日常

三宅乱丈「PET」、「イムリ」

2010-03-22 09:43:41 | 
三宅乱丈さんの「PET」と「イムリ」を読んだ。
すごい。衝撃。

「PET」は全5巻完結。コミック用に結末も書き直しているらしい。
「イムリ」は雑誌ビームで続いている。7巻目にして、今からまた話が始まるという、この壮大さ!


「PET」には、人の意識や記憶の中に自由に行き来できる超能力者が出てくる。

人間って、いつのまにか記憶を変えられると、愛する人を憎んだり、好きなものを嫌い、嫌いなものを好き・・簡単に変わる。
その対象自体に好きとか嫌いがあるわけではなく、要はこっち側の自分の問題ってことだろう。

別の言い方をすれば、その人の好みは、その人の脳にある記憶や思い出、それを構成して作った物語りの中にこそある。


漫画「PET」の中で象徴的なのは、人間の記憶には山と谷があって、山は最上の楽しい記憶。谷は辛い思い出したくない記憶。
そのどちらをいじられても、その人でなくなって、その人格は崩壊してしまう。

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三宅乱丈「PET」
『人は「ヤマ」と「タニ」を持っている。「ヤマ」とは、その人を支え続ける記憶が作った「場所」であり、「タニ」とは、その人を痛め続ける記憶が作った「場所」である。人が持つ数ある記憶の「場所」の中、このふたつの特別な「場所」にのみ、「彼ら」はそういう名前をつけた。』
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そういう山と谷があるからこそ、その振幅の間に、その人がある。

それは成功と挫折。希望と絶望かもしれない。
何でもいいのだけど、山と谷があるから振れ幅の間で、僕らは生きて暮らせている。


マンガを読んでいて、どこまでが登場人物のいじられた記憶なのか、よくわからなくなってくる。
恐ろしく知的に込み入ったマンガ。衝撃だった。
だから、読んでいて結構難しい。どこまでがその人の記憶なのか、いじられているのか。

これは、浦沢直樹の「20世紀少年」にも近いかもしれない。(以前、ブログにも感想書いた
あの漫画も、いかに僕らが記憶を作り変えて、特に幼少児の記憶など、自分に都合がいい物語を作って生きているか、という話だと思うし。



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三宅乱丈さんの「イムリ」っていう漫画もすごすぎる、面白すぎる。

ヒトがヒトを支配すること、奴隷制、人間と自然・星との共生・・・・
歴史で繰り返されている事柄が、壮大な物語で包み込まれていて。

ビーム連載で読んでた時は壮大すぎて掴めなかったけど、単行本で読んでスゴさが分かった。


まだ未完結で果てしなく続きそうなので、まだ詳しい感想は言えない。

映画アバターも話題だけどそんな世界観をはるか越えていると思うし。  
ナウシカ漫画版にも呪術を使う土鬼(ドルク)とか出てくるけど、『イムリ』の世界観も呪術が日常。そこに妙にリアリティーがある。僕らの世界の未来像はこんな感じなのかも。
超能力って言われるものが、ネットやWEBの世界で実現されていくような。



「イムリ」に出てくる「光彩」は潜在的に持つエネルギーのようなもの。
漫画では、生物も無生物(土、水、火・・・)も「光彩」を持つとされていて、僕らが何気なく使う「気」という言葉に近いものを感じた。

少し脱線するけれど、「気」って言葉、すごく不思議。

「気」は中国哲学の言葉で、陰陽五行説とかで、天地も人体にも流れる生命力・活動力の根源とされるものだと思う。

そんな霊や魂のような「非科学的」とされる言葉だけれど、日本語には「気」を使う言葉が満ち溢れていることに気づく。よく分かっていないのに、何故か言葉の意味は伝わる。不思議なものだ。

気分,気持ち、気が合う、気が有る、気が置けない、気が利く、気が狂う、気になる、気が進む、気が散る、気が遠くなる、気が抜ける、気が早い、気が引ける、気が短い、気に食わない、気が緩む、気に病む、気のせい、気を配る、気を抜く、気を晴らす、気を許す・・・・・


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三宅乱丈さんの「PET」と「イムリ」の世界から脱線してきた。

三宅乱丈さんは、超能力、呪術という、不思議な世界を日常の世界として描いている。
でも、そんなに荒唐無稽ではない。僕らの日々も、理性や理屈で説明できることばかりではなくて、よくわからんものに満ちている。

そんな世界への敬意や畏怖のようなもの。
漫画を読むと、イメージの世界と共に、そんな普段使わない自分の脳の場所が揺り起こされる気がする。


「イムリ」は、第13回文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞も受賞しています。
是非!