「存在とは何だ」(5)
昼間っから外れの温泉に行って、露天風呂に半身だけ浸かりなが
ら降り頻る雪を何時までも飽きもせずに眺めていた。雪の粒は風に
のって時には横に流され或いは上空へ舞い上がり何処へ落ちるのか
定かでなかった。あるものは樹木に絡まって蕾を凍てつかせ、また
あるものは川面に落ちて渓流を流れ落ち、更にあるものは山肌の積
雪の上に重なった。それらの雪片は蒸発した水が天空で冷やされて
結晶ができ、それらが集まって色々な形状を作り、ついには天空に
留まることが叶わなくなって地上へ落ち、冷たい大気の中を解けずに、
ところがその大気に阻まれてそれぞれの形状がさまざまな落ち方を
させて、その一粒が私の掌の上に落ち、その温もりで再び水へと還り
湯の中に消えた。私の掌(てのひら)に落ちた一粒の雪片は、果たして、
生い立ちを遡(さかのぼ)れば私の掌に落ちるように予(かね)てより定
められていたのだろうか?ボンヤリとそんなことを思った。つまり、
その軌道は全ての条件を解析できればその雪粒が私の掌に落ちるこ
とを予測することができるのだろうか?それどころか、その雪粒が地上
に落ちる間際に掌を差し出した私は、その前には身体を洗い、更にそ
の前にはサウナに10分間入った後に水風呂に浸かって、もっと前に
は今日その時間に車を走らせてその温泉に行こうと思ったことさえも
予(あらかじ)め決められていたのだろうか。つまり、世界は決められた
道理の中に在り、ただ、我々だけがそれを知り得ないだけなのだろうか?
科学というのが物理的な結果から現象を解いて原因を明らかにし、
そこで知り得た法則や理論を生かして、知り得ないことを解明する
ことにあるなら、恐らく、我々は科学によって世界を知り得ること
など出来ないだろう。何故なら、我々の理性とは世界の存在の後に
もたらされたからだ。たとえば、我々の生命を支える肝臓で働く一個
の肝細胞は、肝臓の役割を知ることが出来ても、自らが支える人体
の全貌など知り得ることなどできない。体内細胞には体内での能力
しか与えられていない。同じように、世界内存在としての我々は世界
内のことしか理解が及ばないに違いない。
我々の理性は記憶からもたらされる。我々が知り得る全てのこと
は過去の記憶から導き出されたことである。しかし、我々が本当に
知りたいのは未来のことであったり、存在する意味であったり、宇
宙の外のことであったり、つまり、過去の経験や記憶から導き出さ
れる答えとは異なった知り得ないことなのだ。ところが、そういっ
た問いさえも過去の経験や記憶からもたらされたとすれば、過去の
記憶からしか答えは生まれて来ない。問いと答えが同じなのだ。つ
まり、1+1=1+1である。「2」という概念は浮かんでこない。恐らく、
肝細胞が思い描く人体とは肝臓そのもののような生命体であること
だろう。どうして人間を思い描くことなど出来よう。我々の理性は記
憶からもたらされるが故に、記憶を超えて世界を思い描くことなど出
来ない。
(つづく)
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