明日に向けて

福島原発事故・・・ゆっくりと、長く、大量に続く放射能漏れの中で、私たちはいかに生きればよいのか。共に考えましょう。

明日に向けて(1668)愛する京都を守るために(冨樫ゆたかさんインタビューその3)

2019年03月28日 23時00分00秒 | 明日に向けて(1501~1700)

守田です(20190328 23:00)

京都市政にチャレンジする日本共産党前京都市議(左京区)の冨樫ゆたかさんのインタビューの3回目、完結編をお届けします。今回は富樫さん、苦しかった時のことやお父さんへの思いを率直に語って下さいました・・・。

● 落選したときは起ちあがれなかった・・・

守田
前回(2015年)の選挙で11票差で落ちたときのことを聴かせてください。

冨樫
もうねえ、起ちあがれなくなりましたよ!あの結果がでたときは。なんかもうとにかく「申し訳ない」という気持ちでいっぱいですね。「あのとき自分がこうしたら」と繰り返し思うのですよ。
身体にもだいぶんこたえました。一気に弱くなって。強烈な病気にはならなかったけれど、体力がガクッと落ちました。落ち込みましたね。鬱にはならなかったけれど。
そのあと、どこに行っても誰にあっても、みなさんが「自分が悪かった」って言いはんのやわ。僕を応援した人、みんながトラウマになって。ああいう票差で負けると。 その前は58票差で勝ったのですけれどそうなると「あの一票はわしのがんばりでとれたんや」となるのですけどね。一票差で勝つか負けるか、大きな違いがあって。

そのあとに僕はいろんな選挙の立会人をしましたけど、そこで思ったのは、当たり前のことですが、有権者の一票一票は、どの党に入れたものであってもすごく大事な一票やということでした。 投票に対する見方が変わりましたね。どの一票も、結果としてその候補者が公約を守るかどうかは別問題ですけれども、すごく考えて投じられた票だと思うのです。それが見えるようになりました。

守田
でも負けてからどれぐらいで回復したの?

冨樫
二年ちょっとかかったんとちゃいますかね。

守田
二年ちょっともかかったの?辛かったねえ。

冨樫
そんな中で住民の人と一緒に活動して、その活動がある意味、自分を立て直してくれたのだと思います。こんな自分でも役に立てるんやな。議席は無くなったけれども経験が凄く役に立つなとか思いました。

守田
その経験が本当に生きるといいよねえ。

 


  糺の森を守るためパリのユネスコ本部まで共にいった仲間の中津めぐみさんと(冨樫さんFacebookより)

● 父への思いを胸に

守田
それにしてもこういう話はみなさん、知っているのですか?というのは話していて、お父さんが亡くなる一週間前のこと。自分でも一番、ぐっと来てましたよね。なんかそれ、もう癒されてもいいんとちゃうの。

冨樫
それはやっぱり、一生、つきまとうのではないかと思います。最初に立候補したときに「それをもっと話そう」とも言われたのですけれども、あんまり言っていると自分の心が持たなくなってね。心が削られていくのですよ。言うたびに。
それでもこの間、このことを話しているのは、他の人が「こういうひどい状態にある」というときに、それに共感する形では出すようにしているのです。それなら言えるのです。でもあのときのことだけを語ることにはしんどいものがあって。
それを考えたら、同じような場に立った家族で泣き寝入りした人が絶対に多いと思うのですよ。家族として労災申請をするなんてよほど勇気のある人ですわ。よほど愛情がある・・・と言うたら自分が愛情がなかったことになってしまうけれども。

守田
過労自殺が起こってしまった場合など、周りの人はみんな「自分のせいで死んでしまった」と思うよね。

冨樫
「一番身近な家族が、あのときにがんばれと言わなければ」と今も思うのですね。だから子どもとかが気軽に「死にたい」とか言ったらドキッとしますものね。 そもそも今の世の中、けっこう自殺が多いですよね。異常ですよね。人を追い詰める社会ですよ。だからかなり身近なところで自殺を経験する人が多いです。

守田
年間3万人。その周りに親しい人が10人いたとして30万人だものねえ。

冨樫
しかも毎年ですよ。

守田
実はさっきお父さんのことを聴いたときに、僕もちらっと「それを言えば」と言おうとも思ったのだけれど、でもそれは過酷やなあと思って。

冨樫
厳しいものがありますよね。でも逆に言うたらそれで励まされる人もいるかもしれませんよね。

守田
だからそんな風に言ったらいいんちゃう?自分のウリみたいな形で言ったらそれは自分が削られてしまうだろうけど。同じような罪の意識を持っている人がたくさんいるのではないかな。「そういうあなたはもう癒されて良い」と伝えてあげたいと思うな。

冨樫
本当にそんな風に思っている人はたくさんいるでしょうね。

守田
それってサバイバーズギルトとも言うのですよ。福知山線事故のときに、奇跡的に生き残った人がそれを罪に感じてしまうことが起こった。僕もそういう人を取材したけれど「奇跡的に生き残って良かった」と言われるのが一番辛いと言っていました。 それは実は普通に思うことで、だからそういうときはカウンセリングしなくちゃいけないのですよ。その辺が日本はすごく遅れていて。

冨樫
なるほどね。

● 寛容であたたかい社会を作りたい!

守田
福知山線事故の時に、ある工場がそばにあって、その人たちがたくさんの工具と氷を持ってきたのだよね。 一両目が駐車場に飛び込んでしまってガソリンが飛び散っていたから、電動工具を使えない状況だったのだけれど、その人たちが手工具で人々を助けたわけ。挟まった人の患部を氷で冷やしたりしながら。
だからその人たちはすごい英雄なのだけれども、多くの人がその後に鬱になってしまったそうなのです。「自分がもう少し頑張ったらあと一人助けられたのに」って。 そう思うのはある種の人間の美しさでもある。だからそういうことがあったら必ず大量のカウンセラーを派遣して癒さなくてはいけないのですよ。でも日本はそれがめっちゃ遅れていて。

フィンランドのバルト海でフェリーボートが沈んだことがあって、なんでも後ろのハッチがあいてしまって水が入ったとかで、僕は最初にニュースを聞いたときには「なんて技術力の低い国なんだ。安全性が確保できてないじゃないか」と思ったのね。 そうしたらボランディアが続々と集まってくる。「何をするんだろう。ボランティアでは海は潜れないだろうし」と思っていたら、なんとそれは「悲しみを共にするボランティア」なのですよ。
何百人かの人が死んでその家族が続々と集まってくる。そこに分け入って肩を抱いて一緒に泣いたりしているのですよ。

冨樫
(顔を覆って泣き出す・・・) ・・・そうですね。いやいや。

守田
冨樫さん、癒されてくださいよ。そんなんお父さん、罪なんて思ってへんて。それにその思いを生かして人を救おうと頑張ってるんやから、お父さん、絶対に誇りに思ってくれてるって。

冨樫
いやいや。想像できるだけになんとも。喜んでいると思いますけどね。

守田
絶対にそうだよ。絶対にそう。 ・・・そのボランティアの若い人がインタビューされていてね、「こんなに辛いボランティアはないんです。だってこれは辛い思いをしにいくボランティアですから」って言うのだね。すごいなあと思って。

冨樫
そうですねえ。そういうことを経験する人が多ければ多いほど、社会全体が寛容になっていきますよね。だから近くでちっちゃいことがあっても「あのときはこうやったな」って考えを巡らすことができますよね。

守田
本当にそうだよね・・・。

さてそろそろ時間ですね。 今日はありがとうございました。本当にいい話がたくさん聞けました。多くの人に伝えたいです。ぜひこれからも頑張ってください。というか一緒に頑張りましょうね!

冨樫
ありがとうございました。 頑張ります!


冨樫さんを再び議会に送らないわけにはいかない!いろいろな人士が街頭で応援演説(冨樫さんFacebookより)

終わり

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明日に向けて(1667)愛する京都を守るために(冨樫ゆたかさんインタビューその2)

2019年03月28日 08時00分00秒 | 明日に向けて(1501~1700)

守田です(20190328 08:00)

京都市政にチャレンジする日本共産党前京都市議(左京区)の冨樫ゆたかさんのインタビューの2回目をお届けします。

● 市会議員には京都を守りたくて自分から手を上げた!

守田
それで市会議員になったのはどんなきっかけからだったのですか?

冨樫
僕は大学を出て共産党の左京地区委員会に就職したのです。父が亡くなったのはその年の11月24日でした。 その後、10年間、共産党の左京区地区委員会にいました。いったん家を出たのですが、父が亡くなったので自宅に戻って北区から通っていました。市会議員には2007年になりました。

守田
10年経って「市議にならないか」と誘いを受けたわけ?

冨樫
いや、僕は選ぶ側やったんです。地区委員会の常任委員会で候補を選考する作業をするのですけれどもそこにいて。それで「このままでは自分が出なあかんのちゃうか」という雰囲気になりました。 ちょうど結婚して左京区に引越したのですが、地区委員長から「ちゃんと考えて住む場所を決めなあかんで」とかも言われて。 それで前任者の山本正志さんが体調のこともあり引退の意思が非常に硬く、「誰が立候補すんねん!」とかいう雰囲気が強まって「ほんなら出よう」と思いました。 沖縄の翁長さんが生前に「イデオロギーよりもアイデンティティ」と言ってはったことがありましたが、まさに当時の僕も、その京都の人間としてのアイデンティティが立候補する動機としてすごく大きかったですね。 当然、共産党員として過労死のないような、労働時間の短い、楽しい社会を作りたいという気持ちはありました。でも僕には「京都市の市会議員やから決意した」というところもあります。

守田
京都市だから?

