明日に向けて

福島原発事故・・・ゆっくりと、長く、大量に続く放射能漏れの中で、私たちはいかに生きればよいのか。共に考えましょう。

明日に向けて(943)東電発表の読み解き方をおさえよう!(吉田調書を主体的に読み解く-4)

2014年09月27日 09時30分00秒 | 明日に向けて(901)~(1000)

守田です。(20140927 09:30)

宇沢先生が亡くなられたことへの悲しみがまだ心にまとわりついていますが、前に進むのが不肖の弟子であった僕の務めに違いありません。そう考えて吉田調書の読み解きを進めます。

さて主体的読み解きの4回目になりますが、今回は少し調書から離れて「東電の発表の読み解き方」についてお話したいと思います。吉田調書の読解のために重要だからです。
すでに多くの方の共通認識になっていることですが、東電は非常に不誠実な体質を持った会社です。常に自己弁護、自己擁護に終始する傾向を色濃く持っており、不都合なことの隠蔽やごまかしに長けています。
そんな東電が自社に不都合な事実を公表する時は、必ずと言って良いほど何か裏の狙いがあります。往々にしてあるのが別のもっとまずいことを隠すことであったり、何か違う狙いを通そうと意図していることです。

分かりやすい例は、ほぼ一年前の9月7日に、安倍首相が東京オリンピック招致のために「原発はコントロールされている」などの大嘘をついたときのことです。
国内外に「ウソだ」という指摘が広がる中で、東京電力は9月13日に幹部が民主党の会合に出席し、「原発は制御できていない」と首相発言を真っ向から否定してみせたのでした。
これだけを見ると嘘つきは安倍首相であり、東電が正直であるかのような印象すら受けてしまいます。というか東電は明らかにそれを狙っていました。日経新聞による当時の報道を示しておきます。

 東電幹部、汚染水「制御できていない」 首相発言否定
 日経新聞2013/9/13 13:34
 http://www.nikkei.com/article/DGXNASFS13017_T10C13A9EB2000/

この発言に政府関係者が大慌てになり折衝などがなされる中で、東京電力の広瀬直己社長が27日に、福島原発の汚染水問題をめぐる放射性物質の拡散について「港湾外への影響はなく(安倍晋三)総理と同じ考え」と表明しています。
一旦、安倍首相の大嘘を否定してみせ、のちに撤回する作戦をとったわけですが、その意図は非常に見え透いています。
端的にこれで東電は安倍政権に対して決定的に優位なポジションを獲ることとなったのです。東電がどんなに失態を重ねても政府がかばわねばならない関係性ができあがってしまったからです。東電は安倍首相の嘘をまんまと自社の優位なポジションの確保のために利用したのです。

この流れは汚染水問題と深く関わっています。というのは汚染水問題は昨年の夏にその実態が全面的に明らかになったからです。
この発表は7月18日の衆議院総選挙の後になされました。いや実は春先から東電は情報を小出しにしていました。東電は選挙前に事態が全面的に明らかになれば安倍政権が決定的に不利になることを十分に知りつつ、情報を小出しにしていたのだと思います。「情報小出し作戦」も東電が使う常套手段です。
裏をとれているわけではありませんが、僕はこの時、政府と東電の間で汚染水問題の発表時期をめぐる裏取引がなされただろうと読んでいます。実際に選挙が終わった途端に、東電はそれまで否定していた海への汚染水漏洩を一転して認めだしたからです。しかも8月2日にはなんと1日400トンの汚染水が海に入っていると公言しました。

東電が狙ったのは何か。衆院選挙で自民党が有利になるようにこの大問題の発表を選挙後にずらすことで自民党に恩を売り、何より、大変な罪を犯しているのに己を訴追されないようにすること、さらには汚染水対策のために政府から援助を引き出すことでした。もちろん再稼働に前向きな安倍政権をサポートする狙いもあったでしょう。
こうした流れの中にあって、安倍首相のオリンピック招致発言での大嘘は東電にとってかなり有利なカードだったのです。相当に苦しい嘘だったからです。自らの訴追の可能性をさらに逃れ、政府をよりコントロールするための絶好の素材でした。このために直後の否定で政府を大慌てさせ、その後に再否定するという見え透いた戦略をとったのです。
東電という会社は本当にこういうところだけにはよく知恵が回る会社です。その知恵をほんの少しでも安全対策に使ってくれていたらと度々思いますが、もちろん期待するだけ無駄です。なおこれらについて昨年9月に以下の記事でレポートしてあります。

 明日に向けて(735)福島原発汚染水大量漏れの考察(1) 問題は東電が重大犯罪を起こしているということ!
 http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011/e/b70aff28e86576321ded3be9dd33c1ac

 明日に向けて(737)福島原発汚染水大量漏れの考察(2) 汚染水垂れ流しの実態を構造的につかもう!
 http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011/e/ec858aceed3429f2bcd0296f226a1cdf

このような例は他にもたくさんあげられますが、ぜひ東電の発表を読み解く際にはこうした東電の体質をしっかりとおさえて相対する習慣を身につけて欲しいです。
もう一度言いますが、東電にとって不利な情報が出たとき、何か素直にあやまちを認めているように見えるときほど、何かを隠そうとしていたり、違う何かの意図が介在しています。情報の小出しにも何らかの意図があります。
そうした観点をもって情報を調べていくと、実はそれほど巧妙なからくりがあるわけでもなくわりと容易に「本音」が見えてきたりもします。

にもかかわらずマスコミは東電の書いて欲しいように記事を書かされてしまっていることが多く、いつもがっかりさせられます。
ともあれ吉田調書を読み解く上で、こうした東電の体質をしっかり頭に入れておく必要があります。先にも述べましたが、吉田氏も東電の幹部ですからこうした「企業文化」と無縁であることなどありえないです。
吉田氏も空気のように東電の体質を吸いながら出世してきたのです。東電の隠蔽体質に慣れなければ重要プラントの所長になどなれない。共同体に共有された意識とはそういうものです。ですから東電的な体質が常に働いていたと思うのが自然です。

蛇足ながら付け加えると、ここで私たちに必要なことを一言であらわせば「もっと人が悪くなる」ことに尽きます。そうすれば東電の仕込んだからくりが見えやすくなります。
ただ同時におさえておきたいのは、そこに入り込むことは危険でもあるということです。東電的な人の悪さが身についてしまい、「疑り深い人」になってしまうからです。いわば東電への感染です。
何せ、常に人を疑い、発表の裏を探らなくてはならなくなる。人の言葉をシンプルに信じられる純真さを失わねばならず、それはそれで危険なことなのです。人は往々にして「批判対象に似ていく」危険性を持っているからです。

やはりいつでも大事なのは信義を守りとおす誠実さです。また誤りがあった場合に真摯に捉え返す姿勢です。
その対極にある東電と対決していくのですから十二分に感染に気を付けましょう。
以上に踏まえて、さらに調書の読み解きを進めていきたいと思います。

続く


 

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明日に向けて(942)京都市、滋賀県近江八幡市、岡山県吉備中央町、同瀬戸内市などでお話します!

2014年09月26日 23時00分00秒 | 講演予定一覧

守田です。(20140926 23:00)

今宵はもう一つ、情報発信をすることをお許し下さい。
9月から10月の講演スケジュールをお知らせします。・・・頑張ります!

まずは明後日、日曜日(28日)の企画のご案内をします。

第40回国際婦人年京都集会で講演します。
午後1時半から4時半まで。
会場は弁護士会館です(京都市中京区)

今回は、瀬戸内市在住の蝦名宇摩さんとのコラボ。彼女が先に津軽三味線を披露してくださり、その後に僕がお話します。
ちなみに奄美大島出身の蝦名さんは津軽三味線とともに島唄、三線の修得。さまざまな大会で優勝された凄腕!
彼女は同時に福島原発事故直後に埼玉県から必死の覚悟で飛び出した避難者でもあります。しかもその時に、僕が発信していた「逃げて下さい」というメールをリアルタイムで受け取りながら、西へ西へと向かってくださいました。

あの時、どこかの誰かに届いて役に立って欲しいとの思いで、必死で情報を出し続けたのですが、それをリアルタイムで読んで下さり、役立てて下さった方でした。昨年12月に岡山県津山市の講演のときに三味線を持って駆けつけて下さり、初めてお会いしました!
現在は岡山県に移住。福島の子どもたちを瀬戸内に保養で呼ぶ「瀬戸内交流プロジェクト」にも取り組んでいて、僕を何度も岡山に呼んでくださっています。今後もさまざまな形でコラボしていくことになると思います!
とにかく三味線が凄いのでぜひお聞きにいらしてください。9歳の娘さんの蓮津(れつ)ちゃんも美声と太鼓を披露してくれます。

その後に僕が講演。以下のタイトルでお話します。
「福島は今・・・原発事故、放射能汚染はどうなっているのか」
~チェルノブイリ・トルコ・福島・避難者・京都の女性の繋がり、祈りの権利を求めて~

今回のお話で一番、強調したいのは福島原発事故による汚染の実態です。「福島は今・・・」とタイトルに載せましたが、東北・関東の現状についても触れます。
セシウムの汚染について、よく使われている早川由紀夫さんのマップなどでご紹介するとともに、2011年秋に明らかになった東北・関東の焼却場からのセシウム検出データを振り返ります。
またストロンチウムやプルトニウム、ウランの飛散情報にも触れます。

その上で、健康被害についてお話します。データ的に確認できるものとして、福島県の子どもたちの甲状腺がんについて触れます。
またこの春に大騒ぎになった『美味しんぼ』騒動なども振り返りたいと思います。

続いて、こうした現状を私たちが越えて行く一つの大きな方向性としての国際連帯についてお話します。
3月のベラルーシ、ドイツ、トルコ訪問、8月のトルコ再訪、10月のポーランド訪問(予定)などに触れます。
以上を1時間半の枠の中でお伝えします。

僕の講演のあとに福島から京都に避難移住されている方より「福島から避難して」というお話があります。
またこれを踏まえて「原発賠償訴訟について」のお話もあります。
お近くの方、ぜひお越しください!
(ちなみに前夜27日にも左京区のキッチンハリーナで投げ銭ライブを行います。こちらは18時30分から。じっくり聞きたいという方はこちらにもどうぞ。ただし満員になったら入れませんのであしからず・・・。)


続いて10月9日の滋賀県大見八幡市で「集団的自衛権は戦争への道」というタイトルでお話します。
午前10時から。サン・ビレッジ近江八幡にてです。

集団的自衛権を持つ意味についてのお話になりますが、とくにハイライトしたいのは中東のシリア・イラク情勢です。
今、アメリカは台頭する「イスラム国」に対して、シリア領内での空襲を開始しました。しかしロシアは反対しており、国連安保理での決議があげられない状態にあります。
僕自身は国連安保理で決議が上がったとしても、アメリカが空襲を行うことには反対ですが、今回の空襲に対してはアメリカの国内外からですら法的根拠がないという指摘が出ています。

アメリカは自衛権の行使だとして合法性を主張しており、さらに集団的自衛権の行使として、エジプトなどアラブの数国を引き込んで攻撃を行っています。
このようにアメリカは、自衛権も集団的自衛権も強引に使って、戦争を正当化しようとしています。
今回の攻撃にすぐに自衛隊が参加することはないでしょうが、集団的自衛権の行使が決まれば、こうした戦闘に自衛隊が参加することになります。

しかもこの空襲開始のタイミングで安倍首相が、国連の場で、この法的根拠のない攻撃を絶賛し、資金面での協力を約束してしまいました。
安倍首相のこの発言は、イスラム国だけでなく、アメリカの度重なる軍事侵攻に批判的な人々の日本への不信感や怒りを呼び覚ますものでしかありません。
これまで中東ではとても良かった日本へのイメージを悪化させ、在外日本人の安全も著しく低めることになってしまっています。

まさに集団的自衛権は戦争への道。
みなさんと平和を作る道を一緒に考えていきたいです。

10月12日から14日まで岡山県に行くことになりました。

12日は吉備中央町でお話します。
タイトルは「原発は?福島は今、どうなってるの?
子どもたちを守るため、できることは?
福島・東京・東日本の現状、これからの健康被害と対応、食べ物のことなど─」

午後4時から6時まで。吉川公民館(ホール)にてです。

13日は瀬戸内市長船長町の「福岡住宅」でお話します。
水害対策・原子力災害対策についてです。午前10時からです。

14日も同じく瀬戸内市中央公民館で水害対策・原子力災害対策についてお話します。
こちらも午前10時から。なお13日、14日ともに蝦名宇摩さんが声掛けしてくださいました!

