融通無碍 翼を休めてみませんか

新温泉町浜坂にある日本キリスト教団浜坂教会の
牧師日記

「イエスの洗足は愛」

2024年10月12日 | 聖書のお話

「イエスの洗足は愛」 ヨハネによる福音書 13章1~15節

 イエスさんは、過越の食事の前、世に残る弟子たちへの愛が高まりました。そして、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰に巻き、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいで拭き始めました。食事をしようとする人の足を洗うのは奴隷の仕事なので、師であるイエスさんが弟子の足を洗うことを受け入れられなかったペトロは、それを拒否しました。するとイエスさんは、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言い、弟子全員の足を洗いました。

 イエスさんは師なのだから、本来は弟子の足を洗ったりしません。それをあえて行ったのは、それを見習って、弟子たち同士でも互いに足を洗い合いなさいというメッセージなのです。およそ二重の意味で弟子の足を洗う立場でないイエスさんが、あえてそうしたのだから、弟子たちはそれをお手本にして、忘れないように守り続けることが求められているのです。

 「洗足」を通して示された愛は、人びとが立場の違いを乗り越えて共に生きる力になります。「聖餐式」では、パンとぶどう酒を分け合います。パンはイエスさんの愛を身に受けることで、ぶどう酒はイエスさんの愛を宣べ伝える約束のことです。「洗足」で互いに仕え合うことを通して愛を宣べ伝えるのも、「聖餐式」でイエスさんの愛を身に受けた者として愛を宣べ伝えるのも、どちらも同じなのです。

 


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明日は礼拝です

2024年10月05日 | 礼拝のご案内

 明日10月6日(日)は、主日礼拝です。午前10時から礼拝が始まります。メッセージは「イエスの洗足は愛」、賛美歌は「賜物と歌を」、「ガリラヤの風」です。ご興味のある方は、どなたでもご出席ください。

 戦争になると一般人は殺されるしかない。経済戦争で負けたら貧乏になるしかない。世界は強者のルールに従うしかない。そんな世界は糞だ!などと言うと、「お花畑か」と馬鹿にされるような世の中にウンザリしています。なおさら、愛が必要だなどと言うと、また「お花畑か」と馬鹿にされてしまいそうです。

 以前は、それでも宗教教育は人の心に愛の種を植えるようなものと考えていましたが、イスラエルのネタニヤフ首相の発言などを聞くと、宗教が人殺しの根拠になっていたり、エゴイズムと言えばそれまでですが、宗教教育が人の心を糞にさせているとも思えたりもします。ごまめの歯ぎしりですが。

 イスラエルの問題は、今に始まったことではありませんが、最近のガザの状況をきっかけに、改めて近代イスラエル建国の経緯を勉強し直したりしているところです。しかし、知れば知るほど宗教が建国に利用され、宗教が国家を利用している姿が透けて見え、今さらながら自分の無知を恥じるのと、まったくもって宗教は何やってんだと思う今日この頃です。

 


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「聖餐式は愛」

2024年10月05日 | 聖書のお話

「聖餐式は愛」 コリントの信徒への手紙一 11章23~26節

 聖餐式というと、牧師が式服を纏い、式文や聖書を朗読し、パンとぶどう酒を配り、言われるままにそれを飲食する受け身的な儀式のように見られます。しかし、パウロは、聖餐式が受けるだけのものではなく、受けたものを他の人びとに与えるためのものであると考えました。同時に、それがイエスさんを信じ、愛によって生きる者たちに託されている使命であると考えました。

 イエスさんは、十字架に掛けられる直前の過越の食事でパンを裂き、「これはわたしの体である」と言って皆に与えました。イエスさんは、人びとが互いに愛し合い、立場を超えて共に生きることができるように愛を宣べ伝えました。パウロは、イエスさんが「わたしの体」として与えたパンを食べるということは、イエスさんが教えた愛によって生きることであると考えました。

 イエスさんはまた、ぶどう酒を手に取り「これはわたしの血によって立てられる新しい契約である」と言って皆に与えました。イエスさんは、人びとが互いに愛し合い、立場を超えて共に生きることができるように、十字架で血を流して人びとの罪を赦し、愛を完成させました。パウロは、イエスさんが「わたしの血」として与えたぶどう酒を飲むということは、イエスさんが完成させた愛を宣べ伝える弟子になり、人びとに愛を与える存在になることであると考えました。

 パウロは、「このパンを食べ、この杯を飲むごとに、主の死を告げ知らせるのです」と言いました。迫害者から使途になるという壮絶な人生を歩んだパウロにとって、主の死を告げ知らせるとは、イエスさんが何を行い、何を伝えようとして生きていたのかを、人びとが理解し共感できるように宣べ伝えるということです。パウロは、それがイエスさんを信じ、愛によって生きる者たちに託されている使命であると考えました。

 


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