僕が行った時の薬師寺は、人がまばらだった。寺は、近鉄西ノ京駅を降りてすぐである。東塔は、まだ解体修理されていなかった(東塔は、平成21年から31年までの予定で解体修理されている)。
薬師寺。方形の伽藍の中に、俗世とは隔絶された堂と二つの塔。そこに立ち、伽藍内を見渡していると、自分は今、千年も前の土と空気の中にいるのがわかる。
東院堂では、憧れの聖観世音菩薩立像を思う存分見ていることができた。日本の仏像の中でも、これほど端正な顔をもつ観音像はめったにない。今は、漆黒の艶をもつ全身であるが、当時は黄金に輝いていたのだから、その眩さはどれほどのものだったろうか。仏像は、その姿かたちの「決まり」があり、両手は膝まで届く長さがある。これは、少しでも人々を多く、すばやく救うことができるようにということである。このように、一般に仏像を見ると、人間離れした怪異ともいえる身体の相がある。この聖観音立像も、両腕は膝近くまで伸びているが、ぴちりとそろった両脚は真っ直ぐ伸びていて、陸上選手のようにすっきりしている。
菩薩はまた、「ひと」を超越しているので、すでに性別もなく、だから陰茎も不要となり、体内にしまわれている(陰蔵相=おんぞうそう)。その上半身を見ても乳部が女性のように膨らんでいるわけではないが、ふっくらした肉厚そうな肩から胸のあたりは、明らかに女性を感じさせる。顔もまた、女の顔である。というより、人間の声を聴き(音を観る=観音)、暖かく見守ってくれる存在はどうしても母性の穏やかな顔になるのだろうか。
金堂に入ると、薬師如来を挟んで聖観音によく似た二体の像、日光・月光菩薩がいる。作者が同じだとわかる仏像である。中央の大きな薬師如来もまた、端正でゆったりとした仏像である。これら三体も、当時は黄金に輝いていた。眩い、黄金の薬師三尊像に見られていたら、きっと人々は、それだけで救われる気持ちになっただろう。
たまたま人のいない堂の中で、僕は20分も30分も三尊像を独り占めにしていた。見ていると、天井に組まれた四角い格子が斜めにいり込んで来て、眩暈がしてきた。ぐーんと、天井が揺れてきた。眼の前がぐらぐらしてきて、心の酔いがまわってきた。僕はその場で倒れかかった。
その時である。仏たちが動き出したのは。右と左の日光と月光の菩薩像が、あのくねらせた腰をゆらりとさせて、胸元まで掲げた印を結ぶ掌をひらひらと見せ、首をかしげて微笑している。中央に座す如来像は、その巨大な身体をどしりと据えたまま、これもまた前に後ろに動きかけようとしている――。
僕は数秒、そうしていたのだろう。しかし、それが何分も何十分にも感じられた。は、として眼を瞠(みは)ると、三尊像はもとのままに静かに座し、そして立っていた。堂内の隅にいる経やお守りを売っている白服の寺職の人が、先ほどまでと同じように坐っている。何事もなく。
信仰の眩暈(めまい)だ、・・・・と思えればいい。僕にはそんなに深い、恥じ入ることなく言える信仰心などない。眩暈で自分の心が救われれば、こんなに楽なことはない。それでいい。わずか数秒の信心でも救われるなら。
薬師寺。伽藍を見渡していると、一時(いっとき)、この世のことを忘れていたい気持ちがさまざまと浮かんできて、もう一度来てみたいと思う。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます