「存在とは何だ」(5)―②

2012-02-12 22:58:20 | 「存在とは何だ?」



          「存在とは何だ」(5)―②


 我々の理性は「真理」を追い求めるが、「真理」は科学的である

と信じている限り、それは我々の理性にとっての「真理」に過ぎな

いだろう。かつて、我々の理性にとっての「真理」は宗教であった。

「神」への信仰こそが我々を「真理」に導き、科学とは所詮錬金術

でありまやかしだった。信仰こそが我々の理性を目覚めさせ本能か

ら解放し、つまり、我々は理性に縛られるようになった。今日では、

我々の理性は宗教に倦んで科学に取っ換えられたが、問われるべき

は「神」か「科学」かではなく、それらを生んだ我々の理性ではな

いだろうか。もしかして「真理」などという絶対観念こそがまやか

しではないのだろうか。存在を超越した「真理」という絶対的な観

念こそが「神」を生み「科学」を創った。始めに絶対的「真理」が

あって、万物はその道理に従って在るというのはどうも科学的とは

思えない。では、始めに引力があって物質が引き寄せられて地球が

生まれたのだろうか?物質が存在して結合し、その結果引力が発生

し、それが更に物質を引き寄せて我々が地球と呼ぶ惑星が生まれた。

小さな存在の特性が集まって大きな道理となり、やがてその道理が

存在を支配する。つまり、存在こそが道理をもたらすのだ。人々が

助け合って社会が生まれ、社会が理念(イデオロギー)を生む。我々

の理性は、「始めに神がいた」宗教を生んだ誤謬を科学でも再び

繰り返そうとしているのではないだろうか。

 ところで、私の掌に舞い落ちた一片の雪は、私の掌に舞い落ちる

定めに従ってそうなったのだろうか。私の掌に舞い落ちたが故に定

めが、否、記憶が残った。私の理性は道理を遡って諸条件を首尾よ

く計らい軌道の解析を行って「雪粒は私の掌に落ちるべくして落ち

た」と思う。しかし、それらは記憶から生まれた理性によって作ら

れた「真理」、変化することのない過去の絶対性の中から生まれた

「真理」ではないか。我々が「真理」と呼ぶものは実は「過去の結果」
 
なのだ。科学は、同じ雪粒が再び同じ状況で私の掌に落ちれば、
 
それは道理に従ってそうなった説くだろうが、その「同じ状況」こそが
 
まやかしなのだ。科学は同じ状況の下で世界の「真理」を語ろうとす
 
るが、しかし、膨張する宇宙、変化する世界の中で再び同じ状況が
 
再現されることなどない。我々の記憶から生まれた理性は、世界を
 
知ることも生命の不思議も未来を予測することも能わず、ただ、世
 
界の終わりに「世界は終わろうとしている」としか語れないのだ。

 さて、「同じ状況」の下で再現された一片の雪粒は、首尾よく計

られた軌道に従って落ちてきたのだが、ちょうど雪粒が下界に落ち

てきた時、あろうことか、私はサウナ室の中で客との話に花が咲い

て、雪粒を掌で受け止めることなどすっかり忘れ、件の雪粒は甲斐

なく露天風呂の湯の中に虚しく落ちて消えた。
                                                                          

                                 (おわり)

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