【手術三日後のノートから (その壱)」
A《「誰のものとも考えられずに共有されている」豊かさ》
障害をもつ子どもが普通学級にいるとき、そこにいる小さな子どもたちの「ありのままを受けとめる能力」は、圧倒的に大人より上だと思います。
それは、他の子どもの気持ちや心情を「受けとめる」(受け入れる)ということではありません。
たとえば、鶴見さんが子どもの言葉について、次のように話しています。
「二歳三歳の子どもは、私があるいはあなたが教えたことを、直に、子どもがこちらにまた教えてくれることがあるでしょう。
そのときに、『それは私が教えたことではないか』っていうふうに子どもに言い返さないほうがいいんです。
つまり、その考えは、その話は、二人の間に共有されているんですから。
二人の間に置かれて、あっちからこっちへ、こっちからあっちにというふうに話が自由に動いているんです。
話しが誰のものとも考えられずに共有されている。
それが旧約聖書の時間(神話的時間)なんです。
そのように話しが誰のものとも知れずやり取りされるんですね。
何時、誰から聞いたっていうことと関わりなく、昔からある話としてやり取りしているわけです。」
(『神話的時間』鶴見俊輔 熊本子どもの本研究会)
今まで、「分からない授業はかわいそう」とか、「その子にあった教育」という言葉に対して、私が「授業という生活」という言葉で表わしたかったことが、ここにあります。
授業という生活のなかで、その考え、その話は、三十人の間に共有されていくのです。
その生活のなかでの出来事は、授業の中身も含めて、「誰のものとも考えられずに共有されている」ものがどれほど豊かな種であることか。
人はどんなに年をとっても、子どものころの同級生の存在は、子どものころのままにあります。
子どものころのクラス会が30年も、50年も、ときに60年もそこここで続いているのは、そのとき、そこにいた仲間の間だけに「共有」された物語があるからでしょう。
◇
B《じいちゃんのこと》
私が学生のころ、じいちゃんの子どものころの話を聞いておこうと思ったことがあります。
すでに亡くなっていた父方の祖父母と母方の祖母とは、ほとんど話をした記憶がありませんでした。母方の「じいちゃん」とも、二人で話しをした記憶もありません。
そこで、ある夏、ふと思い立って、じいちゃんの家を訪ねました。
二人で話すのは、後にも先にもそれきりになりました。
当時、じいちゃんは八十歳くらいだったでしょうか。
じいちゃんの話で鮮明に覚えている話しが二つあります。
一つは、ばあちゃんが亡くなってからの年月を、「あれが死んで○年と○○日が経ったが…」と、約二十年と何百何十何日の数字をふつうに話したことでした。(私は、正確な数字を忘れてしまいました)
その時、じいちゃんの部屋にあった箪笥は、ばあちゃんに買ってあげた初めてのもので、村の共同作業に動員されてもらった十円だったとか…。
じいちゃんがばあちゃんの話をすることなんか聞いたことがないと、母ちゃんが話してた記憶があったので、よけいに新鮮に思えたのかもしれません。
もう一つは、小学校のころのことを質問した時、「そんげの昔んことは、はぁみんな忘れたが…」と言いながら、ふと「同級生ったって、はぁ三人になってしまったが…」とつぶやいたことでした。
「三人になってしまった同級生」という言葉と、そのときのおじいちゃんの懐かしそうな、さびしそうな表情が、いまも残っています。
一人は、すぐ近所にいるらしいのですが、お互いに家にこもってテレビを見ている暮らしなので、「はぁ、話しもできねーが…」という言葉も覚えています。
六才で出会った同級生たちは、言葉にならないすべての記憶を、誰のものとも意識することなく、みんなの間で共有された記憶として、死ぬまで何万回も何万回も思い出したりするのでしょう。
共に生活することとは、個人が漢字をいくつ覚えたということとは別の、大切な言葉で思い出せない共有の記憶を身体と心に刻んでいくことなのだと思います。
◇
C《ただの同級生という宝物》
私は一人の有名な「同級生」のおかげで、「同級生」について誰よりも考えてきたところがあります。
友だちでもなくほとんど話しをしたこともないけれど、同級生が夢に向かう姿が舞台やテレビで目に見えていたから、ずっと気にしながら生きてきました。
途中、彼が白血病になって、やっとつかんだ映画の主役を降りて、しばらく様子がわからない時期がありました。病気が治ってからは、それまで以上にはるかかなたまで夢をつかみに行く姿をみながら、私は自分が自分でいることに勇気をもらってきました。
