明日に向けて

福島原発事故・・・ゆっくりと、長く、大量に続く放射能漏れの中で、私たちはいかに生きればよいのか。共に考えましょう。

明日に向けて(2087)グローブス少将が残留放射線をもみ消し被爆者を助ける努力も禁止したーNHKスペシャル「原爆初動調査 隠された真実」よりー2

2021年08月31日 21時30分00秒 | 明日に向けて(2001~2200)

守田です(20210831 21:30 20220102 17:00改訂)

NHKスペシャルの文字起こしの2回目をお送りします。

マンハッタン計画責任者グローブスが残留放射線をもみ消した

NHKスペシャル「原爆初動調査 隠された真実」-2回目
2021年8月9日放映(なお同年12月29日に拡大版が放映されたためその内容を補いました)

ところが、これらの調査結果は、ある人物によって隠蔽されます。グローブス少将です。
ペースが調査後にグローブスに呼び出されていたことが、今回初めて分かりました。



「帰国後、私は報告書を書き『Secret』扱いにした。」
「ある日、上司に呼び出されると一緒にグローブス少将がいた。彼らはしかめ面をしていた。
彼は「報告書は『Top Secret』にすべきだった」「これに関係する文書やデータは全て廃棄し全てを忘れろ」「報告書を書いたことも忘れることを命じる」と言った。
これは作り話ではない。私は「イエス サー」と答え、しっぽを巻いて退散し、彼の言う通りにした。」


さらに被爆地を撮影していたコリンズも、軍の意向に沿った調査報告を求められていたと語っていました。

ドナルド・コリンズ
「原爆調査に向かう前、責任者からこう言われました。『君たちの任務は、放射能がないことを証明することである』。
そこで私はこう言いました。『失礼ですが我々は残留放射線を測るように命令を受けたのですが』。すると責任者は『放射線量が高くないことを証明しろ』と言ったのです。」

その結果、グローブズが提出させた初動調査の報告書では、残留放射線の存在が完全に否定されていました。

グローブス少将宛「原爆調査報告書」(1945年9月5日~10月12日)
「『残留放射線】の測定結果と、人への被害の臨床的な証拠がないことを考えると、爆発後、有害量の残留放射線が存在した事実はない。



人々が苦しんでいるのは、爆発直後の放射線のためであり、残留放射線によるものではない」


グローブズが残留放射線が存在しない理由として挙げたのが、原爆を開発した物理学者オッペンハイマーの理論でした。



原爆は爆発する瞬間、強烈な初期放射線を放出します。これに対し残留放射線は2種類あります。
一つは爆心地の土壌などが中性子を吸収することで放射性物質となり、放出するケース。もうひとつは爆発で発生した放射性物質が雨や塵などと共に降り注ぎ、地上に残り続けるケースです。

ただしオッペンハイマーは『広島 長崎では残留放射線は発生しない』としました。
なぜなら「原爆は地上600mという高い地点で爆発したため、放射性物質は成層圏まで到達。地上に落ちてくるのは極めて少量になる」というのです。
これがアメリカ政府の残留放射線に関する公式見解となりました。



実際には深刻な残留放射線の影響があった

グローブスによって否定された残留放射線。私たちは極秘とされた海軍の測定した値や、日本の科学者による測定値を入手。専門家と共に値と場所を地図上にプロットしてみました。
1945年9月から46年1月までに測定された、長崎の残留放射線の値です。残留放射線は時間と共に急激に低くなる減衰という現象を起こします。



そこで時間を遡り値の変化を調べてみることにしました。

すると原爆投下の1時間後、爆心地から3キロ離れた西山地区で、放射線は1時間当たり97ミリシーベルトを超えていた可能性があることが解りました。



この放射線の値を計算した京都大学複合原子力科学研究所の今中哲二研究員です。


NHKスタッフ
「一番注目すべき地域ってどこだと思われますか?」

今中哲二研究員
「それはやっぱり西山ですよね。西山が圧倒的に線量が高かったですから。これはもう私からしたら直ちに避難するか、直ちにどこか遮蔽の強いコンクリートの建物に避難するとかという線量です。
そういう中でたぶん西山の人たちはね、暮らしてたんだと思います。」

放射線医学の第一人者である広島大学の鎌田七男名誉教授は、人体に影響を与えていた可能性を指摘します。

鎌田七男名誉教授
「6時間たった段階で(がん死亡リスクが高まる)100ミリシーベルトは優に超えちゃうと。これだけの数値からでも人体への影響はあったと。
体調を崩していったり脱毛した方もあるわけですから、これを見て(人体への影響があると)意を強くすることができますね。」


西山地区の住民を対象に血液検査を行っている写真も見つかりました。近隣の子どもたちまで集め、検査に協力させていました。



原爆投下から2か月後、アメリカ軍が注目していたのは白血球の値でした。正常値を遙かに超える1万以上の高い値を示す住民が多数に上りました。(1945年10月~46年1月)


鎌田名誉教授によると「放射性物質が体内に入ったことで起きた可能性が高い」と言います。
アメリカ軍は残留放射線を測定していただけではなく、人体への影響の可能性まで周到に調査していたのです。

陸軍軍医による報告書
「西山地区の人々は原子爆弾の投下から数か月後に、有意な白血球増加がみられた。動物の場合、全身に被ばくした後に白血病が進行する可能性があり、人間がどうなるか特に興味深い。
また放射性物質を経口摂取した後の人体から、骨肉腫も確認されている。西山地区に残る放射性物質の堆積物には、人がさらされ続けると危険を伴う可能性がある。



この条件を考えると、原爆の直接の影響を受けていない西山地区の住民は、残留放射線の影響を観察するのに理想的な集団である。」


核開発のために在留放射線は皆無と語ったグローブス

次々に明らかになる残留放射線に関する不都合な事実。しかし、グローブスは公式見解を変えようとはしませんでした。
1945年11月28日、グローブスは議会で証言を行います。その議事録を今回入手しました。

質問者
「残留放射線を調査した記録はありますか?」

グローブス
「はい。ございます。残留放射線は『皆無』です。『皆無』と断言できます」。
爆発が非情に高い地点で起きたため、放射能による後遺症は発生しませんでした。

質問者
「私から見ると、陸軍省は何度も何度も『放射線による被害はなかった』と強調しています。そこには放射能被害を認めると、倫理的に間違いを犯したことになるという思いが、陸軍省側にあったのではないですか?」


グローブス
「この問題は、ひと握りの日本国民が放射能被害に遭うか、それともその10倍ものアメリカ人の命を救うかという問題であると私は思います。これに関しては私はためらいなくアメリカ人を救う方を選びます。」

当時ソビエトとの冷戦が既に始まっており グローブスは今後も核兵器が必要であると強調します。

グローブス
「アメリカの科学者の研究では残留放射線による死についての報告は実証されていない。



原子力の研究をやめてしまうことは、アメリカが自ら死を選ぶことに等しい。」


「原爆は非人道的な武器では無く、アメリカになくてはならないものだ」。
グローブスは残留放射線の影響から目をそらし、核開発で世界をリードすることを最優先としたのです。



核開発の歴史を分析してきた歴史学者のジャネット・ブロディ教授です。

グローブスは科学を都合よく利用することで、残留放射線の問題をアメリカ国民の目からも覆い隠していったと指摘します。

「アメリカ社会では「無知学」と呼ばれるずるい手法が使われることがあります。
「無知学」とは当局が望まない情報の拡大を何らかの手段で阻止することです。


グローブスは全ての″原爆に関わる文章″を支配し続けていました。
そして科学的なメリット、医学的な効果など、肯定的な結果だけを取り上げて、負の部分は隠しました。
これは戦争犯罪を犯した人に対して、見て見ぬふりをするのと一緒です。

グローブスは負の側面から顔をそむけたい市民の深層心理につけ込んでいったのです。
政治家やアメリカ国民を残留放射線の問題から、目を背けるように巧みに操ったのです。」


日本軍もまた「放射能はすぐに減衰する」と深刻な影響を隠そうとした

アメリカが残留放射線を否定する一方で、日本はその影響をどう捉えていたのか?
実は日本軍も原爆が投下された翌日から、被害を調べる為、医師や科学者を現地に送っていました。(8月7日、日本海軍調査、8月8日日本陸軍調査、8月13日九州大学調査)



その中に、残留放射線にいちはやく注目した医師がいました。東京大学の都築(つづき)正男(まさお)教授です。


都築正男教授 中国新聞1945年9月5日掲載記事より
「爆発の当日、広島におらず、その後広島にやってきた人で数日間、勤労作業などに従事した人の健康状態については、相当の症状を示し、また死亡した人もある。



爆発後、数日以内に爆心地から半径500m以内の土地で働いたものには、ある程度の傷害があたえられていると考えてよかろう。」

都築が疑ったのは、原爆が爆発した後に爆心地に入った人が被爆する”入市被爆”でした。



爆心地の土壌は、中性子を吸収することで放射性物質となり放射線を放出します。
今回入手した値で作成した、広島の爆心地周辺での残留放射線です。原爆投下後の1時間後は1時間当たり15ミリシーベルト(15.13mSv/hr)と極めて高い値になっていました。


広島では、原爆投下の翌日に救護や家族を探す為に、少なくとも1万8千人が爆心地に入っていて、残留放射線を浴びた可能性があると考えられています。

残留放射線が人体に与える影響を危惧していた都築医師。
長男の正和さんは、その原点に戦前にアメリカに留学して放射線医学を研究した経験があったと語ります。
「(原爆投下前に)アメリカの放射線の専門医から、そんなに大量の放射線を生物に照射することはありえないわけだから、お前の研究は放射線医学にとって意味のない研究であると。ただそれが後になったときに、放射線の生物に対する影響がどういうものがあるのかもっと研究しなければいかんということは、直接、聞きましたけどね。」

当時、日本の科学者の間では残留放射線については、さまざまな思惑が交錯していました。
西山地区の調査に参加した物理学者の森田右(すすむ)博士は、住民を避難させることを検討していました。(回想録 1991年より)
「西山地区に雨と一緒に死の灰が降り注ぎ、地面一帯が強い放射能を持っていることが判明、住民の避難が検討されたこともあった。」

