日常

よしもとばなな「Q健康って?」

2011-11-26 01:57:12 | 
よしもとばななさんの「Q健康って?」幻冬舎 (2011/8/25) を読んだ。


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<内容紹介>
古今東西100以上の健康法を体験した著者が見つけた健康の極意
そして、身体のプロフェッショナルから引き出した健康の正体とは?

『私は体が弱く、心も強くなく、いつも健康にあこがれて暮らしてきた。しかし、あまりにもいろんな取り組みをしてきたために、いつのまにか初対面の人に「健康そうですね」と言われるような人になってしまった。様々な経緯を経てきて「人生は変えられる」と私は確信している。』
タイマッサージ、カイロ、整体、ロルフィング、チネイザン、ホメオパス、フラ、腸内洗浄、尿飲、ピュアシナジーetc…。ありとあらゆる健康法を試してきた、健康オタクの著者。信頼できる身体のプロフェッショナルたちとの対話を通して、ついに健康の正体と極意に辿り着いた!心身から底力がわきあがり、日常が輝き出す体作りのヒントが満載。著者の友人で、余命2週間の末期癌と宣告されながら、希望の光だけを見つめ、奇跡の中で生き続けている女性の手記も収録。家族や友達を支えるために、こんな時代に大切なのは、丈夫な自分の体と心。この1冊が、あなたの体と心を強くする!
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最初にばななさんのこの本のコンセプトが書いてある。

「健康ってなんだ、とズバッと斬り込むような本ではなく、なんとなく読んでいるうちにエネルギーがわいてくるような、考えるきっかけを与え、こうでないと健康とは言えないね、という幻想をこわすような本をつくろうと思った。」
「この人たちはたとえ寝込んでいても健康なのである。健全と置き換えてもかなり近いかもしれない。人生に対する姿勢が、かまえが、健康なのだ。」




健康というもの。
それは<病気の反対>ではない。
<病気の反対>としてしまうと、「じゃあ病気はってなんですか。健康の反対ですか。」ということになる。それは堂々巡り。
言葉の定義は難しいものです。だからみんなあいまいに使ってるわけです。

個人的には、「健康とは、その人の調和・バランスのこと」だと思っています。


「病」と「病気」は違うような印象があります。
「病」は何かしら調和が失われた状態。それは単なる状態。
「病気」は本人が「病」を自覚して、自分と同一化した状態だと思います。
「気」が加わることではじめて「わたし」というパーソナリティーと結合する。
「気」が加わらない限り、その「病」は単にそこにあるだけにすぎません。


「病」+「気」=「病気」
だから、患者さんにも「「病」と「病気」は違うよ。病は気からっていうのはそういうことだよ。」
と煙に巻いた説明をするけれど、なんとなく納得してくれる人が多い気がします。


「気」っていうのは不思議なコトバです。
「非科学的」な感じですが、日常用語で毎日のように使います。
いろんな言葉の中に顔出します。神出鬼没です。


気が合う、気がある、気がいい、気が移る、気が多い、気が大きい、気が置けない、気が重い、気が利く、気が差す、気が知れない、気が進まない、気が済む、気がする、気が急く、気がそがれる、気が高ぶる、気が立つ、気が小さい、気が散る、気が付く、気が詰まる、気が強い、気が遠くなる、気が通る、気が咎める、気がない、気が長い、気が抜ける、気が乗る、気が早い、気が張る、気が晴れる、気が引ける、気が触れる、気が減る、気が変になる、気が紛れる、気が回る、気が短い、気が向く、気が滅入る、気が揉める、気が弱い、気が若い、気で気を病む、気に入る、気に掛かる、気に掛ける、気に食わない、気に障る、気にする、気に留める、気になる、気に病む、気も漫ろ、気を失う、気を移す、気を落とす、気を利かせる、気を配る、気を遣う、気を尽くす、気を付ける、気を取られる、気を取り直す、気を抜く、気を呑まれる、気を吐く、気を張る、気を引く、気を回す、気を持たせる、気を揉む、気を許す、気を良くする、気を悪くする、気合いを入れる、気負う、気後れ、気落ち、気配り、気概、気掛り、気兼ね、気軽い、気変り、気位、気苦労、気絶、気忙しい、気違い、気詰り、気取り、気に入り、気の毒、気晴し、気味悪い、気品、気風、元気、やる気、短気、内気、・・・・・
キリがないので疲れました。


