日常

「坂口恭平 躁鬱日記」

2013-12-13 15:05:21 | 
坂口恭平くんの日々のドキュメント、「坂口恭平 躁鬱日記 (シリーズ ケアをひらく)」医学書院 (2013/12/9)を読みました。
感動した・・・。
高校時代から知ってるだけに、何度も泣けた・・。


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<商品の説明>
内容紹介
僕は治ることを諦めて、「坂口恭平」を操縦することにした。家族とともに。
ベストセラー『独立国家のつくりかた』などで注目を浴びつづける坂口恭平。
しかしそのきらびやかな才能の奔出は、「躁のなせる業」でもある。
鬱期には強固な自殺願望に苛まれ外出もおぼつかない。
青年期からこの病に悩まされてきた著者は、試行錯誤の末、この病はもはや自分では手に負えないと諦め、「意のままにならない『坂口恭平』をみんなで操縦する」という方針に転換した。その成果やいかに!
建てない建築家、冴えない天才、治さない患者である坂口恭平が生きるために綴った、涙と笑いと感動の当事者研究。

《カバー装画、巻末折り込み地図(坂口恭平周辺地図in熊本)のほか、本文中に著者自筆オリジナルイラスト77点を一挙収載! 》

著者について
坂口 恭平
1978年熊本生まれ。
2001年早稲田大学理工学部建築学科卒業(石山修武研究室)。
作家・建築家・画家・音楽家。
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坂口君は熊本高校時代の同窓生で古い友人。
彼はマルチな活躍(建てない建築家、芸術家、音楽家、噺家、アーティスト、DJ・・・)をしているが、「躁うつ病」という病を抱えながら生きる1人の青年でもある。


人間には誰にも明るい面(光:Positive)と暗い面(影:Negative)がある。
躁うつ病では、この二つの状態が急速に行ったり来たりする。脳内での超高速な振り子運動。
生命エネルギーの放射・放出と、生命エネルギーの鬱滞。予測不能の繰り返し。
そんな高速の振動に自分の肉体もついていかないこともあるし、周囲の人間も振り回されてついていけないことがある。そのために「病」とされてしまう状態でもある。

躁状態では、スーパーコンピュータのCPUは超高速クロックで活動しているため、脳内にいろんなイメージや概念が序列なく差別なく溢れ出すのだと思う。その溢れ出る濁流は、自分も周囲も飲み込まれてしまうことがある。







著者の坂口君が出版記念の書店回りで東京に上京してきたので、お酒を飲みながらゆっくり話した。

そのとき感じたのは、坂口君は「抑圧」が普通の人に比べてかなり少ない、ということだ。
それは創造の源ともなっているけれど、同時に悩み(病い)の源にもなっているようだった。
それはいいとか悪いとかの善悪で測れるものではない。人間の宿命や天命のようなものだ。


僕らは、この現実世界で生きていくとき、色んな困難や障害に出会う。
それらを受け入れるため、「自我(Ego)」がある。自我という砦は日常をサバイバルするために必要なものでもある。もちろん、この自我が過剰に肥大化することをエゴイズムとも言う。


自我(Ego)は、思い通りにならないこの人生を調整するために自分の中に生まれる。
自我(Ego)は、この現実を受容するために、自分の体験を分裂させたり、現実を投影したり、置き換えたり、抑圧したり、変形させたり・・・・あの手この手を使って意識と無意識の間で様々な調整をしている。そんな自我の作業は無意識に自動的に行っているのでほとんどの人は気づきもしない。その自我の活動を気づくための手段として瞑想や坐禅のようなメソッドが宗教内部では作り出されている。

「自分」の中に「自我(Ego)」というシステムが静かに出来上がっていく背景は、思い通りにならないことを受け入れなければならない、人間そのものが持つ根源的な苦しみの叫びが内蔵されているようだ。



この受け入れがたい「現実」に適応していくひとつの手段として「抑圧」という手段がある。抑圧とは、本当に思ったり感じたりしていることを意識の下(無意識)へと強引に抑え込み、意識世界から一時的に見えなくすることで考えなくて(意識しないで)済むようになる。
自分のほんとうを力尽くで抑え込み、現実に適応する。現実をありのまま体験するよりも、うまく立ち回ることを優先させるときにそういう非常手段が取られる。