さらに西山地区の調査に協力した石川数雄医師は、血液検査で分かった白血球の値についてこう述べていました。


「いままでかつて我々が予期しなかったとにかく普通でない変化がありました。非常にたくさん増えて1万2万といわゆる白血球増多症を持っていたわけです。それが若い子どもの方が多かった。私たちはここに非常に恐るべき事実があるような気がしましてそれが蓄積した時にどうなるかと。



一方で石川数雄医師は、残留放射線が大衆を不安に陥れることを危惧していました。

石川数雄医師
「アメリカの方から伝えられた「70年生物の存在を許さない」とPRされて、そのことに多くの方々が恐れおののいて、多くの死体の片付けも十分できないような不安な気持ちであった。
私は「放射能というのは時間とともに強く減弱していくんです。弱っていくんです。いわゆる人間の体に受けても心配はいらないんだ」と県知事に申し上げたことを記憶しています。」

廣島戦災(放射能に関する)調査報告書(1945年8月15日)
陸軍がまとめた報告書です。「人体に障害を与える程の放射線は測定できなかった」と記されています。有害な残留放射線は存在しないとされることでパニックを防ぎ、人心の安定を図ろうとしていたのです。



人々を助けようとする科学者たちは米軍に圧迫された

それでも日本の科学者たちは、アメリカの調査に協力する一方で、残留放射線の人体への影響を証明しようと取り組みます。



原爆調査に当たった都築正男医師が残した資料です。

原爆投下から3ヶ月後に開かれた原爆災害調査研究特別委員會の極秘の記録が見つかりました。

1945年11月30日。GHQの立ち会いの下、広島、長崎を調査した科学者が、初めて一同に会し、報告を行いました。(「原爆災害調査研究特別委員会」)
戦中、国産の原爆開発を行っていた仁科芳雄博士。爆心地から離れた地で残留放射線を測定した事実を発表します。

仁科芳雄博士
「特別な地区の放射能が強くなっている所があります。原爆が爆発して原子核の破片が飛散して放射能を示している。雨と一緒に落ちてきている。」


続いて、残留放射線の人体への影響を危惧していた都築正男医師。

都築正男医師
「爆発後 他の土地から応援にまいり、作業に従事した人の白血球の数が減りました。放射能の障害を受けたのではあるまいか?ただ確実にそうである実例をいまだつかみえないのであります。」


しかし アメリカ側が科学者に対し厳しい言葉を突きつけます。

GHQ経済科学局幹部
「日本人の原爆研究は許さぬ」

都築はこの発言に強く反論します。「広島と長崎ではここで発言している瞬間にも原爆症で次々と死亡しつつある。原爆症はまだ解明されていない新しい疾患でまだ治療方法はない。たとえ進駐軍の命令でも医学上の問題について研究発表を禁止することは、人道上許しがたい。」

しかし、アメリカ占領下では都築医師の主張が通ることはありませんでした。

戦後、都築都築正男(医師)にインタビューした広島大学の今堀誠二教授は、都築から「科学者としての無念」を聞いていました。

「問題は政治が先か、人道が先かということであって、結局は人道が政治に押し切られてしまった。広島・長崎に何万という被爆者がいるんだと。毎日何人も死んでいってるんだと。
その人々を助ける方法があり、研究もでき、発表もできるにもかかわらず、占領軍の命令によってそれを禁止して、この人々を見殺しにするとは何事かと。」



晩年まで被爆の研究を続けた都築医師
核の平和利用が検討され始めたころ、原爆初動調査を振り返り、こう語っていました。
「私は今後、機会が与えられるならば、資料を整理して人類の幸福のためにより友好的な形で編み直してみたい。
そうすれば苦心して集めた資料が真に実を結ぶ時を迎えるだろう。」

国家の思惑の中でんみぎり潰されていった科学的事実。
新たな取材でアメリカは残留放射線を否定しながら、被爆地の調査を続けていたことがわかりました。

「残留放射線の影響は、アメリカが行っている被爆者の遺伝子研究にも重要な意味を持つ可能性がある。」


体調不良や原因不明の死があいついだ長崎市西山地区。調査の対象にされながら、住民たちはその事実を一切、知らされませんでした。

松尾トミ子さん
「これは人として見ていない感じがするんですよ。実験みたいにしてるなって」

戦後、核兵器の開発を進めた世界は、残留放射線の存在から目を背けつづけました。

チェルノブイリ事故医療対策責任者
「私たちがチェルノブイリの大惨事を調査した時もそうでしたが、放射線の値を引き上げたり引き下げたりする問題はかなり恣意的なものでした。

残留放射線の否定は私たちに何をもたらしたのか。現在にいたる核と人類の関係を紐解いていきます。

#原爆初動調査 #隠された真実 #NHKスペシャル #残留放射線 #グローブス #オッペンハイマー #都築正男 #仁科芳雄 #広島 #長崎

続く

被爆問題をさらに深く理解するためにぜひ以下の企画にご参加下さい
明日に向けて(2076)zoom公開講座「被爆二世問題・運動の歴史と今後の展望」にご参加を!(9月12日(日)15時~18時)
https://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011/e/e41521a366d8b22ce6a8e0951fe653ad

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明日に向けて(2086)アメリカは長崎西山地区などの深刻な被曝を隠していたーNHKスペシャル「原爆初動調査 隠された真実」よりー1

2021年08月30日 23時30分00秒 | 明日に向けて(2001~2200)

守田です(20210830 23:30 20220102 17:00改訂)

NHKスペシャル「原爆初動捜査 隠された真実」をご紹介します。

2021年8月9日、NHKスペシャルで「原爆初動調査 隠された真実」という番組が放映されました。
広島・長崎への原爆攻撃後、初動調査に入ったアメリカ軍が、黒い雨などがもたらした残留放射線による深刻な被曝実態を把握していたながら、握り潰していた事実を掘りだしたものでした。
調査に入った米軍兵士の証言、遺稿などにも取材した秀逸な番組ですが、とくに隠されてきた長崎の被曝実態が明らかにされています。

かなり画期的です。長崎の被爆実態が、これまで考えられてきたよりも圧倒的に酷かったことが示されたからです。
西山地区など、高濃度な汚染を被りながら、まったく補償も援護も行われて来なかった地域があることがクローズアップされました。
国は「黒い雨」広島高裁判決に続いて、この事実を認め、長年の原爆被害者の放置を謝罪し、いまなお生き延びられているみなさんに即刻、被爆者健康手帳を発行すべきです。

さらに黒い雨裁判に続くこの番組の告発で、これまで放射線被爆に対する被害が大きく過小評価されてきたことも明らかになりました。
この点では、「放射線防護学」の書き換えもまた必要です。被曝影響がいま思われているよりももっとずっと深刻だったのです。
さらにその事実が米軍の犯罪によって隠されてきたこと。日本政府がそれに追従してきたことの罪も償わせなくてはいけない。

このため重要なこの番組の文字起こしをこれから4回にわたって掲載します。
なおこの文字起こしは京都市在住の諸留能興さんがして下さったものをいただき、守田が編集しました。(諸留さんはご自分の注釈を入れられていますが、申し訳ありませんがその点は割愛させていただきました)
重厚な番組を作って下さったNHKのスタッフのみなさんと、文字起こしをしてくださった諸留さんに深く感謝いたします。


深刻な被曝事実が握りつぶされていた!

NHKスペシャル「原爆初動調査 隠された真実」
2021年8月9日放映(なお同年12月29日に拡大版が放映されたためその内容を補いました)

今回初めて見つかった、76年前の被爆直後の長崎を撮影した映像です。
アメリカ軍の原爆に関する最初の調査を兵士が撮影した、極めて貴重なものです。

米軍元兵士
「私の任務は地域に残った放射能を測定することでした。」

アメリカ兵が測定していたのは被爆地に残る放射線、残留放射線でした。

米軍元兵士
「51km地点では通常の2倍もの残留放射線を計測しました。」

原爆の爆発によって発生した放射性物質が、雨や塵と共に降り注ぐことなどで発生する残留放射線。
その影響に関しては、未だ意見が対立しており、最大の謎とされてきました。
調査に参加した94歳の元兵士です。当時、被爆地に残る残留放射線の調査は、トップシークレットだったと言います。

アメリカ原爆調査員 マイカス・オーンスタッド(94)
「調査団は残留放射線が存在することは知っていました。しかしその恐ろしさを私は理解していませんでした。」

今回私たちは、原爆投下直後に、アメリカ軍が行っていた原爆初動調査に関する膨大な資料を入手しました。そこからは残留放射線についての、知られざる真実が浮かび上がってきました。
アメリカ軍は、秘密裏に残留放射線を測定。極めて高い値を測定していました。さらに、それが人体にどのような影響を及ぼすかまで、研究していたのです。

原爆調査報告書
「この地に残る放射性物質に人がさらされ続けると、危険を伴う可能性がある。動物の場合、全身に被ばくした後に白血病が進行する可能性がある。人間がどうなるか特に興味深い。」

しかし、アメリカ政府はこの事実を隠蔽。科学者達に圧力をかけて残留放射線も無かったことにしようとしていたことも、明らかになりました。

マイカス・オーンスタッド
「私は上官に呼ばれて『報告書に関係する文書やデータは廃棄し全てを忘れろ』と命令された。」

日米両政府は原爆の残留放射線による健康被害を認めてきませんでした。

しかしヒロシマ、ナガサキの人々は「その影響で多くの人が苦しんでいる」と訴えています。

岩﨑精一郎さん(44歳没)の妻岩﨑恒子さん
「骨髄性白血病。脾臓も取ったんですよ、手術して。原爆にあったからこんな病気になったってはっきりしたらいいんですけど。それも分からないまま。」

なぜ、残留放射線の影響は隠蔽されることになったのか。
核による被害と、国家の思惑が交錯した原爆初動調査。真実が隠されていた過程を辿り、その全貌を明らかにします。

タイトル
原爆初動調査 隠された真実
前編 ”科学”を握り潰した”国家の思惑”

