Newsweek12月12日号「「歴史」とは何か、「記憶」とは何か」「「開戦」の歴史と向き合わずに和解はできない」を読みました。
アメリカは開戦に注目し、日本は終戦に注目するという指摘はなるほどそうかなと思いますが、まぁ申し訳ないんですが、日本の議論をよく知らないなという印象がなくもないですね。アメリカの見方として参考になると思いましたので、取り上げます。もっとも誤解だと思うのは日本の開戦時期についてです。
グラック教授は先の大戦の開戦を37年(7月7日)盧溝橋事件、中国においてであると主張しますが、筆者は端的に誤りだと思います。別に1941年の真珠湾攻撃が先の大戦の始まりだから、中国は関係ないと主張したい訳ではありません。アメリカとの開戦を始まりと見るか中国との開戦を始まりと見るかは、どちらでも可能だと思います。確かにアメリカは中国を影ながら支援していましたから、中国との戦いを始まりと見ることに無理はありませんが、そう考えると先に手を出したのは日本との関係ではアメリカという見方も可能です。当時米中軍事同盟があった訳ではありません(少なくともそんな話は聞いたこともありません)から、日本はアメリカには手を出していないという前提で、真珠湾攻撃が日本の奇襲開戦だという話が成立しています。ですから、アメリカに負けて終戦したなら、開始を日本の対アメリカ攻撃に見ることも決して誤りではないでしょう。1941年(昭和16年)12月12日に東条内閣が閣議で「大東亜戦争」と決定し、支那事変も含めるとされましたが、(準備はしていたかもしれませんが)これは真珠湾攻撃の後です。日本がアメリカと戦う意図なく中国と戦争を始めたということを意味すると思います。アメリカから見たら中国に手を出していることが自国に対する挑戦だと思えたのかもしれません。この辺は(筆者の知る範囲では)満州の権益争いで日米関係が拗れたことが原因だろうと認識しています(近現代史に詳しくないので誤っている可能性もあります)。その辺はさておき、筆者が指摘したいのは、事実として日中戦争は盧溝橋事件で開戦していないだろうということです。
支那事変(ウィキペディア)
>支那事変(しなじへん)とは、1937年(昭和12年)に日本と中華民国(支那)の間で始まった、長期間かつ大規模な戦闘である。なお、盧溝橋事件(1937年7月7日)は、4日後の松井-秦徳純協定により収拾している。その後の中国共産党の国共合作による徹底抗戦の呼びかけ(7月15日)、及び蒋介石の「最後の関頭」談話における徹底抗戦の決意の表明(7月17日)により、中国軍の日本軍及び日本人居留民に対する攻撃、第二次上海事変が連続し、戦闘が本格化した。したがって、日中戦争(支那事変)の端緒を、盧溝橋事件と考えるか、国共合作による抗戦の呼びかけ・最後の関頭談話と考えるかにより、同戦争の歴史的な評価は大きく変わることになる
>1941年(昭和16年)12月までは、双方とも宣戦布告や最後通牒を行わず、戦争という体裁を望まなかった。戦争が開始された場合、第三国には戦時国際法上の中立義務が生じ、交戦国に対する軍事的支援は、これに反する敵対行動となるためである。国際的孤立を避けたい日本側にとっても、外国の支援なしに戦闘を継続できない蒋介石側にとっても不利とされたのである。
>特に中国にとっては、アメリカの国内法である中立法の適用を避けたかったことも大きい。中立法は1935年に制定された法律で、外国間が戦争状態にあるとき、もしくは内乱が重大化した場合に、交戦国や内乱国へ、アメリカが武器および軍需物資を輸出する事を禁止するものであった。当時、アメリカでは日本に対し中立法の適用を検討したが、中国に多量の武器を輸出していた事もあって発動は見送られた。
