明日に向けて

福島原発事故・・・ゆっくりと、長く、大量に続く放射能漏れの中で、私たちはいかに生きればよいのか。共に考えましょう。

明日に向けて(249)急性白血病:福島第1原発作業員が死亡

2011年08月31日 18時30分00秒 | 明日に向けて8月1~31日
守田です。(20110831 18:30)

ショッキングなニュースが入ってきました。福島第一原発で作業
していた40代の男性が、急性白血病で亡くなってしまったという
のです。男性は8月上旬に約1週間、「休憩所でドアの開閉や放射
線管理に携わっていた」そうです。

東電は、この男性の被曝量を外部被曝0.5ミリシーベルト、内部被
曝量ゼロとし、福島の作業との因果関係はないとしています。し
かし男性は、事前の健康診断で、白血球数の異常は認められなかっ
た。つまりその後に急性白血病になっているわけです。

どう考えても、作業現場での被曝が疑われる。しかも男性が働いて
いた時期は、現場で1号機付近の排気筒から10シーベルトというとん
でもない値が計測されたときとちょうど重なっています。翌日には
建屋でも5シーベルト超が計測されている。
http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011/e/30c723ee0f6ca5084bb98674d01f98e3

本当はもっと高い線量の放射線を浴びたのではないか。外部被曝に
ついては、これまでも作業現場でたびたび線量計を外してしまって
いることが報告されています。もちろん東電の杜撰な管理の元でで
す。それで一瞬に高線量を浴び、急性症状が起きたのではないか。

また内部被曝については、そもそもホールボディカウンターで測れ
るのは、外部に出てくるγ線だけであり、α線やβ線は細胞内部で
止まってしまうので測ることができません。尿などから推論はでき
ますが、ともあれこの「ゼロ」は全く信用できません。

考えられるのは、プルトニウムなどα線を出す放射性核種を吸い込
んだ可能性です。原発のそばではこれらの物質がかなり残っている
可能性があります。そしてそうであるとすると、こうした被害は他
の作業員の方にも及んでいるのではないか・・・。

さらに懸念されるのは、「同原発の作業に従事する以前の職歴につ
いては分かっていないが、東電は「これ以上調査する予定はない」
としている」と報道されている点です。なぜでしょうか。調査によっ
ては、福島の作業ではないことが明確になるかもしれないのにです。

むしろ原因が分かっているからではないか。だから調査を打ち切る。
これ以上、「まずいもの」が出てこないようにです。そしてそれは
原子炉がメルトダウンしていたことも、ベントでもの凄い量の放射
能を出したことなども黙っていた東電の常とう手段なのではないか。

このままでは亡くなった方の遺族は何らの補償も受けられません。
また緊急になすべき周りの作業員への健康調査や治療も行われない。
さらにこうした危険性が隠されたままでの、現場労働への募集が行
われ続ける。極めてゆゆしき事態です。

同時にあらためてこの記事から押さえておかなければならないこと
は、こうした現場での被曝の労災認定の条件が、年間5ミリシーベル
トの被曝とされていることです。少なくとも労災では、5ミリシーベ
ルトを浴びれば白血病などの可能性ありとしているのです。

にもかかわらず、この国は、子どもたちを含めて20ミリシーベルト
まで浴びても大丈夫だ、いや本当は100ミリまでは大丈夫で、20ミリ
はかなり安全な数値だなどと語ってきました。その点のあまりの
矛盾もここに顔を出しています。

亡くなられた方のご冥福を祈るばかりです。8月の初めまでは元気
だった方です。この問題をこのまま終わらせず、あらためて現場
作業についてウォッチを強め、現場で働く人々を守っていかなければ
ならないと思います。


****************************

急性白血病:福島第1原発作業員が死亡 東電が発表

毎日新聞 2011年8月30日 13時00分(最終更新 8月30日 16時21分)
 東京電力は30日、福島第1原発で作業に携わっていた40代の
男性作業員が急性白血病で死亡したと発表した。外部被ばく量が
0.5ミリシーベルト、内部被ばく量は0ミリシーベルトで、松本
純一原子力・立地本部長代理は「医師の診断で、福島での作業との
因果関係はない」と説明した。

 東電によると、男性は関連会社の作業員で8月上旬に約1週間、
休憩所でドアの開閉や放射線管理に携わった。体調を崩して医師の
診察を受け急性白血病と診断され、入院先で亡くなったという。
東電は16日に元請け企業から報告を受けた。事前の健康診断で
白血球数の異常はなく、今回以外の原発での作業歴は不明という。
【林田七恵】
http://mainichi.jp/select/jiken/news/20110830k0000e040075000c.html

***

急性白血病で作業員死亡 福島第1原発に従事  「作業との因果関係なし」

共同通信 2011/08/30 14:14
 東京電力は30日、福島第1原発の復旧作業に当たっていた40代
の男性作業員が急性白血病で死亡したと発表した。この作業員の被ば
く線量は0・5ミリシーベルトで、東電は「医師の診断によると作業
と死亡の因果関係はない」と説明している。

 東電によると、男性は8月上旬から1週間、放射線管理などの業務
に従事。体調不良を訴え診察を受けたが、その後死亡した。内部被ば
くはゼロだった。就労前の健康診断では問題がなかったという。16
日に元請け企業から東電に連絡があった。

 東電によると、急性白血病に関する厚生労働省の労災認定基準は年間
5ミリシーベルト以上の被ばく、1年間の潜伏期間などがある。この
男性の福島第1原発での作業は、基準に達しないという。

 同原発の作業に従事する以前の職歴については分かっていないが、
東電は「これ以上調査する予定はない」としている。
http://www.47news.jp/47topics/e/219372.php 



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明日に向けて(248)常陸太田市のお母さんからの発信(5月18日付)

2011年08月30日 23時30分00秒 | 明日に向けて8月1~31日
守田です。(20110830 23:30)

茨城⇒岩手⇒宮城の旅の報告の続きです。

今回は、再び茨城県笠間市でのお話に戻ります。ここで講演をさせて
いただいたときに、近くの町々からも非常に強い問題意識をもたれてい
る方が参加されていたことを書きましたが、そのうちの一人、常陸太
田市の東路子さんと、その後、メール交換をしています。

東さんは化学に明るい方で、自ら各地で放射線を測っておられます。
笠間のお話会のときも、首からガイガーカウンターをぶら下げて現れ
て、一番前に座って話を聞いて下さいました。その後も最後まで残ら
れて色々なお話をしてくださいました。

東さんは、ジャーナリストの木下黄太さんのブログに、5月18日付で、
実名での鮮烈な発信を行っています。読ませていただいて、何とも胸が
詰まる思いがしました。同時にこれはこの地域で、化学的な知識を
持った方が行って下さった貴重な記録でもあると思いました。

みなさんとシェアしたいと思って、「明日に向けて」への転載をお願
いしたところ、快諾をいただきましたので、以下に貼り付けたいと思
います。すでに多くのブログに転載された内容だそうです。なお末尾
に、東さんからいただいた現段階への言及も貼り付けておきます。

**************

茨城県常陸太田市・東路子さんからの発信
(2011年5月18日付け)

茨城県常陸太田市に住んでいます。市町村合併で
隣町が福島県の矢祭町です。
福島県境までは車で1時間以内に行けるロケーション。

自宅は隣が東海村の臨界事故現場も遠くにかすんで見える距離。
遠くに東海村の原子力発電の施設も目視できます。
主人の転勤がきっかけで、臨界事故の数年後に
この土地に引っ越してきました。
99年の東海村の臨界事故当時、
近所の奥さんの子どもが4歳児くらいでした。
(事故当時日立市在住で引越して常陸太田へ)
現在高校3年生くらい。
その子の同級生のお子さんが2人も白血病との事。
(小さい頃からのお知り合いでこのエリアの方)
今回の事故をきっかけに耳に入ってきた情報。

茨城県常陸太田市の真弓に設置してあるモニタリングポスト。
いつもその小学校の先生方が数字を見ているから
異変に気づいた。
震災後に通常時の約10000倍の放射能を記録したのを
知識が無かったのか、壊れたかと騒動になったらしい。
平常時0.02μSv/hr→200μSv/hr
くらいだったらしい。
(聞いた話ですので、平常時のほぼ10000倍との事)
ただし、3月12日の何時かは不明です。

この値がどのくらいまで続いたのか、モニタリングポストの
数値探しましたが、データが無いのです。
(文科省無し、茨城県モニタリングポスト平成22年度データ無し)

冷静に判断すれば、それは真実なんでしょう。
私たち家族は停電と断水。
地元ラジオ局の情報しかなく、
福島第一原発の様子はわからなかった。
その間、我々は生きるために外で水を汲み、外を歩き
電話ボックスに走った。長蛇の列で外で外気を吸っていた。
家族3人が喉が痛いという急性症状があった。
(私は焼けるような、喉の痛みが2週間続いた。)

電気が来てテレビをつけたら原発が爆発していた。
生命の危機を感じて、3月15日21時半過ぎ、逃避行の旅に出た。
私は完全に思考が停止するくらいの衝撃でしたが、
旦那が断水続きで風呂に入らないと気持ち悪いという理由の方が
当時強かった。
しかし、そうでもして、引っ張って
行ってくれなければ、私は思考停止していたので、
動こうとしなかったかもしれない。

その時は放射能もそうだけど、
この地域の事情、逃げたくても逃げられない
状態であったのです。
地震で地滑り地割れと橋の段差の増大で
通行止めが各所にあり、
第一にガソリンが無く、思考が停止してしまう要素が
たくさんあった事は記憶に新しい。
心身ともに痛めつけられている感覚。
茨城県の現状はテレビ報道される事もほとんどなく、
どんな惨状かは、いまだに知られてはいない。
運よく脱出に成功した我々家族も冷静な判断ができるようになるまで、
しばらく時間がかかった。
確かに津波現場に比べればとても小さな被害だったかもしれない。
今、生きている事に感謝するだけです。

当時を振り返り、こんな事が・・・
震災直後、プロパンガスが使えた。
水さえあれば、温かいコーヒーがうちでは飲めた。

うちは、冬でも青カビが生える家。
コーヒー豆をフィルターごと 乾かして、
土に返すだが、
震災後、カビが全く生えていない。
それが何を意味するかを考えた時・・ハッとした。
医療用具工場に勤めていた時、滅菌という仕事をしていた。
厚生省に申請するデータを作成していた時、
滅菌のD値まで出さないといけない。
その時の事を思い出した。
これは、もしや、自宅がガンマ線滅菌器状態なのではないか。
カビを殺す難しさは知っていたので、
これが本当なら恐ろしい事である。

スーパーにはガイガーカウンターを持って行くようにしている。
埼玉の友人がやはりガイガーカウンターで
野菜を調べたところ、産地偽装も埼玉ではあるようだ。
という話も聞いていて、チェックしている。
たとえば、地元の野菜である程度信頼できる農家の
野菜であっても、天候風向きに左右されるわけで、
毎回ガイガーカウンターの反応が同じではないのだ。
それは、買うたびに傾向を取っていけば、おのずと
見えてくるものがある。
(雨、風向き、育った期間、ハウス栽培は露地物か)

常陸太田市で
水田の作付が始まる以前は地上1mくらいならば、
0.16μSv/hrくらいの線量だったが、
トラクターが入り作付準備をしたとたん、
0.45μSv/hrくらいに上昇。
(放射性セシウムが土の中にあって、
それがかきまぜられた事によって出てきた。と仮定)
その後、田植えが始まり水田には水がはられ、
現在0.2μSv/hrくらいになった。

