少し遅くなりましたが、新自衛隊論(講談社現代新書 2015年)宮坂直史防衛大学校教授の「国際テロ対策と日本の役割」からの記事「国際テロ対策と日本の役割(1)」「国際テロ対策と日本の役割(2)内部脅威対策」に続く「日本で重視されていない公的検証」の記事を書きます(この記事で宮坂教授のパートに関する言及は終わります)。松本サリン事件が題材です。
>日本には、テロ事件のあとに、なぜそういうことが起きたのか、政府や関係機関の対応はどうだったのかを、第三者が一次資料にアクセスしたり関係者にインタビューしたりできる特別の権限を付与されて、検証し政策提言をした経験がありません。オウム真理教事件もそうでしたし、ペルー日本大使公邸占拠事件(1996~97年)でもそうです。失敗したことを含めいろいろ経験しているのですが、公的な検証が全然なされていないのです。
>1994年の松本サリン事件について言えば、事件そのものを防止するのは、当時の状況からしても難しかったと思います。
>問題はその後にあります。警察や自衛隊の一部は、オウム真理教がサリンを作っていることを把握したのですが、9ヵ月後の1995年3月20日、地下鉄サリン事件を起こされました。松本サリン事件があってから地下鉄サリン事件までの間、日本政府や関係機関はどう対応したのかとか、メディアはどうだったのか、一般の日本人は何を考えていたのか、そういうことがきちんと第三者委員会(あるいは独立調査委員会)によって検証されていません。
松本サリン事件はテロ事件であると共に、冤罪事件・報道被害事件でもありますが、筆者はこの時未成年でしたが、報道と同じ論調で、河野義行(ウィキペディア)さんが犯人に違いないと思った大勢の内の一人だったんですよね。>1994年(平成6年)6月27日夜に発生した松本サリン事件に際して事件の第一通報者となった。警察から事件への関与が疑われ、長野県警は河野の自宅の家宅捜索を実施した。この捜索において農薬が発見されたことや、「河野宅において不審な煙を見た」との証言があり警察からの嫌疑が深まった。後に証言については虚偽と判明し、また農薬からサリンは合成できないことが判明している。>警察の捜査および情報のリークを受け、地元紙の信濃毎日新聞や主要な全国紙を含め、多くのメディアが河野を犯人と決め付けて扱った。河野やその家族は断続的に長野県警松本警察署からの取り調べを受けたが、有力な証拠が見つからず逮捕されることはなかった。>その後、山梨県の上九一色村(現・富士河口湖町)のオウム施設周辺において不審な証拠が発見され、さらに1995年(平成7年)3月20日に発生した地下鉄サリン事件によって、松本サリン事件もオウム真理教の犯行であることが判明し、河野への疑いは完全に解消された。>捜査当時の国家公安委員長であった野中広務は、長野県警から推定有罪的で執拗な取り調べがあったことなど、度を越していた河野に対してへの行為について直接謝罪したが、マスメディア各社は報道被害を認めて謝罪文を掲載したのみで、本人への直接謝罪は皆無であった。長野県警は遺憾の意を表明したのみで「謝罪というものではない」と公式な謝罪を行わなかった。長野県警本部長が当時の捜査の誤りとそれに起因する河野の被害について謝罪したのは河野が長野県公安委員会に就任して以後のことであった。
分かる人は分かっていたんでしょうが、報道を通じて国民大勢が間違った事件であるがゆえに、検証されることが無かったという側面もあるのではないかと思います。
しかしながら、それが結局地下鉄サリン事件に繋がったことを考えると、何故オウムを野放しにしてしまったのか、国民自身のためにこそ考える必要があると思います。
