■竹内整一『日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか』
ちょっと前に、東大応用倫理学教授の竹内整一先生が書いた、『「はかなさ」と日本人』の感想を書いた。
→過去のブログ参照:【竹内整一『「はかなさ」と日本人』(2009-02-17)】
その竹内先生が書いた別の本が2009年1月に出た。
それが、『日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか』(ちくま新書)という本。この本は、『はかなさ」と日本人』とも連動しているので併せて読むと面白いと思う。
ちょうど前回の記事である【印象深い患者さんの死を思う(2009-03-14)】に少し関連するような気がしたので、
この本を読んで、特に自分が気に入った一節を簡単に紹介しながら、ついでに自分が感じた事も書き記しておきます。
■阿久悠 さよなら史
作詞家の阿久悠(⇒「北の宿から」都はるみ、「勝手にしやがれ」沢田研二、 「UFO」ピンク・レディー、 「もしもピアノが弾けたなら」西田敏行・・・など、作詞した曲は5000曲以上!) はこう言っている。
======================================
「人間はたぶん、さよなら史がどれくらいぶ厚いかによって、いい人生かどうか決まる」
======================================
「人間の心というのは、いつも少し湿り気を帯びていなければならないのに、
カラカラに乾かしていては味気ない。
心に噴霧器で水分を与えるには、
切なさや、哀しさや、寂しさの自覚が必要である。
・・・・
人の心にはさよならによって湿りが加わるのである。」
======================================
■別れ言葉
世界の別れ言葉は、
*****************************************
(1)『神のご加護を願う』:「Good-bye」(神があなたとともにあらんことを祈る)、「Adios」(神のような存在のご加護を祈る)、「Adieu」、「Addio」
(2)『また会いましょう』:「See you again」、「Au revoir」、「再見(ツァイチェン)」、「Auf Wiedersehen」
(3)『お元気で』:「Farewell」、「安寧ヒ、ゲセヨ(ケセヨ)」
*****************************************
の3パターンに大きく分類することができるとのこと。
ただ、日本で最も一般的な別れ言葉である「さらば」「さようなら」「それでは」「じゃあ」「ほな」は、どのタイプにも入らない。
別れの表現としては、世界的にもすごく珍しい言葉であるとのこと。
■「さようなら」の意味
では、「さようなら」とは、もともとどういう意味か。
「さようなら」は、「さらば」「さようならば」という言葉からも分かるように、元々は、『先の事柄を受けて、後の事柄が起こることを示す接続詞』であり、それがやがて日本人の別れ言葉として使われるようになった。
そして、「さようであるならば」とは、
************************************
(1)別れまでの色々な事柄を総括して再確認している。
(2)「みずから」の営みだけではなく、「おのずから」そうなる事柄を、「そうならねばならないならば」と、ありのまま、そのまま受けとめている。
************************************
というような意味でもある、と。
儚く悲しく切ない別れというものを、そのまま、ありのまま受け止める日本人の考え方が、「さようなら」という言霊に込められているのかもしれない。
■「そうならなければならないなら」
「サヨナラ」ほど美しい別れの言葉を知らない、とアメリカの紀行作家アン・リンドバーグは言った。
(⇒アン・リンドバーグは、1927年にニューヨーク・パリ間の大西洋単独無着陸飛行に初めて成功した、チャールズ・リンドバーグの妻)
======================================
『翼よ、北に』
アン・モロー リンドバーグ(著), 中村妙子(訳)
======================================
======================================
「サヨナラ」を文字どおりに訳すと、「そうならなければならないなら」という意味だという。
これまでに耳にした別れの言葉のうちで、このように美しい言葉をわたしは知らない。
<Auf Wiedersehen>や<Au revoir>や<Till we meet again>のように、別れの痛みを再会の希望によって紛らわそうという試みを「サヨナラ」はしない。
目をしばたたいて涙を健気に抑えて告げる<Farewell>のように、別離の苦い味わいを避けてもいない。
「サヨナラ」は言いすぎもしなければ、言い足りなくもない。
それは事実をあるがままに受け入れている。
人生の理解の全てがその四音のうちにこもっている。
ひそかにくすぶっているものを含めて、すべての感情がそのうちに埋み火のようにこもっているが、それ自体は何も語らない。
言葉にしないGood-byeであり、心を込めて握る暖かさなのだ
-「サヨナラ」は。
======================================
人生には、出会い、別れ、死など、自分ではどうにもならないことばかりあるが、日本人は、それをそれとして静かに引き受け、「サヨナラ(=そうならねばならないならば)」と別れているのだと、異国から日本を見た旅人であるアン・リンドバーグは指摘した。
======================================
『遠い朝の本たち』須賀敦子
======================================
======================================
英語を、つづいてフランス語やイタリア語を勉強することになったとき、
私は何度、アンが書いていた「さようなら」について考えたことか。
しかも、ともすると日本から逃げ去ろうとする私に、アンは、
あなたの国には「さようなら」がある、と思ってもみなかった勇気のようなものを与えてくれた。
======================================
須賀敦子は、そんなアン・リンドバーグが指摘した「さようなら」に込められたに日本人のものの見方・考え方を、異邦人として他言語を学ぶとき心の支えにしたという。