「気」にはいろんな意味が込められていますが、物理学で言うエネルギーのような意味合いもあると思います。それは、方向性や大きさも持っているものです。


「気」がいい方に向くか悪い方に向くかで、その人の「病気」もその人にとっていい方にも向かうし、悪い方にも向かう。
「病」という状態に大きさと向き(=ベクトル)を付け加えた概念が「病気」なのかな。
なんだかコトバ遊びのようだし算数の授業のようになってきましたが、そんな「気」がしてます。



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「科学的思考法」というのは優れたものです。
そのおかげで飛行機が飛び、電気がつき、インターネットでこうしてブログも書けるようになりました。縄文人が見たら腰を抜かすでしょう。

科学は、世界中の大勢の人間で仮説と検証を延々と繰り返します。
その仮説と検証のたゆまない往復運動の末に、何かしらの結論が出る。それが科学的な結論となってゆく。
そんな営みの中に自分も参加しているという自覚を持っています。


科学の結論は「普遍性」を目指してますが、そうは言ってもすべての人間に100%そのまま適用できるわけではありません。

人間はひとりひとり「同じ」ところも多いけど、「違う」ところも同じくらいある。
「同じ」ところに着目すると科学的になるけれど、「違う」ところに注目するとすべてが個別対応になる。
だから、そこに代替医療と言われるものの出番が出てくる。そこは科学的手法の限界でもあります。


科学や近代医学には、もともと限界があります。
それはわきまえとして知っておかないといけなくて、その自覚がないと単なる傲慢さにつながります。
それは、その人の傲慢な性格を、表現手段を得たことで単に表に露呈させているだけ。恥ずかしいったらありゃしない、と思います。


自分の基本スタンスはあくまでも科学的な観察に基づいていますが、代替医療とか、医療に関係するあらゆる行為に興味があります。
分からないことにこそ、興味がある。
ある意味、当然と言えば当然です。分からないことを分かるために、僕らは日々学び続けるわけですから。




このよしもとばななさんの「Q健康って?」という本では、そうした個別の医療に焦点を当てた本です。
いろいろ面白かった。
科学は個性を消す方に向かいがちですが、この本で紹介されている本ではその人の個性がかなり出てきます。



医療の基本には、「気づかい」とか「自分のできる範囲でなんとかしたい」とかが根底にあるんだと思います。
そこは「同じ」はず。
だから、同じ思いを共有しているうもの同士、互いを尊重しながら、まずいときは互いにブレーキをかけながら。
それぞれが得意な技術を生かしながらやればいいんだと思いますね。
何にせよ、自分のエゴを押しつけることはみにくいようにおもいます。



この本の中で印象に残った一節を紹介。




お腹への気功セラピーであるチネイザン(気内臓)のTAOZEN代表の大内雅弘さん

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「僕は健康っていうのは、病を含むような力があるものだと思うんです。
仮にすごい病気になっても、健康でいられるような人のことを健康って言うんだと思います。
もし仮にがんになっても、明日死ぬってなっても、健康だってどこか思える。
幸せって言う言葉も同じだと思いますが、幸せだと思える人、そういうものが健康っていうことだと思うんです。」
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「健康のマイナスプラスのダイナミズムみたいなものが健康だと思います。
僕の場合、健康っていうことは幸せっていうことと近いのかもしれないですよね。」
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「栄養が悪いとかいいとか言ってるけど、人類の歴史の中で考えてみるとすごくいいんですよね。」
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「やっぱり、自分だけが健康で、健康だと思えるような人は健康じゃないですよ。
健康というものを通して社会参加もしてるっていうことがないような健康って。」
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「考え方はやっぱり自分がどんな枠を持ってるかっていうのを確認しなきゃいけない。
思考の方法みたいんなものを考える。」
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「SoulとSpiritの違いは、アイデンティティがあるかないかです。
Soulっていうのは日本の魂とか自分の魂だとか。
Spiritは重力みたいで、これとかあれとか誰とかって言えないものだと思っているんです。」
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クラシカルホメオパシーのせはたたかよさん