筆者が何故河野さんが犯人と思ったかというと、知識不足にあるのではないかと思います。理系(名城大学理工学部卒)で農薬が発見されたことなどから、自分で実験中に失敗したように見えたんだと思うんですよね。当時もそうでしたが、神経ガスによるテロなど考えられず(オウムが起こした事件以外に類似の事件がありません)(北朝鮮がせっせと化学兵器をつくっていることを警戒しなくていいと主張したい訳ではありません)、化学マニアみたいな人の実験失敗みたいな仮説が合理的な説明のように少なくとも筆者には思えました。今から振り返っても真犯人(オウム真理教・麻原彰晃)の松本サリン事件の意図は分かり難いところがあります。裁判の邪魔をしたかったとか、敗訴の可能性は低かったから実験だとか言われているようですが、河野さんはまったくのとばっちりですし、省庁制を持つ荒唐無稽な宗教団体(ただし省庁制を持ったのは松本サリン事件と同日だそうです)がテロの実験をしたとして、その先に日本国打倒を目指していたのかどうなのか知りませんが、こんな空前絶後の事件をやはり想像することは難しかったんだろうと思います。
かと言って仕方ないで済ませるつもりもありません。宮坂教授も指摘しているように、事件を振り返ってみても、中々松本サリン事件を防ぐことは難しかったとは思いますが、技術的に個人がサリンをつくることは有り得ないという一部の専門家の指摘はあったこと踏まえ(残念ながら筆者の記憶にはありません)、原因が良く分からないのですから、「松本サリン事件に関する一考察」という怪文書をもうちょっと真剣に検討していれば、地下鉄サリン事件の方は何とかなったのかもしれません。松本サリン事件後、読売新聞が一面で上九一色村でサリン残留物が検出されたとスクープしていますし、銃の密造がバレて警察の捜査も入っています。オウムが何もしなければ、いずれは警察がオウムを潰したのかもしれませんが、そうなる前に逆にオウムが暴走して事件を起こしてしまったという形です。これは勿論テロ集団を野放しにしていいという意味ではありません。話は逆でビシッと怪しい集団をマークすることができれば、事件は未然に防止できたと考えるべきでしょう。今にして思えば、松本サリン事件があって、読売のスクープがあった時点で一般でもほぼオウムが真っ黒だと認定できたように思います。この辺は河野さんの冤罪問題があったがゆえに適切な警戒ができなかったのかもしれません。推定無罪の考えは大切でしょうが、怪しいものは怪しいと決め付けなければ、犯罪者・犯罪集団の暴走を防ぐことは難しいのもまた真理でしょう。別に無茶な捜査をしろと言っている訳ではありません。人員を割いて徹底監視・徹底マークできていれば、オウムとて暴走のしようが無かったはずです。通常ではつくりえない毒ガスが実際に使用されたということは、通常ではありえない能力を持つ犯罪者・犯罪者集団がいるということに他なりません。
一連の事件の教訓は、化学兵器の研究・知識は必要であること(実際に化学兵器を持てとまでは言いませんが)、専門家の技術的な話は重んじること、化学兵器の製造を防ぐ技術的取り組みを重視すること(材料の入手をマークしていれば、同様の事件を起こしにくくなることは明らかです)、製造知識の頒布をチェックすること、監視の実効手段を強めること(裁判所が許可すれば怪しい集団に盗聴器を仕掛けて監視することが考えられます。そうできれば、オウムが地下鉄サリン事件を起こす前に逮捕できたかもしれません)、テロ等準備罪で事前に捕まえてしまうことなど考えられるのではないでしょうか?オウムは違法薬物を使用していましたから、その線で攻めることもできたかもしれません。
オウムの荒唐無稽な側面は後から見れば、有名な怪しい選挙活動でも分かるのではないかと思います。
また、松本サリン事件の証言は後に虚偽であることが判明していますが、偽証罪の積極運用・厳罰化による抑止は考えられていいのではないかと思います。
偽証の罪(ウィキペディア)
>裁判員制度の開始に合わせて、検察は偽証罪の積極的な適用を進めているとされる。プロの裁判官とは違って、裁判員が嘘の証言を見破るのは容易ではなく、法廷での証言は真実という前提でなければ、裁判員制度の根幹が揺らぎかねないからである。今まで、適用例が少なかったのは、偽証の多くは客観的な証拠が少なく、捜査に手間がかかる上、偽証があっても有罪判決が出れば、問題にしないこともあったからだといわれる
