先日、私が初めて講師をつとめさせてもらって「発達性読み書き障害・学習会」を内輪で開催しました。
その時の質疑応答で、元学校の先生だと言う方から、息子たちがなぜ不登校になったのかを聞かれ、読み書き障害への合理的配慮が十分でないことや、ブラック校則への反発、ギター部を作れないことを話しました。
すると、その方は
「学校批判をするのではなく、民主主義的な手はずを踏んで訴えて行くようにしたらよいではないか、それを教えずに傷つくような目に合わせるのはどうなのか」
と責められるように言われました。
この言葉を受けて考えてみたのですが、そもそも学校と言うところは「民主主義」なのでしょうか?
私は違うと思っています。
大人たちや先生方は、子どもの声を聞こうともしていないし、どうしたらできるか、変えられるかなど考えてもくれていない。
そもそも大人の意にそぐわない子どもの意見など、頭から否定します。
「そんなのできるわけないだろう(なに考えてるんだ、バカじゃないの?)」
不登校になってしまった子どもたちが何を考えて、どう感じているかなど全く聞いてこない。
ただ、学校に来てほしい。
そう言うだけ。
なぜ学校に行きたくなくなったのか。
どうしたら来てくれるのか。
子どもたちは何を望んでいるのか。
そんなことすら聞かずに、何も変えようともしない、今のままの学校に来いと言われて、果たして行くだろうか。
「傷つくような目にあわせた」
と言うが、この日本と言う国事態、女性や子どもを大切にしていないし、能力の低いとみなす男性や障害者に対して、偏見にみち、さげすみ、ひどく傷つけていると私は思うのだけど。
自民党の重鎮、東京五輪パラリンピック組織委員会の森喜朗会長や二階俊博幹事長のあの発言からしても、よく表しているでしょう?
息子たちは、発達性読み書き障害(発達性ディスレクシア)で散々傷ついても頑張って、踏ん張って学校に行っていたんだけど。
学校批判は良くないようなことを言われたけど、批判的思考は大切だと私は思う。
息子たちが、「おかしいことはおかしい」と態度で示せる子に育ってくれて良かったと私は思う。
不登校を選べるくらいの勇気のある子どもたちだと思う。
長いものにまかれるような人じゃなくて本当に良かった。それは私の望む姿ではないから。
私が育てたように育ってくれている。
これでいいんだ。