冨樫
京都に対する思い入れが強かったからなのですよ。僕が高校生の時はちょうど京都市の中心部にのっぽビルが次々と建っていく時代だったのです。「これはもうダメちゃうか?京都は」と思たんです。 京都のいいところにどんどんビルが建って、町家がどんどんつぶされていった。新聞にもそのことが書かれていて刺激を受けました。 マンションが増えて、全体的に住宅の高さもあがって、うちの家から舟形が見えてたのに見えにくくなくなったんですよ。京都の人にとって「うちの家から(送り火の)何々が見える」というのがプライドなのですよ。 そのプライドが壊されていき、京都の中心部から大文字も見えない雰囲気になっていって、危機感が強まりました。「これ以上はもうあかんでしょう」とすごく思っていたのです。

一方で大学に入って地方から来た人と接して京都愛が深まった面があります。例えば京都の外から来た人って「地蔵盆」があることにびっくりしはるじゃないですか。それがだんだん自分の中でプライドになっていく。 大学で「京都って地蔵盆ってあるらしいね」とか言われると「あるよ~」とちょっと誇らしく思うようになったのです。子どものころはあることが当たり前やったんやけど。 それで「京都には大事なもんがあるんや」との思いが募るだけ、それが壊されていることに痛みを感じたのです。

それだけじゃなくて議員としてやっていくうちに「京都会館問題」が起きたのですよ。(守田注 1960年に作られた文化的価値の高い京都会館が解体・改築され、同時に私企業のロームに名前が売られてロームシアター京都に変えられてしまった問題)。 それでいろいろな建築家の人たちの話を聞いているうちに、もっと京都そのものが好きになっていったのです。 それまでも町家が潰されてのっぽビルになっていくのは嫌でしたけれど「町家はそんなに建築的な意義があるんや」と建築家の方たちに教えてもらえたのです。それでだんだん自分も町家に住みたくなりました。

京都会館は前川國男さんと言う方が設計されたのですが、最初は「フライタワー」というニョキッと煙突のようはものが出ている構造を描いてはったのだけれど「京都の木造建築の町にはこれはあわへん」ということになって削ってしまった。 しかも南禅寺を思わせる屋根にせなあかんということで六角形になった。そういう前川さんの考え方を、学者の方たちに教えてもらえました。それで京都の木造建築の意義の深さも理解できて、ますます京都への思いが強くなっていったのです。 しかもこの運動に関わってくる人もみんな京都好きなのです。京都の価値が壊されることに敏感に反応する人たちが集まってきてはった。 それではじめは賃貸マンションにずっといればいいと思っていたのですが、子どもができて手狭になったこともあって町家に住んでみようかなと思いたちました。 一生懸命に探したら一軒だけあったのです。ボロボロやったのですけれど、それ以降町家暮らしです!

 


「左京みんなのデモ」に参加する冨樫さん。参加は毎回(冨樫さんFacebookより)

● 運動をすればするほど京都が好きになっていく

守田
冨樫さんは下鴨神社の糺の森を守る運動や、南禅寺のそばの無鄰菴の周りの景観を守る運動にも関わってきていますが、そこには京都愛という個人的な動機も強くあったわけですね。

冨樫
そこに関わるにはやっぱり愛情がないと!だからこそすごく共感するのですよ、地元の方たちが大切なものが壊されようとしていることに怒らはることに。 僕はもともとは文化とは縁のない人間やったんですよ。大学も経済学部でお金の力で世の中をよくしようと思っていたぐらいで。でも京都が壊されていくことへの危機感はありました。 そやから「市会議員に」と言われたときに、自分の中ですっと入ってくるものがあったのです。それでやるからには、頼まれて出たのではなくて、やりたくて出たという思いで頑張りたいと思いました。だから自然な形で立候補にいたったかな。

守田
そしたら下鴨神社のこととか無鄰菴のこととか「まさにこれが自分のやるべきことだ」ということなのですね。 だから無鄰菴の周りの住民の方たちから「白馬の王子」だなんて言われるんだな。だって「一番、思いを分かってくれる人」ということでしょう?そこまで言ってもらえるのって(笑)

冨樫
「白馬の王子」は恥ずかしいですが、でもまさに守田さんが言う通りなのでしょうね。 どこの場も関われば関わるほど奥が深いし、それにまつわる見識を聴けるから、結果として知識も積み上がっていくし、いろんなことがつながって理解できるようになってきたのですよ。 下鴨神社へ関わった時も最初から直感的に「これだ!」という思いがあったけれども、その後にむちゃくちゃ勉強したわけです。 この運動ではフランスのユネスコ本部まで住民のみなさんと行って、糺の森を守ることを訴えたのですけれども、そのときは交渉する時間が1時間ぐらいしかない。通訳も入るから実質は半分以下になる。 それでもユネスコの歴史や考え方を調べ上げ、ユネスコに一番響く言葉を言わなあかんとすごく言葉を練ったのです。

そのときにたまたま下鴨神社のそばに住んでいる方が元銀行員で海外に駐在していたこともある方でした。その方が全部、フランスに行く手配をしてくれはって、ご自身のコネもつかってくれはって、ユネスコへの交渉まで素晴らしい準備ができたのです。 住民運動の面白いところの一つはそういうところです。地域の普通の集まりにすごい人が来てはったりしてなんか素晴らしいことができてしまって。

糺の森の問題でみんなで勉強して分かったのはここには森が先にあったことです。シャーマン信仰があってその後に下鴨神社ができた。これを解明してくれたのは住民の北畠さんでした。 それで下鴨神社に対する見方がひっくり返りました。実は近代化のプロセスで糺の森の所有権が下鴨神社のものになってしまって主客が逆転してしまったのです。 そんな風に糺の森を守る運動をしていたら、それが南禅寺の無鄰菴のことにつながったし、そう考えれば下鴨神社のこともその前の京都会館への関わりがあってつながってきているのです。

守田
すごい!


無鄰菴など南禅寺周辺の庭園群を守ることを呼びかけた冨樫さんの活動報告(20180821)

● 京都を守ろうとする人と京都で金儲けのため美味しい所だけ吸おうとしている人とのせめぎ合いが続いている

冨樫
結局、京都が好きで京都の町を守りたいという人と、京都で金儲けをして美味しい所だけ吸おうとしている人とのせめぎ合いが続いていて、その中に入っていくと、さらに京都のあちこちのことがどんどんつながって見えてくる。

守田
うーん。冨樫さん。これはもう真正保守やね!ほんまにこれは素晴らしい京都愛やね。

冨樫
住民運動をやっているとそういうことを本当に感じます。高野川に無駄に架けられようとしている「北泉橋」という問題があるのですが、ここでも地元の方が昔の都市計画図をひっぱってきていろいろと調べてくださいました。 面白いのです。そこから京都の歴史が見えてくる。京都の都市計画は実は生き物で、行政が決めたことでもいろいろな事情で動いてきていることが見えてくるのです。硬直したものではなくて住民の声で変えられるし変えてきたものなのです。 だからいま「なぜ無駄な北泉橋を通すんだ」と声をあげることにつながるわけです。住民運動は本当に奥が深いなあと思います。

守田
そういう意味では前回、ぎりぎりで落ちてしまったのはすごく残念だったけれども、この4年間はすごくプラスになったのですね。市会議員をやっていたらそこまでできなかったんちゃう?

冨樫
できなかったですね。また議員としての権限がないのでいろいろなところで悔しい思いをするのですけれどもだから違うことで頑張らないといけなくていろいろな力も身に着けることができました。 逆に議員の権限の強さも本当によく分かりました。実際に議員の権限を失って運動をやってみて痛感しましたね。それを考えたら議員はもっと力を発揮せなあかんし、実際にベテランの共産党の議員さんはちゃんとやってはると思います。

その意味でこの4年間は、有権者のみなさんから「もっとちゃんと勉強して来い」と言われた年月だったと思います。 厳しい言い方やけれど、ある意味で正しく有権者が僕に審判をくだした。「まだまだ力不足やから勉強して来い」という11票差やったのではないかと思っています。

守田
感動するなあ。

冨樫
それだけに今度は「ちゃんと勉強してきました」「その勉強してきた力を生かさせていただきたい」と思っています。

冨樫さん作成のキャラ弁!しばしばお子さんのお弁当を担当(冨樫さんFacebookより)

続く

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明日に向けて(1666)愛する京都を守るために(冨樫ゆたかさんインタビューその1)

2019年03月27日 21時00分00秒 | 明日に向けて(1501~1700)

守田です(20190327 20:30)

統一地方選にチャレンジしている方のインタビューの2回目に京都市左京区在住の冨樫ゆたかさんに話をうかがいます。冨樫さんは日本共産党前京都市議で前回の選挙では11票差で苦杯をなめました。今回はリベンジ戦です。

***

守田
今日は富樫さんにいろいろとパーソナルなことをうかがいたいと思いますが、冨樫さんは京都のお生まれで、京都がとても好きだと聞きました。その辺から聞かせてください。


                    インタビューを行った冨樫事務所にて

● 僕は「そんな京都」が好きなんです!