「さようなら」に秘められた美しい意味を、異国の視点から見ることで再確認したのかもしれない。
■「花びらは散っても 花は散らない」
『般若心経』では、「色即是空 空即是色」という有名な言葉がある。
浄土真宗の真宗大谷派僧侶であった金子大栄は、
======================================
「花びらは散っても、花は散らない」
======================================
と、現代語訳している。
もの(→色:シキ)としての花びらは散る運命にあるが(→空:クウ)、過去に生きていたこと、現在生きているということは、どうあっても「散らない」ものであると。
奇しくも、これは【印象深い患者さんの死を思う(2009-03-14)】でUさんについて書いた、
「肉体は滅びるが、魂(たましい、ゼーレ)は死なない」
という意味合いに近い気がする。
そして、コメント欄でも多くの人が共鳴し、呼応しながらそういうことを書いていた。
■『過去・現在・未来』をつなぐもの
散ってしまう「花びら」のような無常な自然の情景、滅び行く肉体を持つ無常な人間、そんな移ろい行く無常をありのまま見据えて、「そうであるならば」「そうならなければならないなら」と、過去をまっすぐに受け止め、僕らは今存在している。
その上で、未来へと生きていく。
「過去を受け、今存在し、未来へ生きる」
絶え間なく連続しているそんな時間を生きていく上で、日本人は「さようなら」という接続詞である別れ言葉を使うことで、過去・現在・未来をつなげながら生きていることを表現しているようにも聞こえてきた。
「さようなら」は、「そうならなければならないなら」という接続語であり、日本人は過去をありのままに見た上で、現在を生き、未来を生きていくという視点を持っている。
それは、「自分」に対してもそうなのではないか。
過去の「自分」をありのままに見据える。
それは過去の自分が、駄目でふがいなくてどうしようもなくて後悔ばかりの過去にまみれた、受け入れがたい自分かもしれない。
でも、そんな過去の自分をありのままに見て、そんな過去の自分に「そうであるならば」という形で過去に「さようなら」をする。
そして、そのありのままの自分を受け止めた上で、現在の自分が形成されているし、未来の自分も作られていく。
「さようなら」という別れの言葉は、「さようなら」をする相手に対しての言葉であると同時に、
「過去の自分も自分である」ことをありのまま認めた上で、現在や未来を生きていこうという、時間と共に変化する無常な自分に対しての言葉であるのかもしれない。
そして、このブログを読んでいるみなさんと同様に、以前ブログで書いたUさんのような患者さんに「さようなら」をしながら、もう二度と戻らない過去に「さようなら」をしながら、そして「そうならなければならないなら」とありのままを噛み締めながら、この今という日常を、色んな思い出と共に生きているんだと思います。
ちょっと前に、東大応用倫理学教授の竹内整一先生が書いた、『「はかなさ」と日本人』の感想を書いた。
→過去のブログ参照:【竹内整一『「はかなさ」と日本人』(2009-02-17)】
その竹内先生が書いた別の本が2009年1月に出た。
それが、『日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか』(ちくま新書)という本。この本は、『はかなさ」と日本人』とも連動しているので併せて読むと面白いと思う。
ちょうど前回の記事である【印象深い患者さんの死を思う(2009-03-14)】に少し関連するような気がしたので、
この本を読んで、特に自分が気に入った一節を簡単に紹介しながら、ついでに自分が感じた事も書き記しておきます。
■阿久悠 さよなら史
作詞家の阿久悠(⇒「北の宿から」都はるみ、「勝手にしやがれ」沢田研二、 「UFO」ピンク・レディー、 「もしもピアノが弾けたなら」西田敏行・・・など、作詞した曲は5000曲以上!) はこう言っている。
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「人間はたぶん、さよなら史がどれくらいぶ厚いかによって、いい人生かどうか決まる」
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「人間の心というのは、いつも少し湿り気を帯びていなければならないのに、
カラカラに乾かしていては味気ない。
心に噴霧器で水分を与えるには、
切なさや、哀しさや、寂しさの自覚が必要である。
・・・・
人の心にはさよならによって湿りが加わるのである。」
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■別れ言葉
世界の別れ言葉は、
*****************************************
(1)『神のご加護を願う』:「Good-bye」(神があなたとともにあらんことを祈る)、「Adios」(神のような存在のご加護を祈る)、「Adieu」、「Addio」
(2)『また会いましょう』:「See you again」、「Au revoir」、「再見(ツァイチェン)」、「Auf Wiedersehen」
(3)『お元気で』:「Farewell」、「安寧ヒ、ゲセヨ(ケセヨ)」
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の3パターンに大きく分類することができるとのこと。
ただ、日本で最も一般的な別れ言葉である「さらば」「さようなら」「それでは」「じゃあ」「ほな」は、どのタイプにも入らない。
別れの表現としては、世界的にもすごく珍しい言葉であるとのこと。
■「さようなら」の意味
では、「さようなら」とは、もともとどういう意味か。
「さようなら」は、「さらば」「さようならば」という言葉からも分かるように、元々は、『先の事柄を受けて、後の事柄が起こることを示す接続詞』であり、それがやがて日本人の別れ言葉として使われるようになった。
そして、「さようであるならば」とは、
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(1)別れまでの色々な事柄を総括して再確認している。
(2)「みずから」の営みだけではなく、「おのずから」そうなる事柄を、「そうならねばならないならば」と、ありのまま、そのまま受けとめている。
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というような意味でもある、と。
