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こーじ苑
大阪桐蔭が強い2つの理由
今年の夏の甲子園で2年ぶりに優勝した大阪桐蔭のレギュラーに
福岡県出身者が3人いたのが地元では話題になっている。
それもキャプテンとエースといった主要ポジションが福岡県出身
となっているのは驚く事で‘このメンバーが例えば九国大付に行っ
ていたら・・・’などと思ったりするが東大に入るのに灘やラサールなど
に全国から集まるのと同様 才能のある者が甲子園で優勝できる学校
に進学するのは当然ではある。
ただ不思議なのは九国大付もダルビッシュ有などを育てた若生正
広監督を慕って全国から選手が集まってきているにも拘らず、九国
大付以上にレギュラー取りだけでなく予選を勝ち抜くのも大変な
大阪桐蔭に行きたがるのかという事。
思い当たるのは大阪桐蔭の西谷浩一監督が体育会系特有の下級生が
上級生の付き人として身の回りの世話をするというやり方を廃止した
という事。
大相撲で日本人横綱が誕生しないのは横綱になれるような高い運動
能力を持った者が角界入りしない理由の1つとして、新弟子が兄弟子
の付き人としてこき使われるのを嫌がるという事があるのだがPL学園
のOB達は桑田など一部を除き付き人制度を肯定する者が未だに多く
根は深い問題だ。
それを考えると下級生が上級生の顔色を窺って生活しなくていいだけ
でなく、甲子園優勝という結果を残していれば才能のある選手は大阪桐
蔭に流れるのは当たり前だ。
更に藤浪晋太郎を擁して春夏連覇を果たした12年には前年秋のチーム
打点王で選抜では故障した田端の代わりに4番を打った小池裕也が、夏は
予選から不振だったため控えに回っただけでなく甲子園ではベンチからも
外れていた事が話題になった。
日本は実績重視主義だから一定の活躍をしていたら多少の不調でも
試合で使うし、少なくともベンチから外す事は考えづらい。
にも拘らずベンチからすら外れたという事は完全に その時点での
好不調でベンチ入りやレギュラー起用を判断するわけで、これは理想
的ではあるものの実際にはやりづらい事だろう。
この2つの要素こそ厚過ぎる選手層を抱え、レベルの高い参加校が
多い事からレギュラーとして甲子園で優勝するためのハードルが高い
にも拘らず才能のある選手達が集結する理由なのだろう。
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たしかに西谷監督が就任した00年以降 大阪勢の夏の大会の勝ち星は30勝してますが、大阪桐蔭以外はPLの4勝と
履正社&東大阪大付柏原がそれぞれ1勝づつの6勝ですから
いかに桐蔭が甲子園で強いか分かりますよね。
一時期は大阪が参加校が多過ぎて出場が難しいという事から田中将大や坂本勇人らのように東北や北海道に流出してましたけど一人勝ちのチームが出てくると人材も集中し始めますからね。
しかも甲子園で優勝できる可能性があるだけでなく、上のカテゴリーで活躍できるのなら好素材の集中も当然です。
もっとも地元組だけでダメかといえば智弁和歌山のように県内組のみでも十分強かったし、高嶋氏に言わせると県外組が多いと審判などからも嫌われ不利なジャッジをされる事も多いようです。
ちなみに私の祖父は津久見の出身ですが甲子園で好成績を収めた年はレギュラー9人中7~8人が関西をはじめとした県外組だったようです。
例えば77年に大鉄の川端からサヨナラ満塁HRを打たれた投手は私の地元出身なのですよ。
つまり津久見は人口3万台の小さな町で市内の高校はここしかないので野球部のサポートをするセメント工場のオーナーやミカン農家のオーナー達が関西方面に出張で出かけたついでにスカウト活動し中3の時に津久見に連れて来て彼らの家に授業料を出しながら通わせていたとの
事です。
最近の低迷は ただでさえ小嶋仁八郎氏が亡くなった事からOB達がバラバラになっただけでなく、後援をしていたセメント工場やミカン農家のオーナー達が不況で資金繰りに苦しんでいるため先述したような事が出来づらくなったようです。
大鉄の前田は初戦の土岐商戦がノーコン乱調で、2回戦の酒田工戦は好投ときてましたから津久見戦は乱調ではないか?と思ったら予想は当たり1回戦同様3塁手の浜口がリリーフしましたよね。
津久見が勝てばベスト8は高知でしたから、67年春決勝と74年春初戦で1勝1敗のラバーマッチになるところでした。
ちなみにこの年の高知は2回戦で福井商に7-6で打ち勝ってますが福井商とも72年春と75年春で1勝1敗のラバーマッチを勝ち抜いてましたから回戦を1つ飛ばしての対戦になっていたわけですね。
小嶋仁八郎氏は68年夏に2回戦で選抜優勝の大宮工に
完勝しながら3回戦で盛岡一に完敗し頭に来てダッグアウト上の金網を乗り越えてスタンドから逃走したものの、
役員に捕まって強引にインタビューを受けさせられ終了後30分以上高野連のお偉方に怒られるという武勇伝があります。
大鉄戦後のコメントは‘0の数がウチの方が多いので負けは仕方ない’でしたし、81年夏に岡谷工の金丸を打てなかった時には‘週刊朝日から騙された、何が七色の変化球投手だ!豪腕じゃないか’と毒づいてます。
なお氏の後釜に座った監督が77年度の主将・大津でして、その後4番or3番を打った山本一孝が監督に就任しましたよ。
九州産業の梅津は社会人の門司鉄道管理局に入社しましたが、今ひとつパッとしないまま消えました。
三浦も優勝投手の松本と共にブレーブスに入団したものの、あっさり引退してプロゴルファーになってますし。
決勝点は後にバファローズ入りしたショート加藤のエラーが2つ絡んでますから、あのエラーがと当時は思ってましたね。
ちなみにこの勝利が福島商の夏の甲子園初勝利だったわけですが、まさか次で熊工に無失点記録を破られただけでなく3-0から追い付かれ最後は押し出し死球による
サヨナラ負けとは思いませんでしたよ。
津久見の小嶋氏は本来なら市役所務めだったわけで、
有給休暇を潰してまで熱中していたら甲子園で優勝しても給料は減らされており後にそれを聞いて激怒したものの存命中から胸像を建ててもらっていたそうです。
ちなみに津久見市内では津久見が試合中に買い物に来た客を‘津久見の試合が終わってから来い’と追い返す店が多かったとの事です。
九州産業は大宰府の近くの筑紫野市にありまして77年に初出場の後にも昭和の時代は強豪でして81年にも予選の準決勝で9回2アウトから逆転2ランで勝ったりしてます。
ただ監督の松島氏(07年に大牟田の監督として出場)が移動した頃から弱体化し、最近はベスト16に残るのも珍しくなりました。
一方の九州は香椎にありまして逆に90年代後半から強くなってきましたね。
だから現在は九州産業大付といえば九州になってます。
余談ながら77年の九州産業のロゴはKYUSANだったのが
甲子園出場してから(九産大付・九州産業)という漢字の2段文字という当時としては珍しいロゴになりました。