以下、それぞれの企画の詳細を貼り付けておきます。

***

9月28日 京都市

2014年 第40回国際婦人年京都集会
13:30~16:30
京都弁護士会館
参加費1000円

第一部…「津軽三味線」蝦名宇摩さん、
第二部…講演 守田敏也さん「福島は今…原発事故、放射能汚染はどうなっているか」、
    報告「福島から避難して」「原発賠償訴訟について」

主催:国際婦人年京都連絡会(075-256-3320)
後援:京都府、京都市

連絡先 09052525764(井坂)

***

10月9日 近江八幡市

「安倍サンやめて!」懇談会 第2弾
「集団的自衛権は戦争への道」

日時  2014年10月9日(木) 午前10時~12時
場所  サン・ビレッジ近江八幡 ミーティングルームA・B
近江八幡駅南口出口から徒歩約9分 (男女共同参画センター北隣りです) 
お話  守田敏也さん(フリーライター)
参加費500円

今、日本は大国の中で唯一、第二次世界大戦後、軍隊が他国民を殺したことのない国として、アフガニスタンや中東、アラブでも良いイメージを持たれています。
しかし、集団的自衛権が行使されると、日本とは関係なくても自衛隊が海外で戦争し、人殺しをさせられるようになります。
自衛隊が参戦すると、日本の良いイメージが壊れるだけでなく、戦争の当事者として報復の対象にもなり、安全保障に逆行してしまいます。
自衛隊が戦争をしないように、人殺しをさせられないように、一緒に平和について考えましょう!

主催:平和をまもるために戦争許さない会
世話人代表:鈴木悛亮  世話人:真野生道、福井勝、峯本敦子、高谷順子
連絡先 070-6505-9741(高谷順子)

***

10月9日 近江八幡市

午後2時ごろより会場をあらためて放射線防護に関する講演会を検討中。
会場等が決まり次第、また案内を出します!

***

10月12日 岡山県吉備中央町

3.11 原発事故をもう一度考える‥
守田敏也 講演会

原発は?福島は今、どうなってるの?
子どもたちを守るため、できることは?
福島・東京・東日本の現状、これからの健康被害と対応、食べ物のことなど─

10/12(日)
開演16:00~18:00(開場15:30)
吉川公民館(ホール)
〒716-1241 吉備中央町吉川3930-8 TEL.0866-56-7020 
参加費 500円

***

10月13日 岡山県瀬戸内市

 

いつ起きるかわからない南海トラフの地震や、台風による災害など、私たちの身の回りには多くの災害の可能性が潜んでいます。
今回の会では、兵庫県篠山市の防災計画に関わっている守田敏也さん(フリージャーナリスト)と、
東日本大震災で被災し、瀬戸内市に子どもと移住してきた渡辺由紀子さんをゲストに迎え、
実際の災害時の状況とその時に私たちがとるべき行動、そして子ども連れでの避難生活などをテーマに防災講義を行います。

 

≪時間≫  10月13日(月・祝)10時~12時
≪場所≫  ふれあいプラザ
≪参加費≫ 無料
※参加者に防災グッズプレゼント

 

≪講演会の流れ≫
 9:45 会場
10:00 開演 
10:10 渡辺由紀子講演
10:30 守田敏也講演
11:30 質疑応答 
12:00 終了

 

≪講演者プロフィール≫
守田敏也
京都市在住兵庫県篠山市原子力災害対策検討委員会委員。同志社大学社会的共通資本研究センター客員フェローなどを経て、現在フリーライターとして活動中。
原子力政策に関して独自の研究・批判活動を続け被災地にも度々訪問。物理学者矢ヶ崎克馬氏との共著岩波ブックレットから『内部被曝』を上梓。
ブログ「明日に向けて」を通じて、連日、原発情報を発信中。
※会場で守田さんの本や講演会のDVDを販売しております。

 

渡辺由紀子
東京都出身。4姉妹の母。結婚後、宮城県南三陸町でカキ養殖と民宿を経営していたが、東日本大震災で津波被災。
南三陸町での再建を断念したが、素晴らしいご縁に恵まれ、瀬戸内市牛窓でカキ養殖業を再開する。
また、震災前より、誕生学アドバイザー・産後教室講師として、小学校や保育所や産後ママクラスなどで
ゲストティーチャーとして「いのちのお話」を届ける活動を続けている。

 

主催 福岡住宅町内会

 

***

10月14日 岡山県瀬戸内市

つむぐる&カンガルーポ合同企画
親子がそろって生き延びるための防災講座

もはや災害はヒコゴトじゃない!!
これからの防災をリアルに考える学習会

2014年10月14日(火)10:00~12:00瀬戸内市中央公民館 参加費200円
フリージャーナリスト守田敏也さんのお話&みんなでカフェ交流会

いつ起きるかわからない南海トラフの地震や、台風による災害など、身の回りで起きるかもしれない災害。そんな、もしもの為の防災講座を行います。実際の災害時はどんな感じなのか?
子どもを連れての避難生活は?その時、私たちはどう動くべきなのか?今回は、ゲストに守田敏也さん(フリージャーナリスト)をお迎えします。
守田さんは兵庫県篠山市の防災計画にも関わっていらっしゃいます。お話の後はカフェ形式で、先生を囲んでみんなで楽しくおしゃべりしましょう。
知らないより、知っていたほうが良い!備えあれば憂いなし!もしもの時の備えとして、ぜひご参加ください。定員30名くらいまで 

お申し込みは 文化☆体験ネット西大寺子ども劇場
●TEL&FAX 086-942-1544  
Email:info@npo.sakuraweb.com

主催:つむぐる
NPO法人文化☆体験ネット西大寺子ども劇場

 

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明日に向けて(941)訃報!宇沢弘文先生がお亡くなりになられました!

2014年09月26日 18時30分00秒 | 明日に向けて(901)~(1000)

守田です。(20140926 18:30)

社会的共通資本を守り、育み、発展させることを訴え続けた宇沢弘文先生がお亡くなりになられました。僕にとっても大恩ある方でした。
18日のことだそうです。ショックで正直なところかなりおろおろしている自分がいます。
何はともあれ今日はみなさんに、宇沢先生ご逝去の報をお伝えします。

各社のニュースでも報道されていますが、NHKは宇沢先生のお元気な時のお姿が流してくれています。ぜひご覧ください。短いですがいかにも宇沢先生らしい語りを観ることができます。
他紙の報道も貼り付けておきます。

宇沢先生。
生涯を貫いて豊かな社会の実現のためのご奮闘され、心に響く思想、論文、言葉をたくさんのこしていただき、本当にありがとうございました。どれほど感謝してもしきれません。
先生のご努力にお応えし、社会的共通資本を守り発展させるため、核のない平和な社会を実現するために、今後もなお一層、身命を賭した努力を続けます。
先生。どうか安らかにお眠りください。合掌。

***

経済学者の宇沢弘文さん 死去
NHK 9月26日 10時42分
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140926/k10014886591000.html

日本を代表する経済学者で、公害などの社会問題の解決にも尽力した東京大学名誉教授の宇沢弘文さんが今月18日、肺炎のため東京都内で亡くなっていたことが分かりました。86歳でした。

宇沢さんは鳥取県の出身で、東京大学理学部数学科を卒業後、経済学の研究を始め、アメリカに渡りシカゴ大学の教授などを歴任しました。
経済成長や消費者の行動を数学的な方法で分析する数理経済学の研究を進め、安定した経済成長のための必要な条件を、「消費」と「投資」の2つに分けて示した「2部門経済成長モデル」で注目を集めました。
昭和44年に東京大学の教授に就任したあとは公害問題などにも取り組み、自動車による交通事故や大気汚染などの影響を経済学的な視点で分析して、対策に必要な費用を利用者も負担して問題の解決につなげるべきだと指摘しました。
水俣病にも目を向け、自然環境や教育、医療など文化的で豊かな生活をするうえで欠かすことのできないものを「社会的共通資本」と位置づけ、効率や経済利潤から守るべきだと提唱しました。
その後、成田空港問題の平和的な解決に尽力したほか、地球温暖化の問題では、二酸化炭素を排出する企業などにコストを負担させる「炭素税」を導入するよう求めるなど社会的な提言を続けました。
こうした功績で平成9年に文化勲章を受章し、平成21年には環境問題の解決に尽くした研究者などに贈られる「ブループラネット賞」を受賞しました。
宇沢さんは3年前に体調を崩し、自宅で療養を続けていたということです。

「経済学の基礎作った功績は計り知れない」

宇沢さんの教え子で学習院大学経済学部の宮川努教授は「研究熱心な方で、授業のあとは毎回、われわれ学生と一緒に夕食を食べながら経済学のさまざまな話を聞かせてくださいました。
一般的に『経済学』と呼ばれている学問の基礎を作ってきた研究者の1人で、その功績は計り知れません。
経済発展によって人々の暮らしを豊かにするための研究だけでなく、公害問題など、経済発展がもたらす負の側面にもしっかりと目を向けてその解決に努力され、社会的な影響は非常に大きい」と話しています。

***

理論経済学者の宇沢弘文さん死去 環境問題でも積極発言
朝日新聞 2014年9月26日10時35分
http://www.asahi.com/articles/ASG9V316KG9VULFA005.html
 
世界的に知られた理論経済学者で、公害や地球環境問題にも積極的な発言を続けた東京大名誉教授の宇沢弘文(うざわ・ひろふみ)さんが18日、脳梗塞(こうそく)のため、東京都内で死去していたことがわかった。86歳だった。葬儀は近親者で営まれた。喪主は妻浩子さん。
鳥取県生まれ。東京大理学部数学科を卒業後、経済専攻に転じた。1956年に渡米し、スタンフォード大準教授やシカゴ大教授などを歴任。市場に任せる新古典派の成長理論をベースにした数理経済学者として活躍した。
消費財と投資財をつくる部門がそれぞれどのような過程を経て資本蓄積がなされるかを考察した「2部門経済成長モデル」などの研究で評価された。

ベトナム戦争に深入りする米国への批判から、68年に帰国。翌年、東大経済学部教授に就いた。74年に都市開発や環境問題への疑問を提起した「自動車の社会的費用」を発表。環境や医療、福祉、教育などで構成する「社会的共通資本」の整備の必要性を説いた。
東大を定年退職後は新潟大、中央大を経て同志社大社会的共通資本研究センター長に。ノーベル賞受賞者らが名を連ねる国際学会エコノメトリック・ソサエティーの会長や、理論・計量経済学会(現・日本経済学会)の会長も務めた。
83年に文化功労者、97年に文化勲章を受章した。ノーベル経済学賞の候補としても長年、名前が挙がり続けた。
地球環境問題の啓発に力を注いだほか、93年に設立された「成田空港問題円卓会議」のメンバーとして国と農家の調停役を引き受けた。
2000年代前半には「脱ダム」政策を掲げた田中康夫・長野県知事(当時)の諮問委員会に参加。環境税や旧住宅金融専門会社(住専)問題、教育、医療制度のあり方でも積極的に発言した。

「近代経済学の転換」「地球温暖化の経済学」など多数の著書がある。

***

宇沢弘文東大名誉教授が死去 経済成長論で先駆的業績
日経新聞 2014/9/26 1:30
http://www.nikkei.com/article/DGXLASGH2500O_V20C14A9MM8000/

日本の理論経済学の第一人者で、文化勲章を受章した東京大学名誉教授の宇沢弘文(うざわ・ひろふみ)氏が18日、肺炎のため東京都内で死去していたことが明らかになった。86歳だった。既に密葬を済ませている。

1951年、東京大学理学部卒業と同時に特別研究生となり、経済学の研究を始めた。後にノーベル経済学賞を受賞した世界的な経済学者、ケネス・アロー氏の招きで56年に渡米、スタンフォード大助教授やシカゴ大教授などを歴任した。68年に帰国し、翌年、東大経済学部教授に就任した。
得意の数学をいかして60年代、数理経済学の分野で数多くの先駆的な業績をあげた。経済が成長するメカニズムを研究する経済成長論の分野で、従来の単純なモデルを、消費財と投資財の2部門で構成する洗練されたモデルに改良。理論の適用範囲を広げ、後続の研究者に大きな影響を与えた。その業績の大きさからノーベル経済学賞を受賞する可能性が取りざたされたこともある。

