「人とバラ」

2012-02-16 01:15:41 | 従って、本来の「ブログ」



                「人とバラ」




 生まれ育った地名をことさら気に留めて暮らしたことなどなかっ

たが、その地を離れ星霜を経て流浪の果てに思わぬことで馴染の地

名を思い返した時、懐かしさと同時に余所余所しさからその地名の

由来が気になって、今さらながらその謂れを確かめようと思ったり

することがある。前に記した大阪の「美章園」という地名は、私の

若かりし「美少年」の頃の思い出と重なって、はて、何故「美章園」

と呼ばれるようになったのかが気になって、その謂れを調べてみれ

ば、何のことのない、大正時代に山岡「美章」という人が設立した「

美章土地株式会社」がこの付近の宅地の開発に努めて発展の基

礎を築いたことから付けられた、とのことだった。

 さて、そんなことならすぐに忘れてしまうが、この国には実にお

かしな地名があるもんだと思ったのが、広島県庄原市西城町にある

「小鳥原」と書いて「ひととばら」と読む地名だ。PCに「ひとと

ばら」と打ち込んでも「人とバラ」としか変換しない。いくら何で

も「ひととばら」とは読めないだろうと思いながら調べてみると、

古語では小を「ヒ」とも読み、鳥を昔は「トト」と言っていたらし

い。だから「小鳥」と書いて「ヒトト」と読むのは決して当て字で

も何でもないのだ。

 ここで私はおかしな地名を取り上げてその由来をツラツラ述べる

つもりではないのだが、その「人とバラ」じゃなかった小鳥原(ひと

とばら)に私がまだ若かりし美章園じゃなかった美少年だった頃に

かつて一度訪れたことがある。中国山地の山奥のそのまた山奥で、

行政上は広島県下だが直ぐ近くには島根県、鳥取県、それに岡山

県の四県が県境を接している。たまたま親戚の農家の稲刈りを手

伝った後に、その農家のお母さんの実家が「人とバラ」じゃなかった

小鳥原だったので、その小鳥原の小学校の講堂で、二十数年来途

絶えていた「比婆荒神神楽団」が再結成され初演される舞台に連れ

て行ってくれた。神楽は夜の帷が下りる頃に始まって夜明かしをして

朝まで行われる。かつては、農繁期を無事に終え収穫の歓びを分ち

合う農民たちの数少ない娯楽の一つだった。それを見物する人々は、

それぞれの家族が御馳走を拵えた重箱を持ち寄って、もちろんお

神酒も振舞われた。昔から広島県の北部の山間地では海の幸が

届く前に腐ってしまうので、海辺で暮らす人々がアンモニア臭があっ

て食べなかった鮫を、そのアンモニアが防腐効果をもたらすこと

から唯一口にすることができる刺身として重宝された。土地の人々

はその鮫の身を「わに」と呼んで、「わにが無いと祭りも正月も来ん」

と祭事には欠かせない御馳走だった。だから、その重箱の中にも

テンコ盛りの「わに」が配われた。

 神楽は「荒神」の名の通りに須佐之男命(スサノオノミコト)が舞

台狭しと暴れ回って遂には八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を成敗する物

語であるが、さすがに夜を徹して演じるには尺が短いので、厳粛な

神事には笑いの逸脱は欠かせないとばかりに、その半分以上は方

言による臨機応変のアドリブで客を弄ったりして楽しませた。そして、

宵も白け始める頃になると遂には睡魔から見物客たちの方がそれ

に応じられなくなって、中には稲穂のように頭を垂れたまま転寝を

する者も目に付き始めると、いよいよ神楽が囃し立てる中をクライ

マックスを迎え、白煙を吐いて八岐大蛇が蛇腹を蜷局に巻いて現

れ出でて、それをスサノオが荒ぶる神よろしく退治する。すると、先

ほどまで頭を垂れていた稲穂たちも実りを忘れてヤンヤの喝采を

送り舞台の演者と一体となって大団円を迎えた。なるほど演劇とい

うのは演者だけでなく観客も一緒に創るのだなあ、と思った。

 たとえば、京都の祇園祭りのお囃子は「コンコン・チキチン・コン

チキチン」と優雅に忘れた頃に打たれるが、岸和田や浪花のだん

じり囃子はその間に同じリズムを三回は繰り返されるほど忙(せわ)

しなく打たれる。都の雅な貴族文化は地方へ流れるほどにその地

の風土に適って荒々しくなる。日常の暮らしが異なれば厳かな神事

という非日常の捉え方も異なるのだ。雅楽の優雅さとは対極を為す

比婆「荒神」神楽を観ながらそう思った。帰りの車中から眠い目を

りながら眺めた神社だと思ったが、その門前には枝を四方に伸ばし

て聳えるイチョウの巨木が今を盛りと葉を黄色く染め、その下では

汚れなき童らが銀杏の実を拾うことに一心だった。あれほど見事な

イチョウの木はこれまでにも見たことがなかった。あのイチョウの巨

木は今も枯れずに在るのだろうか。それらは、私の心の中の原風景

として今も枯れずに在るのだが。

 後日談であるが、二十数年振りの再演にも拘らず、関係者はそ

のその舞台のビデオ収録に失敗して私がカメラ撮影したネガを使

わせてもらえないかと連絡があった。私は承諾してネガを送った。

暫くして、「比婆荒神神楽団」の最初のポスターには私がシャッター

を押した写真が使われていた。私の秘かな自慢である。

 その後二十数年経て、今も「比婆荒神神楽団」はローカルではあ

るが「NHK」の特集で取り上げられほど地域に根差した活動をして

いる。