歴史というのも勿論様々なファクターが複雑に絡み合うものであり、例えば唯物史観のような単純なものの見方をするべきではないと筆者は思いますが、それでも大づかみで何故日米が戦争に至り日本は完敗したのかを考えることは、歴史の教訓を引き出す上で無駄ではないだろうと思います。日本は真珠湾攻撃で奇襲開戦したものの、その後は健闘むなしくコテンパンにやられています。日中戦争以降、アメリカは援蒋ルートで事実上の敵国だったと思いますが、通説的な理解だと南部仏印進駐で石油禁輸が実行されたことにより、日本は対米戦を決断したという流れになります。ただ、事前に対日石油禁輸の可能性を警告され報告もされた上で、それを無視して南部仏印進駐したということですから、石油禁輸は寝耳に水の話ではなかったのではないかとも考えられなくもありません。蘭印作戦当時の蘭印の石油の年間生産量は日本の年需要量を上回っていたようです。関係悪化を口実に蘭印作戦を行い占領すれば石油禁輸をされてもお釣りがきます。こう考えると当時の日本が意外に合理的に動いたとも考えられますが、良く分からないのは何故蘭印作戦だけに止めなかったかです。蘭印だけで足りない資源があったか、日本が支配する地域(中国など占領していました)全体の需要を満たせなかったから、ジリ貧が見えていた可能性もあります(石油が無くなってから戦争を仕掛けられたらボロ負け確実です)。あるいは既にアメリカが事実上の敵国であったこと、同盟国ドイツとも大西洋の戦いなどアメリカは事実上の敵国であったことから、アメリカからの開戦が避けられないと見た可能性もあります。実際には日本が開戦を決断したのですから、日本(やドイツ)がアメリカに戦争を仕掛けなかったらアメリカの本格的参戦はあったのだろうかという疑問なしではありませんが、第一次大戦でアメリカは参戦したのだから、いずれ参戦するが当時の認識だったのかもしれません。いずれにせよ、日中戦争の時点で既にアメリカと間接的に戦争状態だったと見ることもできますから、何故そこまで険悪な状態になっていたかを見なければなりません。
日米関係史の始まりは一般にペリー来航だと思いますがそれはさておきます。アメリカのアジア進出はペリー以降もそれほどではなく、明治期アジアにおいてより存在感があったのは、イギリスだったと思います。日英同盟・日露戦争がありましたし、イギリスは中国とも戦争しています。日露戦争後にアメリカ大使館の襲撃もあったようで、それによる関係悪化も考えられますが、第一次大戦やシベリア出兵で日米は同じ陣営に属しましたから、決定的なものであったとは考えにくいところです。
やはり日中戦争を見るなら満州事変を見ないと分からないところがあると思いますが、かと言って=日本が先制攻撃で悪いと日本が見る必要はないと思います。日本には日本の言い分があります。
満州事変(ウィキペディア)
>中国は清朝時代の1902年の英清通商航海条約改正交渉より、領事裁判権の撤廃や関税自主権の回復など国権の回復に着手しており、中華民国蒋介石派は1919年7月のカラハン宣言以降、急速に共産主義勢力に接近し、国家継承における条約継承否定説を採用し、日本との過去の条約(日清間の諸条約)の無効を主張しはじめた。とくに第二次北伐に着手中の1928年7月19日には日清通商航海条約の破毀を一方的に宣言し、これに対して日本政府はその宣言の無効を主張した。
>また1915年のいわゆる対華21カ条要求をめぐる外交交渉のさい対日制裁として発布された懲弁国賊条例はこの交渉で締約した2条約13公文に完全に違背する条例であったが、1929年に強化され「土地盗売厳禁条例」「商租禁止令」などおよそ59の追加法令となり、日本人に対する土地・家屋の商租禁止と従前に貸借している土地・家屋の回収が図られた。間島や満洲各地の朝鮮系を中心とした日本人居住者は立ち退きを強要されあるいは迫害された。このことは満洲事変の大きな要因となる。
欧米との不平等条約の改正問題で穏健かつ漸進的に交渉を積み重ねた優等生的な日本と違い、中国は日本をターゲットに暴力的かつ急進的な手法で条約改正を迫りました(
