守田です。(20120930 23:30)
27日に予定通り帰国し、そのまま関空から兵庫県の篠山市に向かいました。ここで「どろんこキャラバンたんば」の方たちにお迎えいただき、講演会に向かいました。会場で先に夕御飯。実行委の方たちが一品を持ち寄って集まってくださいました。
ハンサム食堂の神谷さんが、僕が食べていると聞いて、酵素玄米をおにぎりにして持ってきてくださったのを始め、それぞれが新鮮な野菜などで作ったお惣菜を持ちよってくださいました。
この日の講演会は50名弱ぐらいの参加でしょうか。今回は内部被曝のメカニズムと危険性とともに、原発災害のときにどうするのかについてお話しました。篠山市は高浜原発から約50キロの町。深刻な原発災害があったとき、被害を受ける可能性は高い。そのことを踏まえた話をして欲しいという要請があったからです。
そこで強調したのは、災害心理学に言う「正常性バイアス」の問題でした。現代人は危機に瀕する可能性が少なくなっている。そのため危機に直面すると、しばしば危機を認めず、事態は正常なのだというバイアスを自分でかけてしまうことです。
災害心理学は、この正常性バイアスのロックを外さないと人は避難できないことを強調しています。ではそのためにはどうしたらいいのか。最も有効なのは避難訓練を繰り返すことです。では原発災害における避難訓練とは何か。「今日の集まりがその一つです」と僕はお話しました。
またぜひみなさんに家にかえって、避難訓練をして欲しいとお願いしました。ただし図上訓練でいい。ではどんなことを想定するのか。原発事故が起こったときにどこに逃げるのかを決めておくのです。その際、大事なのは家族がどこで落ち合うかです。家族の居場所が分からないというのが、しばしば避難を遅らす理由になるからです。
次に大事なのは、避難するときに持っていくものを決めておくことです。この点で参考になるのは、国連に勤めていて、あるときアフガニスタンで、急きょ、逃げなくてはならなくなった友人の経験です。そのとき彼女はお気に入りの服をバックにつめて逃げたそうです。それであとでそんなものはお金で買えたのにと大変後悔したという。
彼女は言いました。「人間、逃げるときはそこに戻ってこれなくなるとは考えたくない。だからついつい変なものを持ち出してしまう。そうではなくてお金で買えないもの、日記や手紙や写真や、自分の大事なものを、もう戻ってこれないと考えて持ち出すのが核心だ」と。非常に参考になる言葉です。みなさん、これらの話をとても真剣に聞いてくださいました。
さてこの日は「ささやま荘」に泊めていただきました。実は台湾に行っている間に、内部被曝問題研究会の実務がたくさんたまっていて、部屋で処理しようと思っていました。しかし温泉があり、旅の疲れを癒していたら、なんだかもういいやという気になり、翌朝に仕事をまわしてのんびりすることにしました。
ところがそうしてゆったりしていたら、台湾のおばあさんたちのことが思われ、とくにまだ報告を書いていませんが、最後に会った呉秀妹(ウーシュウメイ)阿媽が、あまりに老いてしまい、げっそり痩せてしまい、可愛かった笑顔が消え、終始、暗くうつむいていたことが胸に去来し、悲しくてたまらなくなり涙がポロポロでてきてしまいました。
それで実は篠山の話のときでも、自分が悲しみをおさえて前向きなことを話していたことが分かりました。まるで封印を解いたようになり、暫く涙が止まりませんでした。そんなとき、舞鶴復興ミーティングの今井葉波さんからメールが来たので、ちょっとそのことを書きました。
「僕はひょっとして篠山では、悲しみのためにパワーが落ちていたかもしれない。そうだとしたらとても申し訳ない。明日に向けて、一晩寝て、アジャストします」とメールしました。すると葉波さんは、あなたが悲しいのなら悲しいままでいいのではというメールを送ってきてくれました。ああそうだなと思いました。
それで翌日、悲しいといっても必要な事務仕事は朝おきてこなしましたが、その後に、神谷さんに丹波市に送っていただき、会場に入り、講演の始めにこのことを話しました。台湾にいってきて、おばあさんたちの老いている姿を見舞って、今、とても悲しい思いにいるということをお話したのです。
そうして僕は、原子力発電所と、性奴隷問題など、戦争のことが根底でつながっていると思うという、この間、深めてきた自論をお話しました。みなさん、とてもいい目で聞き入ってくださっていたように感じました。悲しみを隠さずに話して良かったなと思いました。
さて丹波市でのお話が終わってから、どろんこキャラバンたんばのみなさんが、お昼を食べに連れて行ってくださいました。それが車何台かをつらねて30分ぐらいも走っていく。それである谷の中をはいっていき、ついたのは10割そばをうってくれるお店でした。ここでのそばは本当に美味しかった。古い民家を使ったお店も心地よくとても気持ちがよくなりました。
