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旧島松駅逓所

2012-07-14 22:46:10 | 北海道・歴史探訪

   先日の三里塚特集の記事にも登場した

                             旧島松駅逓所  (きゅうしままつえきていじょ)

             
       
    

              以前も取り上げましたが・・・  その1 その2


     駅逓所の中は見学していませんでしたので、詳しく取り上げたいと思います。



            もう一度、駅逓(えきてい)とは・・・。

   起源は寛政11(1799)年に運上所と言う名前で蝦夷地(北海道)に置かれました。
 宿泊所・人足や馬の貸出や郵便も取り扱う場所でした。
  後に、駅逓所と改められ道内には600か所設置されましたが、鉄道の整備が進み、昭和22年には全て
 廃止されました。



  島松駅逓所は、明治6(1873)年に札幌本道が開通したのに伴い、設置されました。当時は、現在の
 場所ではなく島松川
を挟んだ、現在の恵庭市側にあったそうです。

    明治17年からは、中山久蔵が駅逓取扱いを命ぜられ、中山家が駅逓所経営にあたりました。
       

   明治14(1881)年に明治天皇の北海道行幸に際して、行在所となり昼食をとられたそうです。

   建物は、右側が明治6~13年の間に、左側は明治14年に明治天皇の行在所として増築されました。
     

      昭和59年に国指定史跡になり、修復の為一旦解体され、平成2年に復元されました。


   中山久蔵は、文政11(1828)年に河内国石川郡春日村(現・大阪府河内郡太子町春日)の生まれで、
  26歳の時に
仙台藩に仕えます。
   当時、蝦夷地の警備に仙台藩もあたっており、白老にあった陣屋と仙台を往来します。

   明治2年に北海道に永住することを決意し、明治4年にこの地に移住します。

  当時は、パン食奨励の為に、米の栽培は北海道では禁止されていましたが、独自に米を栽培を研究して
  いました。

  そして、北海道で最初に米作りを成功させました。これには、開拓使長官の黒田清隆の協力があったそう
  です。
また、種籾を道内各地に配布したそうです。
  大正8年に91歳で亡くなりました。

                              
                                                   中山久蔵

      赤毛種と呼ばれる、稲穂の先が赤い毛の様に伸びていたことが由来だそうです。
    現在の北海道米の祖先です。
                 
 

                    では内部に
        


                 まずは囲炉裏のある土間
                 

      囲炉裏の脇には、中山久蔵が受けた数々の賞状と手紙が展示されています。
         

          明治天皇行幸の際に同行した、有栖川宮様からの感謝状
      

           寒地での稲作に関しての賞状
      

         緑綬褒章 (受賞北海道一号だそうです)
      


           中山家が生活した部屋です
              

         色々な書状が展示されています。
      

              駅逓の許可状
      

           廊下の板の色が変わっています。
           
   手前が平成2年に復元された際に使った板材で、奥の色が濃い方が明治時代の板材です。


            こちらの二部屋は宿泊者用の部屋です。
     
       
 


        こちらの二部屋は明治天皇の為に作られた部屋です。
     

    手前がお付きの人用、奥の部屋が明治天皇が昼食をとられた部屋だそうです。
       
      
          明治天皇と美子(はるこ)皇后の肖像画
              
         行幸の10年後に宮内省の侍従から送られたそうです。
      


   この二部屋の畳縁ですが、高麗縁と言って京都御所などにも用いられている、位の高い人しか使え
  なかった畳縁だそうです。
    


   行幸後、中山久蔵はこの二部屋には誰も入れる事は無く開かずの間となりました。
  当時は天皇は神格化されており、明治天皇がお休みなった部屋を外から眺めたそうです。

          昔はこの部屋の前に鳥居が建てられていたようです。
    

   
              道路側には土間が走っています。
                          
   係の方にご説明いただきました。とても丁寧にひとつひとつの部屋を案内していただきました。



  そして、この島松駅逓所は、ウイリアム・スミス・クラーク(クラーク博士)があの有名な言葉
 残した場所でも
あります。


  明治10(1877)年4月16日 宿舎のあった開拓使札幌本陣を出発しました。多くの学生が見送りました。
 そして、この島松駅逓所で見送りの学生に別れを告げました。

    Boys be ambitious like this old man
      
  
(少年よこの老人の如く大志を抱け)  


  この老人とは、クラーク博士自身の事か、中山久蔵の事かは今となっては知りえる事は出来ません。


   写真は本陣を出発する際に撮られたもので、右から二人目の馬に乗った人物がクラーク博士です。
        


  建物の横には、「寒地稲作この地に始まる」と言う中山久蔵を讃える碑とクラーク博士記念碑が並んで
 建っています。

       

                寒地稲作この地に始まる碑 (寒冷稲作発祥の地 碑)
           




           そして駅逓所の右横にはハス池が。
     
     
       道庁の前庭にあるハスは、この場所のハスを株分けしたものだそうです。

               ハス池の横・クラーク博士記念碑の裏側には

                       暖水路
        
        

                    水田址(赤毛見本田)
        


                 裏山には

              中山久蔵翁頌徳碑
         
      

            駐蹕處(ちゅうひつしょ)碑
                
    

                石造蔵品庫
                
  明治天皇がお使いになった食器(漆器)類を保管する為に作られたそうです。
 中に納められた漆器類は傷んでしまって
今は無いそうです。


          明治天皇島松行在所 碑
                 

           明治天皇行在所 碑
                 

            御大禮記念樹 碑
                 
                 


         建物の右側には


       建物の左側には井戸があります。
     
           
              御膳水 碑
          

  
          駅逓所の向かい側には
    

            御大禮記念碑
                 
   

   駅逓所の管理人さん 興味深いお話ばかりでした。ありがとうございます。

      

                 国史跡 旧島松駅逓所
       
                 北広島市島松1番地

   開館日       4月28日~11月3日まで
   開館時間      10:00~17:00
   休館日       月曜・祝日の翌日
   入館料       小・中学生  100円
              大人      200円

  交通案内    中央バス 札幌~千歳間の普通便を利用し、「島松ゴルフ場前」か「島松沢」で下車
            徒歩10分


                国道36号線 北広島市と恵庭市との境界近くに案内標識が出ています。
            脇道に入り坂を下りるとあります。

 



 

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