その抑圧は一時的なものであるはずなのだが、それが常態化すると「抑圧」作業自体に気づかなくなる。自分が何を大切にしているのか、ありのままの現実とは果たして何だったのか、訳が分からなくなる。
「抑圧」した現実も自分が創造したことすら忘れてしまう。抑圧して蓋をする期間が長期間に及ぶと、それはいづれ腐敗臭を放つようになるし、それが突然外に解放されると大変な惨事になるのだ。

こうして、「抑圧」は、「現実」へ適応していくための手段として無意識に用いられる。それはありふれたことだ。




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著者の坂口くんは、病のためか、そうした一般的な現実対応システムとしての自我を持っていない。
自我でうまく立ち回ることのできない暴れ馬のような躁鬱の状態を治すという概念は放棄して、むしろその手段を逆利用して創造的に生きることを、あるときに決めたはずだ。
そのプロセスがこの本で書かれれている「坂口恭平」の内部闘争の記録でもあるし、人生という芸術作品の創造のプロセスでもある。


そんな彼独自が生み出した現実対応システムは、少数派だから色々な困難もたちはだかる。社会の中では浮いて目立つことにもなる。時には言われのない差別を受けることもあるだろう。


ただ、「抑圧」の少なさがいい方向へ反転する場合もあるようだ。
それは、この世に存在する溢れるばかりの豊饒なイメージも、抑圧されずに浅い意識状態のところにプカプカと浮かんでいる。常にあらゆるイメージが手元にあり瞬間的に利用可能状態にある。(もちろん、逆に言えばイメージの洪水に混乱することもあるはずだ。)


そんな溢れる流動的なイメージを、独自の配列で並び替えたり、空間に配置したり、3次元的、4次元的・・・・多次元的に造形していくと、それはすでに芸術となっている。
芸術とは、この現実とは違う次元や違う層を創造していき、人生を豊かにしていくことだと思う。
それはメタファーであり、勝手に詩を形作っている。そういう人は何をどうしようとも詩人だ。人生や存在そのもの、すべてが詩になってしまうのだから。




「抑圧」をしない(できない)からこそ、人間の生命エネルギーがそのまま外部に放射されることもある。それは躁状態となる。
生命エネルギーが生体内部でクローズドサーキットとして巡回を繰り返す。それはうつ状態となる。うつ状態では同じところをグルグル繰り返し円運動しているように感じるので、はじまりは終わりとなり、終わりは始まりとなり続け、悩みが無限回廊のように永久に続くと感じられてしまうだろう。




坂口君の面白いところは、この不可思議な状態を再定義、改変して造り変えながら、創造的に生きていることだ。

坂口君の「わたし」という自我は、「坂口恭平」という一つのバーチャルな生命体システムとして再創造する(初音ミクのように)。
家族や周囲全体がひとつひとつの細胞として機能しながら、多細胞生物としての「坂口恭平」を作り上げている印象がある。小学校の教科書であったスイミーみたいなものか。個は全であり、全は個である。


「抑圧」をしない(できない)からこそ、彼はこの世界を恐るべきレンジと精度を持って知覚し続け、あらゆる事象をノンストップでダイレクトに受信し続け、返す刀でこの世界に表現として行為している。
純粋な子供のように「王様は裸だ!」と高らかに叫び続ける。そんな坂口君の孤独で孤高なすべてが、思わず人の心を打ち、心を揺さぶるのだろうと思う。



この本では、そんな彼の日常が克明にドキュメントされている。
彼の中での連続的な次元転換。ユーモアとファンタジーとドリームタイム。奇跡のような日々を生きる生き様に、思わず涙することが多かった。


途中で引用されていた言葉。

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スピノザ
人間に関わる事象においては、笑わず、泣かず、憤らず、ただ理解せよ。

マルクス・アウレリウス
理性をそなえた存在は、あらゆる障害をおのが労働の素材として有効に活用することができる。
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この本の後書きだけでも、とても心を打つ。医学書院のサイトで読めるので全文読んで欲しい。きっと心が動かされるはずだ。


そこから引用させてもらうと、彼の「躁鬱」の当事者研究のような記述(夢での受信)があり、とても的確だと思った。
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躁状態は、土からむくりと起き上がった鮮やかな緑色の芽である。
芽は太い茎となりながら成長していく。

「躁の茎」は太陽に向かってまっすぐ、どんな障害があろうともまっすぐ、垂直に伸びていく。
茎は柔らかいが、重力をもろともせずに、金属のように硬質に微動だにせずに伸びている。