70年代に入ってからは研究の方向性が大きく変化した。ベストセラーになった「自動車の社会的費用」(74年刊)では、交通事故や排ガス公害などを含めた自動車の社会的コストを経済学的に算出し、大きな話題を集めた。地球温暖化をはじめとする社会問題にも積極的に取り組み、発言・行動する経済学者としても知られていた。
83年に文化功労者、89年に日本学士院会員に選ばれ、97年に文化勲章を受章した。「近代経済学の転換」「経済動学の理論」など多数の著書がある。2002年3月には日本経済新聞に「私の履歴書」を執筆した。

***

故宇沢弘文氏、公害など社会問題批判 多分野に「門下生」
日経新聞 2014/9/26 1:30
http://www.nikkei.com/article/DGXLASGC2500E_V20C14A9EE8000/

宇沢弘文氏は経済学者として海外でもその名を知られ、ノーベル経済学賞の有力候補として期待された数少ない日本人だった。理論経済学で大きな業績を残した一方で、持ち前の批判精神から1970年代以降は一貫して「人間性の回復」を訴え、行動し続けた。
宇沢氏が経済学者として頭角を現したのは、50年代後半から60年代にかけての米国時代。初期の業績は、市場による調整機能を重視する「新古典派」理論に基づく成長理論。同氏の名を冠した「宇沢2部門成長モデル」という専門用語ができたほどで、発展途上国の支援策を検討する際などに幅広く利用され、新興国の台頭を陰で支えた。
しかし帰国して間もなく、研究対象を公害問題や環境問題に移した。74年に出版した「自動車の社会的費用」は大きな反響を呼んだ。熊本県・水俣などの公害現場に何度も足を運んだほか、成田空港問題でも円卓会議の座長として国と農家の和解に向けて努力した。

自らの思想信条へのこだわりと、フットワークの良さも人並みはずれていた。日本のどこかで公害問題が起きていると聞けば、リュック一つ背負って直ちに現地に飛び、実地調査する生活を続けた時期もあった。
また、学校、病院といった社会的インフラから自然環境までを包含する「社会的共通資本」という概念の重要性を提唱。環境、教育、医療などについても積極的に発言した。地球温暖化を防ぐため、二酸化炭素の排出1トンあたりの税率を1人あたり国民所得に比例させる「比例的炭素税」の導入などを提言した。

功績は経済理論の構築にとどまらない。教育者としての影響の大きさはよく知られている。2001年にノーベル経済学賞を受賞したジョセフ・スティグリッツ米コロンビア大学教授をはじめ世界中の様々な分野で「門下生」が活躍している。
日本に戻ってからの教え子では、岩井克人・国際基督教大学客員教授が代表格。40歳代の若手も含め、日本で活躍する経済学者の多くが宇沢氏の薫陶を受けた。
(経済解説部 松林薫)

***

訃報:宇沢弘文さん86歳=経済学者、消費社会を批判
毎日新聞 2014年09月26日 02時31分(最終更新 09月26日 09時29分)
http://mainichi.jp/select/news/20140926k0000m040147000c.html

東大名誉教授で世界的な経済学者である宇沢弘文(うざわ・ひろふみ)さんが18日、肺炎のため死去した。86歳だった。葬儀は親族で営んだ。喪主は妻浩子(ひろこ)さん。

1951年東大理学部数学科卒。経済学に転じ、56年に渡米、58年に米スタンフォード大経済学部助手となり、のち助教授、准教授。カリフォルニア大経済学部助教授、シカゴ大教授を経て、69年から東大経済学部教授。80?82年に学部長を務める。
83年に文化功労者、97年に文化勲章受章。数理経済学の分野で多くの実績を上げ、新古典派経済学の発展に大きな影響を与えた。

しかし、70年代以降は市場原理優先の新古典派理論を批判する立場に転換。環境保全への視点から生産、消費優先の先進国の在り方に疑問を呈してきた。二酸化炭素の排出に対し、国民所得に比例した「炭素税」を各国に課すことも提案。東大教授時代は、電車や車を使わず、自宅からジョギングで通っていた。
一時は、ノーベル経済学賞に最も近い日本人学者といわれた。

東日本大震災直後の2011年3月21日、脳梗塞(こうそく)で倒れ、その後、自宅などでリハビリを続けていた。
主要著書に「近代経済学の再検討」「自動車の社会的費用」「地球温暖化の経済学」「社会的共通資本」などがある。

***

宇沢弘文さん死去:数理経済学で実績 温暖化防止訴えも
毎日新聞 2014年09月26日 07時10分
http://mainichi.jp/select/news/20140926k0000m040145000c.html

18日に亡くなった文化勲章受章者の宇沢弘文・東大名誉教授は、マクロ、ミクロ両経済学の分野で先駆的な業績を上げ、世界計量経済学会会長を務めるなど、世界的な経済学者として活躍した。
同時に環境破壊など現代文明に対する鋭い批判者としても知られ、地球温暖化防止などを訴え続けた。

宇沢さんは1951年に東大理学部数学科を卒業。生命保険会社に一時勤務したが、経済学に転じ、渡米。スタンフォード大で助教授、准教授を歴任。カリフォルニア大経済学部助教授、シカゴ大教授を経て、69年から東大経済学部教授となった。
50年代から70年代にかけ、数理経済学の分野で数多くの実績を上げた。特に高い評価を受けたのは、消費財と資本財の2部門の成長モデルの構築。農業と工業が成長を遂げるため、土地、資本、労働など生産要素が部門間でどう移動すればいいかを理論的に実証した。

しかし70年代以降は、次第に市場原理を優先する現代新古典派理論に疑問を抱き、同理論を激しく批判する立場をとった。公害など環境問題に対応できていないという不満からだった。地球温暖化など環境問題への発言は多く、生産、消費優先の先進工業国のあり方に疑問を投げかけた。
90年8月には、毎日新聞のインタビューに対し、「石油、石炭をふんだんに消費し、環境保護の費用を出し惜しんできた工業文明のツケが、今、私たちに回ってきている」とし、「将来の世代と開発途上国に負担を肩代わりさせないよう、生産、消費のコストに温暖化を減らす費用を急ぎ組み込まねばなりません」と語った。
当時、宇沢さんが提唱した「炭素税(カーボン・タックス)」を世界各国に課すというアイデアは、その税収で大気安定化国際基金を設け、発展途上国の森林作りなどに役立てるという狙いだった。そうした環境面での国際貢献で日本が先頭に立つよう、強く訴えた。

企業活動と環境保全をどう両立させるかについて、宇沢さんは「経済成長率が高いということは、地球の温暖化や日本の経済摩擦のような好ましくない問題を引き起こす。本来なら経済成長率は低いほど望ましい」とさえ述べていた。
97年に地球温暖化防止に向け、京都議定書が締結され、先進国が温室効果ガス削減目標を定めたが、日本で官民による環境保全の流れを作る上で、宇沢さんの主張は大きな影響を及ぼした。
近年は、環太平洋パートナーシップ協定(TPP)の反対運動に携わり、日本の農業保護などを訴えていた。

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明日に向けて(940)福島原発は津波ではなく地震で壊れた!(吉田調書を主体的に読み解く-3)

2014年09月25日 12時30分00秒 | 明日に向けて(901)~(1000)

守田です。(20140925 12:30)

福島原発事故をめぐる吉田調書の読み解きの3回目ですが、今回から吉田調書の原本全文を分析・引用対象としていきたいと思います。
日経新聞の以下のページにPDF版が掲載されていますので、アドレスを紹介しておきます。

 政府が公開した吉田所長・菅首相(事故当時)らの調書
 2014年9月11日19:34
 http://www.nikkei.com/article/DGXZZO76947290R10C14A9000000/

この調書を読み始めるとすぐに出てくるのは、吉田所長に対する質問者が記憶を辿ることに難しさもあるだろうということで、東電が発表している時系列を用意しそれに沿って話を進めこると提案していることです。
もちろん吉田所長には「違うと思われれば、そのままおっしゃっていただければ結構です」と告げられていますが、そもそも吉田所長とて東電の幹部であり、当然にも東電と細かな打ち合わせをしてこの聴取に臨んだと考えられます。
このため吉田調書は東電の書いた多分に自己防衛的な事故の経過説明に沿っていること、東電の書いた筋書きに寄り添っているものでもあることを頭に入れておくべきです。

とくに3月11日の述懐にはこの点で非常に重要なポイントが含まれています。というより福島原発事故の経過過程の中でも最も重要なポイントが3月11日にあります。
この日、14時46分に大震災が起きました。津波の第一波の到着が15時27分。問題はこの間に何が起こったのかです。
東電と吉田所長の主張はこうです。地震で送電線か何かが壊れ外部電源が喪失した。そのため非常発電用のディーゼルエンジンが動き出した。しかし津波でエンジンが壊れてしまい、全交流電源喪失に陥り冷却ができなくなった・・・。

一方で元日立の原子炉圧力容器の設計者、田中三彦さんは1号機のパレメータを詳細に分析する中から、大地震の直後に配管切断が生じ、冷却水漏れが生じたとみられること、津波の前にメルトダウンに向かう一連の事態が発生したことを示唆しています。
これは非常に大きなポイントです。東電のシナリオでは非常用のディーゼルエンジンが津波にさらされる位置にあったことが問題になります。反対に言えば非常用電源を高台にあげ、津波の影響を受けないようにすれば今回のような事態は避けられることになる。
しかし田中三彦さんの解析に沿うのであれば少なくとも1号機は地震によって壊れていたことになる。耐震基準が間違っていたということです。だとすれば同じ耐震基準で作られたすべての日本の原発が同じ危機を孕んでいることになり、設計から改めない限り動かしてはいけないことになる。

その際に大きな位置を持つのが1号機にのみ存在している非常用復水器(アイソレーション・コンデンサー ICと略記されている)の存在です。
これは技術的に古いものだそうですが、原子炉内の蒸気の圧力が高まると自動的に動き出す装置で、ユニークなのは電源に依存してないものであることです。そのため電源喪失時でも動いてくれた。
仕組みとしては、圧力が高まった蒸気を復水器に招き、復水器に貯められた水の中に蒸気を吹かすようにできている。蒸気は水の中に誘導されると水に戻る=復水するのです。そうなると体積が一気に小さくなります。温度も100℃以下になる。圧力と温度が下げられます。

この非常用復水器が電源を喪失した直後の14時52分に稼働し始めているのです。これらの機器の作動はすべて自動記録されるようになっておりパラメータが公開されているのですが、それがなんとも不思議なことに15時03分に運転員によって手動停止されているのです。
田中さんは他のさまざまな数値の解析とあわせ、この停止は復水器の動作が必要なくなったからだと運転員が判断したためと推測しています。配管が破断して冷却水が漏れ始めたために炉内の圧力と水位が落ちだしたため、復水器は必要なくなった。むしろ水位をより下げてしまいかねないのでスイッチオフにした。
これに対して東電の発表では、原子炉の運転マニュアルに急激な温度変化(1時間以内に55℃以上)を避けよと書かれているため、運転員がこれにしたがったと説明されています。

これは明らかにおかしい。田中さんは「ウソです!」と明言しています。なぜならこのマニュアルは平常時のものだからです。金属は急激な熱変化を繰り返すとその分だけより早く経年劣化をするので、運転停止にいたるときに急激に冷やさないような配慮が示唆されているのです。
非常時にはそんなことにかまってなどいられない。緊急冷却装置であるECCSが作動するときなど、もっとたくさんの水をいきなりスプレーして炉内を冷やす設計になっている。あたり前の話として経年劣化など考慮しているときではないからです。
東電の説明には明らかに緊迫した事態の中での対応としては矛盾があるのです。一刻の猶予もなく炉内の圧力を下げたいときに、電源喪失の中でも稼働してくれた命綱とも言える非常用復水器を止めることなど考えられない。どこからからか冷却水が漏れ出して圧力が下がったから止めたと考えるのが合理的なのです。

