守田です。(20130108 19:30)
明日に向けて(606)で、岩手県大槌町の様子をお伝えしたところ、当の大槌町の方を含め、大きな反響が返ってきています。その一つ一つが、三陸を見捨てた政府のあり方への憤りに満ちており、胸を打たれるものばかりです。
今後、紹介していきたいと思いますが、今日は、こうしたことと深くつながっている河北新報の年頭社説をご紹介したいとおもいます。本年1月1日掲載ものです。
タイトルは「被災を生き抜く/山河を守る独立自尊の気概」です。今回の記事のタイトルとした「東北の位置付けを変えずして、どんな復興策も未来を照らし出すことはない」というのも、この社説の結論部からとったものです。
この社説は今回の正月が被災二度目であることに触れたあとに、ある小説を取り上げています。その名も『阿武隈共和国独立宣言』。著者は村雲司さんですが、福島第一原発事故で被災した架空の村「阿武隈村」が独立宣言を行うというものです。
しかも村民は、独立を守るためと称して核武装も宣言する。放射能で汚染された土を三尺玉に詰めたものを、村の花火師がすでに用意してあるというのです。こうした小説に触れながら、社説は次のように自説を結んでいます。
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「昨年、沖縄県尖閣諸島の領有権をめぐって日中両国が角突き合わせた。絶海の無人島を守るために費やされた政治的エネルギーに比して、東北復興に割かれたそれは十分だったろうか。復興予算の流用問題は、政官の本質を浮き彫りにしたのではないか。
「阿武隈村」の独立を荒唐無稽と切って捨てることは簡単だが、東北の位置付けを変えずして、どんな復興策も未来を照らし出すことはない。三尺玉に込めるべき火薬、それは「独立自尊」である。」
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強く共感しました。ただ1月1日の時点では、『阿武隈共和国独立宣言』の内容を読んでいなかったので、ここで取り上げることをためらったのですが、その後、同書も読んでみて、「震災遺物(がれき)」の処理に関する一文だけは共感できなかったものの、作品全体に大きく共感したので、この記事を書く事にしました。
「東北の位置付けを変えずして、どんな復興策も未来を照らし出すことはない」・・・まさに僕のその通りだと思うのですが、実は河北新報は、東日本大震災の3ヶ月後、2011年6月11日にも同様の主張を大きく掲げています。そのときのタイトルは「東日本大震災 被災3ヵ月/東北の位置付け変え自立を」でした。
しかも2011年6月11日の社説も、2013年1月1日の社説も、同じように沖縄のことへの言及が見られます。この国が沖縄に米軍基地を押し付けている理不尽さと、東北に長きにわたって犠牲を強いてきた理不尽さが、同じ差別構造としてつながっていることを意識してです。
今回社説でも次のことが指摘されています。「宮里政玄琉球大名誉教授は差別の根底に「最大多数の最大幸福を目指し、人口の少ないところ、経済的に弱いところに犠牲を強いる功利主義がある」と指摘。原発にも同じ構造を見て取る。」
僕は2011年6月11日の社説を読んだときも、その内容に深く共感するとともに、東北より西の地域がこの訴えを自らにつきつける必要があると考えて、一文を書きました。長くなりますが、今回もまったく同じことを思ったので、引用させていただきます。
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明日に向けて(150)東北の位置づけ変え自立を(河北新報社説より)(2011年6月14日)
http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011/e/b1c44d586228246fd43be99ddd561d52
この沖縄の長年にわたる声に重なった河北新報の叫び、東北の声を、他のすべて の地域、とくに電力をたくさん使っていて、なおかつ米軍基地からも遠い都市部に 生きる私たちが受け止めていく必要があると思います。
そもそも私たちの国は、明治維新以降、長きにわたって東北に過重な負担を負わせながら、「近代化」や「高度経済成長」を実現してきました。
電力供給の実態を見てもしかり。福島第一原発など、東京電力管内の外に立地しながら、主に東京に電気を送るために発電してきた。発電プラントの電源自体は東北電力から供給されているという矛盾構造のもとにあります。
ようするに原発が危険だから、東京からうんと離して福島に作った。うんと離した福島から、電力をたくさん送って、東京圏に煌々と明かりが灯ってきた。それは関西電力でも同じことがいえる。危ないから大阪からうんと離して福井に原発を作った。そこにこの国の矛盾が象徴的に現れています。