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「肉体を見て、精神を見て治療しても、治る人と治らない人がいるんです。
精神の下に妄想、思い込みみたいなものがあって、これが病気の原因じゃないかと突き詰めていきました。」
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「妄想は妄想通りに生きられているうちには病気にならないんです。でも、例えば私が一番よって思ってる人が、妄想がキープできなくなったときに病気になります。
あとはやっぱり妄想を持ってると過剰な反応をしちゃいます。」
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「妄想を入口にして、その人のエネルギーを見ます。」
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「健康って、私の中では潜在意識とか精神とか感情とかのバランスの良さの上に立った身体のバランスのよさだと思うんですよ。身体だけいくらよくても、下の部分がグラングランだったら健康とは思わない。」
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「すべての動植物にもエネルギーがあって、わりとこう高次元じゅやないですか人間って。
それに乗り移って人間がよくなると共に、一緒に癒されてまたバランスをとって自然に戻っていくっていう風な解釈。
自分がよくなって、それにともなって周りの万物もよくなってるんだ、って思います。」
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「自由っていうのは、ほんとこの場にいられるっていうことです。」
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(他にも、セラピスト(東洋医術、武道、西洋の心理療法、催眠療法、気功・・などの統合)の安田隆さん、ロルフィング(身体の偏りを調整して身体のバランスを回復するボディーワーク?)の田畑浩良さん(=ばななさんの旦那さん)との対談、「るなさん」の病いとの記録・・などもあります。あとはぜひ本書をお読みください。)
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普段は医学系の学術書ばかり読んでるから、こういう話は刺激的で面白かった。
ある意味、文学や哲学や芸術や体育や・・・そういうものとの境目が消えていく感じ。

「健康」は、かっちり枠にはまってきめられたものではなくて、自分なりに自分で模索しながら考えていけばいいんだと思う。それぞれの人にフィットするものが微妙に違うはずだから。
そういう自由さをこの本からは感じます。肩の力をほぐされる感じ。



いづれにせよ、それぞれの分野で、互いが互いに欠けているものを補い合うのがベストだと思います。
どんな分野でもいい加減な人もいれば真面目でひたむきな人もいる。それはその専門分野の問題ではなく個人の問題です。
そうした個人や人間を見分ける目を養う事は何においても必要で、分野そのものへの偏見は不必要だと思います。


何にせよ「調和」がその場に生まれれば、その場にいる人も「調和」を得る。
そして、健康に、元気に、なるんでしょう。
だから、医療を行う側、受け取る側、それぞれの個人のレベルでの調和も大事だし、その人が生きている環境や場の調和も大事だと思う。


この世界は、ほっとくとエントロピーが増える方向に向かいます。エントロピーとは乱雑さのこと。
ほっとくと、いろんなものは乱雑になる方向へ向かう。バラバラに分解されていく。
部屋はほっとくと散らかる。


その中で、生命だけは例外です。
生命は、乱雑さへと向かうのではなく秩序を保とうとします。調和の方向へ向かいます。エントロピーが減る方向に向かう。
この宇宙の中で、それはそれは不可思議な現象です。


そんな「生命」自体をどんな人でもそれぞれが個別に持っているのだから、不思議なもんですよね。
ただ、『「わたし」が「生命」を持つ』というと少し違うのかもしれない。なんだかエゴイスティックな感じです。そんな所有物のようなものではないと思います。
『「生命」が「わたし」を持つ』と主語と述語を入れ替えてみると、真実に近いのかもしれません。ふと、そんな気がしました。