条約改正(ウィキペディア))(欧米列強に対抗すると結束されるから人種が違う日本をターゲットにしたのかもしれませんし、歴史的経緯から下に見ていた日本に負けた屈辱感から日本をターゲットにしたのかもしれません)。明治維新以降当初の日本の
アジア主義(ウィキペディア)(>欧米列強の脅威の排除とアジアとの連帯を目指した主張)は中国・朝鮮と提携を目指していました。これが日清戦争・日露戦争の勝利を経て強い日本を盟主とする新秩序を目指すものに変わっていきます。日本としては中国や朝鮮に支援してやったという意識があったんだと思います(例えば
和製漢語(ウィキペディア)>和製漢語は特に近代以降、中国に逆輸出されたものも少なくない。中国が近代化を遂げる過程で、特に日清・日露戦争前後に、中国人留学生によって日本語の書物が多く翻訳されたことが大きいともされる。中国語になった和製漢語の例として、「意識」、「右翼」、「運動」、「階級」、「共産主義」、「共和」、「左翼」、「失恋」、「進化」、「接吻」、「唯物論」など種々の語がある。中国でも自ら西洋語の翻訳を試み、華製新漢語なるものを作り出していた。しばしば和製漢語と競合するようになることもあった。>「中華人民共和国」の「人民」「共和国」も和製漢語であり、国名だけでなく中国の体制に必要不可欠な概念までも和製漢語には含まれている>こうして日本人により作られた大量の漢語が中国のなかに入ったことに対し、賛成する中国人もあれば、強烈に抵抗を唱える人もあった。>梁啓超、孫文、魯迅、毛沢東などは賛成派であった)。それが戦争で勝つことにより日本がリーダーでいいだろうという意識が強くなり、大国でかつて日本の先生だった中国のプライドを傷つけていたのかもしれません。抗日にはそうした背景があったと思います。日本としては何とか欧米列強に吞みこまれないよう必死だったし、清は改革が遅れ隣国で利害が対立する国だったから衝突しましたし、日露戦争で特には協力できた訳でもありません(日露戦争で日本側に立ったのが英米でロシア側に立ったのが仏独です。清や朝鮮は保険をかけてどちらにも協力したようです。勿論同じ人がどちらにも協力した事例はあまりないと思いますが、日和見で一部の人が見返りを求めてそれぞれ異なる外国勢力に近づいたと見るべきでしょう。これは国内事情ですが、日本でも古来武士は親兄弟分かれて異なる勢力について戦争を行うことは珍しくありませんでした。家を残すための保険です。ずっと英米と連携していたらアメリカとの開戦は無かったでしょうが、日英同盟は解消され結果的に日本と英米は戦争に至ります。ドイツとは対立が多かったですが、義和団の乱では同じ陣営でした。フランスとは第一次大戦・シベリア出兵で同じ陣営です。いずれにせよ、何処かと協力したらずっと一緒というナイーブな世界ではなかったと思います。日英同盟を継続していたらどうにかなったかもしれませんが、日米は対立することも多くなり結局は破局に至ります)。日本は歴史の自然な流れでアジアのリーダー意識を強めたと思いますが、中国・朝鮮は歴史的経緯で日本に対抗意識があり抵抗運動があったと思います。支援してやったのに(特に朝鮮には)逆らっているという意識が日本にはあるでしょう。ですが、特に日本には中国・朝鮮を差別する政策はありませんでした。日本=悪魔の図式は大体プロパガンダだと思います。日本も勿論完璧ではありませんが、当時の国際社会の中では大筋優等生的にふるまったはずです(軍人の暴走を抑えられなかったことや(結局武士の国だったのでしょう)、鉄拳制裁などの下のものに対する厳しい躾が「平等に」外国人に向いて恨まれた可能性はあると思います)。にも関わらず、自分達がやってきたことと同じことが出来ず、(日本から見て)暴走した中国に対する制裁意識が満州事変に繋がったと思えます。当時の日本人は中国・朝鮮に悪さしたとは思ってなかったでしょうし、筆者から見ても当時としては然したる問題も無かったように思えます。これは欧米列強に対してもそうでした。反省点としては、日本がアジアにおいて強くなり過ぎたことによって、欧米列強の警戒心が高まり対抗馬(中国)を支援し始めることまで計算に入れられなかったことではないかと思います。三国干渉など煮え湯を飲まされた経緯はあってそれが分からないということは無かったはずですが、それが欧米何するものぞ我々こそがと悪い方向に行ったかもしれません。