まで

プロフィール
守田敏也さん
同志社大学社会的共通資本研究センター客員フェローなどを経て、現在フリーライターとして取材活動を続けながら、社会的共通資本に関する研究を進めている。
311以降は原発事故問題をおいかけ、内部被曝の研究を続け、被曝から命を守る情報を発信、全国で講演活動に奔走している。
母親たち主催の憲法カフェ講師を始め、環境問題から、戦争や憲法、教育、農業、食など、講義内容は多岐にわたる。分かりやすいお話しと人望の厚さで 引っ張りだこの講師である。
ややこしそうだと、つい倦厭しちゃいますが、政治や社会の問題は、一旦 向き合う覚悟を持っちゃうと、かえって安心できるものだと思います。
未来に向けて仲間と手をつなぎ、勇気を分かち合って、一人ひとりが小さな革命を 起こしてゆきましょう??

京都府綾部市志賀郷町儀市前13
0773-21-1665
営業時間11~15時まで
定休日は7.8.9のつく日

*****

6月23日舞鶴市

6月23日 (木)ロックな 兄さんな 日!
大丹波 農業者 意見交流&懇親会
『子どもたち 孫たちに 手わたせる 農業を』

場所  西方寺ふれあい会館 舞鶴市西方寺
(大庄屋上野家 裏の道上る 徒歩3分)
 電話 0773-83-1016

参加費 500円以上のカンパをお願いいたします(場所代、講師謝礼など)

ゲスト講師に、ジャーナリストの守田敏也さんをお招きして、最初に一時間ほど、TPP参入による日本の今後の農業についてなど 気になる話題を伺います。

後は もう 無礼講です( ̄▽ ̄)
飲み物 食べ物 差し入れ歓迎??

舞鶴以外の、綾部市、丹後、丹波からも、ぼちぼち参加表明いただいとります。
大丹波経済圏で百姓ネットワークをつなげたい。勝ち組も負け組もなく、共に日本の農業の生き残りにかけて手をつないでゆきたいと願っています。
(生産者と応援 消費者もつなげてゆきたいです)
もう何年も前から、構想だけはあったのです。
熱い夜に なりそうだ‥ つ、ついて行けるかしら?

*****

6月24日舞鶴市

ほんとに大丈夫?私たちのまち(舞鶴)
https://www.facebook.com/events/2046900525535211/

2016年6月24日 19:00
舞鶴市政記念館

私たちは、高浜原発から約5キロ?30キロというとても近いところに暮らしています。
こんな近くにいながら原発がどういうものなのか、よくわからずに暮らしていませんか?
「もし事故が起こったら??」と、不安になることもあります。
もしもの時のために、私たちの暮らしのために、子ども達の未来のために
まず知ることから始めませんか?

講師 後藤 政志さん
コーディネーター 守田 敏也さん

お子様連れもどうぞ!キッズコーナーあります。
カンパ制です。

主催 子どもの未来を考える舞鶴ママの会

*****

6月25日向日市

原発をなくす向日市民の会 第5回
記念講演会・総会のお知らせ

日時 6月25日(土) 1時30分開場 2~4時
第1部  記念講演 講師 後藤政志さん
     後藤政志さんと守田敏也さんのトーク
第2部 第5回総会
場所 慶昌院 (寺戸町西野2)
*年会費を集めます。講演は無料ですが、会場でカンパを募ります

後藤政志さん NPO法人APAST理事長 工学博士 
元原子力プラント設計技術者 技術者の立場から原発の問題点を指摘し、原発推進を批判する活動をしている
守田敏也さん フリーライター 
内部被ばく問題に取り組み、現在は篠山市の避難計画立案にあたっている

お問い合わせは TEL/FAX(事務局 筒井) 075-931-3788
メールアドレス genpatsu.zero.20120714@gmail.com

*****

6月26日彦根市

原発学習会「原発のほんまのこと」
https://www.facebook.com/events/1613695418958424/

2016年6月26日 13:30 - 17:00
滋賀大学経済学部 第6講義室(校舎棟1階)
〒522-8522 滋賀県 彦根市馬場1-1-1

原発技術者の後藤政志さんと、ジャーナリストの守田敏也さんに原発の実態について詳しくお伺いします。

*****

6月29日、7月11日奈良市

「原発災害への対処法」連続講座 第2回、3回
─いまそこにある危険とどう向きあう?─
https://www.facebook.com/events/1752044845018969/

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