それは、彼が中学生のころから、私にはない「自信にあふれている姿」にあこがれていたからだと思います。テレビや映画に出るずっと前から、彼が無名のときから、私は誰よりも早く彼のファンの一人でした。
(彼が白血病になり、そこから復活したころ、「かっこいいな~、自分も癌とかになったら、もっと真剣に生きられるのかなー」などと不謹慎なことを思ったこともあります。
だから、今回入院して、あのとき、あんなことを思ったから、三十年近くたって、ほんとに癌になったのかな、とか思ったりしました(・。・;
ここで私が、「同級生」に支えられている感覚は、彼が有名人だからではありません。
小学生の時、「すべての同級生」を失いかけた私にとって、名前も覚えていない同級生たちも含めて、すべての同級生が、私の子ども時代の記憶を宝物にしてくれて、いまも私を支える基盤になっています。
だから、テレビや街角で「彼」を見かけるとき、ふとたくさんの同級生たちの顔や場面を思い出します。何の脈絡もなく、彼とは全く関係のないことだらけです。そのために、彼の出ている映画やテレビは、そのストーリーに入りこめなくて困ります。
「彼」は、「私」がいかに「みんな」と一緒にいたことに、支えられているかを、考えるための象徴なのだと思います。
「分けられかけた私」、そのことに怯えコンプレックスを持っていた「私」と対照的に、子どものころから自信にあふれて堂々としていた彼との対比が、「同級生」という集団の中に暮らすことの意味を考えさせたのだと思います。
「友だち」ではなかったから、誰かに話すこともなかったけれど、彼ががんばっている姿は確かに私のなかで、「共有された学校生活」の記憶を通して、勇気や元気を与えてくれました。
いまも、電車に乗ったとき、「docomo」の文字の横で笑っている彼の顔をみるとほっとします。
◇
D《ともに過ごしてきた時の重なりが理解を超える》
話しを最初に戻します。
普通学級にいる子どもたちの「ありのままを受けとめる能力」。
他の子どもの気持ちや心情を「受けとめる」を超えて、
「話しが誰のものとも考えられずに共有される」生き物でいられる時期。
たとえば、子どもたちは、先生や大人より、障害のある同級生の言葉や気持ちを聞きとることができます。
自閉症であれ、ダウン症であれ、難聴であれ、どんなタイプの言葉の障害であっても、その発音や話し方に、子どもたちは自然に順応することができます。
耳(聴覚)だけのことではないのでしょう。
安心して共に生活できる場所では、多くの子どもたちが、その子の表情、手ぶり、目の動き、声の出し方など、様々な感覚で聞き分けるようになります。
これは、特に重度といわれる障害をもつ子どもを普通学級に通わせている親にとって、疑いようのない真実です。
「真実」と言いきれる私の自信は、私自身が出会ってきた子どもたちと、親たちから聞く子どもたちの姿に例外がなかったからです。
そうしたことが、一般に「常識」になっていないのは、ほとんどの大人たちがそこに居合わせた経験がないからにすぎません。
小学校の校長や教育委員会の就学担当者が、「普通学級に入ったら、いじめられますよ。自信を失くしますよ」というのは、障害のある子どもたちとの出会いからの言葉ではなく、自分自身の子ども時代の経験からの言葉にしかすぎません。
「脳は、使われた分だけ発達する。
使われている神経系はよく発達し、使われていない神経系はあまり発達しない」(※1)
障害児の教育に携わってきた先生や子どもの発達を研究する人たちは、「誰のものとも考えられずに共有される世界」の経験が乏しい人ばかりだったのでしょう。
または、それよりも「個人のできる・できない」だけが評価される場所に生きてきたのでしょう。
使われない神経系は発達しないのであれば、その人たちに責任はないのかもしれません。
障害児は就学猶予されたり、分けられるのが当たり前の教育しか、目の前になかったのですから。
そして、そのことは、子どもたちの不幸だけでなく、老人の介護への無理解や虐待にもつながっています。
「食べる、排泄する、衣服を替える、入浴する、そういった日常生活への援助を日々続ける。そこから『ただ、ともにある』という感覚が生まれる。
ともに過ごしてきた時の重なりが理解を超える」
これは、小澤勲さんの「痴呆を生きるということ」の一節です。
子ども同士の、「ともに過ごしてきた時の重なりが理解を超える」感性を信じることができない大人や「ただ、ともにある」という感覚の大切さを信じることのできない大人が、言葉も失くした重度の認知症の人を大事にすることは、とても難しいことだろうと思います。
(つづく)
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