>一方で、2006年(平成18年)8月、強制わいせつ罪の容疑で起訴された長男の公判で「虚偽の証言をした」として、さいたま市の夫婦が偽証容疑で逮捕されたが、夫婦は検事から「刑務所に送ってやる。獄中死しろ」「人間の屑だ」などと暴言を吐かれ、結局、妻は無罪、夫は起訴猶予処分となった。夫婦は2009年(平成21年)8月7日、日本国政府を相手取って770万円の損害賠償を求める裁判を起こした。夫婦の弁護団は、検察が裁判員裁判に向けて偽証罪を積極的に摘発していること、検察と違う証言をすると逮捕される危険性を孕んでいることを指摘している。
元検察政治家がシャアシャアと自演して嘘を吐きまくるような世の中ですから(推定無罪じゃなくて申し訳ありませんが)、検察を何処まで信用していいのかそういう問題もあるのかもしれませんが、一般に物証→人証、他人の証言→家族・親族・友人の証言という図式は成り立ちますから、証言が真正のものか偽証か分からない段階であっても、親の証言を軽いものとして見ない検察に問題があったんだろうと思いますし、そういう認識で社会や司法が対応していけば、検察の暴走は防いでいけるんだろうと思います。
松本サリン事件で偽証した人がいかなる理由でそうしたのか、あるいは何気なしに思い込みで言ってしまったのか知りませんが、故意でないとすれば(分かりませんが)、人の記憶とはいい加減なもので、証言の取り扱いには注意すべきなんだろうと思います。
偽証の罪には主観説と客観説の対立があるようです。松本サリン事件の場合を考えると、主観説であっても客観説であっても、結果的に事実でない証言を本人が事実と信じて証言したケースでは無罪となり、故意に事実でない証言をした場合では有罪になるようであり、一見記憶に反する証言を罪とする主観説の方が分かり易くて良い印象がありますが、記憶に反しているかどうかをどう立証することを考えると客観説の方が優位にある印象があります。サリンが河野さんがつくれないと客観的に認定される時、煙を見たという証言は怪しいということになりますが、いや見たんだと「犯人」が言い張った時、あるいは誤解だったとあくまで主張した時、嘘をついている/ついていないをどう判定するかの問題です。心が読める機械がある訳ではないので、主観説だと偽証の罪を立証するのが難しくなってしまい、運用されないということになるのではないですか?今は主観説の方が有力であるようであり、その結果運用されていないということかもしれません。客観説ならまず事実に反していることが認定されればひとまず罪だと断定できます。後は故意が阻却されるかどうかですが、河野さんに恨みがあるというケースや証言者にオウムを擁護する理由があるケースでは阻却せず、そうでないケースでは阻却すればシンプルです。知らずにやったら許されるのが罷り通るのも疑問ですが(皆「記憶に無い」を連発するでしょう)、人間の記憶の曖昧性を考えると事実と違ったからと言って一々全部ブタ箱に入れていると、刑務所が幾つあっても足りません。事実と違った時点で罪とし、嘘を吐く理由があると客観的に判定される場合は、本人が何と言ってもブタ箱に入れればいい訳です。事実と違った時点で罪ですから。親・友人の偽証の場合は情状酌量の余地があるとして罪を軽くしたり、虚言癖のある人物や怨恨犯やオウムの犯行を誤魔化すといったような悪質なケースでは情状酌量しなければいいと考えられます。偽証罪の時効は7年ですから、オウムの問題が明らかになって、事件の全貌が明らかになってから立件しても遅くはありません。参考:1 偽証罪(169条)(司法試験用 刑事法 対策室)
以上ですが(投稿日時が9日夜になっていますが、主観説と客観説を検討している間に寝てしまいました。その部分だけ10日朝に考え朝に投稿しています)、筆者も素人ですし、宮坂教授が挙げるもうひとつの事件「在ペルー日本大使公邸占拠事件」の方は(知っていはいますし、確認しましたが)はどういう検証があるべきだったのか特に良く分かりません。いずれにせよ、そうそう回数がある訳ではない重大事件に関しては、専門的知見を踏まえた公的検証が重要ではないかと思います。十分な経験を積むのを待つ訳にもいきませんし、何もせずに同様の事件を繰り返される訳にもいきません。