冨樫
僕は北区の生まれ育ちでいまは左京区で活動していますが、京都って政治的にもいろいろと面白いのですよ。選挙などなんとも言えない圧力があるのだけれど、それに対して下からじわっと闘うようなところがあります。 また大都市でありながらもいろいろなところで思わぬつながりがあって「噂の町」とよく言われるのです。実際に近所でちょっと発した言葉に尾ひれ背びれがついて広がっていきます。 時々見かける光景はそういう方たちがまったく違うところで出会わはったときに「むかし同じ職場やったんや」とかなることです。ある有名な人と話をしていたら「その人、同級生なんや」とかそんなことが多い。 だから京都では悪口を言ったら生きていけない(笑) いろいろな選挙を手伝いにもいきましたけど、京都の人たちは誰に対してもはっきりと拒否はしないのです。断る場合でもやんわりしています。おおむね「まあまあ」みたいな感じで。

守田
ずっと首都だったし権力争いも激しいし、だから誰がどこで勝って負けるか分からないし、みんな政治的な立場を曖昧にしていて、いつでも勝った方の旗をあげられるようにしてきたのではないですかね。

冨樫
僕はそんな京都の雰囲気が好きなのですよ。「京都のいやらしさ」だとか言われることも多くて『京都ぎらい』なんて本も出ているけれども、なんか愛着を感じて。 例えば京都の人はどこまでを京都と捉えるかが違っているのです。町の中心の人はそこが京都やと思っているし、少し周りの人はやっぱりそこまでが京都だと思っているのです。 僕の家なんかは御土居(*守田注 おどい。豊臣秀吉によって作られた京都を囲む土塁のこと)の中、ぎりぎりなのですよ。そうしたらその辺の人は「ここらまでが京都」みたいなイメージを持つのです。 でもその周りの人もぎりぎり自分のところまで京都に入れたいというか。逆に言ったら京都というのはすごく境目が曖昧で広いのです。

守田
西京のある会合に呼ばれたときに「これ、にしきょうって読むんですか?にしぎょうって読むんですか?」って聞いたら「あ、守田さん。京都の人ではないんですね」と言われました(笑)。 「ほんまの京都は上京(かみぎょう)、中京(なかぎょう)、下京(しもぎょう)だけですわ。うちら、よそもんですわ」と言われたのですよ。でも御土居を入れたらもう少し広いよね。

冨樫
北区も入ります(笑) 豊臣秀吉による線引きはそこだという話なのですよ。でも「京都」と言ってももともとの北区の僕の実家も周りは畑だったそうです。僕の母の実家はというと呉服関係の商家の流れだそうです。 昔の写真をみると御公家さんにもらった「扁額(へんがく)」というものがあります。宿泊して接待してもらった代わりに書かはるんですわ。「来たよ。だからただで泊めてよ」みたいなことらしい(笑)持ちつ持たれつですね。

父は山形の農家の出身です。父の実家は農家で「大学」という概念を集落の人が知らないようなところでした。「上の学校に行く」という言葉があって、そんな感じで送りだされて立命館に入りました。その後、勤めた職場が三条の辺にありました。 母は同志社を出たのですけれども十字屋(守田注 京都に本拠を置くミュージックショップ。現在の社名はJEUGIA)に努めていてそこで組合活動をして同じ地区の労働組合だということでそこで父と出会ったわけです。

守田
お父さんも、学生運動などそういうことをされていたのですか。

冨樫
はい。とにかく父の田舎には「冨樫」という名が多いのですが、父が学生運動にかかわっているとわかって、「立命にいってアカになった」と騒ぎになったようです。でもその後、母と結婚したら「京女と結婚した」と喜んでくれたそうで。

守田
喜んでくれた!?わあ。「京女」と結婚したら喜ぶんだ!

冨樫
京都はあこがれみたいです。


     京都疎水沿いの「哲学の道」をきれいに (冨樫さんFacebookより)

● 48歳で亡くなった父のことを胸に

守田
そのお父さんのことをもっと聞きたいのですが。48歳の時に亡くなられたそうですね。そのときは富樫さんはお幾つだったのですか?

冨樫
22歳です。父はそれまで平日は仕事が忙しくて日曜日はごろっとなっているだけで、「なんもせえへん」みたいな感じだったのですけれども。 仕事は水道のコンサルタントでした。上下水道の設計の仕事を主に京都府下の自治体からの依頼で行っていたのですが、府はとても横暴で、契約以外のこともたくさんやらされたそうです。

守田
コンサルトというのはどういう仕事?公共の仕事なのかな?

冨樫
水道事業は、京都府も京都市もコンサルタントに丸投げなのですよ。公共と言いながら下水などを設計するのは私営の会社なのです。設計を委託しはるんです。父は「植物園の地下の下水とか設計したのはわしや。どこそこはわしや」とか自慢していました。 技術者としての誇りがあったのだと思います。ものすごく忙しくしていたけれど、設計が好きなので夢中になって一生懸命にやっていた。その上、面倒見も良い人やった。 自分にも厳しいけれど人にも厳しく指導して、苦労しながら若い人を育てていた。時には後輩の失敗をフォローしたりもしていてけっこうストレスがあったようです。 それで死ぬ一週間前に僕とか家族に「実は仕事を辞めたいんやけど」とポロッと言ったのですよ。そのときに僕は半分冗談やと思って「そんなん、学費の支払いとか、家のローンとかあんのにどうすんのん」って言ってしまったのです。軽く言ってしまった。 すごく後悔しています。受け止められたら良かったのですけれど。「そんな生き方もあるねえ」とか言えたら。(冨樫さん、ぐっと言葉に詰まる)

守田
22歳でしょう?むりむり。

冨樫
そんなことがあってから一週間後に、職場を介して突然電話がかかってきました。とにかく急いで病院に行けと。行ったらもう心筋梗塞による昏睡状態になっていて・・・。 そんなことがあって、組合の人も「労災を申請するなら協力します」と言ってくれはったけれども、父は中間管理職やったし、家族としては「争いになったらとても耐えられへん」と思いました。 しかも父は会社のことが好きだったし、わざわざ争うところまでいくべきなのか悩んで、結局しなかったのです。会社もおもんばかって退職金以外に規定にないお金を払ってくれはりました。 「社葬にしたい」ともいってきはったのですけれどもそれは断りました。「父は会社のために働き過ぎて亡くなったのですから」と言って。

結局、その会社もあまりにもきつすぎるということで数年前に解散しはったんです。大手の資本の下にあれば技術者を守ることができるのだそうです。たくさんの取引先を持っていて行政側と対等に交渉できる。 でも中小企業に対して行政は本当に情け容赦ないのです。ほんまに小間使いのようにやってきます。「それではとてもやっていけへんわ」ということで「解散するのならまだ財産があるうちにしよう」ということになったそうです。

● 父の死は業界全体の問題、民営化などもってのほか!

冨樫
水道事業は、いまは拡張からメンテナンスの時代になってきているので、より仕事が大変なのだけれど儲かるわけでもないから解散しはったそうです。親父が死んでから十数年後の話ではあるけれども。 でも父親のことにも矛盾が現れていたと思います。誰かが必ずそうなったのでしょうね。構造的に。 うちの親父が働き過ぎで死んだのは会社の問題というよりも、業界全体の、いや技術職の世界の多くが抱えている問題なのだと思います。 ひどいところが多いのですよ。業界全体に矛盾があったから起きた問題、会社として一定の対処が仮にできていたとしても、やはり誰かがそうなったのではないかと思いますね。 ほんまのことを言えば、僕よりも父親の方が政治家向きやったと思いますね。面倒見もいいし。その意味では大事な人を亡くしたと思います。 父は管理職になるまでは組合運動も積極的にやっていて、その後も後輩の相談に乗っていたようです。業界の中の労働条件改善などをやっていたようです。

守田
お父さんのことを考えて、水道の民営化とかはどう思いますか?

冨樫
もちろん大反対です。それにそもそも水道を扱う主体の側が水道に関する技術をもっと持っておくべきだと思いますね。 大雨が降った後に、例えば銀閣寺の周りで雨がたくさん降ったらなぜかトイレの水があがってくるという家があって、本来は、あそこの風致地区は下水と汚水は別の下水管にしているのですよ。 だからそんなことが起きるはずはないということで、行政は「なんでか分からない」で終わらせてしまっていたのです。でも結局、別のところで同じような問題が起こって、地下を見たら汚水枡が割れて雨水が入りこんでしまっていたのです。 そういうことは設計図をもとに下水管をカメラで調べるなどすればある程度分かったはずで、そこまで敏感に判断して動ける行政でないとあかんのですよ。それができていない。ほとんどのことをコンサルに丸投げしているから十分に機能を発揮できてない。

コンサルは市民と接触するのは仕事ではないので、行政の側が市民やいろいろな関係団体と交わってそこから出てくる情報を判断し、適切にコンサルにつないで解決を図る能力を持たないといけない。 でも今はますますコンサルへの依存を深めています。本当によくない。その上、民営化などしてしまったらますます現場を請け負うコンサルと市民や関係団体の関係が切れていくわけですよ。 昨年の台風21号被害のときの関電の対応が象徴的です。関電の職員は現場で必死にがんばってくれていたけど、会社としては顧客や行政への情報提供や連携がなく、顧客からの連絡をうけつけない。そんな企業体にしてしまったらあかんと思います。 民営化するのではなくて、今の水道局をもっとしっかりとした技術を持っているところに育てていかなあかんと思います。