おそらく雨に流された
セシウムは地下水や川を汚しているようです。
空中線量はあまり上がらなくなりました。

今の方が水道水が危険と思いますが、
自治体は分析していません。
常陸太田市役所ホームページでは5月2日以降
分析の記録はない。

5/17大子のお茶からセシウムが出てきているという事は
川の上流だから、セシウムが出てきて数値が出せないのか・・・

昨日は八郷のブルーベリー農家を訪ねた。
私に何かできないかという事で、被災地の農業など、
オーナーがサーフィンをする人なので、茨城の海側の事も
含め、今の現実を語りあってきた。

私の行った、農家は本当に消費者の笑顔を見るため、
農薬を一切使わず、ブルーベリーを育ててきた。
毎年我々もお世話になっている家族のような存在だ。
その方が、農業をやっているサイドから見ても
近所のよその農家を見ていると、農協の特に指導もなく、
放射線検査はしないで出荷しているのが現状。
出荷は無法地帯化しているようだ。

同じ農家としてのポリシーが無い事については
非常に落胆されていた。
私は、何か自分にできないかと思って行ったけれども、
逆に子どもの事を心配してくれた。
その農家では、キチンと分析先も依頼済みで、
ブルーベリーができてから、サンプルを送り、それを、
住友化学系の分析会社で緻密な年代測定レベルの
放射線分析を行い、その結果を見て、
今後の進路を決定するという。
実に潔い言葉だった。

また、その方、海をきれいにするために、
毎週、海のがれき処理のボランティア活動をされていて、
茨城県の北側にも行きたいと思うと話したところ、
自衛隊の関係者より、
「北には行くな。本当に危険だ。」
と止められたそうだ。
海の汚染の深刻さは、言い表せないだろう。
正直、魚業というのはこの先、原発エリア、太平洋側は
アウトなのではなかろうか。

もっと、しっかりとした生データがほしいところだ。
しかし、想像してみれば、
サンプリングは命がけということを意味するんだろう。
ブルーベリー農家の方とは
日本の現状に関してお話ができて本当に良かった。
確かに農家は被害者ではあるのは十分理解できるのだが、
農作物の作者としての個々の農家の考えや取り組み方の
意識の違いというものは、ハッキリ分かった。
安易に何の疑問も持たないで出荷できる人も多い。
その行為は、結果、消費者にとっては加害者になりうる。
(消費者を無意識に内部被ばくさせているという
重大な事実を知らずに、生きるためのお金を
得る事に走っているという究極の選択ではあるが
破滅への序章でもある。)

未来を作る子どもたちのために
大人がしなければならない事がある。
子どもを守らなければならない。被ばくから少しでも。
また、未来に少しでも美しい環境を残してあげたい。

関東の農業の現状を改善するためには、
現場の農家の方に、事実がハッキリわかるように
指導してあげる必要がある。
分析をして、出荷をする仕組みを構築する。
日本全国でこのような取組が必要ではないのだろうか。
このような仕事を作ることで雇用を創成できないのであろうか。

真剣に取り組んでいらっしゃる農家の皆さまは
結局、自分たちで分析費用を自腹で工面して、必死で
取り組んでいるという不公平な現状をもう少し
クローズアップした方が良さそうだ。

真摯に取り組む農家はどれだけいるのか。
不明だ。
この状況を打開しなければ、我々は食べる物を失う。
いや、もう関東では農業は無理なのでは?
いろんな事が巡る。

帰り、水戸のイオンショッピングモールの
野菜売り場に行ってガイガーカウンターで測定してみた。

昨日の水戸は食品売り場の野菜売り場から離れると
濃度が低く 0.08μSv/hrくらいまで落ちる場所があったので、
割と感度良く傾向が見られた。

「方法」
野菜にガイガーカウンターを近づけ、
バックグラウンドよりも上にカウントするかを
目視する。

旭村 ミズナ アウト
なめかた さつまいも アウト
(↑いつ取れたものか?保管方法がまずかったのか?)
産地不明ちんげんさい アウト
ホウレンソウと小松菜もグレー。
産地不明4種類あって、単に埼玉とかいているものも。

が今日の状況。
野菜売り場が比較的汚染濃度が濃いのがそれを
物語っている。

もちろん、きれいな野菜もまれにあるのだが。
この計り方はあまりガイガーカウンターを使い慣れていない人には
おススメしませんが、参考程度にはなる。
地名を出した農家の皆さまあしからず。
このような消費者もまれに居るということです。
食中毒のお肉が話題になる昨今、食肉のチェックも
怠ってはいけない。基本的には国産と書かれている肉は
我が家では買わない。

青森でも経験したが、青森のスーパーでも
怪しい野菜も魚もある。
青森県は福島、群馬、茨城の野菜がたくさん置いてあった。
正直、原子力疎開をしている自分にとっては、
不快な気持を正直持ったのだ。(ごめんなさい。)

茨城県にいつしか、茨城の野菜しかならばなくなった。
事故直後は関西からたくさんお野菜が入って来て、
助かっていた。
現在、関東で食べられる物はないのかもしれない。

被災地の農業を救おうという消費者意識に
つけ込む不可抗力でもあり、故意でもある
野菜の放射能汚染の無法地帯化。

魚はもっと厳しいかもしれない。

4月中旬、鶏卵の異変に気付いた事もあった。
卵を調理する際、殻を割って、かき混ぜて
焼いた瞬間に
ガイガーカウンターの数値が跳ね上がった。
0.16が0.25へ。
子どもがまさに食べようとした瞬間奪い取って
ゴミ箱に捨てた。

犯人はおそらく、黄身なんだろう。
放射性物質が中心にあって、まわりを白身が多い
殻が覆っていると、さらにポリのパックに
入っていて、それをガイガーカウンター当てても、
なかなか数値が判別できない。
当時、鶏卵は大丈夫と報道されているが、分析しているのか、
どうかは不明で、私は全く信用していない。
(まるで戦時中のどさくさに紛れるっていうのと同じような気がする。)
あの頃は放射性ヨウ素がまだあった時期に
オーバーラップするので、あれだけ跳ね上がるのは
ヨウ素か?とも考えている。
近所の卵は避けるようにしているが、
遠い産地のものはなかなか手に入らないのが現状だ。

豚や牛に比べると鶏は体が小さい。
小さいものから被ばくする。いずれ食物連鎖で
必ず人間に帰ってくる事を忘れずに。
うちの子どもが鳥のから揚げが好きだけれども、
外国産と国産鳥取の大山の鳥が入ってこないと
鶏肉は食えない。

原発から約108キロに位置する自宅。

京都大の小出先生のある日の講演会の動画で
東京の空気を
サンプリングして測定された生データがあり、
1.76μSv/hrという結果で組成まで出ています。
ペーパーフィルターにてエアーサンプリングをして
ヨウ素は紙に吸着されにくいため、
ヨウ素は少なめに検出される傾向がある。
そのため、この1.76という数字は
実際より低い値ではないかと考察していらっしゃる。
実際この濃度の空気を呼吸により取り込めば
内部被ばくは17.6μSv/hrとなる。
とのことだった。

その話を少々乱暴ではあるのだが、
常陸太田の真弓のモニタリングポストの数値に
置き換えてみると

仮に、本当にそのデータが当たりだったとして、
200μSv/hrだから
内部被ばく
2000μSv/hr→2mSv/hr
2mSv/hr×24時間=48mSv/day
3月12日~3月15日ざっくり4日
48mSv/day×4日=
192mSv/4日
4日で192mSvも呼吸で内部被ばくしたのか?
我々家族。

真弓のモニタリングポストの数値を
今回の自宅付近にあてはめれば、
以上のような計算式になり、
この地域の人は、
たった4日で原発作業者並み以上の内部被ばくを
しているのか?

この件については、
木下 黄太さんからの指摘もあり、
高濃度だった時間はもっと短かったのではないか。
というお話もありました。

真相は・・・? 不明だ。

3月27日、東名富士のあたりで、
富士山の向こうの空気がねずみ色に見えた。
利根川を越えて北に入った時、空気が重かった。

濃度が分からない茨城県に3月27日夜から3月29日
昼まで滞在している。
主人は、その後、ずっと常陸太田にいる。

私と子どもは青森に行く。
4月6日夜、常陸太田に戻る。
それから、23日間常陸太田に滞在。
4月29日から5月7日学校を途中2日休ませ
青森に再び疎開。5月8日から現在は常陸太田。

子どもの内部被ばく線量をある程度、親としては、
計算して健康管理する必要がある。

したがって、地域のモニタリングポストの
データが必要だ。

しかし、この状態では年間20mSvは軽く超えるのであろう。

今回の事故の初期から、現在までの、
内部被ばくの積算量を計算したいのに
モニタリングポストの数値が4月以前のデータが
どこを探してもない。

先日も4月24~25日頃、一斉に近所の複数の
モニタリングポストの数値が上昇した事があった。
埼玉の友人から数値が急激に上がっている
チェックしてと悲鳴にも似た連絡があったのだ。
翌朝になるとデータは消え、何もなかったように平らに
なっていた。

誰かが情報操作していると思った。
だから、何も信じられないのです。
一応、公に見られるモニタリングポストではありますが。
その本来の役目は果たされていないという事になる。

先に記述したモニタリングポストの件だが、私の目で
確かめたわけではない。
小学校の運動会を欠席させる事を担任に伝え、
その件について、校長先生と話合いが持たれた時に
耳に入ったつい最近の話である。

全校生徒でたった一人運動会を欠席する我が子。
同級生に「お前のお母さん気にし過ぎなんだよ」とか
揶揄される事もあるようです。
小学校6年生の最後の思い出になる運動会ではあったが、
思い出よりも
少しでも被ばく量を抑える事を選択してきたつもり。
だが、これでは、すでに決着がついているかもしれない。
(病気になるとか命に関わる量の被ばくをすでに
十分越えていて多少被ばくを避けたとしても無駄ということかも)
そんな風に思うと悲しい気分になる。

内部被ばく量を自分で解読するすべが無い。
おそらく、我々茨城県北(お隣の町は福島県)に住む人は
桁違いの放射能を浴びている事になり、
もう、生きていても死んでいると同じとも考えられます。
症状が出ていないだけで。
生き続けるためには何らかの奇蹟を待つしかない。
ある意味、命に対する執着が消えた。
福島の皆さんがこれを読んだらとても傷つくと思うけど、
政府が今まで我々にしてきた事はこういうことだとは
思われませんか?