>日本には、テロ事件のあとに、なぜそういうことが起きたのか、政府や関係機関の対応はどうだったのかを、第三者が一次資料にアクセスしたり関係者にインタビューしたりできる特別の権限を付与されて、検証し政策提言をした経験がありません。オウム真理教事件もそうでしたし、ペルー日本大使公邸占拠事件(1996~97年)でもそうです。失敗したことを含めいろいろ経験しているのですが、公的な検証が全然なされていないのです。
>1994年の松本サリン事件について言えば、事件そのものを防止するのは、当時の状況からしても難しかったと思います。
>問題はその後にあります。警察や自衛隊の一部は、オウム真理教がサリンを作っていることを把握したのですが、9ヵ月後の1995年3月20日、地下鉄サリン事件を起こされました。松本サリン事件があってから地下鉄サリン事件までの間、日本政府や関係機関はどう対応したのかとか、メディアはどうだったのか、一般の日本人は何を考えていたのか、そういうことがきちんと第三者委員会(あるいは独立調査委員会)によって検証されていません。
松本サリン事件はテロ事件であると共に、冤罪事件・報道被害事件でもありますが、筆者はこの時未成年でしたが、報道と同じ論調で、河野義行(ウィキペディア)さんが犯人に違いないと思った大勢の内の一人だったんですよね。>1994年(平成6年)6月27日夜に発生した松本サリン事件に際して事件の第一通報者となった。警察から事件への関与が疑われ、長野県警は河野の自宅の家宅捜索を実施した。この捜索において農薬が発見されたことや、「河野宅において不審な煙を見た」との証言があり警察からの嫌疑が深まった。後に証言については虚偽と判明し、また農薬からサリンは合成できないことが判明している。>警察の捜査および情報のリークを受け、地元紙の信濃毎日新聞や主要な全国紙を含め、多くのメディアが河野を犯人と決め付けて扱った。河野やその家族は断続的に長野県警松本警察署からの取り調べを受けたが、有力な証拠が見つからず逮捕されることはなかった。>その後、山梨県の上九一色村(現・富士河口湖町)のオウム施設周辺において不審な証拠が発見され、さらに1995年(平成7年)3月20日に発生した地下鉄サリン事件によって、松本サリン事件もオウム真理教の犯行であることが判明し、河野への疑いは完全に解消された。>捜査当時の国家公安委員長であった野中広務は、長野県警から推定有罪的で執拗な取り調べがあったことなど、度を越していた河野に対してへの行為について直接謝罪したが、マスメディア各社は報道被害を認めて謝罪文を掲載したのみで、本人への直接謝罪は皆無であった。長野県警は遺憾の意を表明したのみで「謝罪というものではない」と公式な謝罪を行わなかった。長野県警本部長が当時の捜査の誤りとそれに起因する河野の被害について謝罪したのは河野が長野県公安委員会に就任して以後のことであった。
分かる人は分かっていたんでしょうが、報道を通じて国民大勢が間違った事件であるがゆえに、検証されることが無かったという側面もあるのではないかと思います。
しかしながら、それが結局地下鉄サリン事件に繋がったことを考えると、何故オウムを野放しにしてしまったのか、国民自身のためにこそ考える必要があると思います。