なおこれら一連の問題を田中三彦さんが「原子力資料情報室」の場を借りて解説してくださった内容をテープ起こしした記事をご紹介しておきます。6月21日に行われたものです。
今、読み返してみても圧巻です。なお全文を読まれる場合は(176)をご参照ください。読みやすいように文字を大きくし記事を二つに分ける加工を加えておきました。(171)は2011年6月25日に、(176)は6月29日に配信したものです。
全体として重要で、吉田調書の読み解きのため前提として押さえておくべき必須の考察ですが、後半で田中さんは「東電発表の読解の仕方」とでもよべるべき優れた観点も提示してくださっています。この点は稿をあらためてまた解説しようと思います。

 明日に向けて(171)地震による配管破断の可能性と、東電シミュレーション批判(田中三彦さん談)
 http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011/e/b3708b03147d12b3864f0c8fc3819642

 明日に向けて(176)地震による配管破断の可能性と、東電シミュレーション批判(田中三彦さん談再掲1)
 http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011/e/f1914e7352792c89767a9c7585ee4a00

 明日に向けて(176)地震による配管破断の可能性と、東電シミュレーション批判(田中三彦さん談再掲2)
 http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011/e/8d603fe6649fe963d189d712df46e0c5


さて吉田氏へのこの部分の聴衆が行われたのは7月22日。原文を読むと質問者の側が明らかに田中さんの提示している内容を強く意識して話を進めていることが分かりますが、東電は早くも2011年末にこの問題への対応を行っています。
というのは調書のここの部分だけは、東京新聞の情報開示請求に基づいて2011年12月6日に保安院から発表されたのですが、その時に、実は吉田所長が非常用復水器が止められていたことに気づいていなかったことが調書に基づいてハイライトされたのでした。実際に吉田所長は、「復水器がずっと動いていると思っていた」と述べていたのです。
これに続いて東電は関連団体から8日に、もし吉田所長が復水器の停止に気がついていたらメルトダウンには至らなかった可能性が高いと発表させました。非常用復水器がなぜ止められたのかの問題を、止まっていることを知らなかった問題にすり替えた上で、メルトダウンの責任を吉田所長に被せたのです。

当時に東電は、事故前に指摘されていた想定外の津波が襲う可能性のレポートを、前職時に吉田氏が握りつぶしてしまったこともあわせて発表しました。メルトダウンさせてしまったことにも、津波を想定できなかったことにも、吉田氏の責任が大きいと発表したわけです。
ただそれで吉田所長をさらし者にしたのかというとそうでもなく、当時に東電は吉田所長が「食道がん」であることも発表。会見で被ばくの影響も匂わさせつつ、病を理由とした辞任を発表しました。実際に吉田氏はその後にすぐに入院してしまいました。
このことで記者たちは一方的に発表を聞かされただけで、吉田氏に取材しようにもできなくなってしまったのですが、これらの一連の発表の流れが東電によって用意周到な準備の上になされたことは明らかです。ポイントはあくまでも復水器の手動停止が物語る配管破断の可能性を隠してしまうことでした。このことを分析した記事をご紹介しておきます。

 明日に向けて(350)非常用復水器停止を所長は知らなかった?(東電・経産の原発生き残り戦略を暴く2)
 2011年12月9日
 http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011/e/85081b4ab51e4147406358fdc63a338c

これら一連の過程を振り返るならば、吉田調書が冒頭において、原発が地震で壊れたのか、津波で壊れたのかという大問題を孕んでいることが非常によく見えてきます。
また東電が復水器を稼働後11分という短さで手動停止した合理的理由を最後まで説明せず、問題のすり替えを行ったこともはっきりと理解できます。もちろんすり替えねばならなかったのは、地震による配管破断以外に手動停止の説明がつかないからです。
ここから明らかになるのは、吉田調書を額面通り受け取ってはいけないという点です。東電の仕掛けた自己防衛のストーリーにはまってしまうからです。そのためには「東電発表の読み解き方」を身に付けておく必要がある。次回はこれを行いたいと思います。

続く

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明日に向けて(939)シビアアクシデントには有効な対策などない!(吉田調書を主体的に読み解く-2)

2014年09月23日 23時00分00秒 | 明日に向けて(901)~(1000)

守田です。(20140923 23:00)

福島原発事故をめぐる吉田調書の読み解きの2回目です。なお読み解きの前提として東京新聞に掲載された「吉田調書要旨」を使わせていただきます。アドレスを紹介しておきます。
http://www.tokyo-np.co.jp/feature/tohokujisin/archive/yoshida-report/

このうち今回、取り上げたいのは3月11日の報告です。この日の14時46分、東日本大震災が発生しました。
これまでの原発事故調などの調査の中で、この大地震の影響で福島原発の配管のどこかが破断し、冷却水漏れが始まっていたことが強く推定されていますが吉田氏はこれには触れておらず、15時37分に津波の到来の中で全交流電源喪失が起こり、危機が始まったとしています。
以下、当該部分を引用します。


 「異常が起こったのは(十五時)三十七分の全交流電源損失が最初でして、DG(注 非常用ディーゼル発電機)動かないよ、何だという話の後で、津波が来たみたいだという話で、この時点で『えっ』という感覚ですね」
 「はっきり言って、まいってしまっていたんですね。シビアアクシデント(過酷事故)になる可能性が高い。大変なことになったというのがまず第一感」
 「絶望していました。どうやって冷却するのか検討しろという話はしていますけれども、考えてもこれというのがないんです。
  DD(ディーゼル駆動の消火ポンプ)を動かせば(炉に水が)行くというのは分かっていて、水がなさそうだという話が入り、非常に難しいと思っていました」
 (引用は東京新聞から。http://www.tokyo-np.co.jp/feature/tohokujisin/archive/yoshida-report/01.html


冒頭から非常に重要なポイントが出てきます。「全交流電源喪失」という事態を前にして、現場の総指揮官が思ったことは「はっきり言って、まいってしまっていたんですね」「絶望していました」ということだったことです。
また「どうやって冷却するのか検討しろという話はしていますけれども、考えてもこれというのがないんです」とも語っています。
私たちが何よりしっかりと把握しておかなければならないのは、これがシビアアクシデント(過酷事故)の実相だということです。

2012年9月に解散された原子力安全・保安院はシビアアクシデントを以下のように規定していました。
「設計上想定していない事態が起こり、安全設計の評価上想定された手段では適切な炉心の冷却又は反応度の制御ができない状態になり、炉心溶融 又は原子炉格納容器破損に至る事象」。
(引用はウキペディア「シビアアクシデント」より 
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%93%E3%82%A2%E3%82%A2%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%87%E3%83%B3%E3%83%88

吉田氏が「はっきり言って、まいってしまっていた」「絶望していた」と答えているのはこの時始まった事故が「設計上想定していない事態が起こり、安全設計の評価上想定された手段では適切な炉心の冷却又は反応度の制御ができない状態」だったからです。
「考えてもこれというのがない」・・・当然です。想定されていない事態だからです。自動車で言えばブレーキが壊れて止まらなくなってしまった状態です。
ここがなぜ重要なのかと言うと、福島原発で現場指揮官が絶望してしまうような事態が起こってしまったこと、シビアアクシデントが発生したということは、日本のすべての原発の設計そのものが問い直されなければならないことをこそ物語っているからです。
このことが現実に起こったシビアアクシデントに即して、また吉田氏のこの臨場感ある述懐に即して、突き出していかなければならないことなのです。

ところがその後「シビアアクシデント対策」なる言葉が登場してきます。原子力安全・保安院を引き継いで設立された原子力規制委員会が2013年2月6日に「新安全基準(シビアアクシデント対策)の骨子案」を発表しています。
https://www.nsr.go.jp/public_comment/bosyu130206/kossi_sa.pdf

この「対策」は安全設計思想に明らかに矛盾したものです。なぜなら「設計上あってはならないこと」=「想定外の事態」への「対策」だと言っているからです。当たり前のことですが人間が対策を立てられるのは想定できることに対してだけです。
想定外の事態への対応とは、成功するかどうか分からないままに手当たり次第に思いつくことをやるようなものです。実際にそうした事態に遭遇したらなんでもやってみるしかないし、事実、吉田氏はそういう対応が問われたのでした。
しかしここから捉え返すべきは、設計そのものが間違っていたということであり、原発を再度稼働させるというのなら、少なくとも設計からやり直し「想定外」のシビアアクシデントが起こらないようにすべきなのです。

当時も今も、まさにここにこそ報道の焦点を当てなければならないのに、ほとんどのマスコミは「シビアアクシデント対策はしっかりとなされているのか」というような話に流れていってしまいました。東電にミスリードさせられてしまったのです。
僕が知る限りでは当初よりこのことを最も的確に捉え、批判的解説を繰り返していたのは元東芝の格納容器設計者、後藤政志さんでした。僕も多くを学びました。しかしこうした見識を捉えて政府批判にきちんと適用したマスコミも政党も残念ながらありませんでした。
再稼働の動きもこの重大問題をぼかしたまま出てきていることを私たちは今からでもきちんと捉え直し、シビアアクシデント対策を施せば良いのではなく、最低でも設計そのものを見直すべきこと、原発容認の立場からしてもそれが最低守るべき安全思想であることをおさえるべきです。

では原子力推進派はこの点をどうとらえたのか。実はまさにこの点にこそ再稼働のネックであることをつかみ「新安全基準(シビアアクシデント対策)の骨子案」に対する意見募集に対して次のように指摘しています。


 「「シビアアクシデント」の日本語訳は「過酷事故」とすべき。」
 「「シビアアクシデント」ではなく「重大事故」とし、「設計基準事象を大幅に超える」での大幅を削除すること。恣意的な解釈になり得る。」


これに対して原子力規制委員会は「考え方」として以下のように答えています。

 「「重大事故」とし、改正原子炉等規制法の定義を用います。」
 (引用は「新安全基準(シビアアクシデント対策)骨子案へのご意見について」より
  https://www.nsr.go.jp/committee/yuushikisya/shin_anzenkijyun/data/0019_11.pdf


そうしてこれ以降、徐々に「シビアアクシデント」の言葉が消え、「重大事故、いわゆるシビアアクシデント」などと使われるようになっていってしまいます。
一例として中部電力のホームページでの説明を貼り付けておきます。


 「シビアアクシデントとは、炉心が大きく損傷するような重大事故のことです。
  シビアアクシデントに至る恐れのある事態が万一発生した場合、それが拡大するのを防止するため、もしくは拡大した場合にもその影響を緩和するために実施する対策をシビアアクシデント対策といいます。
  シビアアクシデント対策については、これまで事業者が自主的に実施してきましたが、福島事故を契機に、「重大事故基準」として、国の新規制基準に導入されました。」
 (引用は中部電力ホームページ「お客様の声 重大事故対策」
  http://hamaoka.chuden.jp/voice/others_detail07.html


ここで行われていることは何だったのか。想定外の事故=シビアアクシデントを二度と起こさないように設計から見直していくという誠実な方向性ではなく、全く逆に「想定外」のシビアアクシデントが起こり、かつこれからも起こる可能性があることを隠してしまうことだったのです。
そうしてシビアアクシデントが「重大事故」に読み替えられ、「対策」を立てるといいだした。要するに事故は想定できるのだ、今のままの設計で対策は可能なのだというところに話が捻じ曲げられていったのです。本当に悔しいかな、どこのマスコミもこれを批判してこれなかった。

それではそもそも「重大事故」とはいかに規定されていたものなのか。
日本の原子力関係各界で勤務してきた退職者、要するに原子力村の人々が組織している「エネルギー問題に発言する会」の会員座談会の席上で、日本原子力研究開発機構安全研究センター副センター長の更田豊志氏が以下のように述べたことが紹介されています。


 「現在の安全規制では事象を「運転時の異常な過度変化」「事故」「重大事故」「仮想事故」「シビアアクシデント」に分類している。
  このうち、「運転時の異常な過度変化」と「事故」は設計基準事象(DBE)として安全設計、安全評価の対象であり、「重大事故」「仮想事故」は立地評価の対象であるが、「シビアアクシデント」は安全審査の対象外である。」
 

なんのことはない。もともと「重大事故」は「シビアアクシデント」よりも下位に位置づけられていたものなのです。ちなみに「重大事故」とは技術的にありうることが想定できる深刻な事故、「仮想事故」とは技術的にありうるとは考えらえないが対応を想定している深刻な事故のこと。
そしてこの上に「シビアアクシデント」があり「安全審査の対象外」だったのです。なぜ対象外だったのか。安全対策の立てようがない事故だからであり、あってはならないものとされていたからです。ちなみにこの座談会の中でも前掲したものと同じく以下のように「シビアアクシデント」の規定が語られています。
 

 「設計基準事象を大幅に超える事象であって、安全設計の評価上想定された手段では適切な炉心の冷却または反応度の制御ができない状態であり、その結果、炉心の重大な損傷に至る事象を指す。」
 (引用は同会会員座談会報告より 
  http://www.engy-sqr.com/lecture/document/zadankai110721r2a.pdf


この「シビアアクシデント」を「重大事故」に読み替えてしまうのは、極めて悪質な、設計思想上の概念のすり替えです。モラルハザードに陥っているこの国で頻発している食品の産地偽装や品質表示の偽造よりももっと格段にひどい。
「シビアアクシデント」という事態の持っている深刻性はこの言葉とともにこうして消されつつあるのです。しかし今、吉田氏の赤裸々な述懐が明らかになることによって、あのとき起こったのが「シビアアクシデント」であったことが再びハイライトされた。だからこそ私たちはここに立ち戻って思考しなければならない。
さらに胸に突きつけるべきは、このシビアアクシデントがまだ収束していないことです。今の福島第一原発の現状そのものが想定外なのです。だからあの手、この手で対応せざるを得ないし、それもなかなかうまく行ってないのです。
この事故はいつまた深刻さを増し私たちに重大な危機を突きつけてくるかも分からないことがここに懐胎されています。だから本当にすべてをこの事態への対応に集中しなくてはいけないのです。

この危機感、緊張感をこそ、私たちはこの調書から読み取らなければなりません。
吉田調書の主体的読み解きを続けます!