政府が本気で誠意があるのなら、
直ちに避難しなさい。とあの時に言うべきであり、
今であれば、
子どもを疎開させて、
汚染地域の子どもから始まって、希望者全員、
ホールボディカウンターで
緊急調査を死に物狂いで今、するしかないでしょう。

いや、もう、死ぬ人間なんかにお金使いたくない。って
政府が思っていれば、全く期待はできませんが。

そこで、本当にこの先、どうやって生きて行こうかと
意志決定のための重要な情報になると思う。

私が今、児童疎開を断念した理由は
子どもが、今いる小学校の友達と一緒に学びたい
(卒業までいたい。)という意志に負けた。
そのまま、青森にとどまって転校させようともしたのだが、
常陸太田に帰って来てしまったのだ。
家族一緒が一番に決まっている。
離婚したり、別居したり、奥さんが子どもを連れて
関西に引越すケースが増えているようだ。

そういう意味では我々はとても今、幸せなんだと思う。
恵まれている。
子どもの未来を考えていない母親であるかとは
反省している。
子どもを思うと胸が痛いのだが。
3月は四国(主人実家)青森(私実家)では
3月末から5月と飛び石疎開していました。

小学校の校庭に行って、
ガイガーカウンターで表土の放射線量を計測。
校庭のおよそ40か所を測定
地表に置くと高いところで、0.45μSv/hr
低いところは0.17くらい。
平均してあげても0.25は下回らない。

校庭に出るなという事は子どもに伝えた。

しばらくして、子どもが言いました。

「運動会が5月にあるけれど、
どうしても僕は放射性セシウムが
怖いので、素足で組体操ができない。」

私は言いました。

「それは、正しい選択だ。
小学校とはお母さんが話をつけてくるから
お前は何も心配しなくていい。
運動会は欠席しなさい。練習もでなくていい。」

それで、担任の先生と
校長先生との話し合いがもたれた持たれたわけです。
担任の先生とは、家庭訪問の時に1時間以上も
放射能汚染の件で話をして、よくわかっていただいた。
私も現場の先生方の立場を尊重し、それ以上は
突っ込まなかった。

教育委員会に校長先生は私の測定したデータを
持って行ってくれたが、
「これ、一ケタ多くない?」と言われたそうだ。
その裏を取ろうとはしていないのだろう。
校長先生も私に何か直接来ないようには
防波堤になってくれたようで、感謝している。

学校を休ませるたびに、教育委員会から、休んでいる人の
名前と避難している地域を報告しろと現場の先生方から
何度も電話が避難先にあった。

角度をかえれば、世の中の皆さんに
「あなたは自分の子供だけ助ければいいのか?」
そういう行動に私の行動は見えるかもしれない。
だが、私は思う。
あの時、政府が直ちに避難して下さい。と
一言、言えば、もう少し、多くの人が、被ばくで苦しむ事は
防げたかもしれない。

この2カ月の生き方がみんなそれぞれ違っていたはずだ。
震災直後、なすすべが無かった茨城県の被災地で、
無理だったかもしれないけれども、
少なくとも無駄に出校日に小中学生を学校に通学させて
高濃度の汚染にさらす事もなかったであろう。

私は究極のマイノリティだ。常陸太田市の中では、
それでも、何とか抵抗し続けて、私も少しづつ全容が
見えてきたようにも思いました。
私をこれまで支えてくれたのはママ友のブログだ。
ミクシィでしか見られないが、ものすごい機動力で
私を支えてくれた。
ニュースよりは、信頼できる人の個人のブログであったり
ドイツなど海外の情報の方がよほど冷静に日本を捉えており、
正しい情報が詰まっていると感じる。

私はこの2カ月の間、内閣や各省庁も含め何通もメールを
送っている。だけど、政府の出す答えは、みんな違う方向性ばかり。
いつからか、そこに労力を割く無意味さに気付き、
メールするのをやめた。
福島を中心に、放射能汚染が広がる関東、近隣の東北の
お母さんたちの子どもを守りたい気持ち、
離れたくない気持ち、いろいろなせめぎ合いが
私の中でもあります。ストレートに割り切れたら
どんなに楽な事でしょうか。
この事故で涙を流しているお母さんが何万人いるかと
思うと思考が停止してしまう。私自身も同じです。

子どもも私も不可抗力に高濃度の被ばくを受け、
ある意味、もう、すでに命は取られてしまっている
とも考えられる。
だったら、この命を無駄にすることなく、
日本の未来のために
何かを動かせるような形にしたいと思っています。

ハッキリ人類に言おう。
地球とか宇宙の摂理には勝てない。
地震津波で、原発が破壊される事も今、ご覧に
なられていますね。
原発は人類とは共存できないもの。
そういうことでしょう。
私が、この先、何らかの放射能汚染に起因する、
また引き金になるような病気で死んだ時、また、
私の大切な家族に何かが起きた時、
さらにリアルにくみ取って下さい。

北海道や、西日本の皆さま、そして、世界の皆さま。
普通に汚れていない空気を吸う事と
汚れていない食べ物を食べること、
普通の事のようでとても、尊い事です。
たった一瞬の原発事故で我々はささやかな自由を
奪われています。

普通にこの地球という名の星に生まれて
一生物として最低限平和と言われるような時間を
持つためには、我々は核という次元の違う物質を放棄し、
今後、一切関わらない事が重要なのではないのでしょうか。
それでも、長い年月を子孫の代まで現在使ってる核の灰を
お願いする事に罪の意識を持ってもう、止めましょう。

ソフトバンクの孫さんが東日本ソーラーベルトの
提案してくれた時、ものすごく感激した。
原発を無くするという事が難しいのは、
原発関係で働いている人たちがいられる新しい職場を
用意する事がなされていれば、
皆さん不安なく新しい道に進める事ができるのだ。
原発というものが無くなっても、電力というものを作ろうとなると、
今後、自然エネルギーなど、違う方面のインフラの整備や
技術開発、また、現場の物づくりも必要になり、
雇用は絶対に生まれるはず。
そういう時代を先取りした構想が同時に生まれないから
みんなはどんどん不安に陥るんだ。←これは日本政府に
言っている言葉だ。

未来は長生きする人と、子どもたちに任せます。

大切なのは命。
正しい判断と正しい知識で、
放射能から、子どもを守ろう。

人間として生きるべき道を間違わないように。
祈るような気持ちで
寄稿させていただきます。

2011年5月18日 

**********************

補足(8月29日のメールより)

注意書きとしては、
最近は、卵を調理しても上がらない。
(多分、ヨウ素は大量に今はないから。)

カビも家に生えるようになった。
(当時はもの凄いγ線量だったんでしょう。)
今はがっちり食中毒も起こしそうな勢いで微生物が生きています。

喉の痛みの他には子どもは特に大きな問題は今のところありません。

私が一時期、更年期で閉経しそうでしたが、出血量が急に
多くなった事はありました。ここんところ落ち着いているように思います。

しかしながら、
食べ物の中には多少なりとも放射性物質は入っているのでしょう。
食べた後の口の中の違和感が独特です。

隣だと言うのに、福島県では、放射能の対策であるとか、
測定をしっかりやっているのに、茨城県では他人ごとのようです。
おまけに、茨城県の場合、毎時3.8μSv/hrまでは安全と評価しています。
内部被ばくに関しても、500ベクレル以下ですから、
安全ですとか平気でいうのです。

1kg400ベクレルの食品もありましたが、行政が言うには安全ですの
一点張りです。
検査から真逃れて出荷されている野菜も多いと聞きます。
そもそも全件検査ではないから、ほとんどがスルーして出て行っている
というのは事実で全く安心できないようです。

最近はほとんどあきらめて食べている感じです。
子どもには恨まれるかもしれませんが、
なかなか、良い道が見当たらない。

自分の足で、青森県から今回は京都奈良まで足を運んでガイガーカウンターで
計測してみても、安全な場所は存在しない感じもします。
土壌汚染は確かに数値に違いが出るとは思いますが。

そんな昨今です。




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明日に向けて(247)安全な食べ物を得るために必要なのは心ある生産者を守ること!

2011年08月28日 09時00分00秒 | 明日に向けて8月1~31日
守田です。(20110827 09:00)

東北の旅の続きを書きたいと思います。20~22日の自転車配りの旅を
終えて、一関のアビス亭にお世話になった僕は、翌日23日に宮城県仙台市
太白区、24日に宮城県角田市を訪れ、それぞれ有機栽培農家さんに泊めて
いただきました。どちらも5月に知り合った方たちです。

今回の訪問は、この二つの地域で、市民による放射能の測定室が立ちあが
ることの取材をすることが目的でした。それぞれの詳しい案内は、また後
日、行いますが、これはこの地域で有機農業をされている方たちが、今後
いかに歩むのかを考え抜いた現段階での一つの結論としてあります。


その内容を紹介する前に、僕はみなさんに一つの提言をしたいと思います。
放射線内部被曝の恐怖から逃れるために、どうすれば私たちはより安全な
食べ物を得られるかです。あるいはどのように考えて行動することが、
私たちにとって一番安全な道になるのかです。

結論から言います。心ある生産者を守ること!このことにつきると僕は
思っています。心ある生産者とは、現在のお金儲けに傾いた産業のあり
方、その反映としての化学物質などをたくさん使った食料生産のあり方に
背をむけ、安全な食べものを作ろうとしてこられた方たちのことです。


講演会などで、よくどこの何を買えばよいのかという質問がでてきます。
肉は、魚はどこの地域のものを買えばよいのか。何を避けて、何を大丈夫
だと思えばいいのか。みなさん、切実な思いで質問されます。それに対し
て、お答えできる情報がある場合もあれば、ない場合もあります。

しかし僕はこうしたお答えをすることにそれほど意義を感じません。なぜ
かといえば、こうした考え方にはまっていくと、消費者の側が市場に振り
回されるだけになってしまうと思えるからです。安全な食べ物を得たいと
いうニーズは、それ自身があこぎなお金儲けの対象にもなりえるからです。

例えば今日、秋に収穫されるコメは大丈夫なのかという不安が広がってい
ます。ある有機農家さんは、コメの汚染は「基準値」を大きくは上回らない
のではないか、多くが流通に回るのではないかと推論していました。基準
値がかなり甘いためです。いや流通できるように考えられたのかもしれない。

これを見込んで始まっているのが、被災地以外のコメの買い占めです。
ネットを見ると、危機感を感じた消費者が、買い占めているかのように書
かれていますが、僕は個人が消費のためにコメを備蓄することは悪いこと
だとは思いません。しかし本当にそれが主軸なのだろうか。

むしろこの状況下で、転売のためのお米の買い占めが進んでいるのではな
いだろうか。コメの流通について、詳しくないので情報をつかみきれていま
せんが、そうだとすれば人道的に許されないことだと思います。しかし法
的には許されているので買い占めは進んでしまうのではないか。

そうなると、汚染されていないコメを得たいという人々の気持ちが、コメの
値段をあげていくことになり、不安を材料にしたあこぎな商売が成立してし
まう。それは他の食料についても同じことです。そうすると総体として、
安全な食料はより入手しにくくなっていく。


どこが安全かというのも同じ面がある。どこが安全かという情報は、すぐに
販売をする側にも伝わります。そうなると安全でないとされた産品が安く
買いたたかれ、それが加工食品の形で、産地が分からずに売りだされること
にもなる。これに盛んに行われている産地偽装も重なっていく。

つまり、どこどこが危険だ、どこどこが安全だという情報そのものが、被曝
が続くこの社会情勢の中で、人々の不安を利用して稼ごうとする人々にとっ
て、商売のネタになるわけです。だから例えばこうした論議がネット
でなされれば、それがチェックされ、対応がなされていくでしょう。

もちろん情報操作もなされやすくなります。ある程度、ストックした商品を
「これこそが安全だ」という情報を流しながら売ろうとするとか、対抗商品
を貶めるために、被曝情報を使うこともなされる可能性があります。そうし
たことが容認されているのが現在の市場だからです。

すでにはじまっていますが、放射能除去に効くとか、これを食べれば安心と
かいう商品も氾濫していくことでしょう。これまでもそうだったように、
その中に多くの出鱈目なものが混在しますが、公的なチェックがおいつかず、
市場に「放射能除去商品」が溢れていく可能性があります。

結局、こうした情報戦においては、消費者の側の方が不利なのです。そのた
め、これまでよりもお金を余計につかいながら、なおかつ安全なものを入手
できず、むしろより悪いものをつかまされたりする可能性もある。こうした
ことから消費者は身を守る必要があります。

ではどうすればいいのか。発想の転換が必要です。より安全なもの、また
放射能汚染されていたとしても、より濃度の少ないものを得るためには、
何より、それが私たちに供給される絶対条件である、より安全な食材の生産
者を守る必要があるということです。


この場合の生産者は、農の営みであれば、有機農業などで市場競争に背を向け、
常に安全なものを供給しようと志してきた生産者のことです。また必ずしも
有機農業ではなくても、より危険性を低減したものを供給しようとしてきた方
たちもそうで、線引きが難しい面もあります。