結局のところ、日本は長らく武士が支配する国で明治維新も武士が起こした革命でした。島国ですし、外交・政治がそれほど得意でもなく、武士の論理に限界があったということではないかと思います。下のもの(軍人)が暴走したのも、武断的な価値観を上層部が貫徹しないできないことによる反発があって、それに同調する国民がいたからではないかと思います。国民性を言い始めることは決定論に繋がり日本は悪くなかった=無謬だったという結論になりかねません。筆者の意図はそうではなく、当時日本では主流でなかったしなれなかった場合もあるかもしれませんが、こう考えこう動くことができれば破局は防げたのではないかと想定し教訓を引き出していくことです。良いところを活かすにしても(それが保守の立場と思っています)、悪いところを改善したり学んだりすることを否定する必要はないのですから。
>1902年の日英同盟の締結を期に、ロシアは満洲から撤兵を開始するが、日本を軽視し全兵力の撤兵は行わなかった。日本では対露強硬論が噴出し、また韓国、満洲の利益に関する日露外交交渉は決裂、1904年には日露戦争が勃発し。1905年、この戦争に勝利した日本はロシアとの間にポーツマス条約を締結した。これにより、日本は、東清鉄道の内、旅順-長春間の南満洲支線と、付属地の炭鉱の租借権、関東洲の租借権などを獲得した。この規定に基づいて、12月、日清間でロシア権益の継承に加えて併行する鉄道新設の禁止などを定めた満洲善後条約が締結され、1906年6月7日の勅令第142号をもって1906年11月26日に南満洲鉄道が設立された。以降、南満洲鉄道を柱とする満洲経営権益は日本の重大な課題となった。鉄道守備隊はのちに関東軍となった。一方で、日本は、1905年10月、満洲軍総司令官下に関東総督府を設置し軍政を敷いた。これに清が抗議し、日本の門戸閉鎖に英米が反発し、1906年3月に満洲の門戸開放を迫ったため、日本は満洲開放の方針を確認し、同年7月31日の勅令196号をもって、関東総督府が関東都督府として改組された。
一般には栄光の歴史として語られる日露戦争ですが(筆者も評価しますが)、マイナス面も意識されていいと思います。戦費は莫大でしたし、戦果はそれほどなく暴動が起きましたし、自衛と言ったところで、ロシアはある程度撤兵していて何処まで野心があったか不確かなところがあるのではないでしょうか?防衛戦の方がコスト安で守りきれた可能性があると思います。如何せん極東はロシアの本拠地から遠すぎました。満州に根拠地をつくられないよう適度に邪魔をするという戦略も有りえたように思えます。ロシアは倒れ結果的にソ連が生まれています。勿論アジアの小国日本が欧米列強の一角の大国を倒したというのは快挙でした。当時の別の大国英米の協力もありましたし、兎も角日露戦争に勝って良かったとして考えます。英米は協力しましたし、英米の反発を容れるのは分かります。それに対する国民の不満をどうにかできなかったかという考え方は有り得ると思いますが、この辺では明治維新に功があった元老支配で抑えられていたのでしょう。後に軍部が暴走し始めるのは、元老に代わる権威が政治家に無かったからだと思います。権威を言うと何か欧米で嫌われるところもある権威主義のようですが、欧米と異なり日本の借り物の民主主義には権威が無かったと思います。今でもそうした傾向は無きにしもあらずですね。米軍もいますし、暴走は有り得ないと思いますが、潜在的な体質は変わっていないところがあるようにも思えます。今から考えると、当時の事情を国民に説明していたら元老達がそう判断したようにどうにかなったと考えられなくもありませんが、戦争のマイナス面を強調したら一般国民がついてこなかった可能性が高いとも考えられます。大津事件で恐露病のイメージが当時あったはずです。戦争をするなら吞んでかかる必要はあるでしょう。大体が明治維新を成し遂げた雄藩の一方である薩摩は「議を言な」(理屈を言うな実行しろ)の国だから、説明能力を期待する方がおかしいのかもしれません。いずれにせよ、日露戦争の結果の暴動も日本は抑えてその辺は特には大過なかったようにも思えます。