筆者が何故河野さんが犯人と思ったかというと、知識不足にあるのではないかと思います。理系(名城大学理工学部卒)で農薬が発見されたことなどから、自分で実験中に失敗したように見えたんだと思うんですよね。当時もそうでしたが、神経ガスによるテロなど考えられず(オウムが起こした事件以外に類似の事件がありません)(北朝鮮がせっせと化学兵器をつくっていることを警戒しなくていいと主張したい訳ではありません)、化学マニアみたいな人の実験失敗みたいな仮説が合理的な説明のように少なくとも筆者には思えました。今から振り返っても真犯人(オウム真理教・麻原彰晃)の松本サリン事件の意図は分かり難いところがあります。裁判の邪魔をしたかったとか、敗訴の可能性は低かったから実験だとか言われているようですが、河野さんはまったくのとばっちりですし、省庁制を持つ荒唐無稽な宗教団体(ただし省庁制を持ったのは松本サリン事件と同日だそうです)がテロの実験をしたとして、その先に日本国打倒を目指していたのかどうなのか知りませんが、こんな空前絶後の事件をやはり想像することは難しかったんだろうと思います。
かと言って仕方ないで済ませるつもりもありません。宮坂教授も指摘しているように、事件を振り返ってみても、中々松本サリン事件を防ぐことは難しかったとは思いますが、技術的に個人がサリンをつくることは有り得ないという一部の専門家の指摘はあったこと踏まえ(残念ながら筆者の記憶にはありません)、原因が良く分からないのですから、「松本サリン事件に関する一考察」という怪文書をもうちょっと真剣に検討していれば、地下鉄サリン事件の方は何とかなったのかもしれません。松本サリン事件後、読売新聞が一面で上九一色村でサリン残留物が検出されたとスクープしていますし、銃の密造がバレて警察の捜査も入っています。オウムが何もしなければ、いずれは警察がオウムを潰したのかもしれませんが、そうなる前に逆にオウムが暴走して事件を起こしてしまったという形です。これは勿論テロ集団を野放しにしていいという意味ではありません。話は逆でビシッと怪しい集団をマークすることができれば、事件は未然に防止できたと考えるべきでしょう。今にして思えば、松本サリン事件があって、読売のスクープがあった時点で一般でもほぼオウムが真っ黒だと認定できたように思います。この辺は河野さんの冤罪問題があったがゆえに適切な警戒ができなかったのかもしれません。推定無罪の考えは大切でしょうが、怪しいものは怪しいと決め付けなければ、犯罪者・犯罪集団の暴走を防ぐことは難しいのもまた真理でしょう。別に無茶な捜査をしろと言っている訳ではありません。人員を割いて徹底監視・徹底マークできていれば、オウムとて暴走のしようが無かったはずです。通常ではつくりえない毒ガスが実際に使用されたということは、通常ではありえない能力を持つ犯罪者・犯罪者集団がいるということに他なりません。
一連の事件の教訓は、化学兵器の研究・知識は必要であること(実際に化学兵器を持てとまでは言いませんが)、専門家の技術的な話は重んじること、化学兵器の製造を防ぐ技術的取り組みを重視すること(材料の入手をマークしていれば、同様の事件を起こしにくくなることは明らかです)、製造知識の頒布をチェックすること、監視の実効手段を強めること(裁判所が許可すれば怪しい集団に盗聴器を仕掛けて監視することが考えられます。そうできれば、オウムが地下鉄サリン事件を起こす前に逮捕できたかもしれません)、テロ等準備罪で事前に捕まえてしまうことなど考えられるのではないでしょうか?オウムは違法薬物を使用していましたから、その線で攻めることもできたかもしれません。
オウムの荒唐無稽な側面は後から見れば、有名な怪しい選挙活動でも分かるのではないかと思います。
また、松本サリン事件の証言は後に虚偽であることが判明していますが、偽証罪の積極運用・厳罰化による抑止は考えられていいのではないかと思います。
偽証の罪(ウィキペディア)
>裁判員制度の開始に合わせて、検察は偽証罪の積極的な適用を進めているとされる。プロの裁判官とは違って、裁判員が嘘の証言を見破るのは容易ではなく、法廷での証言は真実という前提でなければ、裁判員制度の根幹が揺らぎかねないからである。今まで、適用例が少なかったのは、偽証の多くは客観的な証拠が少なく、捜査に手間がかかる上、偽証があっても有罪判決が出れば、問題にしないこともあったからだといわれる