むしろ、現在の放射線被曝の現状の中で、できるだけ放射能汚染された食材の
出荷を避け、安全なものを供給しようとしてくれている方たちと考えた方が
いいし、そうしたことが採算的に成り立つようにし、そうした方たち自身が
増えやすいようにと考える必要があります。

大事なことは、今、こうした方たち、とくに福島原発に近く、自分の農場や
漁場などが汚染されてしまった方たちが、もの凄く悩み、傷つき、苦しんでい
るという事実です。より安全なものをと考える方たちこそ悩みが深い。取り
あえず出荷を断念して、腕を組んでうなっている方たちも多くいます。

ところがそのことで生じていると考えられるのは、現状でもより安全性の高
い食材から流通しなくなり、より化学薬品や抗生物質などが多いものが多
くなりはじめている可能性があるということです。非常に皮肉な状態です。
安全を心掛けた方たちが、真っ先に出荷をストップしているからです。

またそこまで徹底して考えてはこなくても、あこぎな儲けなどは考えずに、
真面目に働いてきた生産者の中にも、深い動揺や不安が広がっているように
思われます。何より出荷できるかどうかは、死活問題に直結してしまいます。
しかしあまりに緩い基準でいいのかという悩みも深くあると僕には思えます。

さらに深刻なのは、こうした状態の中で、生産者の間での亀裂が生じたり、
ぶつかりも生じかねないことです。例えばある有機農家が、自らの農場の
放射能汚染をつぶさに明らかにしたとする。するとその周辺の農家も営農が
苦しくなりかねない状況があります。


こうした状況を打開していくために必要なことは、まず何よりも、放射性物質
で汚染された地域の生産者すべてが被災者であり被害者であることをはっき
りとさせること、少なくとも私たちの中で、そうした認識を強め、深めていく
ことです。

ある有機農家さんが次のように語っていました。放射能汚染が基準値を越えた
ら補償があるが、越えななければ補償がないというのは、生産者として、あま
りに釈然としない。自分たちは畑に毒を撒かれた。少ないか多いかではなく、
毒を撒かれたこと自体が被害なのだ。

ところが自分たちに断りもなく「基準」を決めて、それ以下だったら売ればい
いから補償しないとされている。これはどう考えてもおかしい。人の家に毒の
あるゴミを撒いたら、まずそれだけで謝るべきことではないか。できるかどう
かに関わらず、ゴミの撤去は義務ではないか。そこがあまりに納得できないと。

・・・非常にまとをえていると思いました。出荷のための基準は、同時に補償
のための基準にもなっているのです。だから生産者の側は、出荷しないと生活
が成り立たない状況におかれている。それでも出荷を断念する方たちもいるわ
けですが、この構造自体に深い矛盾がある。


今、必要なのは、生産者と消費者の直接的な結びつきを強め、総体としてこの
国の中の食糧生産の安全性を高めるための努力を強めていくことだと思えます。
一体、この現状をどう打開していくのか、そのこと自身を一緒になって考えて
いく。その意味で営農や、漁業の行く末を消費者自身が考える必要があります。

もちろんこのように言うと、あまりに課題が広く、深く、雲をつかむような話に
感じられてしまいます。それで僕が考えたのが、こうした課題に取りくむ一つ
の糸口として、今、仙台市と角田市で生産者の側から始まった、放射能測定室
の立ち上げを取材し、それと消費者ないし市民の結びつきを促進することです。

放射線被曝の現状の中で、いかに食の安全を守っていくのか、そのために必要
なことの一つは、行政に頼らずに、生産者と消費者を含む市民の側で、まずは
食料汚染の実態、農場や漁場の汚染の現実をつかんでいくことです。その行為
を共にする中から次の展望を一緒に考えることが大事だと思えます。

今回の仙台市と角田市への旅は、そんな展望を抱いてのもので、実際に二軒の
農家を訪問し、またそこに集って下さったたくさんの方たちとお話をして、大
変有意義な情報を得て来ることができました。今後、そのことを何回かに分けて
報告させていただきます。

私たちの安全を守るためには、安全を守ってくれる人を守ることが一番の近道。
そのために今、生産者も消費者も何をなすべきなのか。どうかみなさん、この
ことをわがこととして一緒に考えていきましょう。



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明日に向けて(246)森の中を子どもたちと歩いて・・・。(芦生の森訪問記)

2011年08月27日 23時30分00秒 | 明日に向けて8月1~31日
守田です。(20110827 23:30)

今日の関西地方は、概ね夏晴れの一日でしたが、局所的に「ゲリラ豪雨」
に見舞われました。そんな不安定な中で、芦生の森へのツアーを行いま
したが、幸いにも素晴らしい好天に恵まれ、とても楽しい一日を過ごして
くることができました。

山の中の気温は概ね23度ぐらい。しかもとてもさわやかな風が尾根道に
吹いていました。森の木々も、いつものように私たちを懐深く迎えてくれ
ました。緑の中で深呼吸しながら歩きましたが、心身の疲れが溶けていく
ような爽快感に包まれました。

とくに今日、楽しかったのは、参加者のお子さんたちと一緒に、終始、行
動できたことです。一人は小学校2年生のS君。もう一人は小学校5年生のM
ちゃん。男の子と女の子です。その二人が先頭を行く僕の周りを、それこ
そ行ったり来たりしながら、一緒に歩いてくれました。


S君はもの凄く元気。高い木々から吊り下がっているツタをブランコ代わり
にしたり、次々とムシをつかまえたり、はては毒キノコに手を出そうとし
たり、それはもうやんちゃにはしゃぎまわっていました。かなり賢い知識
も持っていて、色々なことを、ポンポン、しゃべりどうしで歩いていく。

Mちゃんは、ザックの中に、トトロの人形を忍ばせてきていて、面白い木に
遭遇するとそれを出してくれました。S君よりお姉ちゃんなので、危ないと
ころにかけだそうとするS君を気遣ったりしていますが、S君がツタに捕まっ
て、揺らし出すと、一緒になって遊んでいる。

僕の少し前に駆けだしていっては、次々と、木々をベンチにしたり、
飛び箱にしたり、よじ登ってみたり、2人で「遊具、遊具」と叫んでいる。
かと思うと、二人でちょこんと人形のように座って笑っていて、思わず
カメラを出さないわけにはいかなくなる。


・・・森の中を小学生の子どもたちと歩くといつも感じることですが、目線
が大人と全く違うので、私たちには残念ながら見えなくなってしまったもの
が見えるのですね。「ほら、ここにこんなムシがいた!」とか、「ここから
見ると、こんなキノコが見える!」とか次々に発見が繰り広げられる。

好奇心が旺盛で、彼と彼女には、世界がキラキラしていることが伝わって
きます。その目線に合わせ、そこから世界を見ようと、自分の視点をアジャ
ストしていくと、確かに色々なものがキラキラして見えてくる。子どもの
豊かな世界が、大人の僕の心をほっこりさせてくれる。


そんな彼と彼女に、芦生杉の巨木を何本も見せてあげました。今回のコース
が面白いのは、まるでセットされたように、だんだんに大きな木が出てきて
最後に、芦生の森のヌシのような樹齢1000年を越える大杉が出て来ること
なのですが、最後はS君がまっさきに巨木に駆けていった。

「かあちゃん、あったで、あったで、一番大きいのがあったで!」。僕の前
を、木に向けて一目散に走りつつ、後ろから来るお母さんに大声で叫んでい
る姿を見ているだけで、ああ、今日もこの地に、みなさんをお連れすること
ができて良かったなとしみじみと思いました。


その後、みんなで「花背交流の森」の温泉に入りました。もちろんS君は、大
きな湯船に飛び込み、他の男の子たちとクロール。でも僕の横できちんと
シャンプーもしていました。身体は僕が洗ってあげました。S君はお風呂の
中でもはしゃぎどうし・・・。

おかあさんに「いやあ、かわいいですねえ」と言うと、「実は夏休みの宿題
をなかなかやらなくて、母は昨日、怒ったばかりなんです」と笑われました。
そうですよね。かわいいとだけ思えるのは、外から関わっているからなので
すよね。・・・なんだかすべてのママさんに感謝したい気持ちになりました。


この子どもたちのキラキラした世界を守りたいと思います。そのためにも、
この子たちを、放射線から守っていかなければならない。それは僕自身を守
ることなのだと思います。僕の中にある美しいもの、輝いているもの、それは
子どもたちを守る中でこそ、守られる。

・・・子どもたちとの素敵な時間をくれた芦生の森、そして参加者のみな
さんに感謝です。



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明日に向けて(245)京北町・京丹波町・キッチンハリーナ・ひとまち・山水人でお話します!

2011年08月26日 23時30分00秒 | 明日に向けて8月1~31日
守田です。(20110826 23:30)

東北の旅の報告がまだ終わってないのですが・・・先に、今後のスケジュール
をお知らせしておきます。

まず明日ですが、芦生の森を訪問してきます。
もう無理かもしれませんが、まだ若干席があるので、今から申し込もうという
方は下記からご連絡下さい。天気が抜群によくなりそうなので、お勧めです!
http://www.success-running.com/news/2011/06/ashu2011.pdf

続いて明後日、8月28日(日)に京北町・京丹波町でお話します。
食料問題に大変詳しく、311以降、頻繁に情報交換してきた平賀緑さんの一緒の
講演です。よければご参加ください。

さらに明々後日、8月29日(月)に左京区キッチンハリーナで東北の旅の報告会
を行い、続けて9月5日(月)、9月12日(月)に連続学習会をします。

9月13日は京都ママパパの会に呼んでいただきました。午前10時からです。

9月19日、20日は山水人の祭りに参加します。
19日に「放射線被曝よろず相談所」を開設し、20日に鎌仲ひとみさん、冨田
貴史さんと一緒にトークセッションに参加します。

以下、それぞれの案内を貼り付けます。

************

【守田敏也と平賀緑の内部被曝と食べ物と経済】

8月28日(日) 資料代:500円

〇 昼の部13:00~
場所:山国自治会館(山国地区公民館)
(右京区京北比賀江町院谷21)
080-3834-0631
omusubi@keihoku.jp
http://omusubi.keihoku.jp/

〇 夜の部19:00~
場所:菓歩菓歩 クラフト館
(船井郡京丹波町坂原シヨガキ16)
軽食あります(料金別途)
問い合わせ先 : 0771-84-0959 
菓歩菓歩 http://capocapo.com/shop.html  

主催:おむすびマーケット実行委員会/菓歩菓歩
協力:みどりのこぐま

震災以降、いやそれ以前からかもしれません。
私たちはマスメディアから何を得て、何を得られていないのか?
テレビの中では、真実がフィクションのように扱われパラパラと過去のものに
加工されていってます。
外部被曝と内部被曝の違いとは何かを理解し、汚染された食品と今後どのよう
に付き合っていけば良いのか考えます。漠然と抱えている不安や恐怖にただお
びえるのではなく汚染の実態と真実を知り、一人一人が主体的に汚染と向き合
う。各部の後半は食品と経済がTPPによりどのように変えられようとしていて、
どうやったら幸福になれるのかをお話します。

守田敏也(もりた としや)
http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011

1959年生まれ。京都市在住。同志社大学社会的共通資本研究センター
客員フェローなどを経て、現在フリーライターとして取材活動を続け、社会的
共通資本に関する研究を進める。ナラ枯れ問題に深く関わり害虫防除なども実
施。原子力政策にも独自の研究を続け関西をはじめ被災地でも講演。

平賀緑(ひらが みどり)
http://midori.info/

京都・丹波の手づくり企画「ジャーニー・トゥ・フォーエバー」にて、有機菜
園や鴨たちを育て、手づくりバイオディーゼル燃料でワゴン車の燃料を自給。
現在は京都市・下鴨に移り、持続可能な食とエネルギー問題に取り組む。今年
9月よりロンドン市立大学食料政策センターの大学院に進学予定。
原発なんてもう時代遅れ!

