「あほリズム」
(132)
(或るコメントに答えて)
私はアイデンティティーを「社会的自己」として捉えることに違
和感を覚えます。それでは自己を何に依って認識するかといえばや
はり自分しかない。自己には本能と理性があって、我々が生きよう
とするのは本能で、他者と関わってそれを援けるのが理性です。そ
もそも本能は生きる「意味」や愛する「意味」など求めないが、理
性が先行するとその意味を本能に求める。端から存在しないものを
求められても本能は答えようがない。このようにして理性に自己を
委ねてしまえば、我々は生きる意味や愛する意味を見失ってしまう。
否、そもそも本能には意味など存在しない。理性的に生きるという
ことは自分を別の視点から眺めて生きることになる。つまり自分と
いう他者を生きることになる。理性に自己を委ねるということは、
自分を活かせることができても自分を生きることにはならない。歓
びや哀しみといった感情は本能にあるからです。私は、もう一度本
能に回帰して理性にとっては無意味かもしれない人生を、それでも
本能にとっては楽しい人生を取り戻すべきではないかと思っています。
ケケロ脱走兵
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(132)
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私はアイデンティティーを「社会的自己」として捉えることに違
和感を覚えます。それでは自己を何に依って認識するかといえばや
はり自分しかない。自己には本能と理性があって、我々が生きよう
とするのは本能で、他者と関わってそれを援けるのが理性です。そ
もそも本能は生きる「意味」や愛する「意味」など求めないが、理
性が先行するとその意味を本能に求める。端から存在しないものを
求められても本能は答えようがない。このようにして理性に自己を
委ねてしまえば、我々は生きる意味や愛する意味を見失ってしまう。
否、そもそも本能には意味など存在しない。理性的に生きるという
ことは自分を別の視点から眺めて生きることになる。つまり自分と
いう他者を生きることになる。理性に自己を委ねるということは、
自分を活かせることができても自分を生きることにはならない。歓
びや哀しみといった感情は本能にあるからです。私は、もう一度本
能に回帰して理性にとっては無意味かもしれない人生を、それでも
本能にとっては楽しい人生を取り戻すべきではないかと思っています。
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