原爆が投下された市街地から3キロ。

山間にある長崎市の西山地区です。

戦前は貯水池を中心に小さな集落が点在。多くが農業を営んでいました。この地区で原爆投下後しばらくして、住民の体調不良や原因不明の死が相次ぎました。

松尾トミ子さんです。この地区で育った義理の妹を亡くしました。
「これはねぇ、成人式の写真です。成人式の時はこんなに元気だったんですよね。」

松尾幸子さん。23歳の若さで白血病で命を落としました。
「ひとつも怒ったところを見たことはないです。人の嫌がることは絶対言わない子だったですもんね。うん・・。」

76年前の8月9日。西山地区は爆心地から山を隔てているため、原爆の熱線や爆風は届かず、直接の被害はほとんど無かったとされています。
しかしこの日、地区には灰や雨が降り注ぎました。1歳だった幸子さんは、貯水池の近くにいた兄の背中でそれを浴びたといいます。

「なにしろ灰が落ちてきて・・・『この灰は何』という感じで、何も知らずに受けてたみたいですね。」

幼い頃は、何の異常も感じなかった幸子さん。突然体調を崩し、17歳の時に「白血病」と診断されます。

「血の塊が口から出たり、鼻から出たり。もう、それを取ってやるのが大変だったって。
一番いい時に亡くなっているから、何とも言えないです・・・やっぱりいろいろ考えたら、涙が出るんですよ。」

幸子さんの死と、残留放射線との関係は、当時の詳細なデータが存在せず、解らないとされています。

ヒロシマ、ナガサキで、その年だけで21万の命を奪ったとされる原爆。
実はアメリカは、その被害や影響の詳細なデータを収集する為、調査団を派遣していました。

最初の(マンハッタン管区)調査団が広島に入ったのは9月8日。原爆を開発した科学者たちでした。続いて陸軍と海軍の、それぞれの調査団が(10月12日)。
更に戦略爆撃調査団も加わり(10月14日)、およそ4ケ月にわたって、大規模な調査を行いました。



調査には軍人だけでなく、物理学者や医師を始め、様々な分野の専門家が参加。日本人の科学者も協力しました。
地表温度を3000度以上に上げた熱線や、秒速440メートルの爆風がどのように建物を破壊したのか、原爆が被爆者にどんな影響を与えたかなどが詳しく調べられたのです。

調査を統括したアメリカ陸軍のグローブス少将です。
原爆開発計画「マンハッタン計画」の総責任者だったグローブスは、ある事に頭を悩ませていました。それは被爆地に残る残留放射線の影響でした。

実は、日本は、被爆直後から、その被害を世界に訴えていました。日本が世界に向けて行っていたラジオ放送です。
ラジオ東京
「原爆は今や世界の批判の的となっている。この死の兵器を使い続ければ、すべての人類と文明は破滅するだろう。」

各国が特に問題視したのは、終戦後もその地に放射線が残り、人体に影響を与えているのではないかということでした。
ディリー・エクスプレス
「広島では原爆が落ちた30日後にも人が死んでいる。それは『原爆の疫病』としか表現できない。」

アメリカ国内でも、ヒロシマは70年間草木も生えないと報道され、原爆は国際法に違反した兵器ではないかという世論が高まったのです。



これはグローブスにとって不都合な状況でした。当時、アメリカは占領のため、日本に兵士を駐留させようとしていたからです。
原爆投下後に自国の兵士が被爆することになれば、議会や世論の反発は避けられない。こうした中で初動調査は行われていたのです。

大きな焦点となっていた残留放射線の存在。今回、初動調査についても新たな事実が明らかになりました。
76年前の調査に参加した科学者の遺族です。当時、父親が被爆地で使っていたという遺品を保管していました。


被爆地調査員ドナルド・コリンズの女性遺族

「これは父ドナルド・コリンズのカメラです。長崎で調査で使っていたんだと思います。」

ドナルド・コリンズ。放射線の研究者として、原爆開発に携わってきた人物です。
1945年9月。調査団の一員として、ヒロシマ、ナガサキを訪れていました。
コリンズが被爆地で撮影したプライベート・フィルムと証言テープが見つかりました。映像には、長崎市内で残留放射線を測定するコリンズの姿が映っていました。

ドナルド・コリンズ
「私の任務は地域に残った放射能を測定することでした。ジープに乗って、どこまで残留放射線が広がっているのかを確認しました。」



アメリカ軍が神経を尖らせていたという残留放射線の値。

「我々は風下51km地点まで追跡しました。51km地点では通常の2倍もの残留放射線を計測しました。」

コリンズらは残留放射線が人体に与える影響にも注目、多数の写真を残していました。

ドナルド・コリンズ
「我々はどのくらい放射能を浴びると吐き気を引き起こすのか。どのくらいで脱毛が起こるかを分かっていました。我々は住民がどこにいたのかを聞いて、受けた放射線量を予測していました。」


同じ時期、被爆者への聞き取りなどを行った元調査員が今も健在でした。
マイカス・オーンスタッドさん。94歳です。

被爆地に残留放射線がどの程度残っているか、不安を感じていたといいます。
しかしその情報は厳重に管理され、一部の科学者しか知ることはできませんでした。

「調査団は残留放射線が存在することは知っていました。しかしその恐ろしさを私は理解していませんでした。」
「私は科学者ではありませんし、詳しいことは何も知らされず、こちらから何も問いかけることはできませんでした」

当時、トップシークレットの指定を受けていた残留放射線の記録

今回、海軍が4か月に渡って、被爆地の残留放射線を測定していたデータも入手しました。
報告書を作成した海軍のネロ・ペース少佐です。生理学の研究者だったペースも、また、残留放射線に関する証言を残していました。

「私たちは4か月の間、長崎で残留放射線を測定。人々から血液を採取し、広島でも同じことをした。私たちが収集したデータは”機密事項”だった。」

ペースは4か月かけて長崎で900カ所、広島で100カ所もの地点で残留放射線を測定していました。
報告書の中で、ある地域で非常に高い残留放射線が確認されたことが記されていました。長崎、西山地区。23歳で亡くなった、松尾幸子さんが住んでいた場所でした。


「西山地区は山の陰にあり、初期放射線を受けなかったにもかかわらず、爆心地より高い残留放射線が認められた。
放射線測定器を地上1mのところから地上5cmへ移動させると、測定器の針は倍増した。西山地区ではかなりの放射線があることを示した。
この地区の放射線量の最高値は1080μr/hr(マイクロ・レントゲン・パー・アワー)を示し、人間の最大許容量に近かった。」


現在の値に直すと1時間当たり およそ11μSv/hr(マイクロ・シーベルト)。一般人の年間線量の限度を4日で超えることになります。
報告書では西山地区で残留放射線量が高い理由を「その地形にある」と分析していました。

海軍報告書
「8月9日の長崎は風速3mの微風が吹いていた。西山地区では、爆発後に雲が上空を通過し雨が降った。爆心地と貯水池の間には山が連なっており、谷間となっている西山に放射性物質が堆積したと考えられる。

続く

#原爆初動調査 #隠された真実 #NHKスペシャル #残留放射線 #グローブス #マンハッタン管区調査団 #戦略爆的調査団 #長崎西山地区 #原爆調査 #白血病

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明日に向けて(2085)こどもの命を守りたいー原子力防災のこと、安定ヨウ素剤のことについてお話します(zoom講演 30日月曜日午後7時より)

2021年08月26日 12時30分00秒 | 明日に向けて(2001~2200)

守田です(20210826 12:30)

自然災害や原発事故から命を守るために

8月30日午後7時から8時半まで、このタイトルでzoomにてお話することになりました。
主催は、ヨウ素剤を配ってよ@福井のみなさん。連絡先は 090-5681-5437(佐々本さん) 090-2090-5848(宮崎さん)

以下のアドレスに申し込んでいただけると、開催日までにURLが案内されるそうです。
yousozaiplease@gmail.com



災害のあり方が変わってきている

自然災害を考えるときに大事なのは、気候変動の影響で、災害が深刻さを増していることです。
とくにここ数年、各地で堤防決壊が起こり甚大な被害が出ています。これまでの認識を大幅にあらためためる必要があります。

にもかかわらず災害への認識をそのままに、原発が動かされ、老朽原発まで再稼働させられています。
このことが自然災害対策を進める上での障害にもなっています。30日はまずその点について学びます。


2019年10月豪雨で計画降雨(堤防の高さを決める基準)が各地で突破された


あらゆる災害に共通すること

これまで何度もお伝えしてきたように、あらゆる災害に共通する大事な問題は、災害を前にした人間の心理です。
私たちの中には「自分に不都合なことは認めたくない」心象がありますが、災害時にはこれが働きやすいのです。

咄嗟の時に、災害そのものを認めないことによって、心の平穏を保とうしてしまうのですが、これを「正常性バイアス」といいます。
このバイアスこそ、避難を進める上での最大の障害。あらかじめバイアスを除去しておくことが大切です。


福島原発事故後「放射能がくる」というタイトルで被曝の危険性を訴えたアエラ2011年3月28日号 しかし正常性バイアスのもと猛烈なバッシングを受け、編集長が謝罪に追い込まれた


「とっとと逃げる」ための準備を普段から

一番効果があるのは、普段から防災訓練などを行い、いざという時にどうするか決めておくことです。
風水害の場合には、早めの避難が大事。地震にはあらかじめ耐震対策を重ね、大きな地震の後は余震や次の地震を考えて避難すると良いです。

いずれの場合でも、危険地帯から「とっとと逃げだす」ことが最上の策。危険地帯から離れてしまえば、その分、安全マージンが増えるからです。
いざという時の避難先も決めておきましょう。親せきや知人と相互防災協定を結んで、互いを避難先としておきましょう。


2011年3月11日の津波時にとっとと逃げだした釜石東中、鵜住居小の生徒たち
群馬大学災害社会工学研究室ホームページより


原子力防災の要は放射線被曝の危険性を知ること

原子力災害の特徴は、飛来する放射性物質による被曝が起こることにあります。
このため「正常性バイアス」にかからないためには、被曝の危険性をきちんと把握しておくことが大切。

この点でぜひ知っていただきたいのは、広島・長崎の被爆以降、米日両政府によって、放射線被曝の被害が大変小さく見積もられてきたことです。
このため事故時には「少しぐらいの被曝なら心配いらない」などという言説が必ず飛び交います。これに惑わされないために被曝の危険性をしっかり把握しましょう。