守田
それを僕の恩師の宇沢弘文先生は「社会的共通資本」と呼ばれました。水道は典型的な社会的共通資本で儲け本意の市場に任せてはいけない。でも官僚の恣意的管理に任せてもダメなのです。地域住民とその道の専門家が入って民主的な共同管理をしないといけない。例えば冨樫さんのお父さんのような方が管理に参加することが必要だというのが宇沢先生の持論でした。

冨樫
よく分かります。そもそも水道は儲かるところなのですよ。水は誰にとっても絶対に必要なものだから料金を値上げしたらその分だけ利益が増えるのです。水源は琵琶湖にしかなくてその琵琶湖からの取水権を京都市が押さえているので他が参入などできない。また水道は全部が一体化したインフラとしてしかうまくいかないのでその面でもどう考えても京都は一社でしかできずに独占になるわけです。 だから市場原理などに任さず京都市が運営する公営の独立採算制の企業などに運営を任せるのが良いでしょうね。 でもそういう点でも本当に親父が生きていたらもっと有効な知恵をいっぱい出してくれたと思うのですよ。現場のことをいっぱい知っていましたものね。市会でも水道局が答弁に困るような質疑もできたのではないかな(笑)。 ともあれ民営化は普通に考えて危険ですよ。金儲けに走ったら幾らでもできる領域やし。今だったらお金が払えないからと言って機械的に水の供給が止められることはないですが、私営のサービスだったらお金が払えなかったら止められてしまうでしょう。 そんなものを公的な側が手放してしまったら本当にどんなことされるか分からない。

京都大学のそば、東一条交差点で街宣する冨樫さん (冨樫さんFacebookより)

続く

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明日に向けて(1665)内なる革命を貫きつつ社会を変えていこう!(加藤あいさんインタビューその3)

2019年03月27日 11時00分00秒 | 明日に向けて(1501~1700)

守田です(20190327 11:00)

日本共産党市会議員(左京区選出)・加藤あいさんインタビューの最終回をお届けします。

● 内なる革命を進めながらあゆむ

守田
でも加藤さんのことに話を戻すと、加藤さんがさきほど話していたのは「内なる革命」ですよね?

加藤
内なる革命ですか?どういうことですか?

守田
だって自分は管理教育反対だったのにそうではない自分とぶつかって。

加藤
私はそういうものの考え方をする傾向が強いのですよ。「自分はこういう風に言ってきたはずなのにこうじゃないか」みたいな発想が多いのですよ。

守田
素晴らしいですね!

加藤
素晴らしですか?辛いのですけど(笑)

守田
でもそれって主体的ということですよ。

加藤
なるほど。

守田
自分も気を付けていることだけれども、男女平等だと言いながら、家に帰ったら突然「亭主関白」という場合があるじゃないですか。それは言っていることを自分に通さないわけでしょう。 他のさまざまな社会問題でも「日本政府が悪い」というところにとどまってしまっていてはダメで、自分を通すかどうかでなんでも変わってくると思うのです。 そういう意味で主体的であることが大事だと思うのですが、その点で加藤さんは主体的に発想されるのだなと思うのです。よくそこに共感するのですよ。 それが「問われる」ということだし、自分が言ってきたことを裏切らないということでもありますよね。

加藤
そうですね。

守田
だから自分が言ってきたことと自分が直面したことの間に葛藤が生まれる時は内なる革命が始まる時だと思うのですよ。外なる革命、政府が悪いというだけにとどまらない。 僕らは現代社会にさまざまな矛盾を感じているわけですが、でも良くないと思っている社会の中に生きている僕らは、知らず知らずのうちにその価値観に染められている面もあると思うのです。 そういう面と向き合うのが外なる革命に連動すべき内なる革命だと思います。その点で加藤さんは、自分を問うていく回路が強いのだと思います。

加藤
そう言ってもらえると嬉しいです。

雪降る中での加藤あい事務所開き 2019年1月26日

● 市民と野党の共闘を豊かに広げたい

守田
うーん。僕はここが一番大事なところだと思うのですよ。それで話をいま私たちが直面している市民と野党の共闘、さらには市民と共産党の共闘の豊富化にぐっと移していきたいと思うのですが、これまで選挙を主体的に担ってこなかった市民が新たに能動的に選挙に関わるときも一つの内なる革命があると思うのです。そのためにはやはり自分たちで活動を作っていくことの面白さは大事です。 ところが選挙で市民が共産党を応援するとなると何かすでに決められたことを「はい。これをこうやってください」と言われるようなイメージしかできないのです。対して概して無所属の場合だとみんなが持ち寄ってみんなで作っていく楽しさが得やすい。 そこを市民と共産党の間でどう作っていくのか。その回路をどう作るのか。僕は今後、多くの市民と共産党がより豊かな連携を作っていく上でここがとても大事な点だと思うのです。

いまの段階ではいろいろと政治経験を積んできた僕だからできる面もあって、もうちょっと普通の人が共産党の人と一緒に選挙をやりながら自分の能動性を発揮できる仕組みをどう作っていったら良いのかと考えるとまだ解けないところがたくさんあります。 とくに統一地方選のように党派名を掲げた選挙になると難しいです。そうなるともっと党派性の緩い他の党に選挙に能動的に関わりたいと思って参画してくる人が流れやすいのではないかな。

加藤
その辺のこと、守田さんが言う「回路」という言葉がぴったりくるなあと思うのです。共産党と市民がどう選挙を一緒にやっていくのか。そこにどういう回路があるのか。私たちの側もどう関与してもらえばいいか確かに良く分からない面があります。 でも共産党でもセンスの良い写真をバーンと使っていて、キャッチフレーズだけ書いている議会報告も作ったりしているのですよ。「こんなチラシ、良く作れたね」と言ったら、いろいろなことを言われなかったのですって。

でも私の経験ではやはり共産党には長い間のみんなの経験の積み上げの中で、「こうしたらいい」というノウハウもあるから、それを変えるためには哲学がいるのです。「こうこうこうだからこう変えよう」という哲学がないといけない。 中央委員会は「市民とともに行う選挙をやろう」という方針を出しているのです。でも発想が乏しい。左京区は守田さんとかがいるから共同のスペース(*守田注 左京まちの交流ひろば 百万遍)を一緒に作り、実態を持たせることができて、そこから企画を立ち上げていろいろと共闘を広げようとなっている。 ともあれ哲学は出されているけれど、それを有効に前に進めるためには共産党の側もさらに脱皮していかなければならないと思います。

守田
京都では福山和人さんをみんなで推した京都府知事選でとても大きな市民と野党の共闘の枠組みができました。それも私たち京都のみんなの内なる革命の一つだと言って良いと思います。 それは本当に素晴らしいことなのだけれども、もっと多様で豊かな共闘を実現させたいですね。

加藤
私もそう思います。

守田
さてそろそろ時間ですが、今日は本当に面白い話が聞けました!

加藤
これで良かったのですか(笑)

守田
加藤さんの内なる革命のことが聞き出せたしすごく良かった。悩んでいるところも聞けて良かったです。

加藤
私は基本はそういう人なのです。いつもいっぱい悩んでいるのですよ。

守田
まあ、そうやって自分を問うている人だなという匂いはいつも感じていたのですが(笑)。これからもぜひ一緒に奮闘していきましょう。選挙もぜひ頑張ってください。僕も自分ごととして最後まで頑張ります。

加藤
はい。頑張ります!

守田
ありがとうございました。

加藤あいさんのチラシ

終わり

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明日に向けて(1664)内なる革命を貫きつつ社会を変えていこう!(加藤あいさんインタビューその2)

2019年03月26日 12時00分00秒 | 明日に向けて(1501~1700)

守田です(20190326 12:00)

前回に続いて日本共産党京都市議(左京区選出)の加藤あいさんのインタビューをお届けします。

● わが子が不登校になって悩み込んだ!

守田
そういうしんどいときを越えて、二人目を生んだのはいつだったのですか。

加藤
2009年に男の子を産みました。いまは小学校3年生です。

守田
不安はなかったのですか?

加藤
二人目はもう慣れたから不安はなかったです。物理的には同じように忙しかったですけれど、二人目の時は「しんどかったなあ」という感覚はそんなにないかな。 一つに小学校にあがるまで「下の子はやりやすい子やな」と思ってきたのです。自分が慣れた面もあると思います。一人目右往左往してどうなるか分からなかったから「大変や」という気持ちが強かったけれども、二人目は一回やっているから「こんなもんやな」という思いがあって同じ大変さでも精神的負担がぜんぜん違いましたね。

でも下の子は小学校になかなか行きづらいのですよ。本人が一番、苦労していると思います。いまはもう3年生でだいぶ慣れました。どうするかはそのたびに本人が決めてやっているのです。でも最初、親として普通に子どもは学校に行くものだと思っていたので、「それができない!わが子が」ってなったら「ぎょぎょぎょぎょ」ってなったのですよ。

一方で私は「今の管理主義の教育は良くない」って思ってきたはずだったわけです。息子が「嫌だ」って反応していることに対し「あなたどう考えているの?」という問いが起こってきたのです。別に誰が聞いてきたわけでもないのですよ。でも「とにかく行きなさい」では今まで考えてきたことと相矛盾するわけです。凄く問われました。 それでいろいろな本を読んだら「親はともかく子どもが学校にさえ行っていたら安心しているけれども行かないとなったらとたんに不安になる」とあったのです。「でもそれではぜんぜん自分の子どもを見てないのではないの。学校に行ったあとなんて見てないじゃん。それはどうなの」と書いてあって「確かに!」と思いました。


「全員制のあったかい中学校給食を!」と出町柳駅前で街宣 加藤さんfacebookより

● 自分はどこまで管理教育を批判できていたのだろう?