儚く悲しく切ない別れというものを、そのまま、ありのまま受け止める日本人の考え方が、「さようなら」という言霊に込められているのかもしれない。
■「そうならなければならないなら」
「サヨナラ」ほど美しい別れの言葉を知らない、とアメリカの紀行作家アン・リンドバーグは言った。
(⇒アン・リンドバーグは、1927年にニューヨーク・パリ間の大西洋単独無着陸飛行に初めて成功した、チャールズ・リンドバーグの妻)
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『翼よ、北に』
アン・モロー リンドバーグ(著), 中村妙子(訳)
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「サヨナラ」を文字どおりに訳すと、「そうならなければならないなら」という意味だという。
これまでに耳にした別れの言葉のうちで、このように美しい言葉をわたしは知らない。
<Auf Wiedersehen>や<Au revoir>や<Till we meet again>のように、別れの痛みを再会の希望によって紛らわそうという試みを「サヨナラ」はしない。
目をしばたたいて涙を健気に抑えて告げる<Farewell>のように、別離の苦い味わいを避けてもいない。
「サヨナラ」は言いすぎもしなければ、言い足りなくもない。
それは事実をあるがままに受け入れている。
人生の理解の全てがその四音のうちにこもっている。
ひそかにくすぶっているものを含めて、すべての感情がそのうちに埋み火のようにこもっているが、それ自体は何も語らない。
言葉にしないGood-byeであり、心を込めて握る暖かさなのだ
-「サヨナラ」は。
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人生には、出会い、別れ、死など、自分ではどうにもならないことばかりあるが、日本人は、それをそれとして静かに引き受け、「サヨナラ(=そうならねばならないならば)」と別れているのだと、異国から日本を見た旅人であるアン・リンドバーグは指摘した。
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『遠い朝の本たち』須賀敦子
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英語を、つづいてフランス語やイタリア語を勉強することになったとき、
私は何度、アンが書いていた「さようなら」について考えたことか。
しかも、ともすると日本から逃げ去ろうとする私に、アンは、
あなたの国には「さようなら」がある、と思ってもみなかった勇気のようなものを与えてくれた。
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須賀敦子は、そんなアン・リンドバーグが指摘した「さようなら」に込められたに日本人のものの見方・考え方を、異邦人として他言語を学ぶとき心の支えにしたという。
「さようなら」に秘められた美しい意味を、異国の視点から見ることで再確認したのかもしれない。
■「花びらは散っても 花は散らない」
『般若心経』では、「色即是空 空即是色」という有名な言葉がある。
浄土真宗の真宗大谷派僧侶であった金子大栄は、
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「花びらは散っても、花は散らない」
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と、現代語訳している。
もの(→色:シキ)としての花びらは散る運命にあるが(→空:クウ)、過去に生きていたこと、現在生きているということは、どうあっても「散らない」ものであると。
奇しくも、これは【印象深い患者さんの死を思う(2009-03-14)】でUさんについて書いた、
「肉体は滅びるが、魂(たましい、ゼーレ)は死なない」
という意味合いに近い気がする。
そして、コメント欄でも多くの人が共鳴し、呼応しながらそういうことを書いていた。
■『過去・現在・未来』をつなぐもの
散ってしまう「花びら」のような無常な自然の情景、滅び行く肉体を持つ無常な人間、そんな移ろい行く無常をありのまま見据えて、「そうであるならば」「そうならなければならないなら」と、過去をまっすぐに受け止め、僕らは今存在している。
その上で、未来へと生きていく。
「過去を受け、今存在し、未来へ生きる」
絶え間なく連続しているそんな時間を生きていく上で、日本人は「さようなら」という接続詞である別れ言葉を使うことで、過去・現在・未来をつなげながら生きていることを表現しているようにも聞こえてきた。
「さようなら」は、「そうならなければならないなら」という接続語であり、日本人は過去をありのままに見た上で、現在を生き、未来を生きていくという視点を持っている。
それは、「自分」に対してもそうなのではないか。
過去の「自分」をありのままに見据える。
それは過去の自分が、駄目でふがいなくてどうしようもなくて後悔ばかりの過去にまみれた、受け入れがたい自分かもしれない。
でも、そんな過去の自分をありのままに見て、そんな過去の自分に「そうであるならば」という形で過去に「さようなら」をする。
そして、そのありのままの自分を受け止めた上で、現在の自分が形成されているし、未来の自分も作られていく。
「さようなら」という別れの言葉は、「さようなら」をする相手に対しての言葉であると同時に、
「過去の自分も自分である」ことをありのまま認めた上で、現在や未来を生きていこうという、時間と共に変化する無常な自分に対しての言葉であるのかもしれない。
そして、このブログを読んでいるみなさんと同様に、以前ブログで書いたUさんのような患者さんに「さようなら」をしながら、もう二度と戻らない過去に「さようなら」をしながら、そして「そうならなければならないなら」とありのままを噛み締めながら、この今という日常を、色んな思い出と共に生きているんだと思います。
安室ちゃん、追加公演でも満員御礼だったから、さらに追追加公演もやるみたいね。
アムロパワー恐るべし。
今は浜崎あゆみ元気ないしね。
送別会で、あゆ好きの女性がカラオケ歌ってて、やっぱり初期のあゆは歌詞が深いなー。染み入るなー。
と思っちゃったもの。TraumaとかEvolutionとかSurrealとか、すごくいい。
初期浜崎の不幸せゆえの内省的で深い曲がなりを潜めて、いまいち失速しているけど、アムロちゃんはドンドン進化してますな。最近のはほんとかっこいい。LIVEでも老若男女問わずいた!