続く

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明日に向けて(938)吉田所長が語った福島原発事故の壮絶な恐ろしさ(吉田調書を主体的に読み解く-1)

2014年09月22日 22時30分00秒 | 明日に向けて(901)~(1000)

守田です。(20140922 22:30)

福島第一原発事故の吉田調書の問題を論じたいと思います。

ご存知のようにこの調書は当時の福島第一原発所長だった故吉田氏から政府事故調査・検証委員会が聞き取ったもの。今年の春先に朝日新聞がスクープしましたが、その一部に誤報があったとしてこの間、大騒ぎが起こりました。
ただしこの大騒ぎはおかしい。吉田調書で最も大事な点は、福島原発事故がどれほど恐ろしいものであったのかということが明らかにされた点です。この間の朝日新聞の誤報に対する騒ぎは、吉田調書が明らかにしている最も大事な教訓を大きく捻じ曲げてしまっています。
これには意図的な面と非意図的な面があると思います。意図的な面は政府や原子力村など、再稼働を進めたい人々が、吉田調書が赤裸々に明らかにしている原発の危険性から人々の意識をずらそうとしているということです。
おそらく政府も朝日新聞バッシングの体制が整ったことを見据えて、吉田調書の公開に踏み切ったのだと思います。

他方で非意図的な面とは、政府や原子力村、朝日新聞バッシングに躍起となっている人々を含めて、災害心理学に言う正常性バイアスに浸りきっており、原発の恐ろしい危険性という不都合な事実から目をそらしたい心情にかられていることです。
正常性バイアスとは、人間が危機に陥った時に危機そのものを認めないことで、精神の安寧を守るとする心理的メカニズムが生じさせるもの。事態は正常なのだ、ないしは正常に戻っていくのだと言うバイアス(偏見)をかけてしまい、危機を無視して精神を守ろうとするものです。
少し冷静に考えてみれば、「愛国」の立場からも、「祖国を守る」立場からも、原発事故の巨大な危険性をしっかりと把握し、少なくとも(つまり百歩譲っても)福島原発事故をきちんと解明し、同じことを起こらないようにできるか技術的に検討し、可能なら対策を施していく。それまでは原発を再稼働させない方が良いことは明らかです。
にもかかわらず、危機を一切見ようとせずに自分にとって都合のいいことだけを考えてしまっている。人間精神の抜本的脆弱性と言えますが、僕はこの国の中枢に居座る人々を含めて、多くの人々がこうした心情に浸っていると思います。要するに、誰も「国難」に身を呈して立ち向かおうなどとはしていないのです。

この国家的な「正常性バイアス」を最もあおってきたマスコミの一つが、この間、口を極めて朝日新聞をバッシングしている産経新聞です。
というのは原発事故が起こった当初、当時の菅首相が原発事故の深刻さを思わず漏らし「最悪の事態となったとき東日本はつぶれる」と漏らしたことに対して「菅首相は歩く風評被害だ」と呼号し、危機を語ることそのものにものすごいバッシングを加えたからです。
こうした言説は何回か繰り返されましたが、中でも2011年4月22日の記事が顕著です。タイトルは「『東日本つぶれる』『20年住めない』…首相は『歩く風評被害』」です。
記事には次のようなことが書かれています。


「「思いつき」だけの軽はずみな発言を続ける首相はもはや「歩く風評被害」というほかない。
 「最悪の事態となったとき東日本はつぶれる」
 「(福島第1原発周辺は)10年、20年住めないのかということになる」
 これまで首相はこんな風評を流した。行政の長でかつ「ものすごく原子力に詳しい」と自負する人がこんな無責任な発言をすれば、国内外で「日本、特に福島県の製品・産品は危険なのではないか」と不安が広がっても仕方あるまい。」
 (引用はブログ「阿修羅」の掲載された当時の産経新聞より http://www.asyura2.com/11/senkyo112/msg/141.html


しかしこれは福島第一原発所長であった吉田氏自身が認識していたことがらなのです。吉田調書では3月14日に原子炉2号機の注水がうまくいかなかった瞬間をめぐって吉田所長がこのように述懐していたことが記されています。


 「2号機はこのまま水が入らないでメルト(ダウン)して、完全に格納容器の圧力をぶち破って燃料が全部出て行ってしまう。そうすると、その分の放射能が全部外にまき散らされる最悪の事故ですから。
 (旧ソ連の)チェルノブイリ(原発事故)級ではなくて、チャイナシンドロームではないですけれども、ああいう状況になってしまう。そうすると、1号、3号の注水も停止しないといけない。これも遅かれ早かれこんな状態になる」
 「結局、放射能が2F(福島第二原発)まで行ってしまう。2Fの4プラントも作業できなくなってしまう。注水だとかができなくなってしまうとどうなるんだろうというのが頭の中によぎっていました。最悪はそうなる可能性がある」
 「3号機や1号機は水入れていましたでしょう。(2号機は)水入らないんですもの。水入らないということは、ただ溶けていくだけですから、燃料が。燃料分が全部外へ出てしまう。プルトニウムであれ、何であれ、今のセシウムどころではないわけですよ。
  放射性物質が全部出て、まき散らしてしまうわけですから、われわれのイメージは東日本壊滅ですよ」
 (引用は東京新聞2014年9月12日 吉田調書要旨より http://www.tokyo-np.co.jp/feature/tohokujisin/archive/yoshida-report/04.html

吉田所長ははっきりと、チェルノブイリ級事故を越えてしまう可能性を述べています。東日本壊滅がイメージされていたのです。
当時の菅首相が漏らした言葉は、こうした現場指揮官の認識と一致していたのであって、マスコミに問われたのは、菅首相に発言の根拠を根掘り葉掘り問いただし、私たちの国、住民が直面している真の危機を明らかにすることでした。
ところがどのマスコミもそうした方向性をとらなかった。そればかりか産経新聞は、こうした認識を表に出そうとする動向そのものを激しく攻撃し、バッシングし、危機を表に出させまいと奔走したのです。
ここに働いていた深層心理は、原子力村の意をくむなどといったレベルを越えて、自分に都合の悪いことは一切見たくない、東日本壊滅の危機などに向かいあいたくないといった世俗的な自己防衛心理だったと僕には思えます。

そして当時、多かれ少なかれマスコミの多くがこうした態度に与してしまい、政府の安全宣言の無批判的垂れ流しに終始していました。産経新聞はその悪質な最先端を走っていたわけですが、これに比して「革新勢力」の中でも、東日本壊滅の危機をきちんととらえ、立ち向かうことを訴えていた人々はほとんどいませんでした。
いやこのことは過去形ではありません。当時からすれば危機の度合いはかなり減ったと言え、未だに福島第一原発は瀕死の状態が続いているのです。確かに4号機のプールは燃料棒の8割が降ろされその分危機が小さくなりました。それ自身はとても好ましいことではあるけれども、まだ1号機から3号機に合計で約1500本の燃料棒が入ったままです。
しかも1号機から3号機は放射線値が高すぎて人が入ることすらできない。この様な状態のプラントを東日本大震災の大規模余震が襲ったらどうなるのか。いや統御できない地下水のせいで地盤が緩んでおり、もっと小さな地震で原子炉建屋が倒壊してしまう可能性もあります。つまり危機が去ったとはまだ全く言えないのです。
しかし残念なことにこのことを強調する政党は一つもありません。いわんや関東・東北を中心に広域の避難訓練をやるべき必然性を語っている人士は極めて少ない。未だこの国は巨大な正常性バイアスに覆われているのです。その歪んだ心理状態の中でこそ、無謀過ぎる原発再稼働も進められようとしています。

これに対して吉田調書の読み解きは、何よりも事故ときちんと向き合ってこれなかった、私たち日本社会の総体を問い直す形でこそ進められなければならないと僕は思います。過ぎ去った過去を分析するのではなく、現に私たちの目の前にある危機への認識をこそ、この中で進めていかなければならない。
それはマスコミに即して言えば、当時の報道の誤りを検証することにも直結します。それこそ産経新聞は、当時の大誤報を、この間の朝日新聞にならって捉え返し、真摯に謝罪すべきです。
「国を守る」というのならこれこそが一番大切な道です。福島原発が倒壊してしまったらどんな軍事兵器を持っていたって何の役にも立ちはしない。危機を全国津々浦々で認識し、全住民の事故に立ち向かう一致した意志を作り出し、役に立たない軍事予算やあらゆる技術をフクイチに投入してこの絶大な危機の除去に努めるべきなのです。
しかし残念ながら、ほとんどのマスコミも政党もこうした丹力を持っていない。そのことは、瀕死の原発を抱えた日本で、原発はコントロールされているという大嘘でもぎ取ったオリンピックを開催することに同意してしまっていることに現れています。しかし真に国難を考えるなら、オリンピックなどやっている場合ではない。すべての力を原発事故の真の収束と被曝防護に向けるべきです。

私たちは、この日本を覆う正常性バイアスこそが、私たちにとっての巨大な危機そのものであることを十分に認識する必要があります。
こうした観点に立ち、吉田調書を主体的に読み解き、何をなすべきかをつかんでいくことが必要なのです。このことに踏まえ、次回から、吉田調書のより詳細な読み解きを試みたいと思います。

続く

 


 

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明日に向けて(937)産科医不足、福島など9県で「危機的状況」!