ヨウ素剤配布で原子力防災意識を高めよう

原子力防災においては、被曝の過少評価に騙されないためにも、とっとと逃げる準備をしておくことが大切。
その際、ヨウ素剤を持っておくこと、配布しておくことには大きな意味があります。1つはいざというとき、放射性ヨウ素による甲状腺被曝を防げるからです。

2つに安定ヨウ素剤を配る際に、飲むタイミングを知らねばなりませんが、このことで原発事故への理解が深まることです。
もちろん安全のためには原発をとめるのが一番ですが、多くの方が事故のリアリティを知ることは、原発ストップにもつながっていきます。


丹波篠山市で配布された安定ヨウ素剤、左は大人用2丸、右は12歳以下用1丸 守田撮影


行政での配布と自主配布と

ヨウ素剤配布はお住まいの行政によって行っていただくのが一番。たくさんの方にヨウ素剤がいきわたるからです。
また原発の危険性への認知度も、行政配布によってより広範囲で高まります。

同時にぜひ自主配布も進めて欲しいです。配布会は医師の協力があれば可能。コロナ禍で説明会をビデオ化したり、配布を郵送にすることも行われています。
両者ともに各地で進みだしているので、経験を交流してさらに広げたいです。

以上、アウトラインを書きだしましたが、ぜひ講演をお聴きになって、もっとリアルなイメージを持っていただきたいです。
あなたと、あなたの大事な方の命を守るため、ぜひご参加下さい。


丹波篠山市での安定ヨウ素剤配布会の様子 2017年10月 守田撮影

#自然災害対策 #原発事故対策 #とっとと逃げる #正常性バイアス #安定ヨウ素剤 #ヨウ素剤配布の意義 #原子力防災

原発の危険性をその都度明らかにし、災害対策を進めるための活動を推進中です。カンパでお支え下さい。
振込先 ゆうちょ銀行 なまえ モリタトシヤ 記号14490 番号22666151
Paypalからもカンパができます。https://www.paypal.me/toshikyoto/500 自由に金額設定できます。

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明日に向けて(2084)被爆二世こそが被爆者運動の主役に!ー討論会「被爆二世の課題を考える ~今、被爆二世運動に問われていること」に参加して

2021年08月24日 16時30分00秒 | 明日に向けて(2001~2200)

守田です(20210824 16:30)

8月1日から7日までの広島の旅の報告の続きです。

放射線被曝の遺伝的影響と立ち向かう!

8月3日、広島市で「被爆二世の課題を考える」討論会に参加しました。実に有意義な会でした。
明日に向けて(2082)で、その中で語られたAさんの発言をハイライトさせていただきました。被爆二世として背負ってきたものを、堂々と語って下さったからです。

ぜひ多くのみなさんに知っていただきたいのは、放射線被曝の遺伝的影響が確実にあるということです。
もちろん親の被爆のあり方もさまざまであり、かつ生まれ持った体質などの問題もあって、影響が強く出ている場合も、ほとんど感じられない場合もあります。
しかし影響が出ている事例を拾い集めてみると、さまざまな共通性が見られます。

それどころか、この遺伝的影響と向き合い、さまざまに立ち現れてくる症状と立ち向かい、対応し続けなければとても生きて来れなかったと言う方もたくさんおられます。
その点で多くの被爆二世が、今日まで放射線被曝の影響を乗り越え、命を長らえて歩んできています。

ぜひ京都「被爆二世三世の会」が進めている健康調査アンケートをご覧下さい。そこには初めて被爆二世として自らの身体に起こったことを赤裸々に書かれた森川聖詩さんの著書からの抜粋が行われています。
その上で「あなたに似た症状はありませんか?」と問いかけているのですが、いままで集まった90通弱のアンケートの中で多くの方が、同様の症状、あるいはそこに書かれていない症状などを書き連ねて下さっています。
2020chosa.pdf (aogiri2-3.jp)

8月3日の会も、こうした点を共有化して下さっている方が中心になって集いを持ち、その中でAさんの経てきた道のりをみんなで、心に染み入るようにシェアすることができました。
そんな中で、僕と一緒に京都「被爆二世三世の会」から参加された増田正昭さんの発言を次にご紹介したいと思います。



被爆者の声を念入りに聞いて肖像を書き続けてきたー増田正昭さんの発言から

母親と父親が入市被爆です。母親は広島市の出身なのだけれど疎開で呉市にいて、当日すぐに市内に入りました。
父親は軍隊にいて、市内に入った。実家は三次市です。でも一言も聴かないで死んでしまったので、これらの話はよそから聞いています。

私は被爆者の肖像を描いて絵画展を行っています。
被爆者の生き様を聴き取って書いています。今、生きている被爆者をそのまま描いてきました。その人がどう生きてきたのか。差別を受けたことなども。
ある方は16歳の少女の時にABCCに連れていかれ、体育館の中で目隠しされて裸をされた体験を語られていました。

被爆当時の体験は本当に過酷で「これはとても話せないんだな」と思うものも多かったです。
映画「ひろしま」はご存じでしょうか。あれを観たときに「すごい映画だな」と思いましたが、被爆者の方は「あんなもんじゃなかったよ。もっとずっとひどかった」と言われました。
とても映像にできるようなものではなかったのだと思います。
そんな被爆者を見てきたから、私には伝えるべきものがあります。

注記
増田正昭さんの被爆者展があけぼのパーク多賀で行われています。8日に増田さんと守田でギャラリートークの予定でしたがコロナで中止・・・残念でした。
でも展示は継続されています。8月29日(日)が最終日です。お近くの方、ぜひお越しください。


滋賀県犬上郡多賀町四手976-2 Tel 0749-48-0348
10時~17時半 土日は16時半まで 26日(木)休館日


被爆二世というよりは被爆者だ!

でも症状などを聞いていると自分の身に起きていることがたくさんある。
例えば自分も脳梗塞をやりましたけど、被爆者に同じ症状の方がいる。

昔は被爆二世という自覚はあったのですけれども、いまは二世というよりは自分は「被爆者」だと思うのですね。
自分にとって被爆二世という意味は、どちらかというと被爆者の第三者という表現というか、「被爆者を継承するもの」という感じだった。
でもそうではなくて被爆者そのものなのですよね。放射能の影響は二世に影響している。
僕もABCCに調査されたんです。比治山に連れていかれて。ちっちゃいころに。

実際は一世、二世関係なしに、放射能の関係では僕は一世なのですよ。(守田注 被爆当事者だと言う意味)
他人ごとではなくて自分自身の問題なんだ。
先ほど森川さんも言われていたけれど、今までだったら被団協でも、被爆者である一世を助けるのが二世だった。

そうではなくて、助けるとかではなくて、本当に自らが放射能に影響された一世(注 被曝当事者)のつもりで、運動していこうと思っています。どう発展していくかまだ分からないですが。
実際、年齢的にも、二世もそれなりの年齢になっていますので、時間は少ないですけれども、発想をそうやってかえて、やっていきたいと思っています。


2020年11月の個展で談笑する増田正昭さん オープニングWeb企画より 守田撮影
https://youtu.be/icRMQdcLZXI


被爆二世こそが被爆者運動の主役に

増田さんは京都に戻られ、京都「被爆二世三世の会」の例会で、8月3日の討論会の報告をされたときにこう語られました。
「私たち被爆二世が被爆者運動の主役になるときがきたと感じた。被爆者を助けることにとどまらず、私たち自身が放射能の被害との闘いを当事者として訴えなくては」と。
そうです。被爆者を助ける存在ではなく、あるいは助ける存在だけではなく、被爆当事者として、被爆二世、三世が声をあげる必要がある!

声を上げて被爆の実相を明らかにするととともに、被爆二世への国の謝罪としての補償、健康を維持するための医療などの保障、そしてもう二度と被爆者を作らない保証(核兵器と核発電の廃絶)を勝ち取らないといけない。
もちろん被爆二世、三世の命を支えるためにさまざまな知恵、工夫を紡ぎ出し、交換し、命を長らえるための努力も重ねる必要があります。
それらを含めて、被爆者運動の主役として被爆二世が登場していく必要があります。

そのもとで核実験のヒバクシャ、核工場や核発電による新ヒバクシャとの命を守るための連帯を豊かに強めていく必要があります。
当面は9月12日のzoom公開講座「被爆二世問題・運動の歴史と今後の展望」を成功させることで次の局面を切り開きたいと思います。ぜひ講座にご参加下さい!
https://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011/e/e41521a366d8b22ce6a8e0951fe653ad

#被爆者 #被爆二世 #ヒバクシャ #新ヒバクシャ #映画ひろしま #増田正昭 #被爆者絵画展 #被爆二世が被爆者運動の主役に

この夏、原爆の隠された真実を明らかにすべく、広島を中心に各地を飛び回っています。ぜひカンパでご協力ください。以下からお願いします。
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明日に向けて(2083)黒い雨訴訟が明らかにしたもの・・・についてお話します。(8月28日土曜日茨木市)

2021年08月22日 21時30分00秒 | 明日に向けて(2001~2200)

守田です(20210822 21:30)

黒い雨訴訟について学びたい!というご要望にお応えして

8月28日(土)午前10時から12時までのスケジュールで大阪府茨木市にてお話します。
茨木市福祉文化会館203号室にてです。主催は、放射能から子どもを守る会・茨木。
連絡先は以下のお2人です。山本よし子 080-3113-2304 垣内玲子 070-5668-2126

ポイントは黒い雨訴訟が明らかにしたもの。明らかにされたことの意義をしっかり知りたいとのこと。
僕にとってもタイムリーな企画ですので喜んでお受けしました。
しっかりコロナ対応をして集うとのこと。ぜひご参加ください。


黒い雨訴訟の勝利はどこが画期的位置性ー黒い雨降雨地域を大幅に拡大して認定させたこと

まず一審判決の画期的な位置性について明らかにします。ポイントは黒い雨降雨地域が、これまでの認定よりも大幅に拡大されたことにあります。
判決まで国は、黒い雨による被害を、国によって大雨が振ったことが確認された地域に限るとしてきました。
その周りに広がる「小雨地域」を被害地域から排除し、さらにそのまた周りでも「黒い雨に打たれた」という証言がたくさんあるのに無視してきたのです。


中国新聞松本記者が載せた黒い雨のもともとの認定地域(赤いところ)と小雨地域、その後に広島市が推定した降雨地域の図に原告の住まいを点で示した地図を原告の本毛稔さんがうちわに加工したもの。守田撮影。