まさかのまさかで、新曲もやったよー!
WILDはPVもなんか演劇か芝居観てるみたいでかっこよい!
http://www.youtube.com/watch?v=Bvip0BlB9Fk
個人的にはDrの方が好きだねー。
http://www.youtube.com/watch?v=Rf8QtcI92d4
あ、もう際限なく脱線してきた。
でも、本当に一回も休まず踊りつづけて歌い続けてて、あれはカリスマ的にかっこよかったなー。
・・・・・・・・・・・
Bossa Books、かなり面白いよ!!
Is氏のも早く見てみたい!社会学とかその辺の広がりがすごそうだし。
中村元(はじめ)大先生の、そんな講座があったとは!
ま、当時は仏教なんて一ミリも興味なかったし、しょうがない。
でも、もう亡くなっちゃったのだよね。残念。
中村元大先生は、仏教の本読んでると、どこ行ってもぶち当たる大先生!
岩波の『ブッダのことば スッタニパータ』、『ブッダの真理のことば 感興のことば』、
『ブッダ最後の旅 大パリニッバーナ経』、『神々との対話 サンユッタ・ニカーヤ1』、『悪魔との対話 サンユッタ・ニカーヤ2』とかね。全部はまだ読めてないけど、思わず読み進めてしまった。
保坂和志さんの本、Is氏はよく読んでるよねー。俺は一冊も読んだことないんで、ちょいと影響されて読んでみようかな。いきなり『龍樹』が出てくるなんてすごいね。
龍樹(ナーガールジュナ)先生は、大乗仏教運動を体系化した人だし、「空(クウ)」の概念も完成させてて、すごく哲学的で魅力的なのよねー。
釈迦が言うところの「縁起」。それは、すべての現象はそれぞれの因果関係の上に成り立っていて、全てがつながっているから、それ自身で存在するもの(=自性)はないと。ここと、釈迦の「縁起」をつなげていくと、結局、全ての存在は無自性ということになる。つまり、「空(クウ)」であると。
そんなあらゆるものを理解するために、例えば言語ができたに過ぎないと。言語がいくら発達しても、どう知覚しようが、どう認識しようが、全ては空であると。
それが、般若心経の、<色即是空、空即是色>ってことね。
この辺はすごくおもろいのよねー。言語で表現すると少しずれちゃうのかもしれんけど。
ついでだからドンドン脱線しちゃうと、縁起を釈迦はこんな風に表現してる。
『此があれば彼があり、此がなければ彼がない。此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば、彼が滅す』(自説経)
そして、これは色んな仏教者によって、生老病死と対比して説明される。つまり、『生があるからこそ、老いと死があって、生がないならば老いも死もない』というような表現で説明される。
そんな色んなとこにもドンドン波及して考えられるのが、縁起とか空クウとかの概念だし、縁っていう言葉もそこから来ているけど、僕らも全て色んな縁のおかげでこうやって親しくなったり話したりして・・・。
「これも何かの縁ですかねー」
なんて日常でふと話すのにも通じてくる。
あー、オモロー!
仏教関係はいろいろ本が積読されて未読のものも多いんで、個人的に色々研究してみるつもりです。住んでる場所も谷中とか近いし、上野とか谷中は寺が多いのよねー。
それも、縁を感じてるわけですわ。
ふと我に返ると、かなり脱線してた?
脱線の軌跡を描くと、
竹内整一『日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか』→オフコース『さよなら』→小田和正ラバーのIS氏登場→(安室ちゃんの脱線話を間に挟む)→保坂和志『小説、世界の奏でる音楽』を読んでたら、中村元先生の『龍樹』が出てきた→縁起と空
こんな感じね。
なんとなくつながってるから(→縁起)大丈夫!(何が大丈夫なのかよくわからんが)
なんで、フト思ったかというと、
こちらは新刊の保坂和志『小説、世界の奏でる音楽』を読んでたら、p.228でいきなり『龍樹』が出てきたので…。
昨今の思想界(そんなもんあるのか!?)の議論で、中村元ってそんなに言及されるものでもないし、
…それで、フトつながったのです。以上。
まさか、新曲もやったのかな?
(WILD、Dr.)
ぼくも先に行ってたけど、
もう一回行ってもいいかと思っちゃったもん!