とくに東北に負担を負わせる政策は、明治維新以来、一貫したものです。明治から昭和にかけての戦争の時代も、東北は常に過酷な戦場に、最も多くの兵士を供給させられてきた。
河北新報の本拠地である仙台市にいくと、中心部から少し郊外にいったところに青葉城址があります。伊達政宗の開いた仙台藩のお城があったところです。ここはさまざまな木々が植わっていて美しいところです。とくに周辺にある東北大学植物園は、おそらく日本の植物園の中でも最大級の規模を誇っている。
最も多い樹木はコナラで約5000本、続いて多いのは、この地域に自生しているモミの木で、これが確か2000本ぐらいある。植物園と言っても、実際には大きな山で、これそのものが、城の裏手の守りになっていたところです。
ところが、その青葉城址を登っていって、仙台市を見降ろす伊達正宗公の銅像を過ぎて行くと、そこに護国神社が鎮座している。ちょうどこの城跡公園の真ん中に位置しているのです。
護国神社は、いうなれば靖国神社の支社です。靖国神社は明治維新後にできた日本の伝統からは切り離された神社で、天皇のために死んだものだけを祀っていることに特徴がある。それがいつ建てられたのかと言えば、まさに明治維新以降の、この地域での闘いの後なのです。
明治維新を前にして、東北の多くの藩は、徳川幕府の側につきました。筆頭だったのは、会津藩です。会津藩侯は京都守護職として、幕末維新に向けて荒れる京都の警備隊長になった。その配下にあったのが新選組です。
公的テロリスト集団だった新選組は、長州の幕府転覆の野望を未然に防ごうと京都の町を駆けた。そして京都に火を放って大火災を起こし、混乱に乗じて天皇を長州まで拉致してしまおうという、長州テロリスト集団の陰謀を察知、「池田屋」に切りこんで、事件を未然に防ぎます。
これに対して激怒した長州は、国元から軍団を京都に送り込み、御所前で会津軍と激戦。こう着状態が続きますが、西郷隆盛率いる薩摩軍の加勢で劣勢となり、敗れて撤退していきます。このとき京都は、御所以南がほとんど火事で灰燼に帰してしまいました。
やがて幕府は、「長州征伐」に打って出ますが、土佐浪人坂本竜馬の活躍で薩長の秘密同盟が成立し、反対に討幕ののろしがあがります。時勢はいっきに逆転し、幕府は鳥羽伏見の闘いなどで、新式銃で武装した薩長軍に敗北。以降、東へと壊走をはじめたのです。
官軍となった薩長軍は、江戸城無血開城によって、江戸を占拠しますが、長州は積年の恨みをはらずべく会津攻撃を主張。会津藩侯が蟄居しているにもかかわらず、会津若松に殺到し、城を徹底攻撃します。会津の人々は籠城を選んで一矢を報いようとしますが、武力の差から攻め落とされてしまいます。
こうした流れの中で、奥羽、越中の諸藩は、奥羽越列藩同盟を組み、会津を支援。その中心を担ったのが、仙台藩でした。とくに新政府が会津討伐を掲げたことに対し、会津の赦免を懇願。これが受け入れられないと知るや、会津とともに反官軍ののろしをあげたのです。
これは東北一体から北海道にまで拡大する勢力となった。このためこれらの地域では、維新後の戊辰戦争を、「南北戦争」と呼称する場合もあります。日本を二分する内戦だったのです。ところが政府軍の武力に奥羽越列藩同盟は敵わなかった。次々と戦に敗れ、やがて降伏していきます。以降、薩長政府による東北支配が延々と続いてきたのです。
青葉城址の真ん中にある護国神社も、このときの官軍の戦死者を弔ったもので、抵抗した会津藩士や、仙台藩士はもちろんそこから除外されている。つまり会津や仙台を蹂躙した敵軍の兵士を祀る神社を、地域のアイデンティティの真ん中に建てざるを得なかったのがこの地域なのです。
そのため、それ以降の日本のアジア侵略では、天皇への忠誠を示すことが過酷に求められた。かくしてつねに最も危ない戦場に東北の兵士たちは送り込まれた。そのときはじめて東北の人々は「護国神社」に迎えられた。そんな歴史が青葉城址にはこもっています。
僕はかつてこの地を訪れたとき、東北大学植物園をはじめとするこの城山の美しさ、スケールの大きさに胸を打たれるとともに、その頂上から仙台市を見降ろす伊達正宗公の銅像に込められた人々の思い、またその横に護国神社を建てた人々の思いに心を馳せて、長いため息をつかざるを得ませんでした。この国の、悲しい歴史の一端をそこにみた思いがしました。
ところが、仙台の人々、東北の人々は打ちひしがれていたばかりではありませんでした。その象徴が、それこそ河北新報の立ち上げなのでした。
明治維新後、薩長政府の要人は、東北を侮蔑し、「白河以北一山百文」=白河の関(現・福島県白河市)より北は、山ひとつ100文の価値しか持たないの意という蔑みの言葉を残しました。