やっぱり多くの人にとっては特別なのですよ。学校に行かないことが。それを普通にしている人に言うのはものすごくハードルが高い。同じようなことを抱えていても言わない。「なんて生きづらい世の中なんだ」と思いました。 私はいまの管理教育を実は「当たり前だ」と思って生きてきた自分にも突き当たりました。正直なところ「やっぱり普通に学校に行って欲しい」と思う自分もいる。そんな風に管理教育がどこまでも染みとおってくる。

守田
今はどうなのですか?

加藤
まだまだ渦中にいますね。でも夫は最初から「本人が決めれば良い」というスタンスなのですよ。複雑な感じがしましたがでも「やはりそれが正しいかな」と思います。

守田
二人目でもいろいろと苦労しているじゃないですか。

加藤
そうですね。そこにはいろいろと複雑な思いがあったりするわけですよ。「二人目からこうやればうまくいくと思っていたから、けっこう簡単にやっていたのが良くなかったんじゃないか」とか。なんとも言えん気持ちなのですよね。とにかく本人の状況から出発して何が最善の策なのか、本人が決められるようにすべきなのだろうなと思います。 でも世間様に向かっているときと自分のわが子に向かうときの自分が違っていることにもなるから自分を問わざるを得ない。全部、自分に刃が向いてきてしまうのです。 どっちも事実なのですよ。「管理主義は良くない」と思っている自分と「学校に行って欲しい」と思っている自分と。

● 学校というシステムが心を縛ってきた・・・

守田
行って欲しいというのはやはり社会に遅れてしまうとかそういう気持ちですか?

加藤
なんなのだろうなあ。心配ですよね。やっぱり。

守田
社会から孤立してしまうのではないかという心配ではないですかね。なんというか「管理主義教育」という言葉よりももっと広い、学校というシステムの社会への浸透の問題なのではないかな。知らず知らずのうちに学校に行かねばならないと思いこまされているところがあるというか。 その点では学校にはそこで教育される子どもたちだけではなくて親たちもすごく縛られている。ここが社会につながるレールであって、そこから外れると何かとんでもないことになってしまうのではないかというような呪縛の中にあるというか。おそらく親にとって学校は子どもが社会へ入っていく入り口として考えられているのではないですかね。そこで友だちができてある意味親から離れていく。そんな歩みを自分たちもしてきたのに、そこに入れなくなってしまうのではという不安なのではないかな。

加藤
そうですね。それが大きいかな。その点で私は実はフリースクールをしている方がそばにいてくれたので良かったのです。なんてラッキーなのだと思います。学校にいかずともフリースクールを出て立派に成功している人もたくさんいることも聞かせてもらえました。

守田
そういう点って実は子どもも考えているのですよね。親が心配しているのではないかと。ある不登校のお子さんがお母さんに誰だか偉人の名前を出して「お母さん。心配しなくていいよ。この人も学校に行ってなかったんだって」と言ったそうです。

加藤
(笑) かわいらしいねえ。

守田
その子、なかなかできていて、お母さんがイライラしていると「お母さん。お母さんがいま怒っていることにごめんね」というそうです。

加藤
うーん。それはちょっとできすぎているなあ。でもねえ、うちの子もそうなのですよ。怒っている人がいるとそばにいって寄り添うタイプなのです。だから自分の思っていることをまず言うのではなくて相手の状況を見てから言うのですよ。そういうタイプだから余計に学校に行くとしんどいのですよ。 学校ってこうしなければいけないというのがいろいろ決まっているでしょう。そうできないときの自分に耐えられないのですね。それがだいぶ分かりました。保育園のときはそういう矛盾が出てこなかったのでしょうね。

 

「大型開発より子育て支援」のバナーを持って 加藤さんFacebookより

● 新自由主義のもとで公教育が解体を強めている・・・

加藤
去年は4月にちょっと時間ができたので、学校に一緒に行ったり、いろいろと学校の実情についても学びました。

守田
いま学校で起こっていることはもう「管理教育」という名でくくることはできないことなのかもしれないですね。教育だけではなくて、社会そのものがあまりも人を一つの鋳型に入れ込む形になってしまっている。そういうことしか指導を受けていない若い人が先生になるわけだから、やはり鋳型にはめ込もうとしてしまう。 そんな中で子どもに対して切れて怒ってしまう先生も増えているとよく耳にします。そういう方はきっと自分のこともいつも罰しているのではないかな。何々ができないとか。管理教育が悪いと言う問題を越えて、新自由主義のもとでいつも何かにバッシングされ、優しさや思いやりとか「まあいいじゃないか」という思いが効かなくなっているのではないか。

加藤
でも教育ってそういうことでしょう?「まあいいじゃないか」とかが大事ですよ。それなのに怒って子どもを従わせるなんて誰でもできることでしょう。そうじゃないのが教育じゃないですか。

守田
そういうゆとりとかがあまりにも無くなっている。しかも「ゆとり教育」が誤っていたということになってしまっていますよね。もっとそのときの具体的な施策が良くも悪くも反省されなくてはならないのに、「ゆとり教育」=「ダメなもの」、「ゆとり教育を受けた人たち」=「ダメな人」みたいに歪んで捉えられがちになっている。それでいつも「ダメだ、ダメだ」と言われて・・・。

加藤
深刻ですよね。

守田
教育の歴史を振り返ると、戦前のファシズムはまさに教員を中心に成り立ったわけですよね。でも戦後にその反省として「二度と戦場に教え子をおくらまじ」という教員運動ができた。政府や右派はそれをいかに解体するのかに血道をあげ、実際にだんだんと解体されてしまった。でもその過程で教育そのものが壊されてしまった。 僕らの時には情熱的で子どもに寄りそってくれる先生がまだたくさんいました。だから学校に行かなきゃと思えたし、そこで友だちもできたし、そんな中で恋もすれば失恋もした。そういうことが人生においてとても大事なことだと思うから、そこに行かせてあげたいと思う。ところが実態はどんどん変わってしまっていて、子どもたちにとっては本当に怖い場に変わってしまっているのだと思います。公教育の良い面がどんどん解体しているのですよ。

加藤
確かにねえ。前提が違うということですよね。

続く

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明日に向けて(1663)内なる革命を貫きつつ社会を変えていこう!(加藤あいさんインタビューその1)

2019年03月25日 17時00分00秒 | 明日に向けて(1501~1700)

守田です(20190325 17:00)

今回の統一地方選で、僕は「関西無所属ネットワーク」と京都市の日本共産党の方たちを応援しています。
今回よりその一環として候補予定者の方たちへのインタビューを掲載していきたいと思います。はじめに日本共産党京都市議(左京区選出)の加藤あいさんに話をうかがいました。
以下、3回に分けてお届けします。

***

● 選挙に向けて共産党のメンバーのセルフヒストリーが見えると良いのでは?

守田
統一地方選にチャレンジする共産党の方にインタビューを行いたいと思いますが、みなさん、選挙であまり自分のことを押しださないですよね。だから僕がセルフストーリーを聞いて内面の魅力を引き出せたらなあと思っています。

加藤
一期目はよくやるのですけれど現職になると議員としてやってきたことがお話のメインになるのでセルフストーリーを語らなくなるかな。

守田
それに感情が伴うといいと思うのですよ。みんなもっと舞台裏も知りたいし。

加藤
まあ、人間味やね

守田
そうなのですよ。そこが見えないと党内にいろいろな意見があることも見えない。

加藤
そうか。選挙に向けたチラシ一枚作るのにもいろいろ意見があって、実際にはこんなに苦労しているのに(笑)。

守田
それもあってインタビューをさせていただきたいのだけれど、やはりまずはどうして議員になったのかから始めましょう。

左京区田中の加藤あい事務所の前で


● 私の場合、まず共産党に参加し、党を増やそうとし、その中で選挙に出た

加藤
うーん。実は私の場合、そこですぐにセルフストーリーになるわけでもないのですよ。共産党は他の党のような「議員政党」ではない。(注 議員だけで大衆的根のない政党の意)。
共産党には草の根で運動があって党員がいて、政党や政策を広げようとする日々の活動がある。むしろベースとしては共産党の一員としてこの政党を大きくしたいと思って活動しているのですよね。
でも守田さんがおっしゃっているのは、その場合でも自分をスタートにおいて能動的になった方が楽しいということですよね。それはすごくよくわかる。

守田
では加藤さん自身はどう考えているのでしょうか?自分の志向性というか。

加藤
自分の人生においてということですか?私は高校生のときに運動を始めたのだけれど、「政治を変えたい、社会を変えたいと言うことを大きな声でみんなに言いたい」と強く思っていました。
でも政治というとすごく特別で高校生同士で話したりしていない。そのころはテニス部にも入っていたのですが、けっこうハードでテニス一色。その中で政治の話をすることができなかったのです。
だから高校では一切活動のことは言えず自分が二つに分裂していてとっても嫌でした。そのため大学では学生自治会に入ってフルに活動しました。

佛教大学で活動をしながら教職をとったのだけれどなかなか教員になれませんでした。どうしようかなと思っていたら「共産党で働かないか」と言われて共産党の専従になり、その後に民青の専従になりました。
父には「一度も社会に出たこともないのに共産党の専従になるなんてやめた方がいい」とか言われました。でも父は娘には極めて弱いので「そう。お父さんの意見は分かった」で終わりだったのですけれども(笑)

それで民青の専従だったときに「候補者になりませんか」という話が来たのです。そのときは正直言って議員とはなんだかよく分かっていませんでした。社会を変える運動をずっとやっていこうとは思っていたけれども議員になるなんて考えたこともなかった。
でも「社会を変える」こととなにも矛盾しないので「それじゃあやります」と受けたわけです。だから最初の選挙、周りの人が相当、大変だったと思います。

守田
でも当選したのでしょう?なぜですか?