全然関係ないつながりで(笑)
Bossa Books面白いね。
ブラブラ見てたら、
中村はじめ先生の『龍樹(ナーガルジュナ)』があるじゃあ~りませんか!
ぼく、もう10年以上前に
先生の東方学院の講座とか通ってたよ。
http://www.toho.or.jp/nakamura/keireki.html
正直、そのころは(も)、ちょっと大きな時間が空いたからなんでも勉強したくて。今思えば、なにも分からなかったと思うけど…。
今だと、仏教とか、東洋思想とか、
何倍も切実さを持って吸収できるんだろうね。
脈絡ない話サイコー!
この本、含蓄深くてお勧めですよー。竹内先生の古典の教養満載!
>>>>>>>>>>>>>>Is
2009-03-22 22:24:00
小田和正ラヴァー発見!
小田和正「クリスマスの約束」はほんといい番組だよねー。ミスチルの桜井さんも出てたし。あの場でのHEROはほんと鳥肌ものだったよー。
ああやって若い才能とドンドン核融合して、ドンドン進化するんでしょうねー。
あの年でがんばってるのはすごいよねー。吉田拓郎とか井上陽水辺りもそうだよね。
Is氏が言うように、日本語に秘められた感性はすごい!!(単に繰り返しただけ)
「さようなら」みたいなありふれた言葉に、そこまでの奥行きとか、それがそれとして残った日本人の感性や価値観とか、その辺はすごく味わい深い。
任天堂前社長の山内博さんの「すべて運ですよ」って言っるのは、竹内先生的にいうと、「みずから」と「おのづから」(両者も同じ「自ら」という漢字を当てるが、読み方で意味は180度変わる!)があるとすると、生きることはすべて「おのづから」の営みであった。と言っているようなものだねー。自分が「みずから」の意思で勝ち取ったわけではなく、偶然であり単なる運であり、大きな何か目に見えない力によって、「おのづから」、結果的にそうなっただけだとね。
成長のときは、やっぱり自意識過剰だから、俺が俺が!って感じなんだけど、年を経て経験を踏んでくると、いかに自分が周りに生かされて存在しているかわかるもんだよね。その延長で、「すべて運ですよ」っていう言葉になったのかもしれんね。
「努力即幸福」って言うのと比べると、ステージの違う場面に向けて言ってるのかなってのは鋭い!
そういう人間の揺らぎのプロセスだと思うよ。波動みたいな感じ。
自と他の配合の割合が、大きい流れの中ではある振幅を持って揺れ動くんでしょうなー。
安室ちゃん話ね!確かにいじりたくなるでしょ。
ついでのついでだけど、BestFictionのLIVEツアー。追加公演あったから、チケットとって横浜アリーナまで見に行ってきたけど、すごく感動したー。休みなしのノンストップで踊りながら歌っている様は圧倒的!
あ、どんどん内容と無関係の話になってきたんで(笑)、この辺で自主規制しときやすのでアシカラズ。
>>>>>>>>>>>>>>Shin.K
90歳のおばあさんの、「さようなら」=「そうならなければならないなら」は更に含蓄あるなー。
90年生きてれば、人間だれもがいろんなことが起きると思うんだけど、そんなすべての青春や愛や失恋や成功や挫折や・・いろんな過去を全部引き受けた上で、あの世という向こう側がこちらに手招きしている、「そうならなければならないなら」ってのは涙なしに聞けない。
わしも考え直すと、患者さんで「先生、さようなら」って具合が悪くなったときに言う患者さんもおられて、何か猛烈にさびしい気持ちになるのです。それは、「さようなら」の言霊を無意識にでも感じるからなのかなぁ。この本読んで、その言霊の意味を深く感じれるようになった。
阿久悠の「人間はたぶん、さよなら史がどれくらいぶ厚いかによって、いい人生かどうか決まる」ってセリフも、さよならの数ではなくて、厚みなんだよね。重みなんだよねー。
Shin.K氏のそんな<さよなら史>も、きっと人生を彩っていく上で欠けてはならない経験なんだろうね。そう思います。
一期一会、正しくそうですね。
だって、いつが『さようなら』なんて誰にもわからないんだしね。
一期一会の言葉が持つ、今という瞬間や目の前にいるアナタという存在の重み。それは、「さようなら」=「そうならなければならないなら」として過去をありのまま受け入れていく上で、今の瞬間への尊重や敬意が生まれるのかもしれない。 日本語も本当に深いなー。
コメントありがとう!
どんだけ時期が遅れてても一向に構わないので、心に響いたときは、昔のも含めてコメントください!