これに対して、それまでこの地域で発刊されていた「東北日報」が経営難に陥った時に、まさに東北の意地を見せるべく、「河北」と改題して発刊されたのが、「河北新報」だったのでした。1897年(明治30年)1月17日の創刊でした。
その河北新報に、東日本大震災を経て、今再び、「東北の位置づけを変え自立を」という一文が掲げられた。「物言わぬ東北から物言う東北へ」というスローガンが掲げられた。僕はこれを全身で受け止めていきたいと思います。
みなさま。
原子力発電所は差別の塊です。最も電力が必要なところに建てるのではなく、もっとも電力を必要としないところにこの発電所は建てられる。都会から離れた地域の方たちに、放射能漏れのリスクが強要されているのです。
しかもその労働体系も、7次受けとか8次受けとか呼ばれるような、下請け・孫請け体制によって成り立っており、原発ジプシーと呼ばれるような、権利を著しく制限された大量の労働者の使い捨てによって成り立っている。被ばく労働を前提としたプラントなのです。
それが社会の中に存在していることは、私たちが差別の中に否応なしに立たされていることを意味しています、私たちは好むと好まざるとにかかわらず、原発地域の人々、原発の中で働く下請けの人々の犠牲の上に、灯りを享受せざるをえなくなっている。
そのようなことはもう本当にごめんです。
誰かの足を踏みつけているものは、自分の足を踏みつけられても、声をあげることができないと僕は思う。誰かが差別されていることを許すことは、結局、自分が差別されることも許すことです。だから誰かを差別することは、自分で自分の尊厳を踏みしだくことだと僕は思います。
こうした構造をひっくり返すことこそが、本当の脱原発の道ではないかと僕は思います。だから私たちは、東北の人々の痛みをシェアし、東北の人々を助け、なおかつ積年の東北への負担を減らし、東北に感謝し、東北に謝罪し、歩んでいかなければならないと思います。
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以上が、大震災3ヶ月後に僕が書いた記事ですが、今もまったく同じことを思います。いやその後に、大槌町をはじめ三陸海岸が見捨てられつつある現実を見るときに、いよいよもって憤りを感じざるを得ないし、同時に、こうした歴史をこそ改革し、東北の、そしてまた沖縄の位置づけを変えずしては、私たちの幸せも得られないとも強く思います。
だから私たちは、大槌町のことを私たち自身のことととらえなくてはいけない。大槌町を取り残していくことは、私たちの世の中に差別を残していくことであり、先にも述べたように、それは私たち自身が、理不尽に差別され、抑圧される根拠を残し、強めることになるのです。
その意味で河北新報の社説は、まさに東北の怒りを代弁する「のろし」だと僕には思えます。それをどう読むのか、どう受け止めるのか、それで私たちが何をなすのかが問われる、魂のこもった社説です。
これを多くの人に読んでいただきたいです。とくに、東北を、これまでのたくさんの恩義への報いとして、みんなで助けなければならないこのときに、「維新」などという名前をつけた政治団体を立ち上げた、まったくデリカシーのない人々、その支援をされている方々に読んでいただきたいです。
ちなみに昨日1月6日より、NHKの大河ドラマにおいて、会津藩砲兵隊長、山本覚馬の妹であり、後に同志社大学の創始者、新島襄と結婚する山本八重を主人公とする『八重の桜』が始まりました。第1回目で、会津若松城をめぐる攻防戦のシーンが描かれ、発泡する八重が、女優の綾瀬はるかさんによって、演じられていました。
この作品が1年間、流れることで、明治維新が東北の側から見たらどういうことだったのか、多くの人々が注目して欲しいと思いますが、NHKが「東北の位置づけを変える」ことにまで踏み込めるのかいなか、疑問に感じます。
MHKのスタッフには奮起を期待するばかりですが、私たちはことこの番組に対しては、単に視聴者として歴史を眺めるのであってはならないと僕は思うのです。なぜなら会津藩をめぐる歴史は単に過去のことではなく、今につながる歴史だからです。私たちには、この東日本大震災という大きな歴史的事件をきっかけに、明治維新以来の長い歴史の総体を捉え返し、まさに「位置づけを変えていく」ことが必要です。
それは明治維新以来、あるいは近代の侵略国家日本の創設以来、この国を牛耳ってきた人々の上からの「命令」という意味での「天命」をあらためることです。あらためるとは、漢字では「革」と書きます。天命をあらためることとはすなわち「革命」のことです。
・・・ともあれみなさん。河北新報の年頭社説をお読みください。あわせて2011年6月11日のものもお読み下さい。そうして東北の再生と、この世の中の変革に向けた、熱き思いを共有化していきましょう!