2014年09月21日 23時00分00秒 | 明日に向けて(901)~(1000)

守田です。(20140921 23:00)

何とも重いニュースが飛び込んできました。産科医が全国的に不足を強めており、福島など9県で危機的状況だというのです。
これを報じた読売新聞の記事のタイトルをそのままブログのタイトルに拝借しました。以下、まずは記事をお読み下さい。

***

産科医不足、福島など9県で「危機的状況」
読売新聞 9月20日(土)19時41分配信
http://www.yomiuri.co.jp/national/20140920-OYT1T50035.html
 
当直回数が多く、成り手が不足している産科医について、都道府県間で最大2倍程度、産科医数に格差が生じていることが日本産科婦人科学会などの初の大規模調査で分かった。
福島、千葉など9県では、35歳未満の若手医師の割合も低く、将来的な見通しも立たない危機的状況にあると報告されている。

全国9702人の産科医の年齢(今年3月末時点)や、昨年の出産件数などを調べた。人口10万人当たりの産科医数は、茨城が4・8人で最も少なく、最も多い東京と沖縄の11・1人と倍以上の開きがあった。
また調査では、35歳未満の割合、産科医1人当たりの出産件数など6項目で全体的な状況を見た。福島、千葉、岐阜、和歌山、広島、山口、香川、熊本、大分の9県は6項目全てが全国平均よりも悪く、「今後も早急な改善が難しいと推測される」とされた。
中でも福島は、産科医が人口10万人当たり5人(全国平均7・6人)と2番目に少なく、平均年齢は51・5歳(同46歳)と最も高齢で深刻さが際だった。東日本大震災や原発事故も影響しており、同学会は昨年5月から全国の産科医を同県内の病院に派遣している。
調査をまとめた日本医大多摩永山病院の中井章人副院長は「国や各自治体に今回のデータを示し、各地域の対策を話し合いたい」と話している。

***

産科医が不足していて危機的状況になる・・・このことはすでにかなり前から予測されてきたことです。僕もこのことを「明日に向けて」に連載したことがあります。
2012年12月4日から13日にかけて5回にわたってアップしましたが、実はこれらの記事のベースにしたのは、僕が同志社大学社会的共通資本研究センターで「社会的共通資本としての医療」の研究をしていた2008年ごろにまとめた論考でした。
そのためデータがやや古いのですが、産科医療、いや医療全般に対する社会的資本の振り向けがその後も充実せず、また医療をとりまくさまざまな問題も解決されずにきたので、あの頃分析した問題がそのまま拡大してきてしまった観があります。

その上に2011年に東日本大震災と福島原発事故が襲ってきたのです。東北・関東の医療、および福祉体制が大変なダメージを被ったのは間違いありません。このダメージは徐々に全国の医療体制に波及しつつあり、医療崩壊を進めつつあると思えます。
なかでも福島の子どもたちの甲状腺がんの多発に明らかなような放射線被曝の影響が現れていながら、国が一切、原発事故の影響を無視しているがゆえに、現場の医師や看護師、コメディカルスタッフに、さまざまな矛盾が押し寄せているのは間違いありません。
そればかりではありません。最近、よく耳にするのが東北・関東の医療者の西日本への避難です。僕の周りでも「患者さんに出す薬の種類をみていて事故後の変化に気がつき、恐ろしくなって西日本に避難した」と語る薬剤師さんや、同じようなことを感じて避難されてきた臨床検査技師さんがおられます。

読売新聞の記事の中にも「東日本大震災や原発事故も影響しており」とあります。それ以上具体的な内容が書かれておらず、また日本産科婦人科学会の調査の原本をまだ入手できていないので詳しいことがよく分からないのですが、ともあれ福島県の産科医不足のことが大きく取り上げられているのが印象的です。
僕自身はそれまでの産科医療の悪化の上に、放射線被曝が重なってしまっているのだと推測しています。というのは福島県では2004年に県立大野病院産婦人科でおきた医療事故に対し、2006年に医師が逮捕され、2008年に禁固1年の論告求刑を受けるという衝撃的な事態があったからです。
この際には弁護団の懸命な弁護活動や、日本産科婦人科学会をはじめ、関係諸機関が一斉に医師救済のための声明を出すなどする中で、無罪判決が勝ち取られたのですが、これを前後して、とくに大野病院に近いいわき市などで産科が激減してしまう事態が引き起こされてしまいました。

というのは、それまでも疲弊を重ねていた産科で起こった医療事故に対し、司法権力が無慈悲な介入をしたため、過酷な医療現場をものすごい努力で下支えしてきた医師たちの多くが燃え尽きてしまい、現場から去ってしまったのですが、今、これと同じこと、もっと深刻なことが起こっているのではないかと思われます。
とくに被曝の影響を一切政府が認めないでいること。またいつまでたっても復興が進まない東北・関東沿岸部の諸都市の実情を顧みることなく東京オリンピックが誘致され、復興の面でも被災地が見捨てられていく中で、どんどん医療界の疲弊が深まっているのだと思われます。非常に憂うべきことです。
どうしたら良いのか。まずはぜひとも今の医療を取り巻く過酷な現状について1人でも多くの方に知っていただき、それぞれが自分のできる医療者へのサポートを初めることだと思います。もちろん医療予算の拡大を訴えることを前提にした上でです。

何よりも実情を知ること、知らしめることが大事です。その上でそれぞれの地域で医師、看護師、コメディカルスタッフを守っていく必要があります。
僕自身はそのためにも、患者となる私たちの側が医療に対してもっと能動性を持ち、自らが自らを治していく観点や知識をつかみとっていくこと、またその延長としてそもそも病にかからない知恵をもっと身に付けていくことが必要だと思っています。
その学びのためにも、まずはどんどん疲弊を深める医療界の現状を、多くの方に自らの問題としてつかんで欲しいのです。

こうした観点のもとに2012年12月に連載した「放射能時代の産婦人科医療」をご紹介しておきます。5回もので長いですが、ぜひ読んでいただきたいです。
また産科の医療者の方に、いや産科にとどまらずあなたの周りにいる医師、看護師、コメディカルスタッフと接する時に、自分が医療界を支える問題意識を持っていることを伝えていただきたいです。それだけでも間違いなく一歩前進になるからです。
社会的共通資本としての医療を、みんなの力で守っていきましょう!これもまた急務です!!

*****

明日に向けて(591)放射能時代の産婦人科医療(1)・・・あゆみ助産院でお話します(12月6日)
http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011/e/a6b6138bf790e4d6e5ffbecf94faa19d

明日に向けて(592)放射能時代の産婦人科医療(2)
http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011/e/bbdd3ee1f3efec94ec2439eb36b87a90

明日に向けて(594)放射能時代の産婦人科医療(3)
http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011/e/92ef50cf2aac2bd4d2582c8b18d78a9b

明日に向けて(595)放射能時代の産婦人科医療(4)
http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011/e/a735501f3411084398b72a61c8cb521e

明日に向けて(598)放射能時代の産婦人科医療(5)・・・完結
http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011/e/6d50932835332ba9effa17d95bb0b81c

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明日に向けて(936)満蒙開拓平和記念館(伊那谷)のこと(3)

2014年09月20日 21時30分00秒 | 明日に向けて(901)~(1000)

守田です。(20140920 21:30)

今回も満蒙開拓平和記念館のお話の続きです。
(なお、前二回の記事においてこの記念館の名を「満蒙開拓記念館」と書いてしまいましたが、正しくは「満蒙開拓平和記念館」です。「平和」の文字は重要です。欠落させてしまい申し訳ありません。ブログ上の前2回の記事を訂正させていただきます)

これまで記念館の創設に尽力された寺沢秀文さんが、開拓団に参加されたお父さんが下伊那に帰還されて以降、寺沢さんに語られた反省を心のバネにされて尽力されてきたことを紹介してきました。
日本の歴史と向き合うことのできない一部の人々は、こうした反省を「自虐史観」と呼びますが、何が自虐なものか。過去の過ちを己の労苦を越えて捉え返し、素直に語ることができることはむしろ最も尊いことです。そこには人間的英知と真の強さ、優しさがあります。
私たちが享受してきた戦後日本の平和は、こうした人々の心根によってこそ維持されてきました。
今、この時に私たちは、戦争を繰り返してきた現代世界の中ではまれといってよい努力で自らの過ちとともにかつての悲劇を捉え返そうとしてきた営為に深く学ぶ必要があると思います。その点でもこの記念館の創設にいたる経緯には感嘆するものがあります。

すでにお伝えしたように、日本の国策としての満州国創設とそのものでの満蒙開拓団に、全国で最大の人員である33000人を送りこんだのが長野県であり、その中でも飯田・下伊那地区はその四分の1の8400人を送り込んだのでした。
戦後になって中国への侵略を捉え返し、痛みを和らげ、中国残留孤児の帰還を果たそうとの思いで、全国に数多くの日中友好協会が作られましたが、その中でも「活発な活動ぶりと会員数は全国屈指」であったのが長野県日中友好協会だったそうです。そしてその中心を担ってきたのが飯田日中友好協会でした。
これにはさらに深い経緯があります。というのは戦後しばらくして、中国側に残留孤児の帰還を求めたところ、「その前にやるべきことがあるはず」という答えが返ってきたのだとか。戦争中に日本に強制連行され、ダムや鉱山などで働かされた亡くなっていった中国人たちの遺骨収集、慰霊、送還が求められたのです。
飯伊地方でも天龍村の平岡ダム建設現場で、中国人が強制労働を強いられ80人が犠牲になっていました。この遺骨収集と慰霊を行うために組織されたのが飯田日中友好協会の前進の長野県日中友好協会下伊那支部だったのでした。

支部長になったのが、後年、記念館が建てられることになった阿智村の元村長であり阿智郷開拓団として満州にも渡られていた小笠原正賢さんでした。事務局長を務めたのがやはり後年「残留孤児の父」と呼ばれるにいたる阿智村長岳寺住職である山本慈昭さんでした。
山本さんもまた満州に渡っていました。学校教師であった彼が渡満を頼まれたのは1945年のこと。現地についたわずか3か月後にソ連軍侵攻のもとでの悲劇に巻き込まれ、逃避行の中でソ連軍につかまり、抑留されてしまいした。
2年後に帰国した山本さんを待っていたのは、妻と2人の娘が現地で亡くなったという知らせでした。さらに阿智郷開拓団215人のうち、帰国できたのは山本さんを含めてわずか13人という過酷な現実でした。この苛烈な体験をした人々がまず始めたのが強制連行された中国人労働者の遺骨収集と慰霊だったのです。
その深き思いに胸を馳せると思わず涙が出てきてしまいます・・・。

山本さんのこれらの体験は『望郷の鐘 中国残留孤児の父・山本慈昭』(和田登著)という書物にまとめられましたが、実は今、この本を題材とした映画製作が進められており、来春に公開を迎えようとしています。
公式サイトがあるのですが、この中の「物語・解説」の項を見るとあらすじが出てきます。これによると実は山本さんの娘の一人は亡くなってはおらず中国人に預けられていたことが後年になって分かったのだそうです。
中国人労働者の遺骨収集と慰霊、送還を終えたのちにこのことを知った山本さんは、以降、すべてを残留孤児の帰国事業に捧げられるようになり、たくさんの遺児の帰還に貢献されるとともに、晩年についにご自身の娘さんとの再会をも果たされました。
この山本さんの半生を描いたこの映画の公式サイトと監督によって書かれた「製作意図」をご紹介しておきます。製作意図も素晴らしいです。

***

『望郷の鐘』-満蒙開拓の落日
http://www.gendaipro.com/bokyonokane/

「製作意図」 映画監督 山田 火砂子
この作品は、平成26度には完成し上映致します。何故今、満蒙開拓団の映画かと申しますと、日本が昭和二十年八月十五日に第二次世界大戦に負けた事は、ほとんどの方が知っていると思います。
東京他、都市という都市は昭和二十年三月十日の東京大空襲以後空襲によって壊滅状態になり、おまけに八月六日・九日と広島・長崎と原子爆弾を落とされ、戦争に負けました。
なのにその昭和二十年五月一日長野県より、東京は六月末に、その他の県からも中国大陸の一部の満州に疎開と称して出かける日本民族…知らないという事は恐ろしい事です。
満州に行けば平和がまっているという話に乗せられて出かけていきました。その行った方々ほとんどの方々は亡くなりました。死ぬために出かけていく死の旅に…知っていたら行く人はいません。
福島の原発も絶対安全と言ってますが、本当に安全なのでしょうか?しっかり自分の目を開いて、自分の子や孫に迷惑がかからないようにと思ってます。
又「遠くの親戚より近くの他人」という昔からある言葉のように、近くの中国とは仲良くして頂きたいと思い、この映画を製作致します。今満州に疎開したと言ったら笑い話です。原発は、安全だと信じたのよ。と言って、五十年後に笑い話にならないようにと思います。
この映画製作の基金の為に協力券や以前に作ったDVDを販売しております。ご協力をお願い致します。

***

そうです。私たちの国では今、福島原発事故で同じようなことが繰り返されつつあります。いや、絶対にこのまま繰り返しで終わらせてはならない!そのためにも私たちは満蒙開拓団の悲劇とその捉え返しのすべてを主体的に学ぶ必要があるのです。その中で私たちの英知が磨かれるからです。
満蒙開拓平和記念館の設立過程に話を戻しましょう。前回、満蒙開拓団に関する資料館がこれまで作られてこなかった根拠を寺沢さんが述べている個所を引用しました。悲劇でありながら侵略の一環でもあった満蒙開拓を捉え返すのは「パンドラの箱」を開ける側面があったことがその理由の柱でした。
実際に設立にあたっても、「当時の人々は国策に従い、大変な苦労をしたのだから、一概に責めることはどうか」という意見が多く寄せられたそうです。
他方で記念館が、旧満州や満蒙開拓を美化したり正当化する施設になってしまうのではないかという懸念も寄せられました。また実際にそのような声はなかったそうですが「自虐史観だ」という批判が来る可能性も懸念しなければなりませんでした。