大雨地域と小雨地域の分け方も恣意的でした。例えばある地域では川を境に二つの地域を分けています。
しかし川は谷の中で左右に大きく蛇行しながら流れている。それに沿って雲が蛇行して雨もまた蛇行して降らなければこの線引きは正しくなりませんが、もちろんそんなことありえるはずがない。
原告のみなさんは一審判決にいたる裁判の中で、こうした国の調査のおかしさ、不十分さをどんどん立証し、ついに降雨地域の大幅拡大をかちとったのです。


被爆者健康手帳を手にした原告の本毛稔さんを囲んで。地図は本毛さんが黒い雨の問題を説明するために丁寧に作成したもの。判決確定まで、この川を境に上側が大雨地域、下側が小雨地域と分断され、小雨地域の被害が認められていなかった。「黒い雨を降らせた雲が蛇行なんかしたはずがない」と本毛さん。守田のスマホで小山美砂記者撮影。


黒い雨の影響を受けた地域にいれば保障されねばならないことを明確化させたこと

続いて二審判決の画期的な位置性について明らかにします。ポイントは被害の認定のあり方が、より真っ当になったことです。
というのは一審判決は、大雨降雨地域が国のそれまでの認定よりもずっと広がったことを認定させましたが、その場にいて健康管理手当の条件である11疾病にかかった場合に手帳を受け取る権利が得られるとなっていました。
高裁判決は、一審判決の中でこの部分は間違っているとし、何らかの疾病にかかったか否かではなく、黒い雨の影響を受けたのなら保障が与えられ、手帳が交付されるべきだとしたのです。

これは放射線被曝被害を考える上での大きなポイントです。国は二審になって被害が確かに生じている「科学的証明」を求めてきたのですが、高裁はそれを退け、被害を受ける可能性があったらもう手帳を交付すべきとしたのです。
高裁が踏襲したのは被爆者援護法に盛り込まれた考え方です。そもそもさまざまな疾病と放射線被曝との因果関係を頑として認めないのが核戦略を進めてきた米国の立場であり、国もそれを踏襲して、被曝被害を認めないのが実情です。
これに対して被爆者は、連綿たる闘いの中で「被害を生じうる立場に置かれたのなら保障すべきだ」という観点を勝ち取ったのですが、黒い雨訴訟高裁判決で、このことが正しく反映されたのです。


広島高裁で全面勝訴 喜ぶ原告団事務局長の高東征二さん 20210714 守田撮影


より多くの被害者救済の道を切り開いたこと

三つ目に高裁判決が、政府が上告を断念したことによって確定したことで、より多くの被害者救済の道が切り開かれたことです。
実はこの点は判決直後の7月20日、田村憲久厚生労働相が、あけすけにこう言い放ちました。「(放射線に関する)他のいろいろな事象に影響する内容とすれば、われわれとしては容認しづらい面がある」。
そうなのです。この確定判決は他の放射線被曝被害のすべての局面で適用可能なのです。ポイントは被害の「科学的立証」など必要ないという点です。被曝して健康を害しうる可能性にあれば保障がなされるべきなのです。

これは被曝によって、「どんな病にかかるかもわからない」というマイナスの可能性と、そのことへの大きな不安を背負わされたあらゆるヒバクシャへの、当然の保障のあり方ですし、この考え方は被曝被害以外にも適用可能です。
というのは多くの場合、被害者の側も「被害の科学的証明ができないと被害を訴えられない」と思いこまされがちです。しかし専門的な調査機関などは、みな国や大資本の手の内にあるので、科学的立証が困難な場合が多い。
だから泣き寝入りしてしまう例がたくさんありましたが、そうではないのです。被害を受けうる関係性のもとに置かれていたことの証明がなされれば、それでもう保障しなければならない。これをあらゆる核被害に適用させなくては。


この判決は被曝を巡る「他のいろいろな事象に影響する」と田村厚労相があけすけに告白 20210720 東京新聞


学習会へのご参加を

以上、8月28日の学習会では、ポイントだけあげたこれらの点をより具体的に、分かりやすくお話します。
この内容は、長崎での被害にも適用されうるし、核実験での被害にも、原発事故での被害にも適用できます。そしてそれをさせることが、次の核被害を防ぐことに大きく貢献することになります。
だからあなたとあなたの愛しい方たちの命を守るためにも、黒い雨訴訟が切り拓いたものをつかんでください!ご参加を訴えます。

#黒い雨訴訟 #広島高裁勝訴 #上告断念 #放射線被曝 #被爆者援護法 #高東征二 #本毛稔 #水戸喜代子 #小山美砂

*****

原発や放射線被曝の危険性の暴露など、取材・執筆活動のためのカンパを訴えます。以下からお願いします。
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明日に向けて(2082)被爆二世が背負ってきたものに触れて下さい!ー討論会「被爆二世の課題を考える ~今、被爆二世運動に問われていること」に参加して

2021年08月20日 23時30分00秒 | 明日に向けて(2001~2200)

守田です(20210820 23:30)

8月1日から7日までの広島の旅の報告の続きです。

被爆二世討論会に参加しました!

8月3日、広島市で「被爆二世の課題を考える」討論会に参加しました。呼びかけはこのお2人です。
木原 省治(原発はごめんだヒロシマ市民の会代表・広島被爆二世)
西河内 靖泰(元広島女学院大学特任准教授・広島被爆二世)

広島の被爆者の方を含めて十数名が集って下さり、コアな話ができました。西河内さんの司会のもと、木原さんがあいさつし、森川聖詩さんが基調的な報告を行いました。
それぞれにとても素晴らしい内容でした。文字起こししてお伝えしたいのですが、今回は割愛します。先にどうしてもお伝えしたいことがあるからです。
また森川さんの基調的な報告については、より詳しい講演が9月12日午後3時から行われます。

ぜひ聞いていただきたい内容なので、すでに配信している告知記事をご紹介しておきます。
明日に向けて(2076)zoom公開講座「被爆二世問題・運動の歴史と今後の展望」にご参加を!(9月12日(日)15時~18時)
https://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011/e/e41521a366d8b22ce6a8e0951fe653ad

さて被爆二世討論会では、森川さんの基調を受けて、質疑応答に入ったのですが、期せずしてそれぞれの自己紹介が始まってしまいました。それぞれ語りたい内容満載で参加されていたのです。
そのすべてをご紹介したいのですが、今回はその中のAさんのご発言をお伝えしたいと思います。(全文ではなく部分録です)




Aさんのお話からーABCCの思い出

私は1954年生まれです。今は仕事はほとんどやってません。
両親が被爆しました。おやじも死んで、おふくろも62歳でガンになり3年の闘病で亡くなりました。

小さい頃に先祖の墓参りに行った時に、おふくろに言われたことがショックでね。「実際にはこのお墓の中には骨が入っていない」というのです。
小さい時で意味もよく分からなかったのですが、爆心地に近いところだったのです。それが私が初めて原爆についてショックを受けたことでした。
その後に「はだしのゲン」を読んだりいろいろ勉強して、沖縄戦をはじめ戦争末期は、戦争ではなくて一方的虐殺さったことも知り、怒りを抱きました。

子どもの頃、もの心がつく前の思い出として、雨の日に学校にすごいかっこいいジープがやって来るんですね。「なんでA君、乗れるん?」「ちょっと言って来るわ」と意味も分からずにABCCに連れていかれたんですね。
(注ABCC=原爆傷害調査委員会。ー戦後にアメリカが被爆者調査のために広島と長崎に設営した組織。調査は強引でしかも治療をしなかったことで有名。被爆者の怒りを買い続けた。1975年から米日合同の「放射線影響研究所」に改編)

ABCCに行くと痛い注射を打たれるんです。でもその後に、食べたこともない豪華なサンドイッチが出るんですよ。からしがいっぱいついていて。
これにコーヒーがつく。ミルクと砂糖をいっぱい入れて飲んで、ものすごくうまかった。昭和30年代の中ごろのことですから、そんなサンドイッチなんて見たこともなかった。
その後にテレビ放送が始まったときに、ポパイがハンバーガーをかじっていたのですが、なんのことだか分からなかった。サンドイッチだって当時の日本の家庭にまだないんです。
あのサンドイッチを何回食べたのかな。結構、行っているんですよ。嫌じゃなかったんですよ。注射は嫌だったけれどサンドイッチとコーヒーが出るし。あと豪華な木馬にただで乗れるんです。



心臓に穴が開いていた・・・

5歳のときに、心臓の壁に直径1センチの穴が3つあることが分かりました。「この子は20歳まで生きられない」と言われ、両親がショックを受けたらしいです。
学校にも発作がありながらなんとかして行っていましたが、運動会も遠足も参加できず。もちろんプールも参加できませんでした。
冬になると足の指の間がイチジクのように割れていました。毛細血管までうまく血が巡らなかったのです。

ある日、9歳の時に、赤いスポーツカーに乗ったかっこいいドクターが家に訪ねてきました。T先生という方でした。
「自分が編み出した超低体温手術を受けてみないか」というのです。
家が建つぐらいの手術費でしたが、10歳の時に受けました。

朝10時に手術が始まり、意識が戻ったのが夜の10時半という大手術でした。周りの方たちは「もうこの子はダメだろう・・・」と言っていたそうです。
当時は医学的な設備が少なかったそうで、血液がすぐに集まらなくて、お母さんが親戚中に頭を下げて血液を集めてくれたそうです。
なかなか集まらなかったそうですが、なんとか両親が必死で血を集めてくれて今の私があります。だから「親より先に死ねないな」と子ども心に肝に銘じて生きてきました。それで今もこうやって生きているのですが。

あとで知ったことですが、僕はT先生の7人目の手術患者でした。身体を凍らして、仮死状態にして、心臓の動きをとめて手術をするのです。
それまで行われてきたのは、人工心肺手術でしたが、「超低体温手術」に比べて、数倍の血液が必要でした。
実はこの手術は4人目までは死んでいたのです。だから今ここにいるのは奇跡のようなものです。