加藤
それはもう前の人のしっかりとした地盤があったからですよ。「共産党ってこんな風に活動してんねや」って逆にすごく学ばされました。
いろんな地域のお世話活動とか、住環境を守る運動とか、政策を掲げて政治運動をしているだけではなくて、社会を日常から変えようといろいろ動いている。「すごいなあ」って思いましたね。
あのときは27歳だったし、分かっていることなんてほとんどありませんでした。「選挙に出てみませんか」と言われて出て、そこから知ったことの方が本当に多いです。

守田
その点では議員になって良かったですね。

加藤
そうですね。うん、そうですね。でも「そうですね」とは言えないような状態の時もあったけれども。


● 議員ってめちゃめちゃ忙しい!

守田
どういう状態のとき?

加藤
議員ってめちゃめちゃ忙しいのですよ。本当に。疲れているときとかは「はあ、しんど・・・」って思いました。

守田
忙しいのはどういうところ?

加藤
例えば私は議員になってすぐに出産したのです。ところが夜に出ることが多い。いろいろな会合があっていかないといけない。もちろん学ぶこともたくさんありますから行った方が絶対に良いのです。
でもそうすると子どもをおいていかないといけない。それがすごく辛かったですね。気持ちが子どもに引きずられるのです。行かなきゃいけないから行くけれど「はあ~」って思っていました。

守田
どうやって乗り越えたの?

加藤
保育所でのつながりです。間違いなく。素晴らしい保育園なのですよ。私なんかよりももっとめちゃめちゃに働いているお母さんがいるのです。
自分は議員をしていてものすごく忙しいと思っているけれども、産婦人科の女医さんとか私よりも忙しい女性たちがいっぱいいた。
あるときこんなことがありました。私が夜に出かけていくと子どもが手紙を書いておいておくのですよ。「お母さん、先に寝とくよね」とか。それが辛くて。
「くーっ」と思って、それをその女医さんに言ったら「それはねえ、加藤さん、返事を書くのよ」と言われて。私はそれで返事を書いてすごく救われたのですよ。

守田
どんな返事を書いたの?

加藤
中身はあんまり覚えてないのですけど、私は私に投げかけられた言葉に母親として申し訳ないと思っていたわけです。
でも子どもは責めるつもりなんかなくて単純にお母さんに手紙を書きたいと思って「ちゃんとお風呂に入ったよ」とか書いているわけやから、「ちゃんとお風呂に入れて偉いね」とか、あったことに対して「お母さん、こう思うよ」と書いて渡せばいい。
それが分かったのです。

そんなこと、「子育て本」には書いてないし、学校でも教えてもらえない。でも「私、本当にこれが辛いのよ」と言って、「私はそんなときこうしたよ」と同じ立場の人から教えてもらえた。
他にも出版社で働いているお母さんとか、研究者とか、ハードワークの人がたくさんいました。そういう同じ立場の人たちの中にいたのが良かった。

全員制のあったかい中学校給食を目指してデモ(加藤あいさんのFacebookページより)


● 社会とのつながりこそが大事!子育ても、社会活動も!

加藤
ああいうとき「自分だけが大変な思いをしている」みたいになると救われないのですよね。そうではなくて、みんな頑張っているという点が大事なのです。だから私はそうやって頑張っているみんなの状態が良くなるといいと思います。
その点では女性の政治参画の促進という場合でも、確かに女性議員の数を増やすことは大事です。どう考えても少なすぎますからね。でも女性議員を増やすという視野だけではまったく不十分だと思うのですね。
主権者の人たちとつながってどうしたらもっと多くの女性たちが社会に関われるようになるのかを考えないと。みんなと接点を持ちながら社会の制度や仕組みを変えていくことが大事だと思います。

守田
なるほど。それで27歳で当選していつお子さんを生んだのですか?

加藤
選挙は2003年、出産は2004年でした。

守田
そのときに今は参議院議員で当時は先輩市議だった倉林明子さんの尽力があったのですよね。

加藤
それまで議員の欠席理由に「出産」が入ってなかった。だから倉林さんの奮闘などで会議の欠席事由に「出産」が明記されました。
でもねえ、そのころのこと、あまり詳しく覚えてないのですよ。忙しすぎて。大変過ぎて。先輩の倉林さんとか井坂博文さんとか相当に配慮してくれたと思うのです。でも精一杯すぎて私には見えてなかったです。

守田
よく頑張りましたね。

加藤
ありがとうございます。でも一人目の時は本当にしんどかったですね。委員会の質問とかも、家に帰ったら子どもの面倒みなあかんから準備ができないのです。寝かせてからやろうと思ったら、こっちが焦れば焦るほど寝なかったり。
もう疲れ果ててしまうのですよ。あのころのこと思い出せないですもん。ほぼ、記憶喪失。

守田
すごいねえ。

加藤
周りが相当に配慮してくれたのと、保育所の仲間がいたから過ごせました。仲間は宝です。むしろ孤独に家で子育てしている「専業主婦」の方がしんどいと思いますね。

守田
危ないよね。孤立してね。

加藤
社会との接点と仲間たちないと子どもを育てられないと強く思いますね。だから公立保育園を京都市がどんどん廃止しているけれど絶対に反対です。公立の保育所は公務員が配置されるので、職員体制が安定しているのですよ。
保育所に来ている子どもたちを保育するだけではなくて、アウトリーチといって一人で家で子育てしているお家に訪問したりしているのです。そういう機能をもっと京都市は充実すべきですよ。

自分は確かに大変やったけれど、議員という仕事をしているわけでしょう。子どもから離れて社会と接点を持ってそこには自分の発露もある。保育所に仲間たちもいる。
だからなんとかやれたけれどもずっと家にいてずっと子どもと一人で向き合っているのはちょっと無理だなと思います。だからそういうアウトリーチのような機能をもっと充実することが大事なのです。

続く

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明日に向けて(1662)フクシマの7年間を振り返り明日を考える!(16,17日豊田直巳写真展、映画上映会、講演会にゲスト出演します)

2019年03月14日 23時30分00秒 | 明日に向けて(1501~1700)

守田です(20190314 23:30)

● フクシマの7年間を振り返る企画(篠山市)にぜひお越しを!

いま篠山市でジャーナリスト豊田直巳さんの写真展が行われており、17日(日)に映画上映会と講演会、トークセッションが行われます。
僕も参加し、トークセッションで豊田さんと対談させていただきます。

豊田さんはパレスチナをはじめさまざまなところにカメラを抱えて飛び込んで取材をしながら、戦火の中におかれた人々に寄りそい続けてきた方です。
福島原発事故後は被曝の危険を承知で高線量地帯に飛び込み、とくに飯舘村に入って牛飼いの長谷川健一さんを取材しながらあの最も厳しい時期の苦楽を共にされました。
その後、その経験を映画『遺言』にまとめられました。長尺ながら息をつかせぬ間にラストまで観客をひっぱっていく圧巻の映画です。

さらに豊田さんは映画『奪われた村 避難5年目の飯舘村民』を2016年に公開されました。予告編とホームページのアドレスを記しておきます。
https://www.youtube.com/watch?v=6okn268-dME
http://ubawaretamura.strikingly.com/


映画『奪われた村』ホームページに掲載された豊田さんの挨拶

僕は豊田さんとは前々からの友人でもあり、原発事故後も龍谷大学でトークセッションを行うなど何度か席を共にしてきましたが、いつもたくさんのことを学ばせてもらってきました。
何よりすごいのは豊田さんが常にフクシマの痛みのそばで寄り添い続け、人々と歩みを共にして来られたことです。
17日に豊田さんの講演の後で対談させていただきますが、二つの映画に込めた思い、そしてまる8年を経たフクシマへの思いなど、講演内容とは重複しない形でお聞きしたいと思っています。

ぜひあらためてフクシマの痛みをシェアし、その中から未来の可能性を考えていくために、この場にお越しください。


● 17日の企画の詳細をお知らせします!

