札幌市東区にある記念館です。
札幌村郷土記念館
(札幌市東区北13条東16丁目2-6)
この記念館は昭和52(1977)年4月に郷土の歴史を保存する為に、地域住民によって開設されました。
箱館奉行所より「蝦夷地開拓掛」に任命された大友亀太郎は、部下12人と慶応2(1866)年4月23日石狩の船着場に到着しました。
当時の札幌はアイヌ語で「サッポロベツ」「サホロベツ」(大きな乾いた広い土地と言う意味)と呼ばれており、既に篠路に住んでいた
早川清太郎を案内役として、石狩平野を調べて回り開拓に適した場所を探しました。
その結果、ナラの木が多く茂り、小屋掛けに最適で、近くに川が流れ交通の便の良い土地を見つけ出しました。その場所が、この辺りでした。
開拓の場所を元村(現在の元町)と決めた亀太郎は、御手作場(模範農場)を作り農民を入植させる為、最初の仕事として用水路と道路・橋を
作ることにしました。当時のこの場所は草が生い茂り、原始林が続き、ところどころメム(湧き水)や沼があり工事には大変苦労したそうです。
亀太郎の掘った大友堀は、南3条東1丁目からまっすぐ北へ、北6条東1丁目から北東に曲がって北13条東16丁目で伏籠川に注ぐ堀でした。
堀の長さは約4km・深さ約1.5m・上幅約1.8m・下幅約1.2m でした。この工事は、毎日40~50人の人夫が働く大規模工事だったので人々は
「一万両の大工事」と呼び驚いたそうです。
大友堀の作られた目的は田畑の用水路・排水路・開拓者の飲料水の為でしたが、運送路としても物資の輸送に利用されました。
大友堀の一部は、今も南3条~北6条付近まで創成川として残っています。 この記念館は、大友亀太郎の役宅跡に建てられています。
大友亀太郎は、明治3年に開拓使掌を任ぜられますが、開拓使の相次ぐ制度の変更に失望して辞職し、北海道を去ってしまいます。
亀太郎が慶応3年に函館近郊から入植させた農家を札幌元村、明治3年に現在の元町地区に新潟県からの入植者が入植し、こちらは札幌新村と呼ばれました。
明治4年に二つの村が合併し、札幌村が生まれました。明治35年に札幌村・雁来村・苗穂村・丘珠村を合わせて札幌村になり、明治43年から徐々に札幌市に
編入され、昭和30年にすべてが札幌市と合併して札幌村は消滅しました。
(現在の札幌市中心部は、明治4年に札幌本府、明治12年に札幌区と呼ばれ、大正11年に市制施行され札幌市となりました。)
2016年の今年は、大友亀太郎が札幌村に着任して150年記念の年になります。
また、この辺りは玉ねぎ栽培の発祥の地です。
北海道に玉ねぎが入ってきたのは、明治4(1871)年に開拓使がアメリカから輸入した種子を札幌官園(現在の中央区北6条西6丁目付近)で試作した
のが始まりです。この辺りでも、開拓使や札幌農学校(現・北大)の指導により玉ねぎ栽培が徐々に広がりましたが、明治13(1880)年に中村磯吉が1ha
で栽培し、初めて売ることを目的に玉ねぎを作りました。しかし、地元では売り切ることが出来ず、函館や東京まで売りに出かけましたが失敗しました。
明治16(18839年に武井惣蔵が0.6haで栽培し、地元の商人に販売を頼むと言う方法をとって成功しました。日本で初めて商品としての第一歩を踏み出し
ました。
札幌村の玉ねぎはもともとアメリカ産の「イエロー・グローブ・ダンバーズ」という原種を使っていました。明治17年頃から栽培者の熱心な研究と改良で品質の良い
「札幌黄」(さっぽろき)と呼ばれるようになりました。
資料館の展示物です。
地域の開拓や玉ねぎ栽培に使われた道具が展示されています。
ボランティアの方が丁寧に解説してくださりました。ありがとうございます。
(訪問・写真撮影 2016年2月)
開館時間 10:00~16:00
休館日 毎週月曜日と祝日の翌日 12月29日~1月5日
交通案内 地下鉄東豊線 環状通東駅4番出口から徒歩3分