 天高く伸びたあと、成長が止まった。茎の先には小さな蕾〈つぼみ〉が見える。
しかし茎であると勘違いしているその蕾は、さらに太陽に向かって伸びようと試みている。
蕾は茎ほどに強くはなく、伸びようと思っても蕾自体の重量もあって、徐々に萎〈しお〉れていく。
蕾は落ち着かない。茎のような力強さに惹かれている。自分が茎とはまったく別種の存在であることに気づいていない。

 やがて蕾は完全に疲れ果て、下を向く。
茎はぐにゅんと折れ曲がり、蕾は今にも落ちていきそうだ。
さらに雨が降ってきた。風も吹く。蕾は雨風によって己の弱さに気づき、落ちないように耐える。
やがて、雨が上がった。
下を向いた蕾は、地面にできた水たまりに映った自分の姿を見て、自分が鬱という名の蕾であることを知覚し、納得する。
その瞬間、蕾は落ちてもいいとすべての力を抜き、「鬱の花」を咲かせる。
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「坂口恭平 躁鬱日記」もラインナップしている医学書院の<シリーズ ケアをひらく>。本当に素晴らしいシリーズです。
自分も多数買い揃えています。医学書に高らかに風穴を開けています。

名編集者である白石さんとは、自分が学生時代の12年くらい前に北海道浦河にあるべてるの家に一緒に行きました。懐かしい思い出。12年ぶりにお会いしても全く変わらず若々しいのに驚きました。

≪シリーズ ケアをひらく≫
○驚きの介護民俗学 (2012年03月発行)
 著:六車 由実

○リハビリの夜 (2009年12月発行)
 著:熊谷 晋一郎

○技法以前 べてるの家のつくりかた (2009年11月発行)
 著:向谷地 生良

○逝かない身体 ALS的日常を生きる (2009年12月発行)
 著:川口 有美子

○こんなとき私はどうしてきたか (2007年05月発行)
 著:中井 久夫

○べてるの家の「当事者研究」 (2005年02月発行)
 著:浦河べてるの家 

○死と身体(2004年10月発行)
 著:内田 樹

○べてるの家の「非」援助論 そのままでいいと思えるための25章 (2002年06月発行)
 著:浦河べてるの家 




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坂口君とは、色々と「未来」に関しても話しました。
彼は明確に未来のVisionが見えているので、言語を介さずともほとんど以心伝心で通じあった。
そういう瞬間はとても楽しい。言語を超えている。もう、時代は既に変わっている。分かっている人は分かっている。気づいている人は気づいている。変えようとしなくても、この世界の自己治癒システムは、静かに発動している。その中に人間も含まれている。


あとは、僕らの意識を柔軟にして、自然そのものにチューニングしていくだけだ。人間サイドの問題。
この大自然や宇宙の動きに敏感で繊細であれば、その音や声は自然に耳に入ってくるようなのです。



科学は「客観」世界を追求しただけに、ありのままの現実に太刀打ち適用できない面も生んだ。特に医学はそうだろう。
この本のように「主観」を生きざるを得ない宿命を持った人たちの世界を勉強して、客観と主観は手を組んで結合していく必要がある。
病を抱えて生きる人たちから発信されるこういう本は素晴らしい事例だと思う。医療者もここから多くを学ばないといけないと思う。そこに医学や科学の成長がある。



とにかく。素晴らしい本でした!奇書でもあります。世界中でも類書を探すのは難しいでしょう。

躁状態の日記の中に適時埋め込まれたうつ状態の内省的な記録も、とても心を打つものがあります。
彼と共鳴し、笑うときは笑い、泣くときは泣きましょう。そうして、「坂口恭平」という超生命体のシステムを共に体感するのです。

たくさん買って配りまくってます。是非お買い求めください!お薦めです!

4 コメント

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自我 (いなば)
2014-01-02 08:52:25
>まーこさん
そうそう。坂口君、アウトデラックス出てましたよね!アメトークと一部重なってますが、あの番組好きなので毎週録画してたりします。あれ、いろんな変な人出てきて面白すぎるー。

あの本、基本的にブログの「坂口恭平日記」をもとにしているようですよ。自分はそちらを読んでなかったので、書籍ではじめて知ることも多く、感動したー。彼の中で芸術という世界に統合しようとする生き方だと思いますが、そもそも、人間の人生自体がひとつの芸術作品ですよね。そういうことを生き様として改めて伝えようとしてくれているのかな、とも思いますよ。彼の生き様に感動する人は多いと思います。