以下に企画の詳細を記しておきます。はじめにチラシを添付しておきます。

豊田直巳写真展
3月9日(土)から3月17日(日)まで
篠山市民センター1F 市民ギャラリーにて
午前8時半から午後5時15分 観覧無料

「奪われた村」上映+シンポジウム
3月17日(日)
篠山市民センター2F 多目的ホール
午後1時30分から午後4時30分
資料代500円 託児あり(要事前予約)

午後1時半開演:映画上映13時45分~14時40分(65分)
午後3時:豊田さん講演会(45分)
その後、豊田さんと守田のトークセッション:午後4時半終了

主催 3.11をふりかえるinささやま実行委員会
協賛:篠山市 後援:篠山市教育委員会、神戸新聞社、丹波新聞社
(本事業は篠山市「酒井貞子人材育成基金」より助成を受けています)

お問い合わせ 3.11をふりかえるinささやま実行委員会
電話 090-7098-1595(玉山) メール newwind@nkgw.info(中川)

● 16日(土)にも南丹市で豊田さんの講演があります

豊田直巳さん講演会&写真展@南丹会場
写真展は9、10、14、15、16日店舗営業時間に開催
16日(土) 豊田直巳講演会 ゲスト守田敏也
午後6時から午後8時 入場料1000円(ワンドリンク付)
場所 ドイツカフェみときや JR胡麻駅から5分
http://blog.mitokiya.com/
南丹市日吉町胡麻障子畑18-1 0771-74-1375

主催 口丹自然のくらし協議会 丹波自由学校 原発なしで暮らしたい丹波の会


ドイツカフェみときやの店内(HPより)

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明日に向けて(1661)東日本大震災と福島原発事故後8年に思う-命を守る力強い運動を築きあげよう!

2019年03月13日 23時30分00秒 | 明日に向けて(1501~1700)

守田です(20190313 23:30)

一昨日、3月11日で東日本大震災、そして福島第一原発事故から8年間の月日が流れたことになります。
8周年目の日を過ぎたいま、あらためて震災と事故で亡くなられたすべての方に心からの哀悼の意を捧げます。
またその後、避難を余儀なくされ続けているすべての方にお見舞い申し上げます。

● 被害を振り返る

朝日新聞の3月11日付報道では、各県ごとに死者・行方不明者・震災関連死・避難者の数がまとめられています。
岩手県 死者4674人、行方不明者1114人、震災関連死467人、避難者1028人。
宮城県 死者9542人、行方不明者1219人、震災関連死928人、避難者4196人。
福島県 死者1614人、行方不明者196人、 震災関連死2250人、避難者3万2631人。

グラフは時間泥棒仕置き人さん作成

3県含む全国総数
死者1万5897人、行方不明者2533人、震災関連死3701人、避難者5万1778人
※死者・行方不明者は3月8日時点(警察庁)、震災関連死は昨年9月30日時点(復興庁)、避難者は2月7日時点(同)。

死者数の総合計は19598人、行方不明者が2533人です。ご冥福を祈るばかりです。
また8年も経つのにいまだ政府の認める公式発表ですら5万1778人もの避難者がおられます。一刻も早い全面救済を心から求めます。

 
大津波に襲われた気仙沼港 2011年8月 守田撮影


打ち上げられた巨大な船がなかなか撤去できなかった 気仙沼港にて 2011年8月 守田撮影

● 震災関連死の意味するもの

震災関連死とは地震や津波の被害からはなんとか生き延びたものの、その後の避難所生活の中などで亡くなられた方を指します。
統計を見てすぐに分かるのは岩手・宮城に比べて福島県の震災関連死がとても多いこと。端的に原発事故の影響が見てとれます。

東京新聞はこの点に着目し、震災関連死の中から原発事故によるものをそれぞれの自治体に取材してより分け、「原発関連死」としてカウントしてきました。
2016年3月6日付の記事ではこの時(3月4日)まで福島県内で確認された震災関連死2028人の67%の1368人が「原発関連死」であったとしています。
ただしこの数字には震災関連死数の多いいわき市(131人)、南相馬市(485人)の中の原発関連死が両市が特定していないため入っていません。このためもう数百人多いと考えられます。

東京新聞 2016年3月6日

いやそもそも震災関連死そのものがどこまで正確にカウントされているか不明確です。
震災関連死は遺族からの申し出があり、審査した上で認定されるので、一人暮らしだったり、家族も共に亡くなってしまった場合などがカウントされていません。
さらに被曝影響などまったく考慮されていない。あれだけ膨大な放射能がまき散らされたのに健康被害が皆無とされているからですが、そんなことはありえません。
僕自身の取材でもどう考えても被曝影響の下での死としか考えられない方、また大変な健康被害を受けている方がたくさんおられます。

これらから最低でも約2000人、実際にはそれを大きく上回る人々が原発事故のせいで殺されたことは明らかなのです。
責任は東電と、長年原発の運転を認めてきた歴代政府、そして原発を作ったメーカーにあります。

● 大震災における死の意味するもの

一方で大震災と大津波による死に対しても、歴代の政府に大きな責任があることを指摘しておきたいと思います。
なぜなら三陸沖地震と津波は確実に来ることが予測されていたのに、有効な対策を採ってこなかったからです。
その点で原発関連死を含むおよそ2万人を越える死者もまた歴代政府の無策のせいで亡くなったことをおさえておきたいです。

例えば2010年12月17日発行の岩波新書『津波被害』の「はじめに」で著者の河田惠昭さんはこう書かれていました。
「この本の出版は、2010年2月27日に発生したチリ沖地震津波がきっかけとなっている。わが国では、約16万人に達する住民を対象に、避難指示・避難勧告が出されたが、実際に避難した人は3.8パーセントの約6.4万人に過ぎなかった。」
「 『こんなことではとんでもないことになる』というのが長年、津波防災・減災を研究してきた私の正直な感想であり、一気に危機感を募らせてしまった。
 沿岸の住民がすぐに避難しなければ、近い将来確実に起こると予想されている、東海・東南海・南海地震津波や三陸津波の来襲に際して、万を超える犠牲者を出しかねない、という心配である」(pⅰ)

「必ず来る」の帯をつけた『津波災害』

残念ながら河田さんの心配はわずか3か月後に的中してしまいました。こうした危機感を多くの研究者たちが何度も叫んでいたのに為政者が耳を貸さなかったからでした。
そしてこの由々しき事態はいまも続いています。昨年7月豪雨でも220名を超す方が亡くなられましたが、大きな被害が出た岡山県倉敷市真備町の洪水は、国土問題研究所の方たちが30年前から警告した通りのものであったそうです。
原発を無謀に運転させているこの国はまた、さまざまな自然災害をも軽視し、備えを怠り続けているのです。共通しているのは許しがたいほどの民衆の命の軽視です。

● 原発からも自然災害からも命を守っていこう!

私たちは東日本大震災と福島原発事故から8年が経過した今日、為政者たちが原発事故にも自然災害にもまともに向かい合おうとしていないことにこそ、この国の危機があることをしっかり把握するのでなければなりません。
だからこそ民衆の能動性のもとで命を守る大きなムーブメントを築き上げることを、亡くなられた方々の霊前にみなさんと一緒に誓いたいです。原発からの自然災害からも命を守ること。そのための運動を強め、同時にそのために政治体制を変えていく必要があります。

あなたとあなたの大切な方の命を守るために共に歩みましょう!

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明日に向けて(1660)あらためて福島原発事故を問う(10日に富士宮市でお話します)

2019年03月08日 23時30分00秒 | 明日に向けて(1501~1700)

守田です(20190308 23:30)

● 福島原発から9年目を迎えるにあたり富士宮市でお話します(10日)

3月10日(日)に富士宮市でお話します。
タイトルは「3・11を忘れない 安定ヨウ素剤ってなに? 原発災害から身をまもるために」です。
午後13時から15時半の予定。
JR富士宮駅前の「駅前交流センターきらら2F集会室」にて。
主催は「防災を考えるみんなの会」です。
連絡先は山田友一さん。電話番号は090-2133-9030です。

このところ各地で原子力防災への取り組みが強まっていますが、浜岡原発から市役所の距離で80キロのところにある富士宮市は安定ヨウ素剤の備蓄のための購入を進めています。3月末に納入されるとのことです。
これを踏まえて今回は安定ヨウ素剤とはどんなものか、また原子力災害にはいかに備えるのかをお話します。
この際、この間、各地で進んでいる取り組みも紹介します。
つい最近、参加してきた茨城県の常総生協さんの取り組みや、京都府綾部市での取り組みなども紹介します。

● 福島原発事故を捉え返す-そもそもベントはあってはならないもの!

原子力災害対策を進める前提として、いまいちど福島原発事故を振り返る作業も行いたいと思います。
その際、3月11日からの事故の進展過程を振り返りますが、大きなポイントをなすのは原子炉が早いうちにメルトダウンを起こしていたことです。
このため炉内の圧力が高まり、格納容器の破裂を回避するためにベントが試みられ、1号機と3号機は何とか成功しました。
しかし2号機は最後までベントが成功せずに格納容器下部の圧力抑制室あたりで裂け目ができてしまい、大量の放射能が漏洩しました。

事故を起こした福島原発の構造。圧力容器内で核分裂が行われ格納容器は事故時に放射能を閉じ込めるのが役割

ここで捉え返しておきたいのはここで試みられたベントそのものが本来あってはならないものであったことです。
なぜかと言えば格納容器の役割は原子炉内=核分裂を行っている圧力容器内でトラブルが起こったときに噴出されてくる放射能を絶対に環境中に出さないために閉じ込めることにあるのだからです。
ところがベントは、放射能を閉じ込めるための装置=格納容器を守るために、放射能を外に噴出する装置です。このため格納容器の設計に携わった元東芝の設計者の後藤政志さんはこれを「格納容器の自殺装置」と呼びました。
そもそもこの装置は設計段階ではなかった装置です。当たり前です。放射能を閉じ込めることができなくなることがあることが分かっていたら設計段階で認可が下りなかったからです。

ベントの説明図。放射能を閉じ込める格納容器を守るために放射能を外に排出する!