その後、今度は舞鶴への移動です。車で丹波市を出て、京都府の福知山市を経て、舞鶴へ。今井さんのお宅で少しだけ横にならせていただいて、今度は舞鶴の市民会館につきました。ここでも有機農家の方が作ったおいしいおいしい野菜が入ったお弁当をいただけました。なんというグルメの旅・・・。
この日の一番の話は、舞鶴市のお隣の高浜町で行われようとしている、震災遺物(がれき)焼却問題です。しかも持ち込まれるのは、僕がボランティアで何回がいった大槌町のもの。それで大槌の写真をお見せして、震災遺物(がれき)が復興の邪魔をしているなどとはとても言えないことを説明しました。
大槌町は津波で大きな被害が出ていて、広大な更地が広がっていて、震災遺物をおくのに困りなどしていないのです。いや正確にはその広大な大地には、まだ解体を待っている建物がたくさん存在しているのです。復興の予算が足りないことがわかります。それどころか海沿いには津波で壊れた防波堤がまだそのままゴロゴロ転がっている。そんなものも手がついていないのです。
また震災遺物(がれき)だけでなく、膨大な放射能の降った東北・関東での焼却の危険性についてもお話しました。焼却炉の図を示し、それが放射能対応で作られてなどいないこと、だからあちこちから放射能が漏れてしまうこと、その結果、最初に危険性が焼却場職員の方に迫ってくることをお話しました。
この日の会合でとても大きかったのは、当事者である高浜町、あるいは大飯町の方がたくさんみえられたことです。現地の状況が厳しいので人数は書きませんが、とても沢山!とご報告しておきます。
この会合が終わってから、この間立ち上がった新しいネットワークのミーティングにも参加しました。とりあえずは「がれきネット若狭」の名で立ち上がり、「がれき」という言葉を変えようということで今、新しいネーミングが進行中ですが、ここには現地、若狭の方を中心に、丹波の方たち、福井県嶺北(敦賀市より北)の方たちなどが参加しています。
ちなみに丹波というのは広い概念で、市町村区分でいと、京都の京丹波町や南丹市などが加わっているのですが、今回のことなどを通じて、この方たちが、兵庫県の篠山市と丹波市とのつながりも深くしています。ここのミーティング、僕は23時半で失礼したのですが、なんと午前1時までやっておられたそうです!直前に迫った焼却を止めんとする情熱に感謝です。
この日の夜の宿は、葉波さんが管理人をしている「雲の上のゲストハウス」でした。舞鶴市のある山の中にあります。実は宿泊は2回目なのですが、前回はまるでプラネタリウムの中にいるような満点の星空を見れました。いやこの表現はおかしいですね。この星空を再現したのがプラネタリウム。でも当然、実物の方が100倍美しい。この日は残念ながら曇っていましたが静かな夜を過ごせました。
それで翌日29日。予定にはなかったのですが、葉波さんが宮津市の食べ物と放射能を話題とした楽しいイベントでライブをされるというのでついていくことにしました。そうしたら不思議なことに、前日に宮津市の自治会の方が講演を依頼してきてくださいました。せっかくだからお会いしましょうということになりました。
この企画は春に僕を綾部に呼んでくださった溝江さんという方が企画されたものでしたが、とにかく有機農、自然農の若い農家さんたちがたくさん出店して下さり、そこに子連れの若いお母さんたちがたくさんみえられて、ライブやトーク、それぞれの農家のお話が進む素敵なものでした。僕も一言をとのお願いを受けて少しだけお話しましたが、そのお礼にとまたまた凄くおいしい野菜たちを中心にしたご飯をいただいてしまいました。
それだけではありません。自然を大事にし、本当に美味しい野菜を作ってくださっているお店から、コシヒカリ2合を無料でいただき、野菜ひと袋を500円で供給していただきました。他にもロケットストーブだとか、手作り石鹸だとかそれやこれやが踊っていてとても楽しい場でした。午後3時過ぎのJR特急で京都に戻りましたが、帰りの電車の中で心地よい疲労に包まれました。
いろいろなことがあった3日間ですが、篠山市、丹波市、舞鶴市、宮津市と回って、どこもかしこも自然が美しく、なおかつ出てくる食べ物がおいしいことが印象的でした。これらの町の運動の中に、たくさんの有機農、自然農の方たちがいるのもとても印象的で、僕は若狭原発を囲むこれらの地域、日本の農村部の町々に、大きな可能性が宿っているのではないかとの思いを深くしました。
僕など、ここにくると土いじりのひとつも知らずに、環境のことを話している「頭でっかち」でしかありませんが、それでもここから何かが始められる、始まっているという実感を得ることができました。それだけに震災遺物の高浜町での焼却、埋め立てを止めたいし、同時に、原発立地地域にいろいろな意味での矛盾を押し付けてきた構造をかえていきたい、それをこの新たにどんどんつながりを増やしているこの地域の方たちと進めたいと思いました。
篠山、丹波、舞鶴、宮津で出会ったすべてのみなさんへの感謝を述べて、この文を閉じます。