さよならについて、そんな意味があったなんて、31年生きてきて気がつきもしませんでした。
「そうならなければならないなら」、これまで本心から、この意味を込めて使ったことが何度かありました。
随分前に、90歳の親戚のおばあさんに、「もう最後かもしれないね。元気でやりなさいよ。さようなら」と言われたとき、思わずはっとしました。
「何を言っているのですか。またお会いできますよ」と言いました。
でも、その3ヶ月後に、彼女は老衰で亡くなった。
彼女の言ったさよならは、「そうならなければならないなら」、今更ながらにどすんとこたえます。
ほんとはもっともっとたくさん会いたいのに、もう会えないときだって、「そうならなければならないなら」それを受け入れる、って自分を納得させるように思う。
もっともっと会って話したい人、もう今はいないペット、確かに、ぼくのこころには存在している。
La Stradaさんの友人が書いたものも読みました。
猫との大切な時間を記した感情に訴えかける文章でした。
さよなら史の深さが人生の深みを増すというのも、多いに同意です。悲しいことだけど、愛するものを失うとき、悲しみの中で人は優しさだとか、儚いからこそ感じる貴重さを思い知るんでしょう。
永遠なんてない。だから、一期一会、瞬間瞬間を大切にしたい。さよならが辛いと思える出会いが多いといいなあって思える。
PS
「パリ、テキサス」。なんだか少し前にも出会ったんだけれど、結局見れずじまいの映画です。
紹介してくれた人が、「同じシーンを黄色の車で走ったのよ。男のロマンってこんな感じかしらってね」って言われたのを思い出しました。
「さよなら」時代は、明確にフォークソングですよね。それが、「キラキラ」まで来るんだから、(あれは、TBSの「クリスマスの約束」での若い人たちとの競演の明確な成果ですよね)スゴイ。村上春樹もそうだけど、団塊世代にフレッシュさで負けてはいられんな~。クヤシウレシ。
でも、ホントに日本語に秘められた感性はすごいねー。
先日のNHKの100年インタビューで山折哲雄さんも同じようなこと言ってたけど、そういう感性を古典とかから掘り出したいですね。で、それが意外と心地よかったりする。なにか、脱・主体的な在り方を秘めてるんですよね。
むかし、任天堂前社長の山内博さんが、成功をたたえられる中で、「すべて運ですよ」って言ってて、それが時折、フト思い出すんですね。で、若ければ若いほど、反発して、100%、オレの努力じゃい!とか思ってるのが、年を経るごとに、パーセンテージが山内氏の言うとおりに思えてきて、…でも、さすがにまだ100%運とまでは言い切れず、しかし、今は半分以上は運かなとは思い出している。そう思う方が何かとしっくり来ることがあったりする。
…しかし、それは決して、努力を否定するものではなくて、それは、本多静六やRYM氏オススメの岡本史郎さんなんかのいう「努力即幸福」ってのも一方で真実かなとも思うわけで。
多分、これは、対立することではなくて、ステージの違う場面に向けて言ってるのかなとかも思います。
つまり、プロセスにおいては、多分、「努力即幸福」なのだと思う、プロセスは、全力をいかに出し切れるかに幸不幸がかかっている。けれども、その先の結果は、確かに、もう主体を離れた話で、そこは山内に言うように「運」なのかもしれない。
…う~む、まだ全然結論は出ないけど、
もちっと考え続けます。
…あ~、別の日の安室ちゃん話もいろいろいじりたかったけど、また際限なくなってくるので(笑)、この辺で。
(なんか、ちっちゃいときの砂場で、夕日が暮れてくる頃を思い出します。)
映写機で白い壁での映画鑑賞会!
いいですね!僕も情景が目に浮かびます。かなりイイ!最高!!
同時に古典輪読とか漫画輪読もそこに混ぜると、さらに多様ですね!
映画・文学・漫画のコラボ。(勝手に妄想追加)
僕らがやってる古典輪読会も、スピンオフ企画として古典映画鑑賞会もやろう!とか言っている矢先なので、いづれ正夢になるよように、是非とも一緒にやりましょう。きっとできると思います!
でも、吾が古典輪読会のメンバーは、揃いも揃ってしゃべり上手の喋り好きなので、集まったら、映画見ずに何時間も喋りまくるかもしれませんが笑
まず、映写機とか、DVDのプロジェクター準備しとかんといかんなー。(早速乗り気)
「パリ、テキサス」ですね。必ずチェックしまーす。
仕事がうつる間に結構時間があるんで、好きなことに全ての時間を費やそうと思っているんで、文学や古典や漫画とともに、映画も自分のチェックリストに入っておるのです。
映画、普段見ないんで、そういうお奨めはすごく参考になります!
日記からの脱線・・・大歓迎ですヨ!
カンリニン自体が脱線しまくりなので、他の皆さんも脱線してもらえないと、カンリニン暴走ブログみたいになりますんで笑
脱線大歓迎!クロストーク大歓迎!