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被災を生き抜く/山河を守る独立自尊の気概
河北新報社説
http://www.kahoku.co.jp/shasetsu/2013/01/20130101s01.htm
<去年今年貫く棒の如(ごと)きもの>
高浜虚子、1950年の作。「貫く棒」の解釈をめぐっては、「変化なく過ぎていく歳月」という老年の泰然とした心境を表すというのが一般的だ。
新しい年が明けた。
仮設住宅で迎える二度目の正月は、昨年より快適だろうか。家族てんでんばらばらの避難生活を送る被災者には久しぶりのだんらんを、と願わずにはいられない。
東日本大震災から、間もなく2年がたとうとしている。受難にあって、平凡こそが掛け替えのない価値だと知った。ジェットコースターのような一生に耐えられるほど、私たちは強くできていない。
元旦に「心機一転」を誓うにしても、それは「貫く棒」である穏やかな日常があればこそ。安心立命は万人の願いである。
一方で新年を素直にことほぐ気分になれないのは、復興の遅れという重苦しい棒が被災者を貫いているからでもある。去年も、今年も、そして来年もとなれば気力はなえ、被災地は衰退していく。
反転のきっかけをつかみたい。禍福があざなえる縄だというなら、この手で福をより合わせよう。2013年、固い信念を貫き通す年にしたい。
◇ ◇
「わが阿武隈村は、今日ここに共和国として、日本国から分離独立することを宣言します」
昨年、出版された村雲司さんの『阿武隈共和国独立宣言』は、放射能に汚染された村の老人たちが国と刺し違える覚悟で独立を宣言する奇想天外なフィクションだ。
時は大震災から2年後の2013年3月11日。彼らは日本外国特派員協会で「独立」をぶち上げる。
国旗は「暮しの手帖」創刊者・花森安治に倣って、ボロ布をつぎはぎした「一銭五厘の旗」、国歌は仮設住宅で歌うようになった『夢であいましょう』だ。
「日本国」からの侵攻に備えるため、「核武装」することも併せて宣言する。原料は放射性物質の汚染土。これを三尺玉に詰め、いざという時、地元の花火師が打ち上げる。
物騒なプランの結末を明かすのは、やぼになるのでやめておこう。ただ、非暴力主義者である彼らのこと、意外な展開が待ち受けている。
「仮設住宅、仮の町、仮の人生。仮のままで人生を終えたくはない」。古老のつぶやきは、そのまま原発事故で避難を強いられている人たちの苦悩と重なる。
「故郷の山河を棄(す)てろと国が強要するなら、俺たちは国を棄ててもいいとさえ思っている」。村議会議長の叫びは「帰還困難区域」というレッテルを、地域のプライドに懸けて返上する決意表明だ。
「核武装」は震災がれきの受け入れをめぐって、各地で起きた混乱に対する強烈な皮肉であることは言うまでもない。告発の対象は、原発政策に象徴される国土構造のゆがみである。
◇ ◇
米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の移設問題をめぐり、東京の非政府組織(NGO)などが昨年、県内移設は人権侵害との申し立てを国連の人種差別撤廃委員会に行った。
沖縄では一向に解決しない基地問題へのいら立ちから、「沖縄への差別」と指摘する人が増えている。
宮里政玄琉球大名誉教授は差別の根底に「最大多数の最大幸福を目指し、人口の少ないところ、経済的に弱いところに犠牲を強いる功利主義がある」と指摘。原発にも同じ構造を見て取る。
岩手、宮城、福島3県を中心にいまだ32万人余りが不自由な避難生活を送る。
「山河破れて国あり」。復興の足取りが遅れれば、私たちは荒廃したふるさとを子や孫に引き渡すことになる。それは将来世代に対するつけ回し。差別にほかならない。
昨年、沖縄県尖閣諸島の領有権をめぐって日中両国が角突き合わせた。絶海の無人島を守るために費やされた政治的エネルギーに比して、東北復興に割かれたそれは十分だったろうか。復興予算の流用問題は、政官の本質を浮き彫りにしたのではないか。
「阿武隈村」の独立を荒唐無稽と切って捨てることは簡単だが、東北の位置付けを変えずして、どんな復興策も未来を照らし出すことはない。
三尺玉に込めるべき火薬、それは「独立自尊」である。
2013年01月01日火曜日