>一方で、2006年(平成18年)8月、強制わいせつ罪の容疑で起訴された長男の公判で「虚偽の証言をした」として、さいたま市の夫婦が偽証容疑で逮捕されたが、夫婦は検事から「刑務所に送ってやる。獄中死しろ」「人間の屑だ」などと暴言を吐かれ、結局、妻は無罪、夫は起訴猶予処分となった。夫婦は2009年(平成21年)8月7日、日本国政府を相手取って770万円の損害賠償を求める裁判を起こした。夫婦の弁護団は、検察が裁判員裁判に向けて偽証罪を積極的に摘発していること、検察と違う証言をすると逮捕される危険性を孕んでいることを指摘している。
元検察政治家がシャアシャアと自演して嘘を吐きまくるような世の中ですから(推定無罪じゃなくて申し訳ありませんが)、検察を何処まで信用していいのかそういう問題もあるのかもしれませんが、一般に物証→人証、他人の証言→家族・親族・友人の証言という図式は成り立ちますから、証言が真正のものか偽証か分からない段階であっても、親の証言を軽いものとして見ない検察に問題があったんだろうと思いますし、そういう認識で社会や司法が対応していけば、検察の暴走は防いでいけるんだろうと思います。
松本サリン事件で偽証した人がいかなる理由でそうしたのか、あるいは何気なしに思い込みで言ってしまったのか知りませんが、故意でないとすれば(分かりませんが)、人の記憶とはいい加減なもので、証言の取り扱いには注意すべきなんだろうと思います。
偽証の罪には主観説と客観説の対立があるようです。松本サリン事件の場合を考えると、主観説であっても客観説であっても、結果的に事実でない証言を本人が事実と信じて証言したケースでは無罪となり、故意に事実でない証言をした場合では有罪になるようであり、一見記憶に反する証言を罪とする主観説の方が分かり易くて良い印象がありますが、記憶に反しているかどうかをどう立証することを考えると客観説の方が優位にある印象があります。サリンが河野さんがつくれないと客観的に認定される時、煙を見たという証言は怪しいということになりますが、いや見たんだと「犯人」が言い張った時、あるいは誤解だったとあくまで主張した時、嘘をついている/ついていないをどう判定するかの問題です。心が読める機械がある訳ではないので、主観説だと偽証の罪を立証するのが難しくなってしまい、運用されないということになるのではないですか?今は主観説の方が有力であるようであり、その結果運用されていないということかもしれません。客観説ならまず事実に反していることが認定されればひとまず罪だと断定できます。後は故意が阻却されるかどうかですが、河野さんに恨みがあるというケースや証言者にオウムを擁護する理由があるケースでは阻却せず、そうでないケースでは阻却すればシンプルです。知らずにやったら許されるのが罷り通るのも疑問ですが(皆「記憶に無い」を連発するでしょう)、人間の記憶の曖昧性を考えると事実と違ったからと言って一々全部ブタ箱に入れていると、刑務所が幾つあっても足りません。事実と違った時点で罪とし、嘘を吐く理由があると客観的に判定される場合は、本人が何と言ってもブタ箱に入れればいい訳です。事実と違った時点で罪ですから。親・友人の偽証の場合は情状酌量の余地があるとして罪を軽くしたり、虚言癖のある人物や怨恨犯やオウムの犯行を誤魔化すといったような悪質なケースでは情状酌量しなければいいと考えられます。偽証罪の時効は7年ですから、オウムの問題が明らかになって、事件の全貌が明らかになってから立件しても遅くはありません。参考:1 偽証罪(169条)(司法試験用 刑事法 対策室)
以上ですが(投稿日時が9日夜になっていますが、主観説と客観説を検討している間に寝てしまいました。その部分だけ10日朝に考え朝に投稿しています)、筆者も素人ですし、宮坂教授が挙げるもうひとつの事件「在ペルー日本大使公邸占拠事件」の方は(知っていはいますし、確認しましたが)はどういう検証があるべきだったのか特に良く分かりません。いずれにせよ、そうそう回数がある訳ではない重大事件に関しては、専門的知見を踏まえた公的検証が重要ではないかと思います。十分な経験を積むのを待つ訳にもいきませんし、何もせずに同様の事件を繰り返される訳にもいきません。