ところがこの原発を作ったアメリカのGEが世界にたくさん売ってしまった後で、格納容器が崩壊することがあることが分かり、非常時のためにとベントがつけられだしたのでした。
こうした後付け装置はうまく動かないことが多い。このため福島原発事故のときもなかなか弁があかず、1、3号機は裏技でやっと弁を開けましたが、2号機は開けることができずに格納容器がどこかで壊れてしまい、大量の放射能を漏洩させたのでした。
そもそも原子力政策はこの段階で終焉させなければならなかったものであることをみなさんと確認したいと思います。

● 4号機プールが干上がったら東日本の多くの部分が壊滅だった!

もう一つ。捉え返しておきたいのはこの時、4号機の燃料プールの水が減りだし沈められていた核燃料の露出が近づいていたことでした。
事態がそのまま進めば大量の放射能が大気中に拡散してしまったのは確実でした。実は当時の民主党政府の内閣府におかれた原子力安全委員会近藤委員長がその際のシミュレーションを行っていました。
それによるとなんと福島原発から半径170キロ圏が強制移住、250キロ圏が希望者を含む避難ゾーンになるところでした。この250キロ圏内が年間1ミリ㏜以下の放射線量になるのに10年はかかると試算されていました。そうなれば東日本のが多くが壊滅でした。

近藤シナリオを報じた毎日新聞の記事 2011年12月24日

ではどうして私たちは助かったのかと言うと、たまたま原子炉上部での作業のために水がはったままになっており、そこの水が仕切り板を破ってプールに流入したからでした。つまり危機の回避は人為的になされたのではなく偶然の賜物だったのです。

事故当時の4号機の状態。たまたまはってあった水が燃料プールに流れ込んだ。図は朝日新聞記事より

この二つの点、一つに原発はあらかじめいざとなったらベントを行い、放射能を外に出すことを予定していた装置であったこと。しかしその装置はまともに動作せず、予定以上に大量の放射能が出てしまったこと。
一方で燃料プールの危機はまったくの想定外であったこと。そして原子炉1基の燃料プールの崩壊だけで東日本の多くが壊滅するギリギリの可能性が生まれていたことです。
これらを振り返っただけでも、もうこれ以上、原子力政策を続けてはならないことは明らかです!
富士宮市の講演では、福島原発事故を振り返り、まずはみなさんとこの点を振り返りたいと思います。

続く

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明日に向けて(1659)原発の危険性は誰にでも分かること!だから私は止めた!しかし多くの司法家がまだまだ専門性に縛られている(樋口英明元福井地裁裁判長)

2019年03月03日 23時30分00秒 | 明日に向けて(1501~1700)

守田です(20190303 23:30)

2月23日に行われた樋口英明さんの講演と囲む会でのお話の報告の最後に他の裁判官はなぜ原発を止めようとしないのか、止められないのか、また原告側もしばしば陥っている裁判上のあやまりについて報告したいと思います。
これは目から鱗の落ちる内容でした!ぜひ原発をめぐる裁判に関わっている司法家の方にもお読みいただきたいです。

たくさんの難しい論点を出すのはダメ!

前2回の連載を通して、原発は耐震性があまりに弱いこと。ハウスメーカーの作る家にはるかに及ばないこと。だから巨大地震ではなく通常の地震でも直下で起こったら簡単に壊れてしまうこと。ゆえにすぐに止めなければならないことをみてきました。
にもかかわらず裁判では原発の安全性に関する議論は専門性が高いと誤解されており、裁判官が呪縛されてしまっているのだそうです。いやそればかりか原発を止めようとする原告側弁護団もときにこの呪縛にはまっていると樋口さんは話されました。
このため裁判では本来、このシンプルな事実が争点になるべきなのに、原告側もたくさんのことを言いすぎだと樋口さんは指摘されました。

例えば大飯原発差止訴訟では原告側から津波やテロの問題、また原発の構造上の欠陥などが出されたそうです。地震についても上述のような重要な点にはあまり触れずに強振動予測における幾つかの学説が出されたといいます。
しかし樋口さんは原発という極めて大きな被害をもたらすものの設計基準に「これ以上の地震は来ません」などと書かれていることが致命的間違いなのだと指摘されました。
そもそも強振動予測などの地震学は「三重苦」と言われるのだそうです。「観察できない、実験できない、資料がない」から三重苦なのだとか。そもそも正確に測りだせたのは1995年以降。資料の蓄積すらまだないのです。

このため樋口さんは、強振動予測に関する学説が持ちだされた段階で、なんと訴訟を打ちきってしまったのだそうです。強振動予測そのものを持ち込むことが間違いなのだからです。
樋口さんは言われました。「入倉式・三宅式がいいかとか武村式がいいかとかそんな議論していてはダメなのです。大切なのはその前の議論なのですよ」。
でもそれで樋口さん。「原告からも威張った裁判官みたいに思われちゃってね。原告の言うことも聴かない、被告の言うことも聴かない。それでうちきってしまったと言われました」と語られていました・・・。


裁判官に学説論争を提示しても能力を超えてしまう

樋口さんは、そもそも学術論争でいくとたくさんの学者を抱えている国側に勝てるわけがないのだとも語られました。
例えば地震学者は地震のことばかり研究している。そして裁判には国や電力会社の味方をしている学者が出てくる。それを一から地震のことを勉強する裁判官がひっくり返すことはあまりにも容易ではない。
そもそも裁判官は裁判長と左右の陪審と3人だけですべて判断し判決も書くそうです。他にシンクタンクがいるわけでもない。その点では弁護団とも違う。だから専門性が高ければ能力を超えてしまうのです。

樋口さんは他にも原子炉の中の運転を止める制御棒が地震があったときに2.2秒で入るか入らないかという議論があったことを紹介してこう言われました。
「私はそういう議論はやめて欲しいのです。もっとシンプルに危ないかどうかを判断すれば良いのです。
なぜ難しい議論をやめて欲しいのかというと、専門性が高いと裁判官の能力を超えてしまうからです。確実に超えますね。」

しかし原発の耐震性があまりに低くて、すでにそれを上回る桁違いの地震が何度も観測されいてるのだからそんな専門性はいらないのです。それで樋口さんはこう述べられました。
「こういう話は誰でもわかるでしょう?難しいところなんかない。誰にでも理解でき、誰にでも議論ができ、誰でも確信がもてる。私はこういう考えで訴訟を進めてきて判決を書いたのです」


講演する樋口英明さん 守田撮影

伊方原発最高裁判決(1992年)の呪縛

さらにこうした専門性に関する呪縛は、伊方原発1号機の設置許可の取り消しを求めた裁判に対し、1審原告側敗北、2審控訴棄却を受けて、1992年に最高裁によって出された上告棄却決定が「呪縛」としての効力を発揮し続けているのだと言います。
その中身は一つに原発に関する訴訟を「専門技術性が高い」ものと判断し、行政の側の「専門技術裁量」を尊重すべきだとしてしまったこと。二つに「このため裁判所は危険性についての直接判断を避ける」としてしまったこと。
三つに裁判所は規制基準の合理性=辻褄があっているかどうか、つまり適合性を判断するとしたこと、四つにこのための立証責任は被告側が負うとしたこと、この四つによって成り立っているそうです。

樋口さんはこれが伊方最高裁判決の魔法なのだとも言いました。「専門技術訴訟」だと言われると裁判官に呪縛がかかってしまうというのです。いや先にも述べた如くそれが原告側の弁護団にも縛りをかけて裁判を難しくしてしまう。
つまり伊方最高裁判決は、規制当局は専門技術的なところに裁量があってそれを尊重しなければいけないとしてしまった。
このため、強振動予測のうち何式がいいか、その計算にどの数字を埋め込むか、と考えたとして「それは規制当局の裁量でしょう」と言われると裁判官はそこで凹んでしまうのだそうです。

しかしと樋口さんは言われました。
「このため私は最高裁判例を無視しているなどと言われるのですが、しかし百歩譲って考えてみても「規制基準の合理性」を判断しろとなっている。合理性とは何か。私は安全性のことだと思うのです。
だから安全性を考えたらダメだということなる。そう読むことだって可能なのですよ」


伊方最高裁判決について説明する樋口さん 守田撮影

● 原発の危険性は誰にも分かること!難しく考えすぎずに危なさを訴えていこう!

以上、3回に渡って樋口さんの講演と囲む会での発言についてご紹介してきました。本当はまだまだ面白い話があったのですが、時間の制約もあるので今回で連載を閉じようと思います。
私たちがここから確信としてつかむべきことは原発の危険性を語るのに専門的な知識は必要ないと言うこと。またとくに裁判では時に難しい知識はかえってマイナスにもなってしまうということです。
この点について最後に再度『世界』掲載の論文から樋口さんの言葉を引用して連載を終わりたいと思います。

「社会通念について言うならば、私の住んでいる家や私の勤めていた裁判所より大飯原発の耐震性は低い。多分、あなたの住んでいる家や勤め先のビルや工場などよりも、大飯原発の耐震性は低いだろう。
健全な社会通念からすれば到底許されるべきことではない」(同書p66,67)

樋口さん。ありがとうございました!

樋口さんをスタッフの大石さん、参加者の福山さん、嘉田さんらと囲んで 20190223

連載終わり

#大飯原発差止訴訟 #樋口英明 #原発と地震 #原発の危険性は誰にでも分かる

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