神田橋先生。自分も大好きです。神田橋先生の<精神科養生のコツ>は名著。

自我形成に関しては本当にそうだと思います。
というか、やはり<自我>をつくり、<わたし>を創るというのは本当に複雑なプロセスで、この世にある色んなものが影響を与え続けながら作り上げている。大抵の人は硬い殻を作ることで自我の安定化を図るため、社会には適応しやすくなっていますが、そのせいで奥に潜む本当の私(=自己Self)のコアから遠くなってしまい、それはそれで人間特有の悩みが生まれてくるのだと思いますね。
どんな自我構造を持つ人でも、そういうふしぎさえみんなが共有できれば、人間を差別することなく共存できる時代が来ると思うんですけどねぇ。また改めてML上で流しますが、NOTH(http://noth.jp/lectures)というところでこの周辺の話をしようかと思ってますので、まーこさんも是非ご参加くださいませ。


坂口くんは、家族という集合体すべてで坂口恭平という<わたし>を作り上げていると思うんですよね。そういう風に周囲と共有していくというのは、新しい向き合い方だと思います。
もちろん。そういうことは無意識的に、結果的に行なわれていることですが、それを意識的に、確信的にやるということですね。受動的に夢を見るのではなく、覚醒夢のように夢を見るのと似ています。ユングも、それをactive imaginationとして研究していましたし(河合先生は、まだ時代に早すぎると思ってか、あえて取り上げていなかったように思います)。


自分も奥さんのフーさんとはまだお会いしてませんので、いつか熊本帰るとき挨拶行かなきゃー。
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天才の陰陽 (まーこ)
2013-12-29 17:31:19
先日、アウトデラックスに出演している坂口恭平さんを偶然拝見しました。
凄かった!色々なものが迸ってた。
稲葉さんの古いご友人とは!う~む、さすが…。

本のあとがき、検索して読みました。泣いた!
ついでに、「坂口恭平日記」というのもヒットしたので読みました。こちらも泣きました。
天才ならではの強い光と深い闇の間を、自分の意志を超えて行き来させられる宿命を受け入れようとする、男前で純粋な魂に感銘を受けます。

坂口さん、自閉症にともなう症状軽減で有名な、神田橋先生の診察も受けているのですね。
診察の様子、興味深く読みました。自閉症スペクトラムの人達は、成人後に躁鬱病や統合失調症などの精神病にかかるリスクが高いといわれています。自我形成に弱さのある精神構造が、精神病の方達ともともと近いところにあるのかもしれません。

坂口さんも凄いですが、奥さんのフーさんのグレートマザーっぷりがこれまた凄い!

>今日、フーが興味深いことを言っていた。僕はよく、自分の症状に対して、これは性格なのか、それとも心の病とかいうものなのか、それとも脳の電気信号の誤作動によるものなのか分からないとか言うのだが、そもそも性格と脳の動きとかって分けられるものなのか?ってのがフーの疑問だった。全部含めて「あなた」なのではないかと言われ、当たり前のことを地に足つけて生きているフーの安定感を見ていると、まさに「日常生活界の横綱」の風格さえ感じた。僕は時々、力士にすらなれずに、奥の方で恥ずかしながら眺めている観客になったりしてしまう。とか思うと、やたら五月蝿い行司になったり、横綱であるフーに猫だましで奇襲大作戦を結構する前頭筆頭の小振りの奇抜な力士になったりするのだが。

「日常生活界の横綱」(笑)!妻として母として、最強形態なのではないでしょうか。
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是非読んでみてください! (いなば)
2013-12-16 07:45:00
>>shiさん
そうなんですよね。
彼のYoutube映像はよく伝説として語られているようですねぇ。特に宮台さんとの話など。彼は本も面白いけど、実際の語りの方がグル―ブ感があって面白いですよね。その空間そのものを変容させていくような魔術的な感じです。笑

今回の本、自分もあっという間に夢中で読みました。是非どうぞー。

ほんと、人生っていうのは、それぞれの芸術作品だと思いますよ。一人一人が一生かけて、涙あり、笑いありで創造していく悲劇と喜劇入り混じった一大スペクトル大河ドラマだと思います。(^^
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こんばんは (shi)
2013-12-13 20:48:20
同窓生なのですか~
坂口恭平さん一時期はまってました~
少し前ネット上の放送番組によく出てましたよね
その放送でお話を聞いていてとても素敵な感性を持ってる方だなと思って本も何冊か読みました。
今回の本もおもしろそうですね。よんでみます^^

>>人生という芸術作品の創造のプロセス

この言葉いいですね☆好きです♪
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