支那事変=日中戦争だと考えると、盧溝橋事件で開戦という見方が当たっているように見えなくもありません。ですが、盧溝橋事件は、4日後の松井-秦徳純協定により収拾しているのですから、盧溝橋事件をスタートと見るのは事実として誤りと断定せざるを得ません。終わったのに終わってないというのは形容矛盾です。終わったものを誰かが開始したから、停戦協定後に治まった状況が動いた訳です。他に解釈のしようがあるでしょうか?停戦協定の嘘を真実と認めたら、停戦協定を結べる道理がなくなります。停戦協定が必ず守られると考えるのはナイーブですが、停戦協定をやぶったものを停戦協定をやぶって戦争を開始したと見ない限り、本当のところは分からないはずでしょう。盧溝橋事件はすぐ終わった(同様の事件はその後もあった)。そして何ものかが日中戦争を開始した。これが歴史的事実です。盧溝橋事件とは所詮は小競り合いに過ぎません。まぁ小競り合いが大規模戦争に繋がる可能性も否定できませんが、少なくとも日本は事態不拡大に努めていたようです。
日中戦争をどちらが開始したかですが、これは中国が開始しました。何でそう言い切れるかと言えば、中国自身が戦争(徹底抗戦)を呼びかけて攻撃を開始しているからです。抗戦という言葉に誤魔化されてはなりません。日本が攻撃を開始した訳では明らかにありませんから、抗戦もクソもない訳です。中国が日本の進出に不満を持って追い出したいと思っていたであろうことは理解しますが、事実は事実。如何に中国の見方で中国に大義名分があろうとも、先に手を出したのは中国です。日本にはABCD包囲網などアメリカの圧力が開戦の原因だという主張があって、一定程度の説得力はありますが、開戦したのはどう見ても日本です。それでも開戦させられたと言いたがる人は保守派(右派)には結構多いです。中国も同じでしょう。どう見ても中国から手を出したのですが、日本を追い出すためだったから仕方が無いで(理解はします)、先に手を出すというのは不味いですから、誤魔化そうとしているんでしょうね。日本がそこで徹底的に中国が戦争を仕掛けてきたと宣伝すれば良かったはずですが、何故かそうしていません。当時も説明力が無かったんだろうなという気がしますが、その辺は良く分かりません。国際的孤立を避けたいとか言っても、結局全然避けられていませんし、事変だと日本が誤魔化したのは、戦争が起こってないことにしてアメリカの支援を得たい中国を利するだけだったではないでしょうか?戦争だと宣言して日本がアメリカに中立法を適用されたとしても、交戦国(中国)にも適用しなければならかったはずです。まぁ新しい立法もできますし、米中関係・日米関係を考えれば、戦争が始まったら、日本だけが一方的に制裁されるというのが当時の見方だったのかもしれませんが、中国の攻撃の出だしから批判すべきは批判していればどうなっただろうなと思わなくもないんですよね。青いのかもしれませんが。この辺は中国の開戦をアメリカが事前にどの程度知っていたのかにもよります。
もっと詳しく見るために第二次上海事変(ウィキペディア)を参照します。
>中華民国に駐在していたドイツ軍事顧問団団長ファルケンハウゼンは、「中国の敵は日本が第一、共産党を第二」と考え、1935年10月1日、漢口と上海にある租界の日本軍に対する奇襲を提案し、1936年4月1日、「今こそ対日戦に踏み切るべきだ」と蒋介石に進言し、北海事件後の9月12日には河北の日本軍を攻撃するよう進言した。
>1935年冬、国民政府は、南京・上海方面の「抗戦工事」(陣地)の準備を張治中に密かに命令し、優勢なる兵力をもって奇襲し上海の日本軍を殲滅しこれを占領し、日本の増援を不可能にしようと企図した。このため、上海の各要地に密かに堅固な陣地を築き、大軍の集中を援護させ、常熟、呉県で洋澄湖、澱山湖(中国語版)を利用し、主陣地帯 (呉福陣地: 呉県と福山(中国語版)の間)と後方陣地帯 (錫澄陣地: 江陰と無錫の間)、淞滬線: 呉淞と竜華の間、呉県から嘉興を通って乍浦鎮の間(呉福延伸線)にトーチカ群が設置された。阿羅によれば、呉福陣地や錫澄陣地は、「ヒンデンブルク・ライン」と総称された、という。
中国(国民党政府)が日本を追い出そうとドイツの顧問の意見を参考に戦争準備を着々と行ってきたのは間違いない歴史的事実でしょう。ただし、この時は決断できていないようです。
>7月7日に起きた盧溝橋での日中両軍の衝突は停戦協定で収まるかにみえたが、その後も中国各地で日本軍への抵抗は続いた。直後の7月10日蒋介石は蘆山会議を経て、徐州付近に駐屯していた中央軍4個師団に11日夜明けからの河南省の境への進撃準備を命じた。7月16日には中国北部地域に移動した中国軍兵力は平時兵力を含めて約30個師団に達している。アメリカはこの行動を非難し、地方的解決をもとめている。一方、日本軍は日本政府の事態の不拡大政策に基づき事態の沈静化に努め、8月3日には天津治安維持委員会の高委員長に被災した天津のための救済資金十万元を伝達している。
抵抗と言いますが、日本軍が攻撃してきたとは書いていません。中国軍が抵抗と称して攻撃してきたからです。抵抗と言うのは日本を追い出すことが大義名分になると思っていたからであって、日本が手を出したことに対する直接の反撃を意味する訳ではありません。仇討ちにやや近い感じで、日本が進出した後になって、それを不服とする中国から襲撃してきたと見るのが客観的と思います。いずれにせよ、日本は中国のこうした挑発にのりませんでした。ヒンデンブルグラインとかどう見ても中国がやる気満々で戦争を求める中国に挑発されたからといって、大義名分(日本から先制攻撃)をくれてやって戦争を始める気は無かったんだと思います。しかし指導部は分かっていたでしょうが、国民に我慢を強いたことが後の南京事件に繋がった可能性はあると思います。いずれにせよ、中国のこうした行動は当時の国際社会は承知していてアメリカも中国を非難したようですし、日本は明らかに事態の不拡大政策をとっています。問題は盧溝橋事件の類が日本からの開戦を意図した中国(コミンテルンの謀略だと言う人もいます)の謀略か、偶発的な事件かということです。この辺は個別の事件を丹念に見るしかないでしょうが、その辺は学者・研究者の仕事でしょうね。ちなみに舞台となった上海には上海租界(ウィキペディア)があって、かつての香港のように中国の統治が及ばない国際都市でした。東洋のパリとも言われ、かなり繁栄したようです。
>1937年(昭和12年)7月7日の盧溝橋事件を発端に、同月28日に至り日中両軍は華北において衝突状態に入った(北支事変)。
停戦したり事件が起こったり派兵したり一触即発の状態でしたが、本格的な攻撃の開始は中国が始めています。日本は事態の不拡大の政府方針通りだったと見ていいでしょう。挑発にのらない日本に痺れを切らした中国がついに決断したのではないかと思います。それでも中国は宣戦布告などしていませんし、宣戦布告なしの開戦を認めた訳でもありません。
>8月12日未明、中国正規軍本隊が上海まで前進、中国軍の屈指の精鋭部隊である第87師、第88師などの約3万人が国際共同租界の日本人区域を包囲した。日本軍の上陸に備えて揚子江の呉淞鎮と宝山にも約1千名を配置した。
>対する日本軍は、上海陸戦隊2200、漢口から引き揚げてきた特別陸戦隊300、呉と佐世保から送られた特別陸戦隊1200、出雲の陸戦隊200、他320の計4千人あまりであった。
>8月19日以降も中国軍の激しい攻撃は続いたが、特別陸戦隊は10倍ほどの精鋭を相手に、大損害を出しながらも、租界の日本側の拠点を死守した。蒋介石は後日、「緒戦の1週目、全力で上海の敵軍を消滅することができなかった」と悔やんだ。
戦争を仕掛ける側が圧倒的に有利な状況にあるのは当然のことです。当然真珠湾攻撃そのものは成功しましたが、日本はアメリカにボコボコにされています。中国は圧倒的に優位な状況で戦争を仕掛けたにも関わらず緒戦から敗北してしまいます(だからウッカリすると日本が攻撃したとか、どっちもどっち式のデマが流れることになります)。ですが、最終的には中国は日本に勝ったことになります。日本がアメリカに負けたことによる棚ボタではありますが、日本が広い国土を攻め切れなかったというのもあります。ドイツもソ連を落とせませんでしたが、広い国は厄介なところがあります。中国は援蒋ルートで英米ソの支援もありました。ソ連もアメリカの支援を受けていたようです。アメリカは今も強いですが、当時も滅茶苦茶強かったということでもあります。戦争中に自分から参戦できなかったのですから、もしも日独が中ソを落とせていれば、アメリカから開戦することは無かったような気がしないでもありません。
>937年8月31日の『ニューヨーク・タイムズ』では一連の事件について「日本軍は敵の挑発の下で最大限に抑制した態度を示し、数日の間だけでも全ての日本軍上陸部隊を兵営の中から一歩も出させなかった。ただしそれによって日本人の生命と財産を幾分危険にさらしたのではあるが…」と上海特派員によって報じた。1937年10月7日の『シドニー・モーニング・ヘラルド』は「(居留民を)保護するための日本軍は増援を含めて4千だけであった。…ドイツの訓練を受けた部隊から徴用された2~3万の中国軍と向かい合って攻勢を開くだろうとは信じ難い」とする。 また、『ニューヨーク・ヘラルドトリビューン(英語版)』は9月16日に「中国軍が上海地域で戦闘を無理強いしてきたのは疑う余地は無い」と報じた。
別に歴史を修正する意図はありません。寧ろ当時日本が戦争を仕掛けたと見る外国勢は(恐らく)いなかったのであって、中国がこうした過去の歴史を修正しているように見えます。日中戦争で戦争を停止する試みもあったようですが、この記事の目的と異なりますので、深入りはしません。結局は日本は事態の不拡大方針にも関わらず戦争を止められず、泥沼に入ってアメリカと戦い終戦を迎えます。アジアにおける第二次世界大戦のスタートを中国に見るなら、開戦を決断し実行したのは中国であると事実を指摘するのみです。日本がその辺に気を使わず事態を曖昧にしてきたことも悪いのですが、盧溝橋事件のような取るに足りない小さな事件に着目して、歴史の大きな流れを見失うべきではありません。
中国は最近こういうことに気付いてきたフシがあります。
「抗日戦争は満州事変から」 中国教育省が教材改訂指示(朝日新聞 2017年1月12日00時24分)
どうしても日本から攻撃してきたことにしたいようですが、満州事変は満州国の建国を持って切れているので、無理がある見方だと思います。まぁ近現代において、「中国人の土地」に先に進入したのは日本かもしれませんが、満州は歴史的に満州人の土地で、漢民族が入ったのは清代以降(それも長年移住は禁止されてきた)に過ぎません。人口の問題もあって、漢民族の土地になったていもありますが、中国人自身も含めて少しでも東アジアの知識がある人であそこが漢民族の土地だったと思っている人はいないと思います。そもそも中国に進出したのは欧米列強も同じで、日本は欧米列強の侵略を何とか跳ね返しましたが、そういう複雑な事情が当時にはあります。いずれにせよ、広く戦争をとろうと思えば広くとれると思いますが、満州事変(1931~32年33年)と支那事変(1937年~)を一緒にするのは無理があると思いますから、中東戦争よろしく、第一次抗日戦争、第二次抗日戦争ぐらいにするべきでしょうね。そして二次の方は自分から開戦したのですから、歴史を修正しないでもらいたい。歴史は勝者がつくると言いますが、中国だけが勝者なのかもう一度考えてみるべきかもしれません。
中国が最近言い出したところの抗日戦争の発端満州事変は、日本の謀略による侵略と思います。アメリカもトンキン湾事件を捏造して、ベトナム戦争を仕掛けたということがあったような気がします。まぁ中国には中国の言い分があると思いますが、嘘をついたらいけません。国際社会を騙そうとするのは止めて欲しいですね。アメリカという国も分かってか分からいでか、アジアを良く知らずに中国(韓国)に騙されるところがあるんじゃないですか。戦前日本は台頭するアメリカファクターを重視することが出来ず、敗戦に至ったような気がしますが、中国(韓国)並みといかないまでも、アメリカ世論を軽視して、同様の敗北を繰り返さないで欲しいですね。別に自分の歴史を都合よく解釈しろとも言いませんが、相手の主張で当時の文脈と違うものは資料を見れば分かるでしょうから、相手の修正を止めさせることぐらいは敗戦国でもできるんじゃないでしょうかね。歴史資料(ウィキペディア)を歴史学における資料批判を通じて常識的な解釈をしていただければ、少なくとも筆者が文句を言うことはありません。聞いてますか?中国さん、韓国さん(笑)。
今度は中国の台頭だろと思うそこのあなた!筆者とは相容れない見解のようですね。健闘を祈ります(笑)。
※なお、日中戦争が中国の開戦だというのは筆者が独自に考えたアイディアではありません。筆者が知る範囲では一度だけ会ったことがあるある人(分かる人は分かると思いますが、事情があって名前はあえて出さないでおきます)が言い出したことです。あの国のその筋の人の間では結構周知の事実なのかどうかは知りません。この記事はその着想を元に筆者がNewsweek記事を読んで独自に肉付けしたものです。
アメリカは開戦に注目し、日本は終戦に注目するという指摘はなるほどそうかなと思いますが、まぁ申し訳ないんですが、日本の議論をよく知らないなという印象がなくもないですね。アメリカの見方として参考になると思いましたので、取り上げます。もっとも誤解だと思うのは日本の開戦時期についてです。
グラック教授は先の大戦の開戦を37年(7月7日)盧溝橋事件、中国においてであると主張しますが、筆者は端的に誤りだと思います。別に1941年の真珠湾攻撃が先の大戦の始まりだから、中国は関係ないと主張したい訳ではありません。アメリカとの開戦を始まりと見るか中国との開戦を始まりと見るかは、どちらでも可能だと思います。確かにアメリカは中国を影ながら支援していましたから、中国との戦いを始まりと見ることに無理はありませんが、そう考えると先に手を出したのは日本との関係ではアメリカという見方も可能です。当時米中軍事同盟があった訳ではありません(少なくともそんな話は聞いたこともありません)から、日本はアメリカには手を出していないという前提で、真珠湾攻撃が日本の奇襲開戦だという話が成立しています。ですから、アメリカに負けて終戦したなら、開始を日本の対アメリカ攻撃に見ることも決して誤りではないでしょう。1941年(昭和16年)12月12日に東条内閣が閣議で「大東亜戦争」と決定し、支那事変も含めるとされましたが、(準備はしていたかもしれませんが)これは真珠湾攻撃の後です。日本がアメリカと戦う意図なく中国と戦争を始めたということを意味すると思います。アメリカから見たら中国に手を出していることが自国に対する挑戦だと思えたのかもしれません。この辺は(筆者の知る範囲では)満州の権益争いで日米関係が拗れたことが原因だろうと認識しています(近現代史に詳しくないので誤っている可能性もあります)。その辺はさておき、筆者が指摘したいのは、事実として日中戦争は盧溝橋事件で開戦していないだろうということです。
支那事変(ウィキペディア)
>支那事変(しなじへん)とは、1937年(昭和12年)に日本と中華民国(支那)の間で始まった、長期間かつ大規模な戦闘である。なお、盧溝橋事件(1937年7月7日)は、4日後の松井-秦徳純協定により収拾している。その後の中国共産党の国共合作による徹底抗戦の呼びかけ(7月15日)、及び蒋介石の「最後の関頭」談話における徹底抗戦の決意の表明(7月17日)により、中国軍の日本軍及び日本人居留民に対する攻撃、第二次上海事変が連続し、戦闘が本格化した。したがって、日中戦争(支那事変)の端緒を、盧溝橋事件と考えるか、国共合作による抗戦の呼びかけ・最後の関頭談話と考えるかにより、同戦争の歴史的な評価は大きく変わることになる
>1941年(昭和16年)12月までは、双方とも宣戦布告や最後通牒を行わず、戦争という体裁を望まなかった。戦争が開始された場合、第三国には戦時国際法上の中立義務が生じ、交戦国に対する軍事的支援は、これに反する敵対行動となるためである。国際的孤立を避けたい日本側にとっても、外国の支援なしに戦闘を継続できない蒋介石側にとっても不利とされたのである。
>特に中国にとっては、アメリカの国内法である中立法の適用を避けたかったことも大きい。中立法は1935年に制定された法律で、外国間が戦争状態にあるとき、もしくは内乱が重大化した場合に、交戦国や内乱国へ、アメリカが武器および軍需物資を輸出する事を禁止するものであった。当時、アメリカでは日本に対し中立法の適用を検討したが、中国に多量の武器を輸出していた事もあって発動は見送られた。
支那事変=日中戦争だと考えると、盧溝橋事件で開戦という見方が当たっているように見えなくもありません。ですが、盧溝橋事件は、4日後の松井-秦徳純協定により収拾しているのですから、盧溝橋事件をスタートと見るのは事実として誤りと断定せざるを得ません。終わったのに終わってないというのは形容矛盾です。終わったものを誰かが開始したから、停戦協定後に治まった状況が動いた訳です。他に解釈のしようがあるでしょうか?停戦協定の嘘を真実と認めたら、停戦協定を結べる道理がなくなります。停戦協定が必ず守られると考えるのはナイーブですが、停戦協定をやぶったものを停戦協定をやぶって戦争を開始したと見ない限り、本当のところは分からないはずでしょう。盧溝橋事件はすぐ終わった(同様の事件はその後もあった)。そして何ものかが日中戦争を開始した。これが歴史的事実です。盧溝橋事件とは所詮は小競り合いに過ぎません。まぁ小競り合いが大規模戦争に繋がる可能性も否定できませんが、少なくとも日本は事態不拡大に努めていたようです。
日中戦争をどちらが開始したかですが、これは中国が開始しました。何でそう言い切れるかと言えば、中国自身が戦争(徹底抗戦)を呼びかけて攻撃を開始しているからです。抗戦という言葉に誤魔化されてはなりません。日本が攻撃を開始した訳では明らかにありませんから、抗戦もクソもない訳です。中国が日本の進出に不満を持って追い出したいと思っていたであろうことは理解しますが、事実は事実。如何に中国の見方で中国に大義名分があろうとも、先に手を出したのは中国です。日本にはABCD包囲網などアメリカの圧力が開戦の原因だという主張があって、一定程度の説得力はありますが、開戦したのはどう見ても日本です。それでも開戦させられたと言いたがる人は保守派(右派)には結構多いです。中国も同じでしょう。どう見ても中国から手を出したのですが、日本を追い出すためだったから仕方が無いで(理解はします)、先に手を出すというのは不味いですから、誤魔化そうとしているんでしょうね。日本がそこで徹底的に中国が戦争を仕掛けてきたと宣伝すれば良かったはずですが、何故かそうしていません。当時も説明力が無かったんだろうなという気がしますが、その辺は良く分かりません。国際的孤立を避けたいとか言っても、結局全然避けられていませんし、事変だと日本が誤魔化したのは、戦争が起こってないことにしてアメリカの支援を得たい中国を利するだけだったではないでしょうか?戦争だと宣言して日本がアメリカに中立法を適用されたとしても、交戦国(中国)にも適用しなければならかったはずです。まぁ新しい立法もできますし、米中関係・日米関係を考えれば、戦争が始まったら、日本だけが一方的に制裁されるというのが当時の見方だったのかもしれませんが、中国の攻撃の出だしから批判すべきは批判していればどうなっただろうなと思わなくもないんですよね。青いのかもしれませんが。この辺は中国の開戦をアメリカが事前にどの程度知っていたのかにもよります。
もっと詳しく見るために第二次上海事変(ウィキペディア)を参照します。
>中華民国に駐在していたドイツ軍事顧問団団長ファルケンハウゼンは、「中国の敵は日本が第一、共産党を第二」と考え、1935年10月1日、漢口と上海にある租界の日本軍に対する奇襲を提案し、1936年4月1日、「今こそ対日戦に踏み切るべきだ」と蒋介石に進言し、北海事件後の9月12日には河北の日本軍を攻撃するよう進言した。
>1935年冬、国民政府は、南京・上海方面の「抗戦工事」(陣地)の準備を張治中に密かに命令し、優勢なる兵力をもって奇襲し上海の日本軍を殲滅しこれを占領し、日本の増援を不可能にしようと企図した。このため、上海の各要地に密かに堅固な陣地を築き、大軍の集中を援護させ、常熟、呉県で洋澄湖、澱山湖(中国語版)を利用し、主陣地帯 (呉福陣地: 呉県と福山(中国語版)の間)と後方陣地帯 (錫澄陣地: 江陰と無錫の間)、淞滬線: 呉淞と竜華の間、呉県から嘉興を通って乍浦鎮の間(呉福延伸線)にトーチカ群が設置された。阿羅によれば、呉福陣地や錫澄陣地は、「ヒンデンブルク・ライン」と総称された、という。
中国(国民党政府)が日本を追い出そうとドイツの顧問の意見を参考に戦争準備を着々と行ってきたのは間違いない歴史的事実でしょう。ただし、この時は決断できていないようです。
>7月7日に起きた盧溝橋での日中両軍の衝突は停戦協定で収まるかにみえたが、その後も中国各地で日本軍への抵抗は続いた。直後の7月10日蒋介石は蘆山会議を経て、徐州付近に駐屯していた中央軍4個師団に11日夜明けからの河南省の境への進撃準備を命じた。7月16日には中国北部地域に移動した中国軍兵力は平時兵力を含めて約30個師団に達している。アメリカはこの行動を非難し、地方的解決をもとめている。一方、日本軍は日本政府の事態の不拡大政策に基づき事態の沈静化に努め、8月3日には天津治安維持委員会の高委員長に被災した天津のための救済資金十万元を伝達している。
抵抗と言いますが、日本軍が攻撃してきたとは書いていません。中国軍が抵抗と称して攻撃してきたからです。抵抗と言うのは日本を追い出すことが大義名分になると思っていたからであって、日本が手を出したことに対する直接の反撃を意味する訳ではありません。仇討ちにやや近い感じで、日本が進出した後になって、それを不服とする中国から襲撃してきたと見るのが客観的と思います。いずれにせよ、日本は中国のこうした挑発にのりませんでした。ヒンデンブルグラインとかどう見ても中国がやる気満々で戦争を求める中国に挑発されたからといって、大義名分(日本から先制攻撃)をくれてやって戦争を始める気は無かったんだと思います。しかし指導部は分かっていたでしょうが、国民に我慢を強いたことが後の南京事件に繋がった可能性はあると思います。いずれにせよ、中国のこうした行動は当時の国際社会は承知していてアメリカも中国を非難したようですし、日本は明らかに事態の不拡大政策をとっています。問題は盧溝橋事件の類が日本からの開戦を意図した中国(コミンテルンの謀略だと言う人もいます)の謀略か、偶発的な事件かということです。この辺は個別の事件を丹念に見るしかないでしょうが、その辺は学者・研究者の仕事でしょうね。ちなみに舞台となった上海には上海租界(ウィキペディア)があって、かつての香港のように中国の統治が及ばない国際都市でした。東洋のパリとも言われ、かなり繁栄したようです。
>1937年(昭和12年)7月7日の盧溝橋事件を発端に、同月28日に至り日中両軍は華北において衝突状態に入った(北支事変)。
停戦したり事件が起こったり派兵したり一触即発の状態でしたが、本格的な攻撃の開始は中国が始めています。日本は事態の不拡大の政府方針通りだったと見ていいでしょう。挑発にのらない日本に痺れを切らした中国がついに決断したのではないかと思います。それでも中国は宣戦布告などしていませんし、宣戦布告なしの開戦を認めた訳でもありません。
>8月12日未明、中国正規軍本隊が上海まで前進、中国軍の屈指の精鋭部隊である第87師、第88師などの約3万人が国際共同租界の日本人区域を包囲した。日本軍の上陸に備えて揚子江の呉淞鎮と宝山にも約1千名を配置した。
>対する日本軍は、上海陸戦隊2200、漢口から引き揚げてきた特別陸戦隊300、呉と佐世保から送られた特別陸戦隊1200、出雲の陸戦隊200、他320の計4千人あまりであった。
>8月19日以降も中国軍の激しい攻撃は続いたが、特別陸戦隊は10倍ほどの精鋭を相手に、大損害を出しながらも、租界の日本側の拠点を死守した。蒋介石は後日、「緒戦の1週目、全力で上海の敵軍を消滅することができなかった」と悔やんだ。
戦争を仕掛ける側が圧倒的に有利な状況にあるのは当然のことです。当然真珠湾攻撃そのものは成功しましたが、日本はアメリカにボコボコにされています。中国は圧倒的に優位な状況で戦争を仕掛けたにも関わらず緒戦から敗北してしまいます(だからウッカリすると日本が攻撃したとか、どっちもどっち式のデマが流れることになります)。ですが、最終的には中国は日本に勝ったことになります。日本がアメリカに負けたことによる棚ボタではありますが、日本が広い国土を攻め切れなかったというのもあります。ドイツもソ連を落とせませんでしたが、広い国は厄介なところがあります。中国は援蒋ルートで英米ソの支援もありました。ソ連もアメリカの支援を受けていたようです。アメリカは今も強いですが、当時も滅茶苦茶強かったということでもあります。戦争中に自分から参戦できなかったのですから、もしも日独が中ソを落とせていれば、アメリカから開戦することは無かったような気がしないでもありません。
>937年8月31日の『ニューヨーク・タイムズ』では一連の事件について「日本軍は敵の挑発の下で最大限に抑制した態度を示し、数日の間だけでも全ての日本軍上陸部隊を兵営の中から一歩も出させなかった。ただしそれによって日本人の生命と財産を幾分危険にさらしたのではあるが…」と上海特派員によって報じた。1937年10月7日の『シドニー・モーニング・ヘラルド』は「(居留民を)保護するための日本軍は増援を含めて4千だけであった。…ドイツの訓練を受けた部隊から徴用された2~3万の中国軍と向かい合って攻勢を開くだろうとは信じ難い」とする。 また、『ニューヨーク・ヘラルドトリビューン(英語版)』は9月16日に「中国軍が上海地域で戦闘を無理強いしてきたのは疑う余地は無い」と報じた。
別に歴史を修正する意図はありません。寧ろ当時日本が戦争を仕掛けたと見る外国勢は(恐らく)いなかったのであって、中国がこうした過去の歴史を修正しているように見えます。日中戦争で戦争を停止する試みもあったようですが、この記事の目的と異なりますので、深入りはしません。結局は日本は事態の不拡大方針にも関わらず戦争を止められず、泥沼に入ってアメリカと戦い終戦を迎えます。アジアにおける第二次世界大戦のスタートを中国に見るなら、開戦を決断し実行したのは中国であると事実を指摘するのみです。日本がその辺に気を使わず事態を曖昧にしてきたことも悪いのですが、盧溝橋事件のような取るに足りない小さな事件に着目して、歴史の大きな流れを見失うべきではありません。
中国は最近こういうことに気付いてきたフシがあります。
「抗日戦争は満州事変から」 中国教育省が教材改訂指示(朝日新聞 2017年1月12日00時24分)
どうしても日本から攻撃してきたことにしたいようですが、満州事変は満州国の建国を持って切れているので、無理がある見方だと思います。まぁ近現代において、「中国人の土地」に先に進入したのは日本かもしれませんが、満州は歴史的に満州人の土地で、漢民族が入ったのは清代以降(それも長年移住は禁止されてきた)に過ぎません。人口の問題もあって、漢民族の土地になったていもありますが、中国人自身も含めて少しでも東アジアの知識がある人であそこが漢民族の土地だったと思っている人はいないと思います。そもそも中国に進出したのは欧米列強も同じで、日本は欧米列強の侵略を何とか跳ね返しましたが、そういう複雑な事情が当時にはあります。いずれにせよ、広く戦争をとろうと思えば広くとれると思いますが、満州事変(1931~
中国が最近言い出したところの抗日戦争の発端満州事変は、日本の謀略による侵略と思います。アメリカもトンキン湾事件を捏造して、ベトナム戦争を仕掛けたということがあったような気がします。まぁ中国には中国の言い分があると思いますが、嘘をついたらいけません。国際社会を騙そうとするのは止めて欲しいですね。アメリカという国も分かってか分からいでか、アジアを良く知らずに中国(韓国)に騙されるところがあるんじゃないですか。戦前日本は台頭するアメリカファクターを重視することが出来ず、敗戦に至ったような気がしますが、中国(韓国)並みといかないまでも、アメリカ世論を軽視して、同様の敗北を繰り返さないで欲しいですね。別に自分の歴史を都合よく解釈しろとも言いませんが、相手の主張で当時の文脈と違うものは資料を見れば分かるでしょうから、相手の修正を止めさせることぐらいは敗戦国でもできるんじゃないでしょうかね。歴史資料(ウィキペディア)を歴史学における資料批判を通じて常識的な解釈をしていただければ、少なくとも筆者が文句を言うことはありません。聞いてますか?中国さん、韓国さん(笑)。
今度は中国の台頭だろと思うそこのあなた!筆者とは相容れない見解のようですね。健闘を祈ります(笑)。
※なお、日中戦争が中国の開戦だというのは筆者が独自に考えたアイディアではありません。筆者が知る範囲では一度だけ会ったことがあるある人(分かる人は分かると思いますが、事情があって名前はあえて出さないでおきます)が言い出したことです。あの国のその筋の人の間では結構周知の事実なのかどうかは知りません。この記事はその着想を元に筆者がNewsweek記事を読んで独自に肉付けしたものです。