>1922年、日英米仏の四国公使が中華民国政府に対し財政整理勧告を出した。1923年、鉄道において臨城事件が起こり、多数の英米人が被害を受けたため、英米を中心に列強による鉄道警備管理共同案が議論された。また、中華民国の内政全ての共同管理案も議論されていた。
>この列強による共同管理案は、中華民国広東政府をソ連へと近づけさせ第一次国共合作を始めさせたり、直隷派の北京政府にカラハン協定及び中蘇解決懸案大綱協定を結ばさせる原動力となってしまった。
この辺は第一次大戦~シベリア出兵の流れで考えるべきですね。当時の大国英米との協調はこの辺までは上手くいっていたでしょう(しつこいようですが結局のところアメリカと戦争して敗戦に至ります)。ただ、この辺も後世から見ると無謬ではないと思えます。第一次大戦の(欧州での)惨禍は凄まじく国際社会では厭戦感が広がりました(不戦条約など結ばれました)が、ドイツに対する過酷な賠償がナチズムの台頭を許し、第二次戦後は戦争に勝っても過酷な賠償を要求しないようになったと思います(ソ連との対立の問題もあったでしょう)。第一次大戦でロシアは大きなダメージを受け、景気の反動で起こったとも言われる世界恐慌に力を得て誕生したのがソ連です。当時の日本を含む列強はこれに介入しました。それがシベリア出兵ですが、ほとんど何も成果無く撤兵することになります。日本はほとんど唯一の隣接する大国として(アメリカもアラスカで隣接していると言えなくもないですが)大兵を送ったようですが、成果がでないことに納得いかなかったのか、最後まで粘って領土的野心を疑われたようです。後世から見ると、犠牲を払って成果はでないわ、欧米に疑われるわ、ソ連に恨まれるわ(恐らく)、何もいいことが無かった事件だと思います。粘り強さ・強い意志は日本の美点かもしれませんが、ここでは裏目に出ているような感じがあります。やってみないと分からないにしても、駄目だと判断したらさっと引くような合理性が感じられません。シベリア出兵に踏み切ったのが寺内内閣で、そのシベリア出兵が原因で起こった米騒動の対処に失敗した寺内内閣は倒れ、続く原内閣は英米協調路線に転じたもののシベリア撤兵を実行することはできず、高橋内閣を経て、海軍大将の加藤友三郎内閣においてシベリア出兵の中止が決まります。ここは軍人が無駄な戦争を止めたという形になりますね。後世から考えると中国がソ連に近づいたことは痛手だったかもしれません。叩かれた国の「弱者連合」ではありますが、共に大国です。いずれにせよ、当時の日本の政権は短命政権が続いてシッカリとした外交ができる状況ではありませんでした。
>関東軍は、地元の親日派軍閥長である張作霖に軍事顧問団を送り、取り込みを図った。しかし、張作霖が排日運動の高まりや欧米からの支援をとりつけようと日本との距離を置き、海外資本の提供をうけて、いわゆる満鉄の並行線を建設し始めると、両者の関係は悪化した。1928年(昭和3年)6月4日、関東軍は張作霖が乗る列車を秘密裏に爆破し、殺害した(張作霖爆殺事件)。事件を首謀した河本大作大佐は、予備役に回される軽い処分とされた。田中義一内閣はこの事件処理をめぐり昭和天皇から不興を買ったことにより、翌年7月になって総辞職に追い込まれた。
日本の失敗の最初のきっかけは張作霖爆殺事件だったかもしれません。明らかな軍の暴走でしたが軽い処分でこれが後の2.26事件など軍の暴走傾向を加速させた印象があります。支配を引き継いだ息子の張学良は柳条湖事件(日本の自演でした)に始まる満州事変で不抵抗を指示して日本の侵略をアシストした形になりますが、これは蒋介石の指示でもあったようです。日本がズルズル事態を拡大させると思わなかったんでしょう。アメリカのスティムソン談話を無視する形になって、関係はドンドンこじれていきます。結局満州国は建設され事態は拡大し、塘沽協定を持って戦争は治まることになりますが、こうした経緯で中国とアメリカを同時に敵に回したことが後の破局に繋がったとしか考えられません。国際連携も総スカンに近い形で脱退することになります。味方の少ない日本はあぶれもの同士でくっつく形になります。当時の日本はこの程度のことも分からなかったんでしょう。あまりに武に偏り過ぎている印象です。そういう意味で中国やアメリカの言い分に理解できるところはありますし、筆者も満州事変について批判的ですが、日本の言い分も(支持しませんが)分かります。
