法隆寺。夏。
体内のすべてのエネルギーをじりじりと絞り、やがて溶かし、生の源から一滴もらさず吸い上げてしまうかと思われる何年か前の暑い日。僕は、法隆寺中門の仁王像をいつまでも見上げていた。
風だ――。
金剛力士(仁王)といえば、東大寺の運慶・快慶のものが第一と思っていた。像高8メートル、阿形、吽形とも、どしりと構え、動こうともしない。いや、動きはあるのだが仁王像そのものは動かず、動かずして仁王そのものを取り巻く万象が動いているようにも思える。動いているものを仁王像の前で止めているようにも思える。隆々たる筋肉と形相、うごめく血管と骨格、これこそ静なる動、動なる静を象徴している。
その彫刻美も第一等に数えられる。比類するものなき・・・・、と思っていた。が、ある夏、僕は法隆寺の金剛力士像の写真を見て度肝を抜かれた。今さらといえば、今さらだ。東大寺の仁王なら大仏(盧舎那仏)と同じくらい小学校の時から知っている。東大寺の次はなしと勝手に思っていたので、法隆寺の仁王像については恥ずかしながら、あまり注目もしていなかった。
眼の前でよく見ると、法隆寺の金剛力士像は、東大寺の力士像に匹敵するほど迫力といい、造形美といい、素晴らしい。匹敵するのは、なにも大きさだけではない。むろん、ただ立っているだけでもない。たった今、からからに熱した疾風とともに立ち現れたという感じがする。手先の指がはりつめてぴんと反り、風に乗った天衣が巻き上がっている。時空に乗ってここにたどり着いたばかりだ。漂う空気が仁王像の身体の周りでまだ揺らいでいる。
驚いたのは、その動きだ。吽形。まさに疾風を巻き込んでいる。ぐっと、後ろに引いた太い肘と腕、盛り上がった肩、空気の隙間に入り込んだ5本の指の間からは、今まさに急流のような勢いが流れ込んでくる。ぎゅっと結んだ口には、白臼(しろうす)のような太い歯が並び、見開いた眼は何ものかを射ている。
また、阿形。腰を降ろし重心を保ち、振り上げた拳と大地を圧する垂直の腕、そのバランス感覚は何とも巧みに立ち、動きそうでいて、巨大建築物のごとく微動だにしない。僕はこの阿形、吽形2体の金剛力士像を見ていて飽きることがなかった。ぐわあーん、と像内から湧き上がる気の嵐に完全に巻き込まれていた。
興福寺や薬師寺にも、大きさとしては小さくなるが造形的には素晴らしい金剛力士像はある。しかし、隆とした筋骨や怒りの構え、邪悪を鎮める形相のわりには、今ひとつ躍動感を感じることがなかった。もともと金剛力士というのは躍動するというよりは、静かなる動きをもってして邪気を退けるのだから、動かざる「動」というものがあり、そこに美があるのかもしれない。
しかるに、法隆寺の金剛力士像はまさに動こうとしている。あるいはたった今動いていて、じっと音を聴くように一瞬静止した瞬間なのか、と思わせる。どしりと微塵も動かない東大寺の仁王像と、これが違う。
法隆寺には、釈迦三尊像、百済観音像、救世観音像と国宝級の仏像がある。それらは僕も眼にして魅了されたことがあるが、仁王像を見た時のこれほどの驚きはなかった。
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