****************************

キッチンハリーナ・守田敏也報告会、学習会

翌日29日(月)には、京都市左京区のキッチンハリーナさんでお話します。
この日から月曜日の同じ時間に3回連続です。毎回午後7時からの開催。
参加費は500円です。

1回目の8月29日は、茨城・東北の旅の報告会です!被災地の今の写真・動画を
たくさん撮ってきたのでお見せします。
前半は、自転車を大槌町・陸前高田などに配ったお話。
後半は、宮城県仙台市・角田市の有機農家を訪ねたときのお話です。

とくに後半では、有機農家の方たちの思いを参加されたみなさんとシェア
したいと思っています。自然食レストラン・キッチンハリーナでならではの
お話ができるといいです。

2回目9月5日(月)、3回目9月12日(月)は、内部被曝問題の連続講演です。
9月5日は、岩波書店『世界』9月号に掲載していただいた肥田舜太郎さんの
インタビューを中心にお話しします。

9月12日は、物理学の領域から内部被曝問題を解き明かしている第一人者、
矢ケ崎克馬さんから学んだものを解説したいと思います。

キッチンハリーナのホームページをはりつけておきます。
http://kitchen-halina.net/modules/main/index.php?id=1

****************************

フリーライター 守田敏也さん 講演会

9月13日(火)10:00~12:00
ひとまち交流館 第一会議室 
「放射能汚染と内部被曝 これからの日本は?京都は? 
~内部被曝からカラダを守る基礎知識~」
主催 放射能から子どもを守る・京都・ママ・パパの会
http://kodomo-kyoto.sakura.ne.jp/

****************************

「3.11以後の生き方とは?」
山水人2011の中の9月20日(火)のトークセッション
鎌仲ひとみ・冨田貴史・守田敏也

「山水人2011」自身は9月10日から25日まで開かれます。
僕も19日に、「放射線被曝よろず相談所」を開設します。
場所は滋賀県高島市朽木村の生杉付近。
芦生の森の東部と接したところです。
たくさんのイベントが行われます。詳しくは下記をご覧ください。
http://yamauto.jp/top.html
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明日に向けて(244)陸前高田から素敵な葉書が・・・。

2011年08月26日 09時00分00秒 | 明日に向けて8月1~31日
守田です。(20110826 09:00)

すでにお知らせしたように、京都OHANAプロジェクトでは、18台の自転車を
陸前高田の3か所の仮設住宅に届けることができましたが、このうちの一つ
の住宅の代表者の方から、丁寧なお礼の葉書が、プロジェクトに届けられ
ました。お名前等を伏せて、文面だけみなさんにご紹介します。

大文字送り火問題についての見解はすでに述べた通りですが、こうしたお便
りを読むと、とにかく自転車を持って行くことに関われて良かったなという
思いが、心の中にフワッと沸いてきます。大事なのは人と人の想いを丁寧に
重ねていくこと。本質的には土地の名前など関係ないのかもしれません。

それにしてもこの礼状、よく書かれているなあと思うのです。心を込めて書
いて下さったことが伝わってきます。一生懸命な思いに丁寧な礼で返して下
さっている。僕には書けない、短くて素敵な文章です!大災害という悲しい
事態がきっかけですが、こうした出会いに感謝です。。。


**************************

陸前高田からの手紙

前略

それぞれの想いがいっぱい込められた八台の自転車のご支援、本当に有難う
ございます。どれどれも大切に使われ、そして整備されたもの、これはピカ
ピカの新車よりも何倍ものメッセージが込められているのが感じ取れました。

小生は七十四歳ですが、戦中・戦後、宝物中の宝物は自転車でした。持って
いる少年はだれよりも得意気で、みんなの羨望の的でした。暇をみつけては、
スポークの一本一本を心を込めて磨いていました。そして他の人には貸した
りはしませんでした。

こんな昔の事を想い起こさせて下さいました。ご提供者の人となりや、生活
の歴史が刻み込まれ、何人もの人々の善意によって岩手まで運ばれた大切な
もの。心から御礼申し上げます。

使い方は皆さんで相談して決めようと思っていますが、最後は使用する人の
良識にゆだねたいと思っています。御団体に対し、心から感謝申し上げます
と共に益々のご発展をお祈り申し上げます。

草々
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明日に向けて(243)気仙沼津波被災地域を再訪して

2011年08月25日 22時30分00秒 | 明日に向けて8月1~31日
守田です。(20110825 22:30)

東北の旅を終えて、ようやく京都に帰ってきました。旅の荷を解
き、一息ついたところですが、少し日にちを遡って、旅の報告の
続編を書きたいと思います。まずは22日に陸前高田に続き、気仙
沼高校に自転車を届けて以降のことです。

この日、すべての自転車配りを終えた私たちは、アビスさんの車
の先導で、気仙沼の津波被災地を訪れました。僕にとっては2度目
の訪問でしたが、前回は封鎖されていて入れなかった地域もあり
ます。安全性が確保できていなかった場所です。

その地域に入って、一番に思ったのは、「まだこのような状況なの
か・・・」ということでした。このような状態というのは、津波で
大被害を受けた建物の多くが、まだ被害を受けたときのままの姿で
残っていることです。

とくに目立つのは大きく損壊した水産物加工工場です。だいたい3階
建て、4階建てぐらいの建物が多いのですが、外壁が壊れ、鉄骨も
グニャグニャになったままの姿でまだまだたくさん残っている。
5ヶ月と10日が経ったにもかかわらずです。

僕は1995年に起こった阪神・淡路大震災の時も、ボランティアとして
繰り返し現地に訪れましたが、少なくとも5ヶ月経った頃には、倒壊
したビルの多くが解体されていました。更地になり、まだ次のもの
は立てられていなかったけれども、残骸はあまりなかった。

ところが気仙沼では今も多くの残骸がそのままに残されています。
解体工事をしているところもたくさんありましたが、まだまだ解体
を待っている建物が多いのです。水産物を入れる発泡スチロールの
箱が、ビルの中から外に崩れ出したままになっている所もある。

さらに印象的なのは、陸地に乗り上げてしまった船がまだ何隻か残っ
ていることです。さすがに海に近い所の船は姿をけしていましたが、
旧気仙沼駅前にドンと鎮座して、何度も報道された数百トンの船は、
今もそのままに鎮座している。。

ここは5月の訪問の時に、仙台で泊めていただいた、”さおちゃん”
の実家があった場所。前回も訪れたところだったので、津波から5ヶ月、
前回訪問から3ヶ月経ってもあまりに変わっていないことに、何か
痛々しい感じがしました。

「これは大変なことだ」と思いました。今回の震災は、阪神・淡路
大震災よりはるかに大きく広範な規模を持っており、それだけに
復興のための資源を、一都市に集中することができない。そのため
津波で壊れた建物を撤去するだけでまだまだかかってしまうのです。

こうした現実は、あまり報道されなくなっているのではないでしょう
か。今なお、津波直後の状況と、あまり変わらない状態の場所がたく
さんある。復興への努力を報道することも大切ですが、僕はこのまだ
まだ変わらない姿も、もっときちんと伝えられなければと思います。


行政は、復興の目安を「避難所」の縮小、解消におきたがります。
みんな「仮設住宅」に移って、やれやれという自治体も多い。しかし
「仮設住宅」とて言葉を変えれば「避難者住宅」です。団地型避難
所に変わったに過ぎないことを私たちは知っておく必要がある。

「復興」は、旧来の地区の建物が解体・撤去され、再び家々が建てら
れて、はじめてなされていきます。ところが今回の場合、津波の被災
地に、再度、家々を建てるのか否かという大問題も横たわっています。
その判断にやっとこれから入っていかねばならないのです。

その意味で地域によっては、「復興」は不可能であり、新しい町の
創造が求められるところもあるでしょう。気仙沼の海岸地区もそれに
入るのではないか。そもそも海岸線の多くの場所が、液状化などによ
る地盤沈下で、土地そのものがなくなってしまってもいます。

アビスさんは、この海に沈んでしまった土地の姿をみると絶望的な
気持ちに襲われると語っていました。仮に再度の津波被害の可能性を
しりつつ復興を試みようと思ったとしても、その場自身がなくなって
しまっているからです。

復興、ないし、あらたな町の創造には、まだまだ本当に長い時間が
かかるし、たくさんの資源が必要です。被災していない地域の側は、
この現実をこそ直視し、今後もさまざまな形で、被災地への援助を
続ける必要があります。

僕自身はそれは一つの人間的義務だと思います。被災した人々を
助けるというよりも、私たちすべてがまだまだ被災状態の中にいる
と自覚することが大切だと思うのです。その上で、今後の有効な
市民的援助の方途も考えていく必要がある。

さらに大変深刻なのは、こうした事態の上に、放射線被曝の現実が
覆いかぶさっていることです。まだまだたくさんの地域からの避難
を進める必要があるし、「学童疎開」も必須です。それらにも多大
な力を投入する必要がある。


・・・今回の大災害に対して、もう一度腹をくくり直し、立ち向かっ
ていかねばならない。そんな思いを新たにした気仙沼再訪でした。

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明日に向けて(242)京都大文字山の送り火に想う(2)

2011年08月23日 15時30分00秒 | 明日に向けて8月1~31日
守田です。(20110823 15:30)

気仙沼のアビス亭からの続編の発信です。(241)で書いたように、昨日僕は
京都OHANAプロジェクトの森さん、大槻さん、気仙沼(正確には一関市室根)
からかけつけてくれたアビスさんとともに陸前高田市を訪れ、仮設住宅のあ
る方から、陸前高田のマツへの想いをお聞きすることができました。これを
踏まえつつ、再度、大文字山送り火問題を論じたいと思います。

まず前提として、送り火に想う(1)で僕は大文字山が近年、激しいナラ枯れ
に襲われており、京都市がそれを放置してきたこと、マスコミも何らそれを
取り上げず、問題が表面化すると、防除に真面目に取り組んできたとはとて
も言えない「学者」にばかり群がり、何ら本質的なことが報道されなかった
ことを明らかにしました。

その中でみなさんにお伝えしたかったのは、門川市長も、京都市も、精霊を
送る場である大文字山への信心など、ほとんど持っていないという現実です。
とくに門川市長は、着物を常用して格好ばかり京都風を演出していますが、
この街の自然と精霊に対する尊崇の念がまったく見られません。それどころか
オリックスの進める水族館建設を進めるなど、環境破壊の道を歩んでいます。

また少なくともナラ枯れ問題に関して、マスコミはまったくきちんとした調
査をせず、問題の表層をなでるばかりで、自ら取材班を山の中に送り込んで
調査をするなどの取材を全くしてきていません。問題が表面化すると、学者
の見解を聞き書きして紙面を作ってきただけなのです。僕は今回の問題はこ
うした市長やマスコミの姿勢が大きく関与したと考えています。


その上で、さらに問題の背景を広げてみていきたいと思います。今回の陸前
高田のマツを燃やすという発案が、多数の京都市民の不安を引き起こした背
景にあるのは、311事故後の政府の安全キャンペーンと、少なくとも当初は
それをまったく批判せず、ただ政府の広報と化して情報を垂れ流し続けた
マスコミの姿勢です。

いまさら言うまでもないことかもしれませんが、まさにメルトダウンが起こっ
て原発からもの凄い線量の放射性物質が続々と飛び出しているときに、政府は
安全宣言を繰り返し、テレビも新聞も、政府の見解を繰り返す「学者」の見解
で溢れかえっていました。その後、政府自身が大きく見解をかえ、マスコミも
それに合わせて変わりましたが、どの社も一度も真摯な反省を試みていない。

このことが多くの人々の、政府とマスコミに対する不信を植えこみました。日
本のマスコミの方々が、自らの深刻な危機としてこれを捉えられないことが
残念ですが、これまで、新聞をよく読み、そこから情報を探そうとしてき
た多くの方が、新聞を離れ、独自にネットなどで情報収集するのようになっ
たのです。最もコアな読者層が今、マスコミから急速に離れつつある。


さらにこれに拍車をかけたのが、僕のいう政府による「放射能は怖くない
キャンペーン」の中で、放射線に関するさまざまな基準がなし崩し的に緩和
されだしたことです。例えば日本の法律では毎時0.6マイクロシーベルト以上
の地域は放射線管理区域に指定され、そこでは飲み食いや寝ること、子ども
を連れこむことが厳しく戒められてきました。

年間の「許容量」とされてきたのも1ミリシーベルトだったのに、にわかに
値が20ミリシーベルトに変えられ、子どもたちが毎時3.6マイクロシーベルト
の放射線を浴びても大丈夫だなどということが言われ出した。一気に危険値
とされる数値が大きく緩和されて、それまでの法律では、管理区域になった
ところの人が避難しようとしても、行われるべき補償もまったく得られない。

飲食物の基準もそうです。もともと1リットル当たり10ベクレルと低い値だった
飲み水の基準が大人で300ベクレルにまで緩和されてしまいました。食料に
関しても、肉などは1キログラムあたり500ベクレルまで良いことになってし
まいました。ちなみにドイツの放射線防護協会は、1キロあたり大人8ベクレル
まで、子どもは4ベクレルまでを飲食の基準とするように勧告しています。


多くの人がマスコミに載らないこうした情報をネットから集め、情報交換を
行い、自主的な学習会をはじめた。そうしたときにもち上がったのが、汚泥問題
でした。放射能を集めたチリやあくたは、雨で流されて汚泥となり、下水処理場
に集まっていく。それをこれまでのように焼却場で燃やしてしまったために関東
の多くの地域で、さらに放射能汚染が広がる結果を作りだした。

さらにそれに重ねて、原発事故被災地域のがれき問題が浮上し、政府が被災の
無かった自治体に引き取らせて、焼却させようとする案が進んできました。
しかし、このときもマスコミはなんら住民を助けれてくれない。原発がメルトダ
ウンし、インターネット上ではその可能性が強く疑われていたときに何も書かな
かったように、今も放射能汚染されたがれき処理について何も書かない。

こうしたことが背景にあって、陸前高田のマツが問題になり、一部の人々がすぐ
にネットで情報を収集をはじめ、その安全性に関する独自調査が開始されたの
でした。これらの人々が問題にしたのは、このマツを燃やすことが、大文字
保存会の発案ではなく、大分市の作家の発案であり、マツ自身を福井県のNPOが
仲介し、京都市がそれをこのNPOから買うとなっていることでした。

復興のための事業を行うためにマージンを得て、事業を拡大すること自身は批判
されるべきことではありませんが、大文字火送りに明るいとは言えない大分市の
作家の方や、福井県のNPOがこの事業を担っていることに不安が拡大し、勢いこれ
らの個人・団体への放射能汚染に関する質問が集中していきました。ところが
これらの方たちはそれに的確にこたえることができませんでした。

中でも使われるマキに関する放射線調査として、それらの物質の成分調査表が出
されてしまい、その中にストロンチウムの存在が記されていたことなどが問題を
拡大しました。僕はこのストロンチウムは、自然界にも存在するもので、放射性
物質ではないのではとも思うのですが、ともあれこうした発表でそもそも放射性
物質とは何かということをこれらの方が理解してないことが明らかになりました。

さらにこれらの方たちが、放射性セシウムを専門機関に依頼して計測したのですが、
検出限界が1キログラムあたり10ベクレルで、未検出のものに、実際に放射性物質
がないのか、あるいはあるいは10ベクレル以下なので測れていないものがあるのか
は分からなかった。それ自身は仕方のないことですが、この方たちが放射性物質が
ないといいはったので、さらに疑念を呼び起こしてしまいました。

さらにこのNPOの方に参加している市会議員さんが、感情的になって、そもそも
福井で作られた電気を京都の人たちは使っているのだから、放射能も引き受ける
べきだとホームページに書きこんでしまったため、問題がいっそう複雑になって
しまった。あたかも放射性物質がついているマキを受け入れるべきだという主張
がされてしまったからです。

この段階で、大文字保存会の中に強い動揺が起こったのが実際にあったことだった
ようです。保存会の中に、これではマツの安全性が確認できない。放射性物質を
撒いたら精霊の送り火として申し訳ないという声が広がり、その中で中止が決定
されました。つまり決定は、当事者(福井のNPO)の側から、使われるマツに放射
性物質がついてないことの責任をもった説明がなされない中で行われたものでした。


ところがこの事実を細かく取材していないマスコミが、「放射性物質はないけれど
火送りへの使用をやめる」と報道してしまい、翌日から大文字保存会が、他ならぬ
京都市民からの猛烈な抗議にさらされることになってしまいました。これらの抗議
は、放射性物質がないのに燃やさないというのはあんまりだというのもので、それ
自身、理由のあるものでしたが、明らかな誤報によって導かれたものでした。

ここでぜひ注意していただきたいのは、このときの報道のあり方です。放射性物質
があるかどうか分からない、ないしはその存在が疑われるので中止するというのと、
放射性物質がないのに中止するというのではまったくわけが違うし、後者の場合は
陸前高田の人々を深く傷つけ、同時に京都市民の怒りも巻き起こします。マスコミ、
ないし現場の記者さんはそれを意図してこの問題を報じたのではないでしょうか。

そうでないとしたら、このように書けば、その記事自身が陸前高田の人々と京都の
市民を傷づけることになることにあまりに無理解だった言えるのではないで
しょうか。問題が重大であるだけに非常に慎重な取材と、記事の書き方が求められ
ていた。社会的には双方を傷つけない記事の作り方が問われたと思います。その場
合、マスコミ自身が、徹底して放射性物質の問題を追いかけるべきだったと思います。

ところがあたら人々の対立をあおるかのような記事が書かれた。そしてあたかも
一部の京都市民が、自分たちだけのことを考えて、過度に放射性物質を恐れ、騒い
だことが悪く、それに屈した大文字保存会が悪いかのような「風評」が流れてしまっ
た。そうしたらもともと環境問題に関心が薄い門川市長が、点数稼ぎに乗り出し、
大文字保存会を上から否定して、「そんなもの燃やせ、燃やせ」と言いだした。

こうなるともともと町内会の一部でしかない保存会に抗う力はない。保存会は、も
ともとのマキ(陸前高田で送り火として燃やされました)に書かれた文面をすべて
写真に撮り、自ら護摩木に写し直して大文字で燃やすことで、陸前高田の方たちの
傷ついた方たちの心に報いようとした。一方で、上から保存会を抑えつけた市長は、
陸前高田から、前に用意されたものとは違うマキを取り寄せさせました。

ここでは門川市長の放射能汚染に対する全くの無理解が全面化してしまいました。
そもそも前にマキとして使われようとしていたのは、すでに表皮をむいて加工して
あるものでした。それに対して市長が新しく取り寄せたのは、野積みにされていた
ものだった。原発事故での汚染の現実から言えば、それを測れば放射性物質が出て
来ることは十分に予想された。ところが市長もまた報道をうのみにしていた。

そうしてわざわざ取り寄せて計測。案の定、放射性物質が出てしまいました。それで
放射性物質がないのにマキを使わないのはおかしいという前提が崩れてしまい、マキ
の使用は2度にわたって中止することになり、陸前高田の人々をより傷つけることに
なってしまいました。そうしたら今度はマスコミは市長たたいた。ある新聞社は、
放射性物質の量は取るに足りない量だという「学者」の意見を載せました。


今ここで、実際にその量が取るに足りるか足りないものであったのかは問いません。
問題の本質はそこにはないからです。そもそも「取るに足りる量」の放射性物質が
混入した飲食物が認可され、放射線管理区域の規定がなし崩し的にないものとされ、
1ミリという許容値が骨抜きにされているという社会的背景の中で、多くの市民が
自分たちを守ろうと必死になっている現実があるからです。

しかもこうした市民たちの努力に対して、京大原子炉実験所の方たちや、肥田さん、
矢ヶ崎さんなどをのぞいて、市民に寄り添いながら、被曝の危険性をといてくれた
「専門家」などいなかった。その意味でこの国の専門家の権威はまったくもって
失墜しているのです。それを促進したのはマスコミです。メルトダウンすら見抜けず、
報道できなかったを、謝ろうとすらしないからです。

そうなれば市民は少しの危険でも避けようと努力する以外にない。ある意味で保存会
もまた市民の一員として、こうした立場を取ろうとしたのであり、その最初の決定は
擁護されるべきものだと僕は思います。しかしその町内会を権力者であるマスコミが
たたいた。そうして同時に陸前高田の人々を傷つけたのです。だから僕は第一の責任
は事故をおこした国と東電に、第二の責任はマスコミにあると思います。

きちんとした取材などもやは期待しません。しかしせめてもマスコミの方たちには
もう少し人間的情を持ってほしい。自らの記事が人を傷つけることがあることを知っ
て欲しい。僕はそう思うのです。すぐに人をたたくのではなく、陸前高田の人も、
京都の人も傷つけない報道のあり方を記者さんたちは考えるべきだった。それがペン
を持ち、何十万、何百万という紙面を一日出してしまうもののモラルであるべきです。

僕にはそれが残念でなりません。第一回目に陸前高田の人々を傷つけたのはマスコミ
なのです。そして二回目に傷つけたのは門川市長です。大文字保存会は何度も謝罪を
行いました。その意味では市長も深々と頭を下げた。しかしマスコミは一度も頭を下
げていません。そもそも自分たちが当事者だと自覚がない。ペンがときには、剣をも
上回る暴力を持つことに無自覚すぎると僕は思います。


今回の問題で最大の犠牲者はやはり陸前高田の人々です。最大の犠牲とは何か、津波
の被害に襲われ、なおかつ放射性物質で地域が汚染されてしまったのに、その痛みを
シェアする動きがなんら表立っていないことです。本当に悲しいことに、津波で押し
倒されたマツの上に、放射性物質が降り、マキにもできない現実があるのです。その
痛みがシェアされなければいけないのにそれがない。何より僕はそれを悲しく思います。

「そんなのは微量だ。専門家の判断をあおぐべきだ」という学者さんたちに問いたい。
その専門家が出鱈目な判断ばかり出してきたではないですかと。事故当初に誰も危険
性を指摘しなかったではないですかと。政府のことを勇気を持って批判することなど
まったくできなかったではないですかと。その意味で、専門家内部での真摯な論争、
出鱈目を語った「専門家」の謝罪も今、僕には必要なことだと思えます。

同時に、東北地方の被曝の実態を明らかにし、その痛み、苦しみを全国でシェアして
いくことを進めていかなくてはなりません。それは放射性物質を分け合うことでは断じ
てない。汚染地域に汚染されてないところからさまざまな資源を送り続けることが
核心です。汚染を分け合って、日本中に広まってしまったら、もはや安全地帯がなく
なり誰も助けられなくなってしまいます。


最後にこの文章を書いている今、僕は一関市室根のアビス亭にいます。おそらく陸前
高田に降ったのと同じ放射能雲がこの室根にも到達しました。さきほど外で測ったら
雨どいの下で毎時4.15マイクロシーベルトが計測されました。空間線量は0.1から0.2の
間です。昨夜はその庭でアビスさんとふたり、焚火をしながら食事をしました。これも
燃やしてはいけないかもとアビスさん。(マキは軒下にあったものです)

アビスさんは、「この家は気に入ってたのですけどね」と過去形で語る。それが何と
も悲しく思えました。庭の栗の木がたくさんのイガをつけていましたが、「これも食べ
られないかも」と。「とにかく測定してもらいましょう。大丈夫だったらみんなで
食べましょう」と僕。本当に残念ながらこの楽しき家でも、あちこちでそれなりの放射
線量が検出されます。

この事態に対して何ができるのか。僕はさらに己を問い続けようと思います。大文字の
送り火ならぬ、アビスの庭の焚火に、そんなことを想った夜でした。

終わり


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明日に向けて(241)陸前高田に自転車を届けて・・・

2011年08月23日 10時30分00秒 | 明日に向けて8月1~31日
守田です。(20110823 10:30)

21日に大槌での活動を終えた私たちは、22日早朝に釜石市を出発、国道45号線
を南下して一路、陸前高田に向かいました。この日の天候は雨。また急に冷え
込んできていて、峠にある温度表示計が15℃をさしていました。その中をひた
すらトラックを走らせて、陸前高田の仮設住宅に午前10時につきました。

陸前高田市は三陸の海岸線沿いにある町ですが、大津波の直撃を受けました。
市内の7割以上の家屋が損壊。多くの家が流されてしまいました。市の広報に
よると3月11日現在の人口は24,246人。6月24日段階までの警察発表で、1,524人
の方が亡くなっています。(市外の方を含む)全壊家屋は3,159戸。大規模損壊
一部損壊などを合わせると3,368戸に被害が出ました。

3月11日に消防団員の方が撮った津波と人々の避難の状況の動画をURLを示して
おきます。自ら必死で逃げながら、「逃げろ、逃げろ」と叫び続けたもので、
途中で天地が逆になったりしています。今またあらためて津波被害の悲しさを
胸に刻み、陸前高田の方たちの苦しみをシェアするために、ご覧いただけると
ありがたいです。なおこの町の避難所は8月12日で全て閉鎖されています。
http://www.youtube.com/watch?v=P1uvCaiGGGo


この陸前高田における自転車のニーズは、森さんが出発前にネットで見つけ
ました。掲示板に被災者の方からのニーズが書いてあり、それを支援したい側
が見つけて連絡をすると、ご本人とつながることができるシステムで、初めに
見つけたのは子ども用自転車2台が欲しいというお母さんのニーズでした。

それで森さんが電話をして、「他にもニーズがありますか?」と聞くと、仮設
住宅を回ったようで、全部で18台あると助かるという。こちらもそれぐらいを
持っていきたかったので「渡りに船」で、お受けしました。ちなみにトラック
に積めるのは僕だと22台。森さんだと24台でした・・・。

目的の仮設住宅に着くと、ニーズを出していたお母さんのお父さん、子どもた
ちからはおじいさんが近くの他の仮設住宅から車で来て下さいました。それで
もう少しトラックを移動して数台を下ろし、また元のところに戻り、さらに
もう一か所にと、結局、3か所に仮設住宅に自転車をお配りしました。この過程
でアビスさんも合流してくれました。

その後、おじいさんと、応対に出てくれた他の女性と、住宅内の集会所に入っ
てお話しました。お二人によるとこの地域の仮設住宅はもともとの地域の塊で
移っているところが多いため、自治的な話し合いができていて、このように
物資が来たときの受け入れもスムーズなのだそうです。

ただし全ての人が要望通りにかたまって入れたわけではなく、おじいさんの
親族は3か所に分かれてしまったらしい。それをつてに3か所の仮設住宅からの
ニーズが集まったというわけです。それでも全体として自治が進んでいるのは
とてもいいこと。外からの支援がしやすい感じを受けました。


被災についての話をうかがいました。女性の方はお孫さんがおられるお歳で、
地震があったときにはちょうど外を歩いている小学低学年のお孫さんを自宅
から見ておられたそうです。息子さんのお子さんだそうで、息子さん一家は少
し離れた高台に家を構えていた。

地震とともに彼女は外に飛び出し、お孫さんにかけよっていった。二人の友
だちと一緒に歩いていたお孫さんは、友達と抱き合って泣いていたそうです。
そこに駆け付けて子どもたちを慰めていましたが、暫くするとドーンという凄
い音が聞こえた。津波が防波堤を壊す音でした。しぶきが高くあがった。

「逃げなければ」。彼女はお孫さんたちと一緒に一目散に高台を目指して
いき、駆け上った。それで救われたのですが、振り返ると波が襲って町を
壊していくのが見えたそうです。やがて自分の家が流され出した。お孫さんが
「おばあちゃんの家が流されていく」と、また泣きだしたそうです。


その後、避難所生活が始まりましたが、実はこの方は他のお孫さんと、ご親族
を津波で亡くされていました。そのショックが深くて、とても人と話をするこ
とができなかったとか。こうして話ができるようになったのも、ほんの最近な
のだとおっしゃいます。(なおプライバシー保護のため、事実を少し変えてお
伝えしています)

僕は「大変でしたね、どうかゆっくりと心をいやされてください。時間が
かかるのは当然だと思います。どうか頑張らずにゆったり歩まれてください」
と語りました。「そうなのよ。よく頑張れと言われるけれど、これ以上、何
を頑張れって言うのって思ったわ」と彼女。

「もう周りの期待に合わせるのはやめて、自分のペースで進もうと思うのです」
ともおっしゃられます。「そうしてください。でもお話しできるようになった
のは良かったですね」と僕が言うと、彼女は眼を潤ませて、ウンとうなづかれ
ました。辛い日々を振り返っておられるようでした。


陸前高田のマツと、大文字火送りのことで、京都市民の一人として心を痛めて
自転車を持ってきたこともお話しました。すると「ああ、あれはやはり、傷つ
きました」と彼女。「住民の方が家族を守りたいという気持ちもとてもよく
分かりますけれどもね」とも。

陸前高田のマツの木は地域の自慢で、彼女も小さい頃からマツを植えた人々の
ことを聞かされて育ったのだそうです。これまで波浪から町を守ってくれてき
たマツ林でもありました。その下にはきれいな遊歩道が幾つかあって人々がい
つも思い思いに歩いていた。憩いの場だったそうです。彼女もとても好きな場
所で、何度も訪れたそうです。

そんな地域の人々の、陸前高田の松原への愛着と誇りを、京都の友人たちに必
ず伝えますと答えました。すると彼女は、陸前高田で行われきた「けんか七夕」
の勇壮さなど、町のことをいろいろと教えて下さいました。たくさんの山車を
多くの人が引く祭りです。震災前、2008年に陸前高田市街を山車が壮観な姿と、
2011年、悲しみを乗り越えてみなさんが祭りに集った姿をご紹介しておきます。
http://www.youtube.com/watch?v=y6grNcp7Npw
http://www.youtube.com/watch?v=6vvlKZolR9E

集会所の窓から彼女と一緒に外をみました。海が見えていました。筏のような
ものがたくさん並んでいます。かきの養殖の復興だそうです。「こうやって、
毎日、きれいで穏やかな海を眺めて暮らしてきました。でも今は海が恨めしい」
と彼女。養殖の復興も、網に絡まったご遺体を弔いながらの作業だったそうで
す。「見なくてもいいものを見てしまって、ああしてやっているんですよ」・・。

最後に彼女はとても深々とお辞儀をしてお礼をしてくださいました。「本当に
遠いところからありがとうございます」「いえいえ、こちらこそ届けさせていた
だいてありがとうございました」と僕は答え、集会場の外に出ました。小雨
が降っていましたが、今度は雨に濡れながらおじいさんが語りだしました。

今回の津波で多くの町でたくさんの家が流されましたが、多くはコンクリートの
土台が残っています。しかしおじいさんの家は土台すら流され、さらに土地が
えぐられていたそうです。それほどここの津波は凄かったと繰り返し語る。その
中で「孫たちの新車の自転車2台が流されてしまったのだけど、今日、こうして
いただけて良かったです」と嬉しそうに笑ってくださいました。


こうして僕らの陸前高田仮設住宅訪問が終わり、トラックに載った自転車は後、
4台になりました。これを森さんの家にショートスティした女子高生のいる私立
気仙沼高校に届けることに。不思議な縁で、アビスさんが卒業生だったので、
車で先導してもらって、現地につくと、教頭先生が出てきて下さって、お礼を
述べて下さいました。

気仙沼高校の体育館は今も避難所になっています。現在、40人の方が生活されて
いるそうです。「気仙沼は傾斜地が多くて、他の町のように仮設住宅を増やせま
せん。それで隣の(岩手県)一関市の室根あたりに作る話があるのですが、誰も
いきたくないというのです。まだ全ての人が移るまで時間がかかります」と教頭
先生がおっしゃいました。自転車は、被災した生徒さんが使ってくれるそうです。

4台の自転車が、高校の校舎の中に吸い込まれていきました。これで自転車配りの
全てが終了です。今回の京都OHANAプロジェクトの全過程が終わりました。ここで
僕がアビス号に乗り、森さん・大槻さんがトラックに乗って、国道を新幹線の一関
液に向けて走り、途中で分かれました。森さん・大槻さんは、顔に疲労の後をにじ
ませつつ、それでも充実した顔つきで帰っていきました。


さてこのように京都OHANAプロジェクトは無事に終了しましたが、僕はまだ気仙沼
に残っています。今日は漁港の取材の予定でしたが、さすがに疲労がたまったので
昼間は休憩にし、夕方から仙台の有機農家さんを訪問します。明日は角田市の農家
さんの訪問で、ともに5月に訪れたときにお世話をいただいた方たちです。僕の
東北の旅はまだ少し続きます。

最後に、森さんの通信をご紹介します。森さんが書かれている感想には、万感が
こもっているなと僕は感じました。まだここに書けていない非常に濃厚な出会いが
多数あり、途中で「僕はもう満杯です」と語っていた森さん。今回の訪問、迎えて
いただいた方とのアポイントはすべて森さんが行ってくださいました。森さんに
深い感謝を捧げて、京都OHANAプロジェクトに参加しての最後の通信を結びます。


***************************

OHANA通信Vol13 8月22日(月) 活動無事に終了

こんばんは。京都OHANAプロジェクト森拓哉です。

今宵、自宅から通信を書いています。
非日常から日常へ。
日常から非日常へ?
どっちがどっち?
と少しの混乱はあるものの、本日、
陸前高田市の仮設住宅へ18台、
気仙沼高校へ4台をお配りして、
無事に活動を終える事ができました。

大槌町 119台
陸前高田市 18台
気仙沼市 4台
合計141台
OHANAの自転車が走ることになります。

写真も沢山撮っていますし、皆さんにも、どのようになったか、
見て頂きたいのですが、少し整理に時間を頂けますか?
プライバシーの問題もあります。

被災されている方の中には、カメラを向けられることに心理的なストレスを
感じる方も多くいらっしゃいます。
「笑えないから、写真はちょっと。こんな顔写してもらってもね。でも、
自転車ありがとね。」
そんな言葉も頂きました。

短いような、長いような、濃いい4日間が終了しました。
少し、意外な感情に包まれています。
ちょっと勇気がいるのですが、書いておきますね。

「あー、楽しかった!」

トラックで西から東に、北から南へ。
ひとまわりも離れている、濃く、魅力的なおじさま二人と一緒の珍道中、
トライアスロンアイアンマン仲間でもあるチーターさんの半端ないエネルギー、
新たな出会い、、、そりゃ、楽しいですよね?