>張学良は、満鉄の付属地に柵をめぐらし、通行口には監視所を設けて、大連から入ってきた商品には輸入税を支払っているにもかかわらず、付属地から持ち出す物品には税金をとった。さらに「盗売国土懲罰令」を制定し、日本人や朝鮮人に土地を貸したり売ったりした者を、国土盗売者として処罰した。多数の朝鮮人農民が土地を奪われ、抵抗した者は監獄に入れられた。満洲事変直後、奉天監獄には530人の朝鮮人が入れられていたという。そのうえ、林業、鉱業、商業などの日本人の企業は、日露戦争後の日清善後条約で、正当な許可をえたものは、満鉄付属地外でも営業できることになっていたが、昭和5、6年には、一方的な許可取り消しや警察による事業妨害のために、経営不振が続出した。奉天総領事から遼寧省政府に交渉しても、外交権はないので南京政府の外交部に直接交渉するようにと相手にされなかった。外務省を通じて南京総領事が南京政府に交渉しても、いつまでたっても音沙汰なしであった。満洲事変前には、このような日中懸案が370件あまりあった。危機感を抱いた関東軍は、再三に渡り交渉するが聞き入れられなかった。これにより関東軍の幹部は、本国に諮ることなく、満洲の地域自決・民族自決にもとづく分離独立を計画した。
結局のところ張作霖も張学良も日本を満足させることができず、日本から見ると暴走しています。自分達の土地という意識だったのでしょうが、漢民族は新参で本来満州において余所者に過ぎません。張作霖というのも馬賊の頭目あがりで、所詮はならず者に過ぎません。満州を大きな犠牲を払ってロシアから解放したのは日本という意識が日本にはあったでしょう。中国人はほとんど指をくわえて見ていただけであがりを掠め取った存在です。当然日本が権益を確保して然るべきと思っていたでしょうが、その結果アメリカなどの軍閥支援にイラついていたと思います。そこで我慢ができなかったのが誤りだったでしょう。アメリカを説得し協調路線をとるか、あまり無茶をせず国際社会の反発を大きく招かないように行動すべきだったとしか思えません。リットン調査団の報告書も日本に配慮があったと言われますし、日本が国際社会に受け入れられる言い分で行動できればどうにかなる余地はあったのではないでしょうか?ある程度分かっていた人はいると思いますが(昭和天皇など)、如何せんそうした声は日本では小さくどうにもならなかったということになるんでしょう。やはりそうした反省を元にこれからの政治はつくられていくべきなのだと思います。
簡単に纏めると戦前に無く今も怪しいのは
国際協調路線と国益の確保及び主権者の意志の尊重のバランスですね。国益の確保が無さ過ぎると何のための国だと怒る国民が当然出てきますし、国際協調がないと戦前のように国際社会に総スカン(に近い感じでした)をくらって破局に至ります。戦前の日本に国際協調が無かったとは寧ろ思わないのですが、国益への配慮が無さ過ぎたせいで国民や軍の暴走を止められなかった(その後国際協調路線を切った)のかなという印象ですね。じゃあ俺達がやろうと軍が思って国民もそれを支持した感じだったんでしょう。今の外務省も国際協調路線は寧ろ良くやっている方かもしれませんが、日本は安全保障政策をあまりにやらな過ぎた印象があります。戦前の失敗が頭をよぎるのかもしれませんが、もういいでしょう。別に依存するつもりもありませんが、戦前と違って日本だけが全てでなくなりましたし(米軍もいますし)、安全保障政策はシッカリしていく必要があると思います。軍隊がない世界という念仏を唱えても仕方がありません。隣国は小さくない軍隊を持ちせっせと周囲を侵略しているのですから。また、国民を納得させていく外交も必要でしょう。専門家(外務省)から見たら国民の議論などちゃんちゃらおかしいかもしれませんが、主権者は国民です。主権者をあまりに置き去りにすることは寧ろ危険で、それが戦前の反省でなければならなかったと思います。メンツがある国で反省も難しいかもしれませんが(筆者も納得いかないことで強制されるとイライラする性分ですが)やらなければいけないことなんだろうと思います。