わしのブログは、公園の砂場みたいなものなので、自由に遊んで自由に使ってください。何の制約も掲げておりませぬ。
管理人自体がかなりええ加減でユルイ人なもので・・。どうぞ、ごゆるりと。
自分の家の大きい白い壁に好きな映画を映しだして好きな仲間と映画鑑賞会なのです。笑。
夢のまた夢ですけど。。そうでなくとも、いつか皆さまと映画観たいです♪
あのページは興奮してしまいますよね。
充実過ぎている。。。
最近観た中でお勧めナンバーワンは「パリ、テキサス」です。いなばさんもきっと気に入ると思うなぁ。長さを感じさせなくて、美しくて、温かくて、すごく心に沁み入る映画。主人公がなぜ人を愛せなくなってしまったのか、I love you more than my lifeという主人公のセリフと共に、たまにふと思い出して考える映画です。
また何度もみたいなと思います。
日記からはだいぶ脱線してしまい、失礼しました。。。
ともこさん>
彼女は、昔から本質をつくことばかりを言う子で、いつも話していてどきっとします。感性が人一倍鋭くて。そんな中、あの日記は、特にまっすぐに文にされていて、だから心にぐっときますよね。私も読むたびに涙がじわっと出ます。
いやぁ、僕もいい本だと思いますねー。ただ、自分が学生のときだとあんまり興味持てなかったかもしれませんな。それなりに人生経験を積んできて、色んな面での「さよなら史」が積みあがってきたから、この本の深さが分かるのかもなーなんて思ってます。
竹内整一『「はかなさ」と日本人』と併せて読むとお奨めですよねー。
ともこさんには二冊とも読んでもらったし、しかもすごく楽しんでもらえて、紹介した自分としても嬉しい!
そうそう、リンドバーグ氏の言葉はいいよねー。
外から見たほうが、素直にありのまま評価できることって結構ある。
自分を知るために他者を知る。日本を知るために異国を知る。日本語を知るために外国語を知る。・・・・・
こういう風に視点を流動化して、固定化しないことの重要性ってありますよね。
ある世界で閉じられると、それが部分であることを忘れて、全体であると思ってしまう。
<井の中の蛙大海を知らず>の世界観が伝えたいものも同じようなもんですね。
ともこさんは英語のプロだから、その世界から日本語を、日本人を・・そして自分を見つめる手助けになってるのかも。だから言う言葉に深みがあるし含蓄あるし、尊敬してます。
わしは医療だから、死から生を見る、病から健康を見る、病者・死者から自分を見る。そういう思考プロセスなのかもしれません。
4月からは大学病院に移って、医学部の学生や研修医の指導に励むんだけど、そういう教育の立場に立つことで(わしが教えれることなんてたかがしれてるんだけど)、また新しい世界が見えそうだし、すごく楽しみー。
あ、脱線。
山本七平氏の『時間的・歴史的把握』をする日本人っていうのは面白い指摘ね。
わしも無意識にそういう考えをしているってのも不思議だなー。
自分的には、やはり時間は連続しているし、なかなかスパッとデジタルに切れないんですよねー。余情も残るし、余韻も、ぬくもりも、残る。そういう余情を味わうのは、やはり日本人の土地や風土や歴史に根ざしているのかなぁ。まあ、自分も色々勉強してみないといかん。
『この発想・無意識レベルの意識が今も日本人の中に脈々と流れていて、それが現在の思考・発想・言語化力・美意識にまでつながっているように思います。もう少しで整理できそう』
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その考え聞きたいなー。「空と智」ブログで公開されるのかな?楽しみにしてます。
英語の時制の問題なんて、わしみたいな素人はちゃんとまともに考えないで英語をグチャグチャつかってるし、プロからの視点は面白そう!
「時間」をどう捉えるか、これは色んな哲学、物理学、言語学・・・色んな学問の切り口の集大成かもしれませんね。「時間」って、小学生の頃から思い続けてますが、ほんと謎多きものです。
その辺の研究成果は、また会って話すときでも進捗状況を聞かせてください(笑)
リンドバーグ氏の言葉は特に感動的で、異文化の方が「違い」をより認識した上で、それでも美しいと言われていたその言葉に重みを感じます。言葉の裏にある日本的な物事の捉え方を理解した上で、現実に表れてくる“言葉”の美しさも味わっているのかと思うと、ほんとに震えます。
「過去」「現在」「未来」、どう考えても日本人の中には一つの線として軸としてつながっているもの。山本七平氏のいうところの『時間的・歴史的把握』をする日本人は、その線上で自分の在り方、存在の意味を捉える。時間軸があるけれど、それぞれの時間は決して切り離されていない。「過去」は存在しても、「現在」と一体であり、すなわち「未来」と一体である。
『「過去を受け、今存在し、未来へ生きる」
絶え間なく連続しているそんな時間を生きていく上で、日本人は「さようなら」という接続詞である別れ言葉を使うことで、過去・現在・未来をつなげながら生きていることを表現しているようにも聞こえてきた。』
いなばさんの言葉に同感です!この発想・無意識レベルの意識が今も日本人の中に脈々と流れていて、それが現在の思考・発想・言語化力・美意識にまでつながっているように思います。もう少しで整理できそう・・・西洋的なロジックと対比して考えてしまいますが、またもう少し整理したら書きます!(時制とも関連させて)
>La Stradaさん
お友達の言葉・・・深い深い悲しみの経験を超えて、一段上のレベルの安らかさの中で猫ちゃんと彼女が一体になっている感じが伝わってくる気がして、涙ぐんでしまいました。とてもつらい経験だったんだろう・・・そして「今」がある、その両方に心がうたれます。人は皆、「死」というものを感じ、一つ一つ「死」から学び、「死」を身近なものとして考え、温かいものに変えて共存し、一体となっていくのかもしれませんね・・・
溝口健二『近松物語』、いいですねー。
邦画の古典も色々見ないといかんと思いました。
今年、黒澤、溝口、小津監督の作品は意識的に全部見たいなーなんて突然思い出しました。古典を全然見てなかったもので。
誰か一緒に観賞会やりましょう。
あの映画は美意識がすごい。また感想書く時間あれば書きたいな。
宮嶋副監督のページ、溝口健二『近松物語』を見た人間には本当にお宝のページですね。かなりスゴイ!!穴があくほど熟読しちゃいました。
イイ作品教えてもらってありがとう!
