FPと文学・エッセイ 〜是れ日々なり〜

ライフプラン、資産設計のほか、文学・社会・芸術・文化など気まぐれに日々、FPがつづるエッセイ。

龍安寺 ~ 白い小宇宙に囲まれて

2014-03-06 00:55:29 | 仏像・仏教、寺・神社

 龍安寺には、夏行った。 

 確か金閣を出て、軽くバスに乗り、いくらも乗らずに降りた所だった。もう、何年か前になる。今頃なぜかというと、この間も嵐山・天龍寺のことを思い出し、龍安寺のことも書いておきたくなった。バスを降りて、そこそこ参道を歩いた気がする。写真では知っていたあの石庭は、いよいよこの眼で見られる、そう思いながら歩いていた。

 庭は、思いのほか小さかった。庭園というほどではない。竹の庵を覗いて入ったら、そこに石の庭があったという感じである。

 靴を脱いで上がると、四角の庭があった。大小の石は、小ぶりな山岳の形をしていた。高年の男性ガイドが、室内にある箱庭の模型を指して、覗き込んでいる観光客に作庭の謎について説明していた。この石庭は「虎の子渡し」を現している、はたまた、15ある石はどの位置からもすべてを一度に見ることはできない。とまあ、これは観光客受けの「謎解き」であって、禅的には、それら石の景観、配置、大小、形が何を意味しているのか、そっちの方が僕にとっては大事だった。(結局、ガイドはそこまで説明していなかった。)

 何を意味しているか? 例えば、静かなる海の面に浮かぶ巌の群れ、そして方形に囲まれた遠近感を演出した土塀、それらが「小なる宇宙」を現すのか ――。

 廊下の渡りから脚を投げ出して、どの人も石のある方を眺めている。そこには夏の光を反射して、白い空間が占めている。波の紋様を思わせる微粒な石を刷いて、その水面に屹立した岩の形は、白い宇宙空間に浮かぶ小惑星のようにも見える。立ち、坐り、こちらからあちらへと動くと、その全体は、ちょうど惑星が廻るように位置をずらしていく。見えていない石が現れ、現れていた石が隠れていく。そうやって、この庭は見る者を取り囲んでいる。

 石だけの空間を見て考える。答えを出す必要はなかった。考えることさえない。これといって、動きのない世界なのだ。観る禅。そこに坐っていることが答えなのだろう。 

 龍安寺へは、夏行った。きっと、春も、秋も、冬も、すべてが毎日違う庭なのだろう。そこに坐る者の心が、その時々に映すように。

 人々は、そこに坐って、しばし庭の石を見つめていた。近頃は、外国の人も多い。止まっている景色を見て、退屈はしていないだろうかと、よけいな詮索をしてしまう。さて、と腰を上げて、人は立ち去ろうとする。そして、一度二度、また見返る。変哲もないといえば、変哲もない。あの四角い箱の中にある石は、不思議なものだ。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