それで心臓は良くなりました。でもそれで元気になれば良かったのだけれど、その後も7年周期ぐらいで入退院を繰り返しました。
やってない病気がないぐらいいろいろな病気をしています。
胃潰瘍、十二指腸潰瘍、鼠径部、ヘルニア、腸閉塞、腰痛などなど。とにかく健康な時の方が短いのです。


差別があるけどそれがどうした

自分はそんな風に病と闘ってきましたが、世の中にはそんな被爆二世であることを隠そうとする人もいます。
これに対して自分は被爆二世として堂々と生きています。「差別はあるけれどそれがどうした!」と思って来ました。

確かに差別があるのは事実。差別はいけんのだと言いながら、オリンピックの時だって、小池知事によってホームレスがみな住まいを追われた。
差別はこの地球上で繰り返されています。いつも怒っています。

それで私に何ができるか。中学からずっと創作活動をしてきました。仕事をしながらもマンガを書いてきました。
いろいろな雑誌や新聞にも連載を持ったり、イラストの仕事もしてきました。だから残りの人生、テーマのあることに関わりたいと思っています。
たまたま絵が作れる。作品が作れるということで、何かを残したいと思っています。


「差別は無くならない。負けるな!」と語られた肥田舜太郎医師 2013年 守田撮影


被爆二世の生を見つめる

以上、短い時間の中でAさんが語られたことを紹介しました。
多くの被爆二世が背負ってきたことの中の1つのリアリティを、知っていただきたかったからです。
もちろんこれはAさんの個人的体験です。でも多くの二世が、そして三世が、似たような体験を経ています。

私たちはこれをできるだけリアルに、たくさんつかんで、世に出したいと思っています。そのために京都「被爆二世三世の会」で、健康調査アンケートを実施中です。
これが被爆の実相なのです。被爆とはこういうことなのです。なおかつ知ってほしい。その上で堂々と生きている二世がいる。「差別はあるけれどそれがどうした」と誇り高く生き抜いている二世がいる。
何よりも今は孤立している二世、三世に気が付いていただきたい。あなたは天涯孤独なままに苦しんでいるのではない!同じ労苦を抱えている仲間がたくさんいるのです。

同時にみなさん。ここにこそ被爆問題があることを知ってください。被爆を過去の問題としてはいけない。今、まさに継続中の問題なのです。
しかも広島・長崎の被爆二世、三世、四世だけが問題なのではない。核実験で、核廃棄物のせいで、原発事故のせいで、新たなヒバクシャが次々生まれています。その二世、三世、四世も生まれています。
だからこそ、被爆は今のことであり、あなたのことなのです。私たちのことなのです。

Aさんの個人的体験から普遍性をつかみ取ってください。堂々と生きているAさんの心意気に応えながら。


続く

#被爆二世 #被爆二世運動に問われていること #ABCC #原爆傷害調査委員会 #放射線影響研究所 #木原省治 #西河内靖泰

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明日に向けて(2081)放射能のそもそも論、原爆訴訟や「黒い雨」訴訟など平和と原発ゼロに向けてお話します(『放射線副読本読み解き会』特別編にご参加を。8月29日(日)大津市)

2021年08月19日 23時30分00秒 | 明日に向けて(2001~2200)

守田です(20210819 23:30) 

『放射線副読本すっきり読み解きBOOK』を読む会・特別編について

8月29日(日)午後5時から、表題の学習・講演会を行うことになりました。主催は日本共産党滋賀県委員会です。
もともと「読み解き会」を7月25日に始め、8月中にあと2回を行う予定でしたが、予定を変更し、2回目を「特別編」として行うことになりました。
「10月にも衆院選が行われるのが必至の情勢の中で、原発のこと、放射能のことをきちんと学んでおきたい」という主催者の意向を受けてのことです。このため「読み解きBOOK」読む会は、選挙後にまた計画してくださることとなりました。

それで今回、与えられたお題は「放射能のそもそも論」「原爆訴訟や黒い雨訴訟について」です。
また「コントロールできない老朽原発の再稼働、『原発ゼロ』の政治決断こそ、安心の日本に」という内容もチラシに掲げられています。
ちょうどこの夏、広島市を駆け巡り、黒い雨降雨地域も周ってきたので、そこで学んできたことを体系的にお話したいと思います。

申し込み先は日本共産党滋賀県委員会
電話077-522-8210  FAX077-522-8282 ⅿirai-21century@bird.ocn.ne.jp
zoom参加も可能です。滋賀県委員会に連絡してアドレスを教えてもらってください。



放射能のそもそも論とは

僕にとってこれはいいなと思っているのは「放射能のそもそも論」「原爆訴訟」「黒い雨訴訟」が並べられていることです。
「放射能のそもそも論」とは何か。放射線被曝の危険性とはどのようなものか・・・になると思いますが、それこそそもそもこの点で大きな見解の相違がある。
ある科学者たちは、被曝の危険性を極めて高いもの、極力避けるべきものと捉えています。ある科学者たちは、危険性をそれほど高いものとは認めず、「ある程度の被曝は許容されるべき」と捉えています。

もちろん僕は「危険性は極めて高い」と捉えているし、だから原爆は無論、原発も無くすべきだと主張していますが、しかし高名な「科学者」で危険性を否定する人々もかなりたくさんいます。だから多くの人が戸惑ってしまうのが実情です。
これに対して「原子物理学」や「放射線防護学」を紐解いてみてもすっきりとした回答は得られない。この分野でも大きく隔たった、まったく相反する見解があるからです。
では何を見ていけばいいのか。答えは歴史です!歴史、つまりそのものがいつ表れ、どのように捉えられるに至ったのかを見ていくことが、真理に近づく最良の道だということです。

では放射能の問題はどこから捉えたらいいのか。原爆です!ヒロシマ、ナガサキで起こったことです。なぜならこれほど大量の放射線をもの凄い数の人々が浴びた経験など他にないからです。
次に大事なのは、その時、誰が放射線被曝の影響を測り、体系化したのかです。答えはアメリカ軍です。原爆を落とした加害者であるアメリカが、被害者である被爆者を独占的に調べて体系化したものが、現代の放射線防護学の基礎なのです。
こう見てくるとすぐに分かることがあります。加害者が被害事実をきちんと把握し、公表することなどあり得ないこと。自己防衛のためにも、大きな過小評価がなされてきたことです。とくに隠されてきたのは内部被曝の大きな危険性です。


原爆の捉え返しにこと「そもそも放射能とは」という問いへの答えがある。2021年8月 守田撮影

原爆訴訟と黒い雨訴訟の意義

これに対して「原爆訴訟」、とくに「原爆症認定訴訟」やそれを引き継ぐ形で行われてきた「黒い雨」訴訟は、過小評価され、無視されてきた被害事実を明らかにし、国に認めさせ、事実に迫ろうとしてきた試みでした。
だからこの裁判の過程、何がどう主張され、明らかにされ、認められてきたのか、その経過をおさえることそのものが、「放射能とは何か」についての知見を得ることにつながります。特にこれらの裁判で突き出されたのは「内部被曝」の実態です。
そもそも常に「◯◯とは何か」という問いは、「◯◯とは何と捉えられてきたのか」の歴史的振り返りの中で答えに近づいていくことができます。だからここから一緒に学びましょう。

その点でこの日の学習会は以下のように進めようと思います
1ーそもそも放射能とは何か(原爆と被曝影響の過小評価、これを覆してきた原爆訴訟と黒い雨訴訟、内部被曝の位置性)、
2ーヒロシマ、ナガサキとフクシマのつながり(核=放射能との共存強要の歴史、いまフクシマで行われてること、『放射線副読本』との対決の大きな位置)
3ー老朽原発再稼働強行の意味すること(老朽・・・だけではない原発の危険性、だからこそ「原発」ゼロの政治決断が必要なこと)

以上の内容を、この夏の広島取材で得てきたことがらを交えてお話します。
あらためて『放射線副読本』をきちんと読み解くことを、全国津々浦々で広めることの大切さをおさえることにもなります。
みなさま。ぜひお越しください。zoomでのご参加も大歓迎です!


右から原告団事務局長高東征二さん、水戸喜代子さん、原告石井隆志さん、守田、石井さんのお連れ合い。みなさん、満面の笑顔! 守田のスマホにて毎日新聞の小山美砂記者撮影。なお石井さんは小学生の時に6人で川で泳いでいて黒い雨により被爆。すでに他の5人の方は亡くなられてしまい、一人生き延びて勝訴に至りました・・・

#放射能そもそも論 #原爆症認定訴訟 #黒い雨訴訟 #放射線被曝の危険性 #隠された被曝 #内部被曝の危険性 #放射線副読本 #すっきり読み解きBOOK #にょきにょきプロジェクト

原発や放射線被曝の危険性の暴露など、取材・執筆活動のためのカンパを訴えます。以下からお願いします。
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明日に向けて(2080)被爆者の足跡をたどる ヒロシマで見えてきたこと-2

2021年08月16日 23時30分00秒 | 明日に向けて(2001~2200)

守田です(20210816 23:30)

ヒロシマレクイエムコンサートの記事の続きです。

合唱曲 声 三部作 がYouTubeにアップされました!ぜひご覧になって下さい。
https://youtu.be/WgYP3EBzmHA
https://youtu.be/WxS-KUPumOA


新屋まりOfficial より


実は詩を読み違えてしまったようです・・・

8月1日に聴きにいったレクイエムコンサートの話の続きですが、実は前回の記事の後に、僕が森川定實(さだみ)さんの詩を読み違えてしまっていた可能性があることが見えてきました。
なんともお恥ずかしいのですが、しかしそのご指摘を受けて、あらためて合唱を聴き直しても「どうしてもそう聞こえる」自分もいます。ともあれ今回はその点も書きます。

読み違えていたと思われるのは「無念さに歯ぎしりする」という一節。これはその次の「地下の白骨のきしみ」につながっていると取れる。つまり「歯ぎしり」していたのは森川定實さんではなく「地下の白骨」だったことになります。
ご指摘してくださったのは森川聖詩さん。こんな優しいコメントをつけてくださいました。
「この流れでどうして守田さんがそのように読まれるのか、それはご自身で仰っているように、ある意味、父(の霊?)に深くなりきっている?からなのかなと思います。
いずれにしても、ここまで、この父の被爆体験に寄り添ってくださっていることに、改めて心より御礼申し上げます。」