寺沢さんはこうした様々な意見に応対しつつ、記念館創設の意義を以下のようにまとめておられます。
「私たちは、旧満州の地に散った人々のことを否定したり、非難したり等するものではなく、国策に翻弄されながらもそこに懸命に生きた人々があったという史実をきちんと語り継ぐと共に、
同時に残念ながら、その満蒙開拓自体は歴史的には誤りであったという事実、現地中国の人々を始め多くの犠牲を強いた上でのものであったという事実をきちんと受け止め、二度とあのような不幸な犠牲者を出さないようにと語り継いでいくことが、旧満州の地に散った多くの犠牲者に対する鎮魂であると思う。」
(引用は論文「語り継ぐ『満蒙開拓』の史実」 雑誌『信濃』第65巻第3号 p213より)

また記念館の設立にあっては、中国側の反応へも深い配慮が重ねられました。とくに思案のまととなったのは「満蒙開拓」という名を冠することに関してでした。
繰り返し述べてきたように、「満蒙開拓」の実際は侵略行為でしかありませんでした。農地の略奪を「開拓」と置き換え、送り込む人々をも騙して強行された侵略でした。そのため中国側では「開拓」という言い方にも反感が持ちあがるかもしれない。
実際、中国では「満州国」も認められておらず「偽満」と呼称されているのだそうです。そのため「満蒙移民」に置き換えるなどの案も検討されたそうです。
しかし現にあったことを伝えるためには、当時、問題のあった呼称をあえてそのまま使う必要がある。ただし「満蒙開拓を美化している」という誤解を避けるためにも「平和」の言葉をいれようとのことで、今の名に落ち着いたのだそうです。

ちなみに今回の記事の冒頭にも書きましたが、僕はこの記念館の名を決めるに際してのこうした検討事項を十分に読み解けなかったこともあって、前二回の記事で「満蒙開拓記念館」と「平和」を抜かして紹介してしまいました。
記念館の創設に尽力した方々に申し訳ないことでした。ここであらためてお詫びして訂正させていただきます。前2回の記事では説明は入れず、本日、訂正を入れたことのみを記しておきます。
また「平和」を冠するなら、記念ではなく祈念とした方が良いのではという意見もあったそうですが、あくまでも史実に学ぶことを主軸とするため、「記念」とされたことも付記しておきます。
設立にいたる経緯とさまざまな配慮に関して、短くまとめて説明せざるを得なかったので、お時間のある方は、ぜひ寺沢さんご本人の論文にあたられてください。


さて記念館をめぐるこの記事をそろそろ締めたいと思いますが、終わりに寺沢さんの論文の「最後に」と題された章の中の言葉を引用しておきます。記念館設立のために苦労を重ねられ、会社に泊まり込んで深夜一人で資料作成などをしているときに沸々と涌いてきた思いだそうです。
「国策で進められた満蒙開拓であるのに、何故、民間人である我々が、無償ボランティアで、夜も眠れず、家にも帰れずにこうして時間を割かなくてはならないのか。開拓団を送りだした国は行政や教育界は一体何をしているんだ。」
寺沢さんはそれを「義憤にも似た怒り、やるせなさであった」と述懐されています。しかしそれでも記念館設立に関わられた人々から一度も「もう止めよう」という言葉はでなかった。そうしてついに開館にこぎつけたのでした。
寺沢さんは以下のようにこの論文を結ばれています。「開館の暁には、これまでの体験等も活かし、小さくともキラリと光る記念館として、この伊那谷の地から世界に向けて平和を発信していこうとスタッフ一同思いを新たにしているところである。開館の暁にはどうか多くの方々にご来館頂きたいところである。」(p222)

安倍政権は今、かつての侵略の歴史のもみ消しにやっきになっています。「慰安婦問題」=旧日本軍性奴隷問題を、朝日新聞の一部の誤報にかこつけて、あたかも全く無かったかのようにしようとしています。
侵略の事実の隠蔽が伴うのは、その侵略に騙されて動員され、塗炭の苦しみを受けた私たちの国の民の苦しみや悲しみのもみ消しでもあります。しかも安倍政権は、この苦難を本当に深いところから捉え返し、その中でこそ真の平和を模索しようとしてきたこの国の人々の尊い営為をも踏みにじろうとしているのです。
僕は思います。「そんなに簡単に踏みつぶされてたまるか!」と。「誠実に真剣に血のにじむような努力の上に重ねられてきた歴史の振り返りの力をなめるんじゃない!」とも。とても強く思います。
「慰安婦」問題だけではない。満蒙開拓の過ちもしっかりと歴史の中に記されてきたのです。そしてその中から私たちは平和力とも言えるべきものを培ってきたのです。過去の過ちを捉え返してきたこうした奇跡を僕はとても誇らしく思います。山本さんや寺沢さんのような人々こそが世界に平和を与えてきてくれたのです。

その想いが中国の多くの人々とも深く重ねられてきたことを私たちはしっかりとつかみとっておきたいと思います。何より侵略を受けた中国の人々が各地で日本人残留孤児をかばい、匿い、育ててくれた歴史が横たわっています。
互いが受けた戦争による痛みをシェアする営為がすでにして両国の庶民の間でたくさん積み重ねられてきたのです。そのほんの一部が『大地の子』などに表現されてきました。
こうした日中双方の人々によって重ねられてきた真の友好の歴史を踏みにじらんとする安倍政権の姿勢は天に唾する行為です。人々の真心を踏みにじるこの政権の横暴を、歴史の重みにかけて打ち破っていきましょう。満蒙の地に散ったすべての国の犠牲者の魂がきっと私たちの味方をしてくれるはずです。
みなさん。どうか伊那谷を訪れたときはぜひ「満蒙開拓平和記念館」にお立ち寄りください。また映画『望郷の鐘』をぜひ観覧しましょう。たくさん流された汗と、血と、涙を受け止めて、平和の道を歩んでいきましょう!

「満蒙開拓平和記念館」に関する連載を終わります!

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明日に向けて(935)満蒙開拓平和記念館(伊那谷)のこと(2)

2014年09月19日 08時30分00秒 | 明日に向けて(901)~(1000)

守田です。(20140919 08:30) (20140920 19:00訂正)

大鹿村を含む伊那谷への訪問の続きです。今回も「満蒙開拓平和記念館」について書きたいと思います。
前回、この記念館が作っているホームページをご紹介しましたが、今回はその中に掲載されている読みごたえのある論文をご紹介したいと思います。
信濃史学会が発行している『信濃』第65巻第3号に掲載された、『語り継ぐ「満蒙開拓」の史実―「満蒙開拓平和記念館」の建設実現まで―』です。この事業に構想立ち上げから参加し、論文執筆時に専務理事をされていた寺沢秀文さんの手によるものです。

http://www.manmoukinenkan.com/ご利用案内/建設事業の経緯/
語り継ぐ満蒙開拓の史実 (満蒙開拓平和記念館の建設実現まで)

寺沢さんのご両親も満蒙開拓団員として大変な苦労をされました。子どもの頃よりそれらを聞かされる中での事業への参加で、そのため記念館開設までに20年間の間に20回も満州地域へ自費で調査旅行をされたそうです。
寺沢さんはお父さんからの聞き取りの中から、「現地での開拓団の生活等」についてこのようなことを書かれています。
「父は応募前、先遣隊の人たちの帰国時の話し等から『家も畑ももうある』と聞いており、それは『先遣隊は日本軍が切り開いたもの』と思っていたそうで、現地に行ってみて、それが中国の人々から半ば強引に買い上げたものと聞いて、内心『これはまずいな』と思ったそうである。」(p203)

また逃避行の悲劇については次のように記されています。
「守るべき軍隊も無く、逃げるべき鉄道も鉄橋も破壊され、女、子供、老人ばかりの開拓団の逃避行は悲惨そのものであり、『生きて虜囚の辱めを受けず』との戦前教育の下、集団自決を選ぶ開拓団も少なくなかった。
また、昼は山に隠れ、夜に逃避行を続ける中で、子供が泣くと敵に見つかるから殺せと言われ、やむなく手に掛けた人、あるいは『足手まといになるから置いていってくれ』と増水した川の手前で自ら残った老人達、多くの悲しい犠牲があった。」(p204)

寺沢さんはご両親のご苦労についてもこう書かれています。
「父が徴兵され、開拓団に残っていた母はソ連軍侵攻と共に他の開拓団員らと共に水曲柳を逃げ出し、どうにか長春の避難民収容所までたどり着き、ここで終戦の冬の厳しい越冬生活を過ごす。
水曲柳開拓団は結束力が固く、個々の所持金等を全て集めて共同管理、共同生活を実践したと言う。しかし、劣悪な生活環境と極寒の中で多くの犠牲者を出し、当方の長兄もここで流行病により僅か一歳の幼い命を落としている。
軍閥関係者や開拓団以外の民間人等の多くは終戦と同時に帰国を果たしている中で、開拓団のほとんどは現地で越冬せざるを得ず、この越冬時に栄養失調や流行病等で亡くなった人の方がソ連侵攻時の犠牲者よりも遥かに多い。母たちがようやく日本の土を踏めたのは翌21年7月のことであった。」(p204、205)

お母さんはその後、お父さんがシベリアで抑留されていることを知り、それならばと現在の下伊那郡松川町大島の「増野」開拓地に入植。開墾しながら帰りを待たれ、昭和23年、1948年に再会を果たします。お父さんはこの時の開墾生活を子どもの寺沢さんに次のように語られたそうです。
「ここに再入植し、今度こそ本当の開墾の苦労をする中で、改めて、自分たちの大切な畑や家を日本人に奪われた現地の中国人たちの悲しみ、悔しさがよく分かった。あの戦争は日本の間違いであった。中国の人たちには本当に申し訳ないことをした」(p206)

寺沢さんの記述を長々と紹介してきましたが、僕は満蒙開拓団に関するエッセンスがここに詰まっているように感じました。せめてここだけでも多くの人に読んで欲しいと思い、紹介しました。
満蒙開拓団は明らかに侵略政策の一環の位置を持ち、現地の人々を苦しめた政策でした。しかしそこに動員されたのもまた、国内の不況にあえぎ、大日本帝国政府を信じて、国策を担いつつ地主になることを目指した貧しい人々でした。
人々は政府に騙され、軍に裏切られ、ソ連軍の猛攻や暴徒化した現地の人々の襲撃も受けた。極寒の中で子どもを失い、高齢者を失い、自ら倒れた人もたくさんいた。その中で帰国しても国は何の面倒をみてくれなかった。繰り返された苦境の末にお父さんは「中国の人たちには本当に申し訳ないことをした」と語られたのです。

僕はこれこそが戦後日本が、民衆の心の中で継承し続けてきた最も大事な心根なのではないかと思えます。この国の民は本当に何度も政府によって手酷い棄民を行われてきた。たくさんの人々が政府に騙され、ニセの正義に踊らされた。
しかし人々はそのことへの恨みよりも、自らの行動、闘いが正義ではなかったこと、心ならずも侵略に加担してしまったことをこそ捉えようとしてきたのでした。
いやこれはけして日本社会の多数派の心根であったとは言えないでしょう。そうであれば日本はもっと良い国になったことでしょう。しかしどれぐらいの割合かは分からないけれど、誠実な人々、優しき人々はこのように自らの歴史を捉えようとし、それを私たちに語り継いでくれたのでした。

寺沢さんもこうしたお父さんの心根を全面的に受け継ぎ、「満蒙開拓平和記念館」の創設のために奔走されてきましたが、当初はなかなか計画が進まずご苦労されたそうです。
とくに苦労されたのは「行政との絡み」や「信用力や事業実施能力」の担保であったとか。もともと国策で進めら得た開拓事業なのだから、本来は国立ないし県立で作られるべきだという思いにも悩まされつつ、他方で「その国策を結果として支持したのもまた国民であり」という視点から、民間での立ち上げを目指されました。
その中で寺沢さんは、なぜこれまで満蒙開拓事業に特化した記念館が一つも建てられたなかったのか、その事情を把握されていきます。圧巻であったのでこの点を再び引用したいと思います。