「あー、楽しかった!」 

そんなこと感じても、いいですよね?

さて、多分、デイリー配信は今日で終了です。
ご協力と、ここまでお付き合い頂き、ありがとうございました。
これからも結果報告など、時々レポートは入れさせて下さいね。

今宵は家族の寝ている部屋で、床につくとします。
これが僕のありがたく尊い日常です。
幸せと、4日間出会った東北の皆様のことを感じながら。

また会う日まで。素敵な日々をお過ごしください。

森拓哉

ホームページ : http://ohana-kyoto.net/blog/
★中国在住で活躍中の松本ひでちゃんが、一気にパワーアップしてくれました。
ご覧下さい。

みんなの千羽鶴プロジェクト : 一口1,000円のプロジェクト支援。
http://www.success-running.com/news/2011/07/senba.pdf
クレジットカード決済に対応しました♪ ⇒ http://p.tl/N0-j

フェイスブック : http://www.facebook.com/kyotoohana
★タイムリーに情報をお届けしていきます。ユーザの方は、
「いいね!」お願いします。

************************

毎日、心苦しい思いでこのお願いを貼り付けてきました。多くの方に
ご協力をいただきながら、まだお礼もできていませんが、残念ながら
まだ活動資金は少し満たされてない様子です。
今回が最後のお願いになります。ご協力できる方は下記にお願いします。

京都銀行 上桂支店(カミカツラ支店)
普通 4041989 京都OHANA プロジェクト大槻祥子

(この「明日に向けて」を読んで振り込んで下さる方は、振り込む際に
名前の前に、311という番号を入れてください。「311モリタトシヤ」という
具合です。整理のためです)



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明日に向けて(240)大槌でのたくさんの出会いに感謝し、陸前高田・気仙沼に

2011年08月22日 07時00分00秒 | 明日に向けて8月1~31日
守田です。(20110822 6:30)

20日に続いて、昨日も仮設住宅に自転車を届けてきました。この日の台数
は40台ですが、すでに京都からきた大型トラックは帰っているため、私たち
が借りてきた2トンロングで3回にわたってストック地から運び込み。少し小
雨模様でしたが、1回めに自転車を運び込むやゾロゾロト人が集まってきま
す。「抽選が楽しみだ」と年配の女性たちが笑っています。

その人の合間を縫うようにしてトラックを出し、再び自転車を運び込み、さ
らにトラックを出して、また運び込み、時刻は10時半を回りました。
再びチーターさんが司会をし、森さんが挨拶をして抽選会の開始。抽選と名
前の呼びあげを、パレスチナ子どものキャンペーンの方たちが担当してくれ
ました。

この日も自転車台数が応募に足りていたため、空くじようにと用意した、聖
護院の八ツ橋も一緒にプレゼント。再び名前が呼びあげられるたびに、嬉し
そうに腕を上げて当選者が出てきて、自転車を選び始めます。拍手や笑い声
が会場を包み、何人かで一緒に自転車選びを始める方も。中には何度も試乗
して自転車を比べる人も出てきました。

それぞれの方が印象的な笑いをみせてくれましたが、この日、忘れられな
かったのは、青くてかわいい子ども用の自転車に目を付けた小学校低学年の
女の子。自分の欲しい自転車にのって、じっとくじを待っています。そばに
お父さんがついて、「お祈りすればきっと当たるよ」と笑ってささやいてい
る。その横に幼稚園児の妹ちゃんが立って、お姉ちゃんの当選を願っている。

しかしなかなか彼女の名前がでてきません。「ああ、とられちゃうよう」と
悲しそうにお父さんにつぶやくと「大丈夫さ。祈っていたらいいよ」とお父
さん。だんだんこっちが祈りたくなってきます。小学生の女の子と、その妹
ちゃんと、お父さん、そして僕らが祈りながら、ハラハラどきどきしてその
自転車をみつめている。

暫くして、やっと彼女の名前が読み上げられました。もう泣きそうになって
いた顔に瞬時に笑いがはじける。お父さんと一緒に自転車にかけよる女の子、
さっそく自転車にまたがってみます。ちょっと高いのでサドルを下げてあげ
ます。もう女の子の顔は嬉しさでくしゃくしゃ。お父さんが優しく頭をなで
あげています。

・・・ところが、妹ちゃんの顔をみると、くしゃっと泣き顔になっている。
さっきまであんなに一生懸命に当選を願っていたのに、お母さんがそばに
よると、エーンと泣きだした。お姉ちゃんが当たったら、そこで初めて自分
の自転車がないことに気がついたのです!「しょうがないでしょ。あんたが
乗れる大きさのはないんだよ」と抱き上げながらお母さん。

そのときチーターさんがマイクで一声。「そこのお嬢ちゃんの涙に負けました。
一番小さな自転車をもう一つ差し上げます」。これは大ヒットだった。幸い
お姉ちゃんのものよりも一回り小さな自転車があったのです。それを持って
いくと、妹ちゃん、涙をいっぱいためた顔で自転車にまたがる。・・・足が
届きません。「でもすぐに乗れるようになるよね」とプレゼントすることに。

お父さん、お母さんが、「いいんですか。どうもすみません」と深々とお礼を
して下さいました。そのお母さんが妹ちゃんをおろして、お父さんがだっこ
していた赤ちゃんを抱きました。「いつお生まれですか?」と聞くと、にこっ
と「3月22日です」と教えて下さいました。あの大震災から10日たって生まれ
た命です。「僕も大きくなったら自転車に乗ってね」と手を振りました。

その後、ご要望に応じて自転車のメンテナンス。まるで自転車屋さんのように
詳しくなってしまった大槻さんが絶大な力を発揮します。タイヤがうすいと
いう要望にこたえて、すぐさま後輪を解体。タイヤをはずして交換をはじめる。
小雨降る中で作業が続いていきます。森さんも他の自転車と格闘。使えない
のは僕ばかり・・・。

パレスチナ子どものキャンペーンの方たちも、実によく動いてくれて全過程を
手伝ってくださいました。やがて仮設住宅を後にして、パレスチナ子どもの
キャンペーンの倉庫に戻りましたが、そこでの運び込みなども手際よく手伝っ
てくれます。また協議して今日は自転車の台数を少し押さえて、今後、この方
たちに近くの仮設住宅に配ってもらうことに。

いっぺんにたくさんの台数を持ち込むほどのニーズはないものの、それぞれの
仮設で数台の需要があるし、そういう人ほど、本当に必要だ。残していって
もらえると助かるとのことでした。僕らもそうやって配ってくれるならとても
ありがたい。結局、18台ぐらいを倉庫に残し、大槌を後にすることにしました。
最後に津波から奇跡的に残った小鎚神社にお参りして釜石に向かいました。

この日も他にもたくさんの感動的な出会いがあったのですが、すべてを書きき
れません。続きは今日の夜にして、そろそろ出発の準備にかかりたいと思いま
す。今日はこれから釜石港を見つつ、海岸線を南下。三陸町、大船渡市を経て、
陸前高田に行きます。持って行く自転車は18台。そこでアビスさんと合流し、
気仙沼へ。森さんの家にショートステイした女の子にも自転車を届けます。

今日が京都OHANAプロジェクトとしては最後の旅です。再びいい一日を過ごした
いものです・・・。

以下、森さんの通信を貼り付けますが、今日はトピックがかぶってしまい
ました!!

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OHANA通信Vol12 8月21日(日) 大槌町での活動二日目

こんばんは。京都OHANAプロジェクト森拓哉です。

今宵、釜石から配信する最後のOHANA通信です。
今日は仮設住宅で40台の自転車をお渡ししました。
あれ?昨日の時点では、60台では?
お気づき頂いた方はありがとうございます。よく読んでくださっていますね。

少し仮設の状況を説明しますね。
僕たちが活動している大槌町では、ちょうど 8月11日
に避難所が全て閉鎖されて、仮設住宅への引越しが完了しました。

津波で市街地が流されて、ただでさえ少ない平坦地、どうしても仮設住宅は
点在します。その数、約50箇所。

少ないところで20戸程度、多いところで200戸程度といったところでしょうか?
支援の手は、多いところに届きがちです。

この点は震災直後の避難所と似た状況です。多いところに、物資が集まる。

それで、パレスチナ子どものキャンペーン(以下、CCP)のメンバーさんから
リクエストを頂きました。
「戸数の少ない仮設住宅にも決め細やかに配れないか?」

今回、お届けさせていただいた避難所は比較的、大きな規模(100戸と170戸
くらい)のものです。140台という自転車に対して、僕たちの活動期間は、2日間。
僕たちの滞在期間が短いという、こちらの都合に合わせていただくための対応です。

そこを機転を利かした提案を頂きました。
必要性が高い人は、小さな戸数の仮設にいらっしゃる可能性が十分にある。
そこで、今日の配布は40台に控え、
CCPさんに20台ほどの自転車を預けて、臨機応変に対応いただくことにしました。

さて、では40台の配布の結果は、、、

5人家族で仮設住宅に入られているAさん一家。
長女のおそらく小学生Bちゃんは、ほしい自転車に狙いを定めて、
ずっと前のほうで、ほしい自転車の前で待っていました。
なんともいえない表情で。

「当たるかな?当たるかな?どきどき」

ものすごく分かり易い表情をしているので、僕らも一緒にドキドキ。
3-4歳の妹さん、Cちゃんも一緒におねえちゃんを応援。

そして、ついにそのときはやってきます。
「Aさん!」
名前が告げられた瞬間、家族で「やったあ!」の歓声。
そして、喜んだ次の瞬間、Cちゃんの顔がぐしゃぐしゃに。

Cちゃんは気づいたんです。
「お姉ちゃんには自転車が当たったけど、私には何もない・・・」

それに気づいた、われらがチーターさん、「Cちゃんにはこの自転車はどう?」
もう一台プレゼントさせて頂きました。Cちゃんの喜んだ顔。
まだ、少し大きな自転車なので、乗れるまでに時間はかかるけど、
大事にしてくれることでしょう。

平等に配ろうとチャレンジすることは大事なことですが、結果が平等である必要は
ないんですよね。

・・・そんなストーリーを昨晩配信しようと、パソコンパチパチしていたら、
僕はいつの間にか、自動的にスイッチオフ、寝てしまったようです。
いつ寝たのか、全く記憶にありません。

140台の自転車のうち、今はトラックに積んである、
22台だけとなりました。少し安心したのかな?

さて、今日は今から、陸前高田→気仙沼 を順に周り、わずかながらですが、
自転車をお届けします。
おじさん3人の、珍道中、OHANAの旅もいよいよフィナーレへ。

今日もできることを精一杯。
今日もありがとうございます。今日も素敵な一日でありますように。

京都OHANAプロジェクト
森拓哉

8月22日 陸前高田市、気仙沼へ。自転車何台かずつお届けの予定。

ホームページ : http://ohana-kyoto.net/blog/
★中国在住で活躍中の松本ひでちゃんが、一気にパワーアップしてくれました。
ご覧下さい。

みんなの千羽鶴プロジェクト : 一口1,000円のプロジェクト支援。
http://www.success-running.com/news/2011/07/senba.pdf
クレジットカード決済に対応しました♪ ⇒ http://p.tl/N0-j

フェイスブック : http://www.facebook.com/kyotoohana
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********************

活動資金にご協力できる方は下記にお願いします。

京都銀行 上桂支店(カミカツラ支店)
普通 4041989 京都OHANA プロジェクト大槻祥子

(この「明日に向けて」を読んで振り込んで下さる方は、振り込む際に
名前の前に、311という番号を入れてください。「311モリタトシヤ」という
具合です。整理のためです)







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