森川定實さんの体験に同調する

さて前回、森川定實さんの詩、「声」に新屋まりさんが曲を付けられた「合唱」を聴いて、僕が心を持っていかれたことを書きました。
なぜそれほどまでに心を揺り動かされたのか。一つに詩の凄さがあります。二つは曲の凄さです。そして三つ目に僕の同調体質、同調体験があります。
実はほかならぬ新屋まりさん自身、「同調体質」がとても強く、定實さんが表された被爆者の思い、痛み、苦しみを心に写しとって作曲されたそうです。

ぜひ新屋さんの以下のブログをお読み下さい。2019年5月28日付です。
声ならぬ声(2)
https://blog.goo.ne.jp/niiya-mari/e/4a03f01c7d31ab318341886d4a09502f


新屋さんのブログより

この中で新屋さんはこう書かれています。

原爆が投下されたその直下で
森川さんが目撃された光景だ。
文字を追いながら情景が見えるよう。
当日の悲惨さは
それ以上だったはずだ。
大変なことに手をつけたと思った。
中でも一番心が痛んだのは
「声ならぬ声」の子供たちの下りだ。

ここで新屋さんは、森川さんの詩の一節を紹介した後、こう続けます。

子供たちが誰にも看取られず
父母の名を呼びながら 
息絶えてゆく様は耐え難い。
泣きながら曲をつけた合唱曲は 
好評だった。
当日、合唱曲は大事なく歌えたが 
オリジナル曲では 
悲しみに圧倒されてしまい 
ほとんど歌えなかった。
「玉砕したネ」と実妹からチクリ。
自分を明け渡してしまったと
後で思った。
何かに同調する体質でもあるが
「鎮魂する側」に居なくては
「ヒロシマ・レクイエム」開催の
意義がない。

すごく共感しました。あの時、あれほどに心を持って行かれた理由を知る思いでした。


森川定實さんの足跡を歩く

新屋さんはさらにこう書かれています。

前もって鎮魂をしてから
本番に臨みたいと思っていた。
広島でのスケジュールが合ったので
詩の中に書かれた場所、
白潮公園へご一緒した。
川沿いの細長い地形の公園。
緑豊かできれいだが、
「ここはきついぞ」と感じた。
得意体質を森川さんに打ち明けるが
抵抗がないようだった。
小さな慰霊碑があった。
足を踏み入れるや頭痛と
足元からガクガクする不具合に陥った。
傍の川に近づくと込み上げる。
おびただしい人が
水を求めて集まっただろうし
たくさんの死体が浮いていただろう。
怖かったね、暑かったね
痛かったね。
もう大丈夫、帰ろうと声を掛けた。
お菓子と水を捧げて手を合わせた。

新屋さんは、息子さんの森川聖詩さんとともに、かつて森川定實さんが歩かれた場を歩き、観た光景を、頭の中で観られたのです。
新屋さんはそうして定實さんとともに、絶命していく子どもたちにフォーカスされましたが、そのまなざしはどこまでも温かい。
「怖かったね、暑かったね 痛かったね もう大丈夫、帰ろう」と、とても優しく囁きかけたことを書かれています。


現在の白潮公園 2020年12月 守田撮影


被爆者の思いに心を重ねる

実は僕も、同じ場を歩きました。いや僕の場合は、NHKの建物があったところから、縮景園を抜け、川を遡行されて川原に上られた地点、その先の原放送所までを森川聖詩さんと歩き、いろいろなものを「観た」のでした。
その時、僕にはお父さまの声が聞こえた思いがしました。その中には、お父さまの愛息=聖詩さんへの思いも溢れていました。そこで僕は聖詩さんに宛てた何らかのメッセージを、お父さまに託された気すらしました。

そんな僕は「あなたたちの叫びに耳を貸そうともせず ひたすら逃げのびたことの心の疼き」と詩の最後をまとめている森川定實さんの気持ちにものすごくシンクロしてしまった。
だから僕は「無念に歯ぎしり」しているのは、定實さんだと思い込み、「森川さん、違います、違います」と叫び続けました。「耳を貸そうともせず ひたすら逃げのびたことの心の疼き」をどうしてもとって差し上げたいからです。

先にも述べたように、「歯ぎしり」しているのは「地下の白骨のきしみ」では?と森川聖詩さんにご指摘され、「ああそうかあ」とは思ったものの、それでもどうにもこれが定實さんのはぎしりに取れてしまう自分が相変わらず居続けています。
もちろん固執したいのではありません。やはり新屋さんの方が、詩を正確に読み解いて曲をつけられのでしょう。でもともあれそうして新屋さんも僕も、定實さんの体験を共にしたのです。だからもう心を持っていかれるしかなかったことを記しておきたいです。


広島市原爆死没者慰霊式・平和祈念式に神奈川県遺族代表として参加された森川聖詩さん。お父さまの遺影を手にしておられました。2021年8月6日 森川さんFacebookページより


悲しみをシェアすることの先にあるもの

被爆者の足跡を辿る・・・それは悲しみをシェアすることです。当たり前ですが辛いことです。
僕も今回だけでなく、ここ数年、似たことを繰り返してきました。京都「被爆二世三世の会」の一員として、被爆二世三世健康調査アンケートを進める中でのことです。被爆者だけでなく、二世、三世の足跡も辿ってきました。

当たり前ですが、同調性が高いほど影響を受けます。苦しみと悲しみが自分の中で再現される。辛いはずがないし、辛い思いをしなければ足跡を辿ったことにはならない。
でも僕はその中でこそ、何か大切な、切実な、貴重なものがつかみ取れることを体験的に感じています。けして「辛い」ことばかりではないのです。

僕には時折ですが、犠牲になった方たちが、「いいよ。もういいよ。それだけ悲しんでくれたらいいよ。この悲しみをみんなの幸せに変えて」と囁きかけてくるようにも感じています。
こう表現してよいかとまどいますが、その時、僕は温かい気持ちになります。だから素直にそれに従っています。これからもそうするでしょうし、その先に何か大きな展望があると感じています。

8月1日、たくさんの素晴らしいものをプレゼントしてくださった新屋まりさんや合唱・演奏されたみなさま、裏方のみなさま。そして森川定實さんと聖詩さんに心からの感謝を捧げます。

続く

#ヒロシマ #レクイエムコンサート #新屋まり #森川定實 #森川聖詩 #被爆者 #核なき未来へ #縮景園 #白潮公園

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明日に向けて(2079)佐賀、長崎、福岡、広島に大雨特別警報発令 命を守るとともに災害対策の抜本的転換を求めよう

2021年08月14日 16時30分00秒 | 明日に向けて(2001~2200)

守田です(20210814 16:30)

各地で大雨特別警報発令 長雨が一週間続く可能性も

西日本から東日本全体にかけて再び雨が強まっています。気象庁は14日午前2時過ぎに佐賀県と長崎県に、午前6時前に福岡県に、午後1時前に広島県に「大雨特別警報」を発表しました。
なお広島県は前日13日午前8時過ぎにも発表されており、再度の発表です。雨は九州から本州の全域にかけて強まっており、今後、警報などの拡大が予想されます。

 

とくに九州はものすごい雨が降っています。NHKによると、佐賀県嬉野(うれしの)市では、降り始めから午前11時までに918.5ミリの雨量を計測。年間の平均降水量が約2270ミリですから、ほぼ4割が3日で降ったことになります。
8月の平均降水量のほぼ4倍でもあり、ものすごい量です。他でも500ミリを越える地域がたくさん出ている。問題はこの量は、これまでのこの国の災害対策の前提となる基準を大きく越えていることにあります。だから深刻な被害が始まりつつある。
前線はこの先、一週間程度、本州付近に停滞するとも考えられること。そうなるとここ数年の水害をうわまわる事態の発生も考えられます。ともあれみんなで、命を守るための懸命の工夫を重ねていきましょう。


嬉野市の年間降水量と平均気温


土砂災害と川の氾濫に要注意

大雨によってもたらされる危険性は大きく二つに分かれます。一つは土砂災害、二つは川の氾濫です。NHKの14日15時時点の発表では、土砂災害警戒情報が20府県に出ています。以下に列挙しておきます。
佐賀・長崎・福岡・大分・熊本・広島・山口・岡山・徳島・大阪・京都・滋賀・兵庫・奈良・富山・愛知・岐阜・長野・山梨・福島。
それぞれの自治体の災害情報などに注目し、危険性がある場合はできるだけ早く避難されてください。土砂災害警戒情報の発令は、まだまだ広がる可能性があります。



一方、氾濫危険水位を超えている川がある県も発表されています。佐賀・福岡・広島・山口・島根・岡山・京都・長野・岐阜です。すでに15時に、佐賀県の六角川左岸付近と、島根県西部の江の川で氾濫が発生と伝えられています。


六角川で氾濫発生 NHKより

川の災害で一番恐ろしいのは、大きな川の堤防が決壊し、大量の水が周辺に怒涛のように流れ出すことですが、それ以外でも浸水被害が広がっています。例えば福岡県久留米市では冠水した地帯でボートを使った救助が行われています。


久留米市でボートを使った救出活動が 産経新聞より

これは筑後川の氾濫を防ぐために支流の水門を閉じた結果ではないかと思われますが、実は例年のように同様の被害が起こっています。このため支流域も危険性があります。どの地域からも危険を感じたら早めの避難を進めて下さい。


災害対策を抜本的にあらためることが必要

しかし「大雨特別警報」が出されるたびに論じていることですが、現在の災害対策はもう完全に限界に来ています。この認識をこそもっと広めなくてはいけない。
もともと特別警報は、2013年からそれまでの「警報」「注意」の上に加えられ、「数十年に一度の、これまでに経験したことのないような、重大な危険が差し迫った異常な状況」 (気象庁HP)で発令されるとされました。
しかし九州ではほぼ毎年発令されています。もはや「数十年に一度のものとして備える」のでは間に合わないのです。認識を根本的にあらため、災害対策を一新していくしかありません。

とくにこの間、気候変動などのため、雨の降り方が激変し、従来の「計画降雨」=どの程度の水位まで川の堤防が耐えられるかを示す基準で作られた堤防が、次々と突破され、大きな氾濫が起こっています。
これに対して、最近では本流から支流に水が遡り、氾濫を起こすことも繰り返されているので、支流から本流への水門を閉めている場合も多いですが、そうすると支流はあっという間に周辺に溢れてしまう。
ポンプ車を動員して必死で水を本流に流す作業が、いまもあちこちで行われているはずですが、間に合わない場合が多く、多くのところが冠水してしまっている。このことをみても現在の災害対策は完全に破たんしているのです。


2019年の台風19号の際、各地で計画降雨が突破された 


原発と乱開発のため災害の危機が過小評価されている

大雨対策だけではありません。地震も、かつて予想された揺れを大きく越えるものが頻発しているのに、あらたな対応を始めようとしない。なぜか。まともに対応したら、全ての原発を廃炉にしなければならなくなるからです。
原発を次々と作ったころにはできなかった精度の高い揺れの観測ができるようになったら、どの規模の揺れまで原発が耐えられるかを示す数値が、実際に起きている地震の数値よりも一桁も少ないことが明らかになってしまった。


「福島と広島をつなぐモミの木の会」作成の絵 元福井地裁裁判長樋口英明さんの主張を的確に図示!