下村湖人『論語物語』も、丁度論語の輪読会をやった時期とリンクしたっていうのもありますけど、 la stradaさんから薦められてめちゃんこハマりました。
あれは本当に美しい映画だと思います~~
溝口監督の研ぎ澄まされた感性が、全てに光っていますね。
あの時私のブログにコメントを下さった宮嶋副監督のページです。貴重な資料満載で博物館のようです。http://tsune.air-nifty.com/miyajima/2008/06/post_677b.html
小田和正いいですよね。本当に。
心に沁みわたります。
Is氏なんて小田和正LOVEだしね。
これも本当にいい曲。心に染みいる。
別に愛の別れではなくても、死とか、その他いろんな別れとしても、この「さよなら」という曲は聞こえてきます。
http://www.youtube.com/watch?v=ULX-0Ks5cYc
(動画で見ると、若いなー。)
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さよなら
作詞・作曲 小田 和正
もう終わりだね 君が小さく見える
僕は思わず君を 抱きしめたくなる
「私は泣かないから このままひとりにして」
君の頬を涙が 流れては落ちる
「僕らは自由だね」 いつかそう話したね
まるで今日のことなんて 思いもしないで
さよなら さよなら さよなら
もうすぐ外は白い冬
愛したのは 確かに 君だけ
そのままの君だけ
愛は哀しいね 僕のかわりに君が
今日は誰かの胸に 眠るかもしれない
僕がてれるから 誰も見ていない道を
寄りそい歩ける寒い日が 君は好きだった
さよなら さよなら さよなら
もうすぐ外は白い冬
愛したのは 確かに 君だけ
そのままの君だけ
さよなら さよなら さよなら
もうすぐ外は白い冬
愛したのは 確かに 君だけ
そのままの君だけ
さよなら さよなら さよなら
もうすぐ外は白い冬
愛したのは 確かに 君だけ
そのままの君だけ
外は今日も雨 やがて雪になって
僕らの心の中に
降り積るだろう 降り積るだろう
昔、子供の頃見たんですけど、NHKか何かでやっていた、<アナタが好きな日本語は?>とかいう日本人にやっていたアンケートで、1位が「ありがとう」、2位が「さようなら」だったのを覚えてます。
子供当時は、なんか切ない言葉が2位なんて不思議だなー、とか思った覚えがあるんですが、この辺も日本人の物の見方とか、そういうのが反映されているのかもしれませんね。
「さようであるならば」が元々の語源で、そこから変化していったというのは、僕もかなり驚きました!
この本読んでから、何か人との別れの時なんていうか妙に気になるようになってしまいました。
でも、「さようなら!」っていう言葉は、現代ではなんか悲しい雰囲気があるというか、本文でも触れられていましたが、確かにあまり日常的には使わなくなった言葉だなぁという気はします。
アン・リンドバーグの『「サヨナラ」を文字どおりに訳すと、「そうならなければならないなら」という意味だという。これまでに耳にした別れの言葉のうちで、このように美しい言葉をわたしは知らない。』という一節は、なんか心が震えましたね。とても心に響きました。
読みたい本、僕も溜まってますよー!
部屋にはいっぱい課題図書があるんで、それを時間を気にせずコーヒーとか飲みながら時間を忘れて堪能している時は、俗世間から遠い彼方につれていってもらえる時間で、至上の喜びです。La stradaさんからは多大な影響受けてるんで、映画の溝口健二『近松物語』も見ましたよ!すごくよかった。自分の中で発酵させてから感想かければなーと思ってます。
友人の日記、切ないですね。ぐっときますね。こういうのを読むと、■阿久悠が「人間はたぶん、さよなら史がどれくらいぶ厚いかによって、いい人生かどうか決まる」と言っているのも、なんかわかる気がします。さよならの数ではないんですよね。さよならをどれだけ深く味わい、自分に切実なものとして捉えられるか、そのことで自分の人生に不思議と潤いが出てくるのかもしれませんね。異国に住んでいるLa stradaさんも、日本とのさよなら史をかかえながら頑張っているんでしょうね!
この本、いなばさんの本棚で見て、気になっていたんですよね~。是非とも今度読んでみたいです。それにしても、ボッサカフェに、読みたい本が相当溜まってきてしまいましたよ^^;。これは夏は図書館に入り浸りだろうなぁ。。。
ちょうど自分のブログを読み返していて、さよならに関して、偶然発見したので、これも何かの縁かと思い、貼り付けてみます。
この中の友人の日記はとても好きな文章なんです。
http://sachiolin.exblog.jp/9366831/