「(1)旧満州という外地でのことであり、また終戦時等の混乱の中から当時のことを物語る資料等が極めて少ないこと、(2)どうにか生還できた開拓者らは帰国後もまた再入植などの厳しい生活環境に置かれ満蒙開拓の残す資料館を建てられるような経済的余裕がなかったこと、
そして、これが最も大きな理由であろうと思われるのは(3)旧満州、そして満蒙開拓は開拓団を送りだした側、また旧満州現地から生還出来た人々にとっても余り振り返りたく無い不都合な史実であったということである。」(p210)
「旧満州関係者の中でも、終戦時、開拓団を置き去りにして一足先に日本へと戻った軍関係者や満州国政府関係者、あるいは開拓団以外の民間人等の中には、半植民地的国家だった旧満州、そして結果として置き去りにした開拓団に対する後ろめたさ等から、戦後、満州のことに触れることを余り喜ばない層も現実におられる。
また振り返りたくない史実であることは、開拓団員自体の多くにとっても同じであった。お国のためにと、あるいは20町歩の地主になれると渡満してみたものの、戦争に敗れ、結果として侵略に加担していたのだという事実に向き合い、それは不都合な史実として子や孫にも余り進んで語りたくはない話題であった。」(p211)

「満蒙開拓の歴史等を掘り起こすことは、一部の人たちにとっては開けてはならない『パンドラの箱』を開けることであった。しかし不都合な史実に目を背ける者は必ず同じ過ちを繰り返す。
だからこそ、二度と同じ過ちを繰り返すことの無きように、私たちは満蒙開拓の史実から学び、そのことを語り継ぐことによって平和を守ることこそ、日中双方含めての多くの犠牲者の皆さんへの慰霊であり鎮魂になることと思うのである。」(p211)

・・・全くその通りだと僕は思います。大変な勇気と努力を持ってパンドラの箱を開けられ、満蒙開拓平和記念館を創設された寺沢さんをはじめとする関係者の方々に、ただただ深い感謝を捧げたいと思います。

続く

 

 

 
 

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明日に向けて(934)満蒙開拓平和記念館(伊那谷)のこと(1)

2014年09月18日 23時30分00秒 | 明日に向けて(901)~(1000)

守田です。(20140918 23:30) (20140920 19:00改訂)

9月14日、15日と長野県の大鹿村を訪ね、「お山の上でどんじゃらホイ!」に参加してきました。
14日夜にTiPiの中で主に平和問題についてお話し、15日午前中に「この困難な時代を生きるには」というタイトルでお話しました。

信州伊那谷でのお祭りに招かれるのは今回が3回目です。大鹿村に住んでおられ、お祭りを毎回主催してくださっている田村寿満子さんに声をかけていただきました。
といっても前2回は「ちいさないのちの祭り」の名のもと、上伊那にある伊那市の千代田湖畔で行われました。
かなり素敵なお祭りだったのですが、「いのちの祭り」は長い積み重ねの中で愛されてきたお祭りであるため、この名を使うと全国から参加者が駆けつけてくる。
とてもありがたいのだけれども、スタッフが対応に追われてゆっくり企画を見聞きすることができないということで、今回はタイトルを変え、ネットでの告知も行わず、近場の人と一緒に楽しむことが目指されたのだそうです。
そのため場所も大鹿村の鳥が池キャンプ場が選ばれたのですが、おかげで僕も大鹿村をゆっくりと訪れることができ、村の素晴らしさの一端を味わってくることができました。同時に3年間、訪問を重ねることで、この地域の多くのことが見えてもきました。

第一にはかつて登山者として夏に冬に駆け抜けた南アルプスの麓の町の温かさと美しさに触れることができたこと。僕にとって大鹿村訪問は、厳冬期の赤石岳稜線上から仲間が滑落、大救助を行い、ヘリで病院に送った後に降りてきた時以来の訪問になりましたが、はじめてそこに住まう人々と村の中で交流ができました。
第二に大鹿村を含む伊那谷の深い歴史に触れることができたこと。この地が満蒙開拓団をもっとも輩出した地であり、国を信じて国策に従うことの中で、満州侵略のお先棒を担がされ、しかも大変な開墾の苦労の末に、戦争末期に悲惨な犠牲を出したことに触れられたことです。
第三に大鹿村を貫通せんとしているリニア新幹線計画の全容を知り、あまりにひどいこの計画に反対しなければという明確な意識を持てたことです。

今後、これらのそれぞれについて論を深めて行きたいと思いますが、今回は二番目にあげた満蒙開拓と伊那谷の関係について触れたいと思います。
満蒙開拓の問題に僕が触れたのは昨年夏の訪問時のことでした。
というのはこの年の春より友人一家が飯田市に引っ越したため、彼らを訪ね、お祭りにも一緒に参加したのですが、近現代史に詳しいこの友人が、伊那谷にこの年の春より「満蒙開拓平和記念館」が開設されたことを教えてくれ、案内をしてくれたのでした。HPを示しておきます。

満蒙開拓平和記念館
http://www.manmoukinenkan.com/

満蒙開拓とはどういう事業であったかご存知でしょうか。大日本帝国主義のもとに行われた現在の中国北部からモンゴルにかけて行われた植民化政策でした。日本がこの地域に成立させた「満州国」を、強引に既成事実化していくためのものでした。
満州国は建国の理念として「五族共和」=日本人、漢人、朝鮮人、満州人、蒙古人の共和をうたっていましたが、実際には日本軍最精強といわれていた関東軍の軍事力のもと、現地の人々から土地、家屋、田畑を安価で奪いとり、そこに日本からたくさんの人々を植民させて成立した国でした。
しかもその安価な代金すら支払われないことも度々で、植民者は現地の人々に暴虐な侵略の加担者とみなされ、初期にはゲリラ攻撃の対象ともされました。日本軍による抵抗の鎮圧のあとも長い間、恨みを買い続けていきました。

一方で日本国内では、昭和の大不況のもとで没落を深め、困窮を深めていた全国の農民の惨状を、とりあえず大陸に移してしまい、問題転嫁をはかる位置をも持っていました。移民する人々に軍事訓練も施すことで、ソ連軍への備えとすることも目指されました。
とくに対象となったのは土地相続がのぞめない農家の次男、三男以下の後継者たちでした。軍国主義日本政府は、これらの人々に「満蒙にいって開拓を行えば努力次第で大地主にもなれる」とバラ色の宣伝を行い、移民を奨励したのです。
応じた人々も、移民が日本が押し進める「満州国創設」という国家的課題を担うことであり、国策の担い手になりながら、自らも大地主になれるかもしれないと考え、「夢」を抱いてこの政策に積極的に参加していったのでした。

しかし「地元の人々から買い上げた土地と家屋」と言われたほとんどのものは実際には略奪物であり、現地の人々の怨嗟のまとになりながらの出発であったことや、極寒であるとともに大陸性気候で寒暖の差が激しく、降水量も少ない満州の地での営農に日本での経験が役に立たず、農業資材の補給も貧しかったことから、営農は困難を極めました。
それに追い打ちをかけたのが、1941年12月の太平洋戦争への日本軍の踏み込みの中での戦況の悪化でした。当初、南方の石油の確保を目指し、フィリピン等で植民地軍を破って進撃を続けた日本軍は1942年のミッドウエー海戦での惨敗などを転機に敗北を重ねるようになりました。
一時期は9割が中国大陸に展開していた日本陸軍の多くも南方に振り向けられ、関東軍の一部もフィリピン戦線や太平洋の島々へと送られていきました。

結局、日本軍はその後も戦況を好転させることができず、1944年秋からのフィリピン、レイテ島をめぐる米軍との戦闘で壊滅的な損害を出し、海軍は主力のほとんどを失ってしまいました。陸軍の消耗も激しく、軍隊と軍隊の戦いとしての「太平洋戦争」には事実上の決着がついたと言えました。
しかし大日本帝国政府は、休戦を模索し始めつつも自らの処遇の安泰を求め、民衆を戦火から守るための終戦には向かおうとはしませんでした。一方でアメリカも急ピッチで開発してきた原爆の実戦での投下のためにも、日本に降伏させない戦略をとり続け、こうした中で3月10日の東京大空襲を皮切りに、大規模都市空襲が全国80都市に対して繰り返し行われ、やがて沖縄戦、広島、長崎への原爆投下へと連なっていきました。米軍による日本住民の連続的虐殺でした。
こうした状況下で、当初は「徴兵の対象にならない」ことがうたわれていた満蒙開拓団からも成年男性の徴兵、徴用が進められ、開拓団にはお年寄りと女性、子どもたちだけが残されるようになっていきました。

そして悲劇の1945年8月が訪れます。この月、ソ連軍がヤルタ会談における英米との密約のもと日ソ不可侵条約を一方的に破棄し、満州国への進撃をはじめました。このような事態があろうとも開拓民は関東軍によって守られると信じていましたが、現実には関東軍はソ連軍の南進を予測するとともに戦わないで撤退し、部隊を温存する方針を立てていました。
このため開拓民が異変に気が付いたときにはすでに関東軍は南下を終えており、しかも追撃されないように、鉄道や橋梁までをも破壊してしまっていました。お年寄りと女性と子どもばかりになっていた満蒙開拓団は、関東軍によって完全に見捨てられてしまったのでした。
ソ連軍はたちまち北から押し寄せましたが、開拓民に恨みを抱き続けてきた現地の人々も、関東軍の撤退を知って手製の武器をもって押し寄せ、開拓民に対する凄惨な虐殺が始まってしまいました。こうした惨劇を背景に、多くの人々が徒歩で南へ南へと逃げましたが、やがて冬が到来し、多くの人々が凍死したり餓死していきました。ソ連軍や地元の人々の襲撃で命を落としたり、生き延びることをあきらめての集団自殺した人々もいました。

この過程で多くの女性たちが子どもだけは死に至らしめたくないと考え、現地の中国人に託していったのでした。一方では開拓民を襲った現地の人々もいましたが、他方では逃げ惑う日本からの開拓民に同情し、子どもを預かり、わが子として育てた人々もたくさんいました。
こうした育った子どもたちは後年「中国残留孤児」と呼ばれ、1972年の日中国交回復後に開始された帰国事業の中で、帰還した人々もいました。小説『大地の子』などにも紹介された現代の日本史に刻み込まれた悲劇でした。
こうして終戦時に約27~32万人いたと推定された満蒙開拓団民のうち、日本まで帰りつけたのはわずか11万人でしかありませんでした。多くの人々が大陸で命を落としたのですが、これらの人々は帰国後もよるべき土地がなく、全国各地の開墾事業に送りこまれていったのでした。二重、三重の棄民政策でした。

このようの満蒙開拓団は大変な悲劇のうちに幕を下ろしていったのですが、実はこの開拓団に最も多くの人々を送りだしたのが当時、営農が疲弊しきっていた長野県であり、なかんずく伊那谷の人々だったのでした。
開拓団は満州国が成立した1932年より本格化され、27万人が送りこまれたのですが、長野県は県としては最大の33000人を送り出しました。しかもその四分の一8400人を占めたのが飯田・下伊那の人々でした。
これらの地域を飯伊地区と呼びますが、この地域の指導者層の中に満蒙開拓推進論者が多くいたこともあって、飯伊地区は全国の中でも最もたくさんの開拓団を派遣した地域となったのでした。

戦後、命からがら帰国した人々は、再度、飯田・下伊那を開墾していったのですが、この地域には同時に全国でもまれと言えるほどの高い向学心が育っていき、とくに歴史研究が進められ、郷土史などで深い発展が遂げられてきました。
記念館を案内してくれた友人によれば、この深い学びを下支えしたものこそ、「二度と国に騙されない」という強い心情であったということです。その反映としてこの伊那谷は「平成の大合併」を全国の中で最も受け入れない地域であったということです。
大鹿村も人口1100人の小さな村ですが合併に反対して村として生き残ってきた。僕はそこに満蒙開拓以来、この土地の上に重ねられてきた人々の思いを垣間見るような気がします。

その下伊那の地に、戦後68年も経ってから「満蒙開拓平和記念館」が建設された。しかも驚くべきことに、あれほどの悲劇でありながら、この問題で全国で初めての本格的な記念館・資料館の建設でした。
なぜ68年も記念館ができなかったのか。なぜに伊那でそれが進められたのか。あるいは進められたことをいかに捉えるのか。僕にはそこにこの地を理解し、歴史の重みを受け止める鍵があると思います。いやこの地からこの国の総体を見ることもできるように思えます。
そう考えて、今回、記念館のホームページを再度見返していて、さらに新たなことが見えてきました・・・。

続く 

コメント (4)
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