さらに7月に熱海市で起こった事態が、乱暴な開発が、あらたな危機を作りだしていることをも明確にしました。人々の住宅を襲った山津波ともいえる土石流が、違法に積み上げられた盛り土を起点としていたからです。
雨の降り方が根本的に変わった日本列島の中では、もうこんなことを続けてはいけないのです。そうなれば真っ先にやめるべきはリニア・北陸新幹線のための大トンネルの掘削であることは明らかです。


熱海の土石流と盛り土の関係を報じる朝日新聞 20210710

こうした原発や、リニア・北陸新幹線など、危険性に満ちただけのものを進めるために、風水害や地震の危険性の極端な過小評価が続けられている。
このままでは利根川や淀川の大破堤による東京や大阪の壊滅的被害だって起こり得る。いや再度の深刻な原発事故もあり得ます。このとんでもない状態をあらためなければとても命が守れません。


いまそこにある危険と向き合いつつ災害対策の転換を

すでに日本列島を襲っている豪雨に対しては、早めの避難などで対応していくことが必要ですが、それだけを毎年毎回繰り返してもダメ。社会的認識をあらため、災害対策を抜本的に変えさせなければ。
災害からの命の守り方として、この点が一番大事なポイントであることをおさえ、広めていきましょう。

#大雨特別警報 #緊急安全確保 #災害対策 #梅雨前線 #集中豪雨 #計画降雨 #盛り土規制 #リニア新幹線やめよ #北陸新幹線やめよ

*****

さまざまな災害から命を守るためにの、取材・執筆活動へのカンパを訴えます。どうか支えてください。よろしくお願いします。

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明日に向けて(2078)ヒロシマで見えてきたこと-1 被爆者の声を聴く

2021年08月13日 23時30分00秒 | 明日に向けて(2001~2200)

守田です(20210813 23:30)

8月1日から7日まで広島市を訪れてきました。濃密に、いろいろなものを見て、聞いて、触れて、出会って来ました。被爆二世の森川聖詩さんと同行の旅でした。
そのどれもが深い体験で、その中で僕にはたくさんのことが見えてきました。どう報告したらいいだろう。戸惑いながらも、まずは見てきたとおりのことを再現してみようと思います。

レイクエムコンサートに参加

1日にまず訪れたのは旧日銀広島支店でした。広島市中区袋町にあります。ここで「ヒロシマレクイエム・コンサート’21」が行われました。
シンガーソングライターの新屋まりさん(歌、ギター)が中心。吉野妙さん(ピアノ)、倉田香織さん(キーボード)、ポットプーリー(合唱)、寺井弦さん(指揮)という構成でした。

第一部は新屋まりさんがこれまで歌われてきたさまざまな曲が、ピアノとキーボードをバックに次々披露されました。
僕にとっては久しぶりに聞く生コンサート。身体が喜んでいることを感じました。

そして第二部、この日のメインの合唱が行われました。森川さんのお父さまで、「あの日」を奇跡的に生き延びられた森川定實(さだみ)さんの遺作の詩に、新屋まりさんが曲をつけて合唱にしたてたのでした。
圧巻でした。完全に心が持って行かれました。森川さんのお父さまの、そしてお父さまがいつも代弁する多くの被爆者の方たちの声が聞こえてきたように思えました。まずは森川定實さんの詩、「声」をお読み下さい。


声 もりかわさだみ

一 人のなした業
あのとき ヒロシマは
膨大な火炎と煙の大瀑布が
たぎり昇って天に連なり
命あるものも無いものも
焦熱のなかにのた打ちまわった
老いも若きも 男も女も焼かれ
赤茶色の哀れな化けものとなって裂け潰れた
天守閣の森も長寿園の桜の木も
相生橋も 浅野泉邸も
トンボもバッタも 川えびも
そして川底にシジミ貝輝く太田川も
神宿らぬ人間の仕組んだ天変地異

二 声ならぬ声
あの日 水に入り猛火を逃れて
川原の草地に倒れるように
泥となって身を横たえた
突風が雑草をなぎ顔を打つ
聞こえくる広島滅亡の地獄の響き
風の咆哮か
燃えつきた人びとの魂が
上空に沸き返る雲と煙の中を
さ迷い走る怨嗟の叫びが
そのどよめきに交わる幾十の童のうめき
焼けただれ 千切れた手をあげ
お父ちゃん! お母ちゃん!
だが・・・・・
いまわのうごめきはやがて絶えゆく
戦争に生れ飢餓に育ち
人の人たる生も得ず
大量殺りくの只中に潰えゆく
子たちの命の悲しみよ

三 疼き
故郷ヒロシマに墓参に帰ると
そして街角にたたずむと
またも聞こえくる あの日の死者の
舗道下から湧き上がる声 声
無念さに歯ぎしりする
地下の白骨のきしみ
この下にうちの子が うちの子が!
叫び続けた母たちの声
今もなお この心に刺さったまま
疼き続ける
あなたたちの叫びに耳を貸そうともせず
ひたすら逃げのびたことの心の疼き


詩は書家だったお母さま、瑞枝さん(雅号・紫峰)が揮ごう。滋賀県の多賀図書館で展示されたのち、川崎市平和館に森川聖詩さんによって寄贈された。写真は多賀図書館にて 2019年8月 守田撮影


森川定實さん、そして被爆者の苦しみを聞く

いかがでしょうか・・・。
森川定實さんは、当時NHKの職員として働いていて、夜勤明けであの瞬間を迎えられました。爆心地から約1キロの距離でした。
放送局の建物の中にいても多くの方が亡くなる大変な惨事の中で、お父さまはやがて建物を出て北に向かわれました。社屋が爆撃されたら、生き残ったものが北にある原放送所に移って、電波を出し続けることが決められていたためでした。

その道すがら、お父さまは縮景園という、池に多くの被爆者が群がった庭園を横切られ、川に入って北を目指し、そこから上がられて今は白潮公園と呼ばれる川原で、たくさんの子どもたちが声をあげながら絶命していくのを目撃されます。
のちにお父さまと合流された職員の方の中には「妻を見殺しにしてきてしまった」と、おいおい泣く方もおられたそうです。
あの惨事を命からがら生き延びた多くの被爆者が、あるいは建物の下敷きになり、あるいは熱線と放射線、爆風で大けがをし、「水を」「助けて」と叫ぶ方たちを助けることができなかった辛い経験を経ていました。

その被爆者の思いを代弁するように、森川定實さんはこう書かれました。
「またも聞こえてくる あの日の死者の 舗道下から湧き上がる声 声 無念さに歯ぎしりする」
「あなたたちの叫びに耳を貸そうともせず ひたすら逃げのびたことの心の疼き」

新屋まりさんが作られた曲は、この被爆者の思いに肉薄したものでした。とくにこの場面、「お父ちゃん」「お母ちゃん」という絶命していく子どもらの叫び。
そしてそれを繰り返し心の中で反芻しては「無念さに歯ぎしりする」、このフレーズが繰り返されました。僕には何十回も繰り返されたように聞こえました。


あの日、定實さんが横切られた縮景園。翌朝、池の周りは水を求めて亡くなった方のご遺体がぐるりと並んでいた 2020年12月 守田撮影


被爆者は二重三重の苦しみを背負わされた

被爆者には二重三重の苦しみがありました。熱線、爆風、放射線に身を曝された苦しみ。大けがをし、やがてバタバタと多くの方が悶絶の末に亡くなっていきました。
建物の下敷きになったまま、被爆後に起こった大火事で生きたまま焼かれた方も多数いました。
そしてその姿を目にしながら「助けられなかった」苦しみ。生涯にわたって、絶命していく人々の声を、繰り返し聞き続けてしまう苦しみ。

森川定實さんの「歯ぎしり」、そのフレーズがハイライトされた合唱を聴いていて、どっと涙が溢れました。
「森川さん。違います。それはあなたの罪ではない。耳を貸そうとしなかったのではない。あなたが悪いのでありません。違う。断じて違う。違うんだ。あなたが歯ぎしりせねばならないことではないんだ!」
繰り返し心の中で叫ばざるを得ませんでした。

同時に強い怒りも巻き起こりました。「被爆者の方たちになぜこんな思いをさせ続けたのだ。なぜケアしなかったのだ。なぜこの痛みを癒して差し上げなかったのだ。なぜだ・・・」。
大日本帝国政府はアメリカに勝てる可能性がゼロになってからも、戦争を終わらせようとせず、諸都市が空襲され、沖縄に地上戦をしかけられ、広島・長崎で原爆が使われるまで、市民を米軍に酷く殺されるままに任せていました。
戦後の日本政府は、そのことを全く反省しないままに、被爆者を長い間放置し続け、その後、わずかに医療保障を行ってきたものの、心の傷を一度も手当てせずに来ました。そんなの許せない。許してはならないです・・・。

なお、この日のコンサートの模様を、新屋まりさんがブログで書いておられるのでご紹介しておきます。
鎮魂のコンサートin被爆建物
https://blog.goo.ne.jp/niiya-mari/e/5de6a24e9c1d9990af6ce175525b012c


新屋さんのブログより

続く

#ヒロシマ #レクイエムコンサート #新屋まり #森川定實 #森川聖